四章 耳をおおいて鈴を盗む
『死神』としてのシンの行動はホテルで起こった放火事件を最後に幕を閉じたかに見えた。実際『死神』による事件はこの三ヶ月ぱったりと止まっていた。テレビで『死神』の言葉を聞くことも無くなり、世間からも忘れ去られようとしていた。高校では三度のテストが終わり、じきに夏休みに入ろうとしているところだった。
けれどその実は嵐の前の静けさでしかなかった。三ヶ月前に事件が頻発したのはたまたまシンの蒔いた種が同時に芽吹いただけのこと。シンといえども事件を起こすにはそれなりに準備期間が要るようだ。タチが利用された一件はあくまで偶然が重なったから少ない労力で済んだということらしい。
それにシンは操る相手に殺人をさせるのではなく自殺をさせるように方針を変えたようだ。殺人事件は成功率が低い上大々的に報道される。死ぬ人数は少ないがより確実で足がつきにくい自殺を選んだというわけだ。
僕たちも勿論手をこまねいていたわけではなかった。
シンと出会った駅でシンに魅入られた人々をよく見かけた。様々な場所から様々な人間の集まる駅はシンにとっては格好の狩り場のようだった。僕は登下校の時間を毎日変えて、できる限り多くの人間の眼を観察することにしていた。そして殺人衝動や自殺願望を持った人を見つけると、眼を見ながら説得を試みるか現場を押さえて閃斗に力ずくで止めて貰っていた。
本当に、見るのも辛いような眼をたくさん見た。女手一つで育てた子供を病気で失った母親、かつての僕と同じように同級生から殴る蹴るの暴行を受け続けている少年、親の不仲の板挟みに遭って悩む女子学生。世の中にはこれほども多くの不幸に溢れているのかと思うと胸が痛んだ。けれどそこから眼をそむけることはできない。シンの餌食になるのは決まってそういう風に精神的に追い詰められた人々だからだ。シンから見れば彼らは非常に操りやすいのだろう。運命に翻弄された上、最後はシンの見えざる手によって破滅へと導かれていく人々を止められずにいるのは耐え難い苦痛だった。
けれど全く希望が無いわけじゃなかった。たくさんの眼を眺めるようになって、心を見る能力はみるみるうちに高まっていった。いっぺんに複数人の眼を視界にとらえてもおおよそは感情をつかむことができるようになったし、強く心に刻まれた記憶ならば眼を見たときに意識に上っていなくても読みとることができるようになった。今までは波打つ水面とそこに浮かぶ言葉しか見ることができなかったのが、ほんの少しなら水の中まで見通せるようになったという感覚だった。それに単純に心を見るのに必要な時間や集中力も少なくなった。今では、二、三十秒かけてざっと見回せば視界に入る人々のうちシンに操られていそうな人は見分けることができる。
しかし能力の成長はシンも同じのようだった。日を追うごとにシンの術中にはまった人の数は増えていく。おそらくはある程度の人数は僕らに阻止されると見込んで、僕らに見つからない本命を決めて殺しているのだろう。それにシンの持っている『聴覚』についても詳細は分からないままで、僕たちは直接顔を合わせながらもメールでやり取りをする状態が続いていた。それでも本当は全部筒抜けなんじゃないかという不安が収まることはなかった。
一方で、閃斗はシンの正体を探ろうと尽力していた。何かと理由をつけて他の学校に行った同級生に連絡をとり、僕の描いた絵を見せては聞きこみを続ける。協力を依頼した人数は百を下らなかった。さらに、事件の状況から共通点を探りシンの人物像を浮かび上がらせようと苦心していた。けど、どちらも進展はない。それにたとえ正体を明らかにしたとしてもその後どうするのか全く方針は立っていなかった。殺さなければならないという結論を先送りにしているようだった。
タチとその母親には特にできることはなかった。確かにタチは『触覚』を持ってはいたけどそもそも相まみえること敵わないシンに対してはまるっきり役に立たない。ただ、タチはときどき僕の眼を調べて能力が高まっていることを保証してくれた。タチの母親も僕たちとの約束通り秘密を守ってくれているようだった。
閃斗はともかく、僕は学校の勉強もどうにかしないといけなかった。入試の当日点は高かったけど所詮付け焼刃の学力であって、中間テスト実力テスト期末テストとほぼ一ヶ月おきに襲ってきた試験の結果は散々だった。何より中学校の勉強とは次元が違う。閃斗は上手く切り替えて勉強するときは勉強に集中していたけど、僕は駅で見た眼がフラッシュバックしてどうも勉強が手につかなかった。部活も何かしら文化系のに入ろうと思っていたけどそれができる余裕はなかった。閃斗やタチも部活には入っていないみたいだった。
言ってみれば、状況は最悪、どんづまりだ。
ことはほとんどシンの思い通りに進んでいる。僕たちの命が狙われることこそなかったものの、シンに対抗することのできない僕たちが軽んじられているようにも思えた。何か全く違う発想が必要だと痛感していた。
そんな状態の中、遂に恐れていた事態が起こった。
月島高校では九月に体育祭がある。クラス縦割りの団に分かれて球技や陸上競技など各種競技の成績を競うのだけれど、他にも団ごとに創作ダンスの練習をして男女ペアで踊ったり、竹や段ボールやペットボトルなどを駆使して団のシンボルとなるモニュメントを作ったりする。そのモニュメントは『マスコット』と呼ばれ、大きいものでは高さ三、四メートル、横幅も六、七メートルくらいはある。最初『マスコット』と聞いたときはテーマパークにいるような着ぐるみを想像したけど、実際は竹の骨組みにペンキで色塗りした段ボールをかぶせて作るという何とも手作り感の溢れる代物だった。でも団によってはかなり出来のいいものを作るらしい。
体育祭は九月とはいえ二学期も始まって早々にあるから、体育祭の準備は夏休み前から始まる。体育祭準備のための短縮授業の後、僕は先輩の指示のもと段ボールをビニールひもで縫い合わせて作った板に彩色をしていた。
「へえ、君なかなか慣れてるね。二年生?」
「い、いえ、一年生です」
突然呼びとめられて僕は慌てて顔を上げた。
「ふうん、上手じゃないか。ペンキで綺麗に線を描くのは難しいんだけどね。初めてでここまでできるのは大したもんだ」
「は、はあ……」
感心した様子の先輩に僕は何て答えたらいいかよく分からなかった。確かに小学校で水彩、中学校でアクリルガッシュを使ったもののペンキをハケで塗るのは初めての経験だった。ねっとりとしたペンキは伸びが悪くすぐに線が掠れてしまう。かといってハケにペンキをつけ過ぎるとべっとりと板の表面についてしまって線が太り、模様がつぶれるのだ。同じ色をベタ塗りするだけなら楽なんだけど模様を入れるとなるとそうもいかない。僕としては不格好な出来に申し訳ないと思っていたのだった。
「いやね、俺達のクラスに絵の得意な奴がいてさ、デザインを考えて貰ったんだけど細か過ぎてそいつ以外描けそうにないんだ。諦めようと思っていたんだけど……」
僕は嫌な予感がした。
「え、えっと、僕なんかには荷が勝ち過ぎてますよ。ほら、ここは線が掠れてますしこっちでは逆に太くなってて……」
「細かいところはいいんだよ。完成したら教室一杯の大きさになるんだ。遠目に見たらそんなの気がつかないって」
「そ、そうですか……」
僕はどうやったら断れるか必死に考えていた。『馬車馬』といういかにも体育会系な団テーマを旗印に作られる『マスコット』は中華風の騎馬をかたどっていた。完成図のデッサンを見たけど、一目見ても段ボールで再現するのは無謀な緻密なものだった。リーダー役のこの先輩が言っているのは馬の鞍や馬が纏う布に描く模様のことだろう。確かにびっくりするくらいセンスのいい綺麗な模様だったけど、あれを全部一人ないし二人で描くとなると骨が折れそうだった。
「頼まれてくれないかな」
「申し訳ないですけど、できません。とても当日までに描き終えられるとは思いませんし」
きっぱりと断った。模様を描く前にはもともとの段ボールの柄を隠すために下地の色をベタ塗りする必要がある。それだけでも一苦労だし、ベタ塗りのせいで鉛筆での下描きも見えないので模様は一発勝負で描かねばならなかった。失敗してしまえば段ボールを縫い合わせる作業からやり直しになってしまう。そんな責任を背負うのはまっぴらだった。
それにシンのこともある。周りから見れば部活にも入っていないしクラス委員も大した役回りじゃないから暇そうに見えても仕方なかったけど、作業に追われてシンに魅入られた人々を探す時間を削がれてしまうのはなんとしても避けたかった。それに、僕の護身のために傍にいる閃斗もつき合わせることになってしまう。僕が居候の身だということは別に隠すことでもないからあまり不審がられないとは思うけれど、独自にシンを調べ上げようとしている閃斗の時間も犠牲にすることになる。
「うーん別に全部やる必要はないんだ。せめて鞍の部分だけでも描いてくれればだいぶ見栄えが良くなると思うんだよ。それに一年には休み明けの骨組み作業を主に手伝ってもらおうと思ってたんだけど、君はその間模様を入れるのに専念してもらって構わない。それならさほど居残りしなくても終わると思う。どうかな?」
正直ちょっと迷った。竹で骨組みを作るのはどう考えても重労働だから僕の体力が持つはずもない。閃斗と別行動になってしまうのに多少不安ではあったけど学校の中なら大丈夫だろうと思った。周りに先輩たちだっている。
「ち、ちょっと考えさせて下さい」
「ああ。いいとも。どうせ模様を入れ始めるのはベタ塗りが終わってからだ」
そう言って先輩は他の作業を見に行った。
「なんだ、スカウトか?」
「そんなんじゃないよ、たぶん」
閃斗はからかうように言ったが僕には本心が分かる。閃斗は色塗りに関しては目も当てられないくらい不器用だった。僕にできて自分にできないことが面白くないのだ。それがバレていると分かったのか視線を落として手にこびりついた汚れをこすり落とし始めた。
「……どう思う」
困った顔でささやくと閃斗の方も真面目な顔になった。
「受けてもいいんじゃないか? 俺には見当つかないがその方が放課後に時間が取れそうだと思う。それに外での力仕事よりはそっちの方が向いているだろう。何なら俺も……」
「それは、駄目」
きっぱり言って閃斗の塗っていた段ボールを見やる。多少塗りムラがあるのはしょうがないけど、茶色い段ボールの面が露わになっているのはアウトだ。閃斗に手伝わせるわけにはいかない。
「別行動になるけど……大丈夫かな」
「心配だが、外での作業はそこそこ危ないしずっと斎人の周りに気を配るわけにもいかない。周りに人が多い方がいいだろう」
言い方はぶっきらぼうで、およそ閃斗らしくない思慮に欠けた意見だと思った。作業に集中してしまうのは中も外も同じだし人目が多いのもそうだ。
「ちょっと拗ねないでよ。真剣なんだから」
それっきり閃斗はぷいとそっぽを向いてしまった。まったく、妙に冷静で頭の回る閃斗だけど他人より劣っていることを認めたくないようなところは、ほとんど子供だった。
けど、今回ばかりはそれが吉と出た。
閃斗に突き飛ばされて、僕は教室の隅に寄せてあった机にぶつかりそうになった。
呻き声を上げて目を開けると張り詰めたような閃斗の顔と閃斗の手元に落ちた刃の出たカッターナイフが見えた。その刃先に細く血の筋がついているのに気がついて息を飲む。
「お前、どういうつもりだ?」
閃斗が剣呑な声で問いかけた先には、二年生の先輩が青い顔で震えていた。
「ち、違うんだ。俺はそんなつもりじゃなかった。けど……」
「何が違うんだ、言ってみろ!」
立ちあがった閃斗は学年の差も構わずに怒鳴ったが、僕はそれ以上周りの音が聞こえなくなった。
僕は、怯えるクラスメイトの眼を見て、心臓をわしづかみにされたような恐怖を覚えた。
(シンが、いる……)
かつて閃斗の眼の中に篠原友璃の姿を見たのと同じように、慌てふためく男の子の背後にうっすらシンの姿が浮かび上がっていた。見る者を恐怖させる残忍な微笑みを浮かべて、吸い込まれそうな黒い眼がまっすぐにこちらを向いている。
《どうだ? 榊斎人》
眼を通じてシンは語りかけてきた。
《今の俺は他人の思考を読むだけじゃない。ほんの少し俺の思考を流し込んでやることもできる。どういう意味か、分かるな?》
それだけ言うと、シンの姿は忽然と消え失せた。
(そんな……)
僕は玉のような汗を浮かべてシンの脅し文句を反芻していた。
いわばシンは他人にとり憑いて一瞬ならば操ることができると言っているのだ。その証拠に閃斗の頬には浅くも鋭い切り傷が浮かんでいる。刃物とはいえカッターナイフなんて投げるものじゃない。普通なら空中で刃先があらぬ方向を向くに決まっている。けれど閃斗の傷の様子を見る限り、刃先がこちらを向いてほとんど水平に飛んできたことが分かる。そんな芸当ができたのは得体の知れないシンの仕業と思うしかなかった。
僕が恐怖したのはシンの能力ばかりではない。月島高校の中ではあまりにも警戒を緩めていたと気がついたのだった。慣れてきたとはいえ人の心を覗くのには集中力がいるから、駅で必死に心を覗いている分高校に入ると安心してあまりじっくりと眺めていなかった。日常生活でこの能力を使うのがはばかられるのもあって、無意識のうちにシャットアウトしていたのだ。だから事が起こるまで気がつかなかった。
(いや、焦っちゃいけない……)
めまいを堪えて僕は必死に言い聞かせた。
(わざわざシンが僕に能力を教えたということは、脅かして怖がらせて焦らせようとしているんだ……。奴のペースにはまっちゃ、駄目だ)
怖気づいて人払いなどしてしまえば、襲われるリスクが高くなる。そうなればシンの思うつぼだ。でも僕は震えを止めることはできなかった。
(まだシンの能力は弱いかもしれない。でもいつか閃斗やタチが操られて、僕に刃物をつきたてる日がやって来るのかも……)
そう考えながら閃斗の背中に焦点を合わせると、ようやく閃斗が先輩に掴みかかっているのに気がついて慌てて仲裁に入った。
二年の先輩がカッターナイフを投げた瞬間を目撃したのは閃斗だけだったから、なんとか閃斗を説き伏せて手を滑らせたということにしておいた。実際は僕を殺す気で投げたのだけど本当はシンの仕業だ。余計な人物にまで迷惑をかけてはいけない。
でも僕にできたのはそこまでだった。閃斗の説得に気力を使い果たしてしまって、ほとんど閃斗に引きずられるようにして家路についた。閃斗も聞きたいことが山ほどありそうだった。
いつになく体がだるくて駅での観察もままならずに家に着いた。閃斗に急かされてパソコンの前に座ると、慣れない手つきでさっきの出来事を説明した。
『もうシンの所業を止めるのは難しい』
画面に表示された文字を見て力無く頷いた。その通りだ。電車に揺られる間中そのことばかり考えていた。一瞬でも思い通りに操れるなら、自殺させるのなんて簡単なことだ。考えてみれば僕らにバレても対処のしようがないというのも、脅しに使った理由かもしれなかった。
『どうすればいい』
閃斗もまた僕と同じように小さく首を振った。お手上げだと言う顔だった。
『同じ力を手に入れない限り無理だ。憑かれてることは見抜けるのか?』
『わからない。学校では油断してたから』
暗い顔で閃斗はソファにもたれかかった。パソコンでの会話を終える合図だった。二人で暮らすようになってからも十分過ぎるほど広い部屋だったけど、今はどこか窮屈に感じられた。シンがいつも聞き耳をたてていると考えるだけで毛ほどもくつろげないのだった。
「もう、やめちゃうか」
閃斗の口をついた言葉に泣きそうになった。
「いくらシンを追っかけても……友璃は戻ってこない」
必死に涙をこらえる閃斗の眼は、悔しさと、情けなさと、申し訳なさで、はちきれんばかりだった。心の拠り所だった自尊心が粉微塵になって打ちのめされた様子だった。
「閃斗……」
僕だって、タチを傷つけたシンを心の底から憎んでいる。でも閃斗にかける言葉は思いつかなかった。篠原さんのように望まずして手を汚し命を落とす人が増えることも、閃斗は分かっていた。分かった上で言っているのだった。
(僕たちが降参だってわかったら、シンは僕たちの命を見逃してくれるだろうか……)
考えるまでもなく答えはノーだろう。『死神』の正体がシンだと知っているのは僕たちだけだし見逃す理由も無い。僕たちには手札は何もないのだ。他の人を殺すのと同じように僕たち三人のことも殺すだろう。
「閃斗、君は……」
見逃すはずがないのは僕でも分かる。閃斗だってとっくに気がついているだろう。
「死ぬ気、なの……?」
閃斗は答えなかった。
珍しく閃斗の眼の中には言葉が漂っていなかった。心を表す水面は波打ち泡立っていたけど、どこか冷静さが感じられた。迷っているのだと思った。
閃斗が口を開きかけた時、部屋にノックの音が響いた。
勉強机に置かれた時計を見るとぴったり十九時だった。いつの間にか夕食の時間になっていたらしい。するりと開いた扉からお盆を持った女性が現れた。
百合子さんではなかった。
隣で閃斗が仰天しているのが分かった。声を上げそうになって慌てて引っ込める。まるで金魚が水面で口をぱくぱくさせているみたいだった。でも閃斗の言いたいことは分かった。
(この人が……閃斗のお母さん……)
すらりと高い背丈は閃斗には届かないものの僕よりも頭一つ分くらいは高く、引き締まった体つきや身のこなしから若さがにじみ出ていた。肩まで伸ばした黒髪も艶やかで、化粧っ気をあまり感じさせない肌は抜けるように白かった。とても十五の息子を持つようには見えない。ぱりっとしたスーツに身を包み夜の室内だというのに大ぶりのサングラスをかけている。小脇にタブレット端末とキーボードを抱え、もう片方の手で夕飯の盆を支えている様子は何ともちぐはぐで奇妙だった。
(僕の養母にあたる人……そういえば一度もご挨拶してなかった……)
閃斗の母親は何も言わずにタブレット端末を机の真ん中に置き、僕たちにキーボードを渡して料理を並べた。何度か廊下のカートと往復して運んだ食事は三人分あった。当然と言えば当然だけど僕たちと話をするつもりらしい。
『はじめまして。サングラスは取れないけど、ごめんなさいね』
部屋の隅から椅子を引っ張って座った母は、タブレット端末が起動すると手元のキーボードを素早くタイプした。僕に心が見えることもシンに聞かれている可能性があることも全部知っているようだった。僕は慌てて頭を下げた。お世話になってますと言いたかったけど、閃斗の母親がここにいることはシンに知られない方がいいようなので、黙っていた。
『斎人が来てからずっと顔出さなかったのは斎人の能力を知ってたからか?』
閃斗の打ちこんだ文章も同じ画面に表示された。どうやら三つのキーボードが全て机中央の端末に繋がっているらしい。
『忙しかったのもあるけど、会社のことが筒抜けなのはまずいから』
そう伝えると母は料理を口に運び始めた。僕たち二人も慌てて食べ始める。
『どうやって知った?』
怪訝そうな顔で閃斗は尋ねる。母親だけならいいが他の人にもバレるような不手際を犯していないか心配になったようだ。
『本棚の裏に盗聴器がある。斎人君がどんな人物か、知っておきたかった』
『やりすぎだろ』
閃斗は呆れた様子だった。
『悪かった』
その言葉が心からのものなのか隠れた眼からは読みとれない。
『用件は?』
単刀直入に閃斗が訊く。時間がないことを知っているのだ。もちろん盗聴器なんてものを個室に仕掛けられたのを怒っているのもあるみたいだけど。
『そんなに慌てなくていい。今日はこのためにたっぷり時間を確保してきたから、ゆっくり話しましょう』
母はキーボードを膝に置くとスプーンを手にとってシチューをすくった。偶然なのか必然なのか、今日のメニューは僕が初めて星野邸で食べた夕食と同じメニューだった。
『心配なの。あなた達が死神を追っていることが。何のためにそうするのか、今どうなっているのか教えて』
どうやら料理を味わう雰囲気にはならなさそうだ。
『シンは、友璃の仇だ』
案の定母はシチューを飲み込んでそのまま固まった。きりっと整った眉を寄せてサングラスに隠れていても分かるほど、深刻そうな顔をしていた。
それから閃斗はこれまでのいきさつを簡潔に語った。一度タチの家で説明しているから慣れたものだ。母は料理の冷めるのも構わず画面と閃斗の表情を交互に眺めていた。
『まだまだ甘い』
事情を把握した母は僕たち二人を見て言った。射抜くような鋭い視線が黒いレンズを透かして見える気がした。
『これだけ分かっていながら、シンの身元に心当たりがないなんて』
驚いた僕らは互いに顔を見合わせて母の言葉を待った。けれどすぐには答えてくれなかった。
『先に食べましょう』
料理はすっかり冷めてしまっていた。早く話を聞きたい僕は急いで食べきったが、母は考え込むようにしながらゆっくりと口に運んでいた。閃斗の話をもう一度整理しているのかもしれない。ようやく食べ終わったころには母が部屋に来てから一時間ほど経っていた。
『何事も最初が肝心』
僕たちに考えさせるように勿体をつけて母は語り始めた。
『最初の被害者は篠原友璃さんだった。シンの立場になって考えてみて。最初の実験台はよく見知った人にするはず』
僕は声を上げそうになって慌てて口を押さえた。篠原さんは私立に通っていたと聞いた。シンはその学校の生徒かもしれないと言っているのだ。閃斗のつては中学の知り合いや部活の大会でできた友人で私立に通う人はいなかったから、情報網にかからなかったのだろう。
舌打ちした閃斗は急いでパソコンに向かって検索をかけた。すぐに現れた制服の写真は紛れも無くシンの着ていたものと一緒だった。
《馬鹿か……俺は!》
閃斗は拳を膝に叩きつけてうずくまり自分のふがいなさを悔やんでいるようだった。僕もまったく同じ気持ちだった。すぐに気が付いていれば救える命があったかもしれないのだ。
『まだ終わっていない』
母がキーボードの上で手を滑らせる。
『決着をつけるなら焦らず万全を期して臨みなさい。篠原さんのお母さんに話を聞いておくといい』
閃斗は顔を上げてその先を促した。
『シンが視覚を手に入れたのは、視覚を持った斎人君のご両親が亡くなったとき。そしてシンが聴覚を手に入れたのは、篠原さんが亡くなったとき』
『友璃が聴覚を持っていたと?』
『女の勘。よく当たるの』
つまりは僕のお父さんかお母さんのどちらかが『心を見る能力』を持っていて、シンがきっかけに起こった事故で亡くなった時にシンにその力が移ったと考えているのだ。そして篠原さんが亡くなったときにも同じ現象が起こったと。突拍子もない話だったけど藁にもすがる思いの僕には聞いてみる価値があると思えた。
それからはいかにシンを追い詰めるかを親子二人で議論していた。やり取りの素早さに口をはさめずに聞き手にまわっていた僕だったけど、途中からはほとんど上の空だった。
(お母さんは閃斗の気持ちが分かっていない)
憐れむように閃斗を眺めながら、僕はこの親子の隔たりをひしひしと感じていた。
(本当は何もかも捨てて楽になりたいと思っているんだ。篠原さんという心の支えを失ってシンを倒すという使命感だけに引きずられているけど、自分でも気付かないふりをしているだけだ。本当はいつも全部投げ出したいと思っている……)
親子の話はつまり、いかにしてシンを殺すかという話だった。母は閃斗が自身の使命をまっとうすることが閃斗にとって命よりも大切なことだと考えている節があった。敗北こそ閃斗の最も嫌うことであり、閃斗本人も、社会的に抹殺されることより誇りを保つことを望むだろうと思っているのだ。眼は隠れていても話しぶりからそのことが伝わってきた。
でも本当は違う。母は、さっき閃斗が諦めの言葉を口にしたことを知らない。閃斗は母ほど勝ち気な人間ではない。篠原さんが死んだ時点で既に敗北に囚われてしまっているのだ。そんな閃斗に、容赦なくイバラの道を示す母の姿は酷なものとして映った。
けれど僕は黙っていた。いずれにしろ他に道は無いのだった。
せわしないタイピングの音だけが、夜の帳に包まれた部屋に虚しく響いていた。
篠原友璃の母親は確かに有用な情報をくれた。
直接会って話したいが何も説明せずに筆談を始めるのは不自然だからと言って、閃斗は篠原さんのお母さん宛てに手紙をしたためた。そのとき、部外者の僕が見ても仕方ないと言って僕には手紙を見せてくれなかった。その言い方は癇に障ったけど本当は篠原さんのことを思い出して情けないところを見せたくないのだと分かったから、とやかく言わなかった。だからどういうやり取りがあったのかは定かではないけど、確かに閃斗が出かけた日の翌日に閃斗宛てに一通の手紙が届いた。その手紙の方は僕に見せてくれた。
前略
突然のご連絡とても驚きました。星野君と最後にお会いしてから半年が経っていると思うと、友璃のいない時間のどんなに早く過ぎていくことか思い知らされるようです。あのとき、友璃のためにずいぶん気を配って頂いたこと、改めて感謝申し上げます。
さて、生前の友璃のことでご質問を頂きました。親子二人の秘密をどうお知りになったのか不思議でなりませんが、今際の時まで友璃のことを思っていただいた星野君の頼みとあれば包み隠さずに打ち明けてしまうのが友璃の望みだろうと思い、お返事差し上げた次第です。
確かに友璃は、常識では考えられないような不思議な力を持っていました。しかしその力の詳細を語る前に、星野君が友璃と出会う前の友璃の半生について触れておかなければなりません。
今打ち明けるのもたいへんに心苦しいことですが、友璃は決して望まれて生まれた娘ではありませんでした。
しかし友璃がこの世に生を受けてからしばらくの間は何事も無く過ぎて行きました。知らないことばかりで毎日が冒険だった友璃の幼少時代には私たち夫婦の間にも一種の連帯感があり、ともに友璃を育て上げることで精一杯で、早瀬のように過ぎゆく時間にただ押し流されていくだけでした。
かみ合わない歯車が悲鳴を上げ始めたのは友璃が四つの時です。友璃が幼稚園に通うようになって心に余裕の生まれた私たちはいさかいを繰り返すようになっていました。お互い幼い友璃のことを思って忍耐を重ねてきましたが、長くは持たず、結局友璃が六つの時に別れることになりました。小さな友璃の手を引きずるようにして家を出た時、友璃が酷く泣き叫んでいたのを鮮明に覚えています。
薄っぺらい嘘に思われても致し方ありませんが、私たち二人は心の底から友璃を愛し、友璃もまた両親を同じように愛していました。誓って言いますが、冷え切っていたのは夫婦の仲だけだったのです。父と母、どちらが友璃を引き取るかで喧々諤々のやり取りをしましたし、結果逃げるようにして夫から友璃を引き離したことも幼い友璃には断腸の思いだったようで、それまで元気いっぱいの女の子だったのが鬱屈と家に籠るようになっていました。愚かな私はつまらない嫉妬からそんな友璃に手を上げたりしたものです。今でも私はそのことを後悔しています。
ある朝、友璃が眩しいほどの笑顔で父の声が聞こえたと言ったのは、二人暮らしを始めてから半年が経った頃のことでした。
最初は気にも留めていませんでしたが、しきりに夫の近況を口にするのでだんだん気味悪く思うようになりました。どこかお医者さんに診せようかと考え始めた頃、起きぬけの友璃が真っ青な顔で父がいなくなったと告げた時には流石に肝を冷やしました。まさかと思って別れた夫に連絡を取ろうとしたものの、電話は一向に繋がりません。いたたまれない心持ちで夜を迎え夫の死の知らせが舞い込んだ時、私は友璃に特別な力があることを確信しました。そこに綴られていた夫の生活は、友璃が語っていたのとまったく同じものだったのです。
友璃が自身の能力を自覚し使いこなすようになるまでにもそれなりの歳月が必要でした。しかしながら友璃が成長するに従ってその能力の全容が分かるようになりました。私は友璃に言い含め、不思議な力のことを親子の秘密にし胸の内にしまっておくことにしたのです。
友璃の能力は『想い人の声が聞こえる』というものでした。
誰か一人、心の底から知りたいと思う人を決めるとその人の声、時には息遣いさえもがどれほど離れていても耳に響くのだそうです。四六時中、たとえ友璃が夢うつつの時でも『想い人』が発した言葉とその居場所が分かると言っていました。『想い人』は変えることができますがそのときに新しい対象の人の声を直接聞く必要があるとのことです。
友璃が誰を『想い人』にしていたか今となっては知る術もありません。最初は私だったのでしょうが、味を占めた友璃は私に内緒で『想い人』をころころ変えていたようです。ひょっとして星野君に決めていたのではないかと思います。黙ってそんなことをする友璃の身勝手を許してくれとは言いません。私に娘を責める資格など無いのですから。
以上が星野君の知らない友璃の全てです。
星野君は私が友璃に刺されたことを、最後まで信じられないと言ってくれました。友璃は優しいからそんなことができるはずないと。
確かに友璃は悪くありません。悪いのは全て私なのです。友璃に刺されても仕方の無いようなことを私は友璃にしてきたのです。しかしそれを苦に思った友璃が逝ってしまったことは、本当にあってはならない不幸でした。
友璃に先立たれてからというもの、私は折に触れるたび死ぬべきは友璃ではなく私だったのにと嘆いてきました。まだ立ち直るには長い時間がかかることでしょう。その後私がどのような身の振り方をするのか見当もつきません。
最後に、星野君が今でも友璃のことを思いやっていてくれていたこと、とても嬉しく思います。大変ぶしつけではありますが、どうか、少しでも長く友璃のことを覚えていていただけると幸いです。
草々
僕が読み終えるまで閃斗は脚を組んで椅子に座り、黙りこくっていた。僕が顔を上げてもしばらくはそのまま動かずに、涙をこらえるようにしながら静かに息をしていた。
『篠原さんは一人の声しか同時には聞けなかったけど、シンは違う』
パソコンを立ち上げて画面越しの会話ができるようになった時には、閃斗はもう平静を取り戻して僕の言葉に力強く頷いた。
『何人までなら聞けると思う?』
『せいぜい十人くらいだろう。四六時中聞こえるならそれ以上登録しても聞き分けられない』
『今登録しているのは誰かな?』
『俺、斎人、タチ、他はターゲットとして目星をつけた奴だろうな』
『僕たちをわざわざ登録する? もう筆談に切り替えているわけだし』
『会話の内容が分からなくても、位置を知ることができるだけで十分な収穫だ。それに一度解除してしまえば声を聞かないと再登録できないし、安易に外すとは思えない』
答えると閃斗は考え込むようにして頬杖をついた。
『聞こえるのは声だけだというのも吉報だ。それ以外の音は聞こえないならいくらでも演技ができる』
『誰かと喋っているふりをするんだね』
我が意を得たりと閃斗は笑った。
『あんまり露骨だと怪しまれる。慎重にやらないといけないがシンをおびき出せるかもしれない』
状況は大きく好転しているように思えた。けれどおびき出した後に何をするかは僕も閃斗も敢えて触れることはなかった。
僕たちは閃斗のお母さんに囮になってもらうことに決めた。
もしもの時の連絡手段として渡された端末から、たった一つだけ登録されているメールアドレス宛てに協力をお願いするメールを送った。驚いたことにものの一、二分で返信があり、明日の夕食のときに行くとだけ書かれていた。
母とのやり取りは極力シンを警戒させないように努めた。シンの話題を出さないのは勿論、途中で筆談に切り替えることもせずに突然現れた母に驚く息子と初めて養母と顔を合わせる子供という役回りに終始した。上手く演技ができるか不安だったけど実際口に出してお礼を言うのは初めてなのですんなり口をついて出てきたし、感謝の言葉を伝えられて良かったと思った。母の声はシンに聞こえていないはずだけど、念のため僕たちに合わせて貰った。その方が演技がしやすかったというのもある。でも、おかげで演技というよりは普通に家族団らんができた気がして嬉しかった。父親はその場にいないものの家族の食卓はもう叶わないと思っていたから。
しかしたった一ヶ所だけシンへの脅威となり得る情報を差し挟んだときはすこぶる緊張した。
「なんか、最近疲れてるんじゃない? 百合子さんが心配してたよ」
母が言った。
「いえ」
「大丈夫だ」
打ち合わせ通り即座に否定する。
「本当に? ときどき帰りもずいぶん遅くなるみたいだし」
「体育祭の準備で居残りがあるので、そのせいです」
「まあ疲れるのは疲れるけど、楽しくやってるからな」
「それならいいけど。あんまり百合子さんを心配させちゃ駄目よ」
「はい」
「分かってる」
「毎日こうやって顔を出せたらいいんだけど。万が一百合子さんにも言いにくいことがあったら私に連絡して頂戴」
「えっと連絡というのはどこへ……?」
「あれ? 渡した携帯にアドレスが入ってなかった?」
「ああ、これですか。ありがとうございます」
「忙しいからって、気を遣うことはないから」
「分かりました」
答えながら僕は心の中で安堵していた。予定通りよどみなく話すことができた。あとは特に意識せずに話を合わせればいいだけだ。
会話の内容は体育祭の準備のことや少し前にあったテストのことなど様々だった。閃斗がタチのことを話題に出して僕をからかったりもしていた。打ち解けた楽しい時間だったけど本来の目的はシンに対して釣り糸を垂らすことだ。ほどほどの頃合いで母は去っていった。
「何て言うか思ったより気さくな人だった。大会社のカリスマ女社長だって聞いてたから、怖い人かと思っていたけど」
閃斗が会話を続けないと不自然だと眼で言っていたので、率直な感想を言ってみた。
「うーん、表裏が激しいのは確かかもしれないな。じゃなきゃやっていけねぇし」
「ちなみにお父さんはどんな感じなの?」
「似た者夫婦だよ。ご飯は作ってくれないが」
そう言われて閃斗の父の姿が目に浮かぶような気がした。
「思ったんだけど、閃斗って会社を継ごうとか思ってるの?」
「分からん。特に意識したことはねぇし、父さんも母さんもその気はないんじゃねぇかな。今のところは漠然と学者になろうかとか思ってるし」
「なんとなくそうだと思った」
僕は微笑んだ。
「どういう意味だよ」
閃斗はちょっと機嫌を損ねたようだ。
「自由だもん、閃斗。気取ったり飾ったりしない。自慢が過ぎることはあるけどとっても素直に生きてる。親が社長だとか後継ぎがどうとかいうしがらみとは全然別のところにいるって思うんだ」
「まあそう言う意味では感謝してるよ。二人とも尊敬できる立派な親だ。あんまり会えないのは勘弁だが」
「閃斗の家に来て、本当に良かったって、改めて思う」
「やめろよ、照れくさい」
「閃斗が照れてどうするのさ」
「うるせぇな」
久々に、屈託なく話をした気分だった。一応シンに対する牽制の意味もあるわけだけど、ここのところシンの耳を気にして心のままに語らうことができなかった。このゆったりと時間の流れるようなひとときを大切にしていきたいと切に願う。けれど、シンとの決着をつけるために最後の賭けに出ようとしている今は、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
おもむろにパソコンを立ち上げて閃斗に話しかける。
『さっきので大丈夫かな』
『絶対とはいえない。だがシンにとって母さんは間違いなく不安要素だ。俺達と接触の可能性があると分かれば、必ずマークしておこうと思うだろう』
確かに、閃斗の母親は影響力の大きい人物と言える。僕たち二人だけならただの学生だけど、驚異的な財力を持つ母親がバックにつけばそうもいかない。少なからずシンには脅威となるだろうし、念のため監視対象に加えようとするのは自然な反応だ。
『でも、本当にやって来るかな』
僕が話に出したのは二日後に開かれる市民向け講演会のことだ。閃斗の母が講演者として演台に立つことになっているから声を聞くには絶好のチャンスで、もしシンがお母さんを登録する気なら逃す手はない。もちろんこの予定が先に決まっていたから今回の作戦を思いついたんだけど。
『来るさ。間違いない』
自信満々の閃斗に対して少し不安を覚えた。
『お母さんが誰なのか、知らないかもしれない』
『調べりゃすぐ分かる。シンは星野の名も知ってるしこの豪邸を見ればだいたい察しがつくだろう。万が一、既に母さんを登録していた場合は来ないだろうが』
『何処で待ち伏せる?』
『それを今から相談だ。極力人通りがなくて隠れる場所もあるといい。勿論シンが必ず通る場所だ』
僕は神妙な面持ちで頷く。
地図を見ながら相談するうち夜はあっという間にふけていった。僕たちは時が経つのも忘れて、パソコンの画面越しに無音の会話に没頭していた。カーテンを閉め忘れた窓から覗く月の無い夜空が遥かな高みから見下ろしていた。
朝方のうららかな光が嘘のように空には黒雲が滑るように流れ、色のないざらついた地面に薄暗い影を落としている。僕と閃斗、タチの三人は欄干に背中を預けて立ち『里半橋』の名が刻まれた石柱の後ろに身を隠していた。
駅と市街地を分けて流れる里半川に覆いかぶさるようにして架かっている橋は、丸々コンクリート造りで車が一台やっと通れるくらいの細さだった。けれども里半川は決して小さな川ではなく橋の全長はおおよそ二十メートルある。昨日の大雨で土砂の混じった川は灰色に濁り、手を伸ばせば届きそうな距離でごうごうと音を立てていた。足元は時折微かに揺れ、今に橋が落ちても不思議ではないと僕は思った。
講演会の会場とその最寄駅の間には里半川が横たわり、他に橋もあるもののかなり遠回りをしなければならなかった。つまり、もしシンが講演会へと向かうのであれば必ずここを通るはずだった。講演会の始まる三十分ほど前はそれなりに人通りもあったが、それが過ぎてからはさっぱりだ。その中にシンがいなかったことはしっかりと確認してある。閃斗の母親の出番は途中からだからその時だけ顔を出すつもりなのだろう。こちらとしては好都合だった。
《まだかな……》
身を寄せ合うようにしているタチや閃斗の眼には明らかに焦りの色が浮かんでいた。けれど声を出せば待ち伏せがバレてしまうので黙りこくっている。他に人影の無い橋の周辺では水の下る荒々しい唸りだけが単調に響いていた。
スタンバイを始めてからおよそ一時間が経過するまで人っ子一人現れなかった。もうじきに閃斗の母親が演台に立つことになる。当てが外れたかといぶかしんだ、その時だった。
「そこにいるんだろ」
聞き覚えのある声に背筋を寒気が走った。寄り添う二人もたちまち身を硬くするのが分かった。
「出てこいよ。三人とも」
忘れるはずもない。紛れも無くシンの声だった。
通り過ぎたところを後ろから刺すという閃斗の目論見は諦めるしかなさそうだった。声がしたのは橋の入口のあたりだ。石柱から身を乗り出さなければ見えない位置だから大人しく出ていくしかなさそうだった。閃斗も同じ考えのようで、眼で合図をすると懐からサングラスを取り出した。僕とタチを小突いて促し姿を晒す。
シンは不気味に笑いながら道の真ん中に突っ立っていた。ブレザーではなく紺色のフード付きジャンパーを羽織り、その下にぴったりとしたトレーナーを着こんでいる。ズボンは丈夫そうなジーンズで履き古した運動靴を身につけている。黒縁の眼鏡もなくコンタクトにしているらしい。動きやすい格好で来ているのが一目で分かった。
「どうして分かったって顔してるな」
サングラスで眼を隠しているにもかかわらず、シンは見透かすような口調で言った。
「なーに、お前らが俺を見くびっていたってことさ。篠原友璃の母親こそ、俺が『聴覚』で初めてマークした人間だ。星野閃斗、お前から手紙が舞い込んだことは知っているんだよ」
「な……」
引きつる閃斗の顔を見てシンはおかしそうに笑った。
「ははは。独り言の多いばーさんだったよ。おかげでお前らが『聴覚』の情報を仕入れたことが分かった。となれば罠を張るのは想像がつく」
「ば、馬鹿な! 一体何人登録しているんだ。聞き分けられるはずが……」
「ふん、舐めないで欲しいな。やかましい教室の中でも自分の名前が呼ばれればすぐに反応することができる。それと同じだ。ほとんどはくだらない無駄話だが、気になるワードは拾うように無意識で取捨選択しているのさ。慣れれば簡単なことだ」
閃斗は悔しそうに歯ぎしりして言った。
「……罠と分かって何故来た?」
「俺にとっても好都合だからだ。この状況が」
そう言ってシンは舐めまわすように僕たちを眺めた。その眼は露わになっているが、僕の方がサングラスをかけているので心中を察することはできない。
「証人がいないんじゃ、正当防衛と主張できないんだろ?」
「それがもう、そうじゃねーんだよな。お生憎さま。星野を返り討ちにしたら、証人はそこの二人だ。俺と眼を合わせれば素直になれるぜ。ぺらぺらしゃべってくれるはずさ。いや、何なら、遺書書いて自殺してもらった方が後腐れなくていいかもしれねーな」
シンは満面の笑みを浮かべた。どこか恍惚とした残忍な笑みだった。シンは僕たちの意思を完全に度外視して話している。考え方を誘導するとか、そんな生ぬるい次元で話しているのではないのだ。
「それって……洗脳……」
心底震えあがって僕は呟いた。
「その通り! お前らのちゃちなサングラス、それが唯一の命綱ってわけさ。それを外したが最後、お前らは操り人形になり下がる。俺は既に神の領域に踏み込んだ。俺の進化を止められる奴はいない」
その思いあがった言葉はどこか滑稽に響いたが、笑い飛ばすことを許さない重みがあった。
「この世における力とはなんだ? 金か? 目の前の敵を打ち倒す技か? それは違う。本当の力とは、人を服従させ使役できることだ。財力や腕力はそのための手段にすぎない。俺はその力を手に入れた! 問答無用で他人を従える、絶対的な権力だ!」
「させるものか」
引き締まった彫りの深い顔立ちに険しい表情を浮かべて、閃斗は戦闘用のナイフを取り出した。閃斗もまたシンと同じように、動きやすく隙の無い身なりをしていた。膝や肘、胸には小さくも頑丈なプロテクターをつけている。普段着に見える茶色のベストは刃を通しにくい特別なものだった。
「止めてみろよ。やれるもんならな」
シンがジャンパーを脱ぎ捨てると、ベルトに固定されたホルスターが露わになった。そこからゆっくりとナイフを引き抜き、切っ先を閃斗の正中線に合わせて構える。
空はすっかり雲に覆われ、小さな水滴がぽつりと肌に落ちるのを感じた。遠くの方でゴロゴロと雷の唸り声が聞こえる。相変わらず濁流の水音がけたたましく響いていたが、手に汗握る僕にはどこか遠くの出来事のように感じられた。
二人は互いにぴたりと刃先を向け合ったまま、じわじわと距離を詰める。五メートル、四メートル、三メートル、距離が縮まるにつけ鳥肌が立つような緊張がびりびりと体を震わせている。その様子を、僕とタチは固唾を飲んで見守っていた。
文字通り手の届く距離になった瞬間、二人は同時に動いた。初手、閃斗は喉を狙って突き、シンは下腹部へ膝を突きあげる。
シンが閃斗の手首を払い、閃斗が身をよじって膝蹴りをかわしたのを最後に、僕には動きが追えなくなった。
降り始めの湿っぽい土の匂いをはらんだ空気を裂くようにして、二筋、銀色の刀身が舞う。しかし、二人の乱舞の真髄は二振りのナイフではなく、むしろ僅かな体捌きや相手の刃を払う手刀の応酬にあった。両者ともに力む様子がなく、腕は鞭のようにしなやかで、足は変則的なステップを踏んでいるようだった。胸を突きにくる手首に刃先を合わせ手首の動脈を狙う。懐に入ろうと踏み込む軸足を鋭く蹴りあげて体勢を崩しにかかる。隙あらば肘打ち、関節技、投げ技を決めようと互いに神経を逆立てている。
ひとときも留まるところがなく、流れるように重心を移してしのぎを削り合う立ち会いは、はっとするような美しさを秘めていた。しかし裏を返せば一瞬の隙がたちまち死に繋がることを示している。互いに相手を殺すことには一抹の迷いも無かった。かつて閃斗はシンに後れをとったと言ったけど、それはすなわち怒りと迷いで平静を失っていたからだった。ナイフの扱い自体は見よう見まねの付け焼刃だけど、呑み込みの早い閃斗はしっかりとものにし、合気道で養った体捌きや動体視力でカバーしている。今の二人は、少なくとも僕の目には、全くの互角に映っていた。
降り始めた雨に混じってぱっと紅色が飛んだ。目を凝らすと閃斗の肩で服がすっぱりと切れ、うっすらと血が滲んでいる。しかしそれほど深くはないらしく閃斗は表情を変えずに斬り合いを続ける。
それを皮切りに互いが互いの攻撃を捌ききれなくなっていった。頬や胸、足、腕。いずれも深手ではないものの確かに冷たい刃が肉を裂いていく。どちらの動きも次第に鈍くなり消耗しているのがはっきりと分かった。切り傷だけでなく重い打突も骨身に響いている様子だ。足取りは次第に重くなり、雨と血と汗の雫を吹きすさぶ風がさらっていく。二人の顔にも焦りの色が見え始めていた。決着の時は近い。
初めに急所を突いたのは閃斗だった。正面を縦に斬りかかってきたシンに対してその腕を左手で受けたかと思うと、そのまま自分の腕を蛇のように絡みつかせシンの利き腕を極めた。その一瞬動きを止めたシンの腹に鋭く膝蹴りをねじ込む。
しかしシンも負けてはいない。呻き声を上げるも一歩も退かなかった。骨の軋むのも構わずに閃斗の腕を強引に振りほどくと、折れた利き腕で腿にナイフを突き立てた。幸いそれほど深くは刺さらなかったけど、閃斗は呻いて一歩下がった。シンが左手でナイフを引き抜くとべったりと血糊のついた刃が光り、僕は青くなった。その刃がたじろぐ閃斗に容赦なく突きこまれる。
けど、利き手でない左手での突きは僅かに遅かった。閃斗は喉元への突きを肘のプロテクターで受け流し、その回転の勢いのまま顔面に回し蹴りを放った。シンは咄嗟にかばおうとしたが右腕はだらりと垂れ下がったまま動かない。視線を泳がせたシンの顔に重りの入った靴を履く閃斗の左足が吸い込まれ、体ごと弾き飛ばした。もんどり打って倒れたシンに駆け寄り、すかさず手足を膝で押さえつけると、逆手に持ちかえたナイフを大きく振り上げる。
次の瞬間、目の前を白い影が横切った。
意識の外に追いやられていた雨音が一斉に耳を打つ。いつしか本降りになっていた雨はざあざあと雑音を振りまいて、硬い地面に当たっては砕け散っていた。その大粒の雫を汚すように舞い上がった血は、シンのものではなかった。
「タチ……?」
腰を抜かして座りこんだ僕は、ただ茫然と眼前の光景を眺めていた。
シンに覆いかぶさるようにしてうつぶせになったタチの背中に、閃斗の振り下ろしたナイフが突き立っていた。フリルのついた真っ白なブラウスに尋常でない量の血の染みが広がっていく。
(タチがシンをかばった……?)
思考回路は錯綜し視界が徐々に狭まっていく。倒れるまいと後ろに手をついた時、何かがそこにあるのに気がついた。視線を前にまっすぐ固定したまま後ろ手で拾い上げ、ぶるぶる震える手で目の前に持ってくる。スポーツ用のサングラス。それがタチのかけていたものだと気がつくまでに、かなりの時間を要した。
(タチが、サングラスを、外した……)
その意味をようやく理解してタチの顔に視線を移すと、生気の無いこげ茶色の瞳は光を失っているように見えた。
「はーっはっは!」
ぐったりとなったタチの体を跳ね飛ばし、閃斗の顔面を足蹴にして立ちあがったシンは、これ以上ないほどの大声をとどろかせて勝ち誇ったように笑った。その表情は死神そのものだった。
「シン!」
僕はありったけの怒りを込めて叫んだ。
「お前、タチに何をした!」
「榊斎人、奥の手ってのは、最後まで取っておくもんだぜ」
茫然自失の体で横たわった閃斗の顔を踏みつけ、シンは言った。
「白宮橘に初めて会ったときから俺はこの女に憑いていたんだよ! お前にカッターナイフを投げつけた男のようにな! 当時の俺の力は弱かった。だがそれでも、サングラスを外させることなどわけもない!」
閃斗は既に抵抗する気力を失っているようだった。自分がタチを刺したというショックで生ける屍のようになっているらしい。ピクリとも動かない閃斗の体に容赦なく雨が降り注いでいた。
「ちっ、窮鼠猫を噛むってわけか。手こずらせやがって」
傷だらけのシンは折れた右腕を抑えながらも、目は狂気に血走らせていた。
「喜べ! 榊斎人! 俺の最初のしもべとなったのはお前の友人だ。いや、恋人と言うべきか? まあどうでもいい。じきに死ぬだろーからな。そして俺は、触覚を手に入れるってわけだ。俺の進化の礎になれることに、感謝するんだな!」
「シン、きさま!」
僕は手をついて立ち上がり、シンに跳びかかった。しかしその瞬間、目の前に火花が散った。強烈な蹴りをみぞおちに叩きこまれた僕は成す術なくその場に崩れ落ちた。
「心配するな。お前も今すぐこっちに引きこんでやる。なーに、案ずることはねーよ。ちょっとその眼隠しを外して俺の眼を見れば、すぐに右も左も分からなくなる。あとは心の底から湧きあがる衝動に身を任せればいいんだ」
語り終えると悶えている僕の髪を掴んで力任せに引き上げた。かがみこんで真正面から僕を見つめるシンの目がサングラス越しに見える。僕に言い聞かせるようにしながらシンは話を続けた。
「お前にまずやってもらうのは閃斗を殺すことだ。有言実行ってやつだよ。あいつの運命は『友人を殺して、友人に殺される』ことだって俺が決めたんだ。予言じゃねー、言わば宣言ってやつだな。その後はそこの女と二人仲よく逝って貰うことにするよ。俺に尽くした喜びに打ち震えながら息を引き取るんだ。幸せだろう?」
混濁した意識の中でかろうじてシンの言葉だけが頭をよぎっていった。お腹を押さえていた手を離し、ぎゅっと握りしめる。
(ふざけるな……)
僕は湧き起こる怒りの熱に神経を焼き切りそうになりながら、同時に自分の中で怨嗟の炎が燃え上がっているのをどこか遠くから眺めているような、不思議な感覚にとらわれていた。
(こいつは、シンは、何人もの命を奪っておきながら、自分が人を殺めたという自覚を一度たりとも持ったことがない)
握りしめた手にこもる力はますます強くなり、自分の爪が手のひらに食い込むほどだった。一方で、一斉に立ち上る『意思』の群れに手を伸ばすと、蹴りを入れられた痛みがすうっと軽くなっていくような気がした。
(思い知らせてやるんだ……。望まぬままに手を汚した人々の自責の念を、殺された人々の怨嗟を、僕が眼にしてきた心からの叫び声を……)
僕は自らの怒りが自分の中の大きな潮流と同化していくのを感じた。その流れに身をゆだねると全身に力が満ち満ちてくるのが分かる。その勢いでシンの手を力強く払いのけると、導かれるようにして立ち上がった。
――僕なら、できる。
仏頂面の僕を怪訝そうに眺めるシンの前で、僕は全身に力をみなぎらせて立っていた。サングラスのフレームに手をかけ勢いよく放り投げると、遠くの方でからんと小さな音がした。その瞬間にかっと眼を見開いて、シンの黒い眼を一直線に見下ろす。
刹那、あらゆる惨劇の光景が稲妻のようにひらめいた。刃物で切りつけた首からぱっと血飛沫が上がる瞬間、貨物列車の先頭車両に女性が激突する瞬間、燃えさかる部屋の中で崩れる天井に押しつぶされる瞬間……。際限なく現れる血生臭い記憶は堰を切るように流れ、シンの眼の中にたゆたう水面を容赦なく押し流していった。さらにそれを追いかけるようにして恐怖や懺悔の絶叫、悲痛な慟哭が蘇り、滝のように激しく降る雨の音を消し飛ばす。
続けて、激しく燃えさかる魂の数々が僕の体を通り抜けていった。それに触れるたびつんのめるような衝撃とともに魂は爆ぜて、体を真っ二つにするような苦しみと嘆きが自分のこととして感じられた。身も心も焼き焦がす灼熱の炎に悶え続けるあまり、自我がばらばらに分解されて抗う力を失い、いつしか魂の見るままに見、聞くままに聞くようになって同じ感情を分かち合っていた。
地獄のような業火の応酬も際限なく続いたが、時間の感覚もとうに吹き飛んで意識も真っ白に焼け落ちた後、気がつくとあたりは静寂に包まれていた。
リビングの中央で電灯の光に照らされて横たわる中年女性を見下ろしながら、僕は包丁を握った手をぶるぶると震わせていた。
――私が、わたしが、お母さんを殺した……。
僕は母親から目をそむけるようにして振り返ると、灯りの無い廊下をさっと駆け抜けた。
――ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん、わたし……。
既に日は落ち、窓の外には切れかかった街灯が、絶え絶えにオレンジ色の光を瞬かせている。私は薄闇に沈んだ部屋の中で勉強机に突っ伏してすすり泣いていた。
――どうすればいいの? わたし、どうすれば……?
ふと、まだ手に包丁を握っていることに気がついた。それをゆっくりと机に置いて、空いた手でメモ帳を破り取るとぎこちなくペンを走らせた。
わたしが お母さんを 殺した
ごめんなさい
わたしも
さようなら
目の前には勉強机に重なって、灰色の橋の欄干が映っていた。
――死ななければ。わたしは、死ななければいけないことをした。
私はその上に乗っかっている包丁をもう一度手に取り、自分の首筋に刃先を当てると一気に切り裂いた。
その瞬間、僕の体は宙を舞った。
真っ逆さまに、逆巻く濁流の中に落ちていく。
水面に叩きつけられた衝撃とともにざぶんと大きな水音がしたかと思うと、身を切るような冷たさで一気に視界が白んだ。
全身の切り傷に、砂交じりの汚水が染みる。焼けるような痛みだったけど、気が遠くなるのを止めることはできない。水を飲んで息が詰まる。雨音も水音も聞こえなくなった。ただ押し流されていく感覚のみを意識しながら、俺は気を失った。
同時に、僕は我に返った。
はるか遠くに鳴り響いていた雷は、今やその光で橋を照らし出すまでに近くなっていた。丈夫な生地でできた長袖のTシャツもぐっしょりと濡れている。みぞおちの鈍い痛みが疼いて吐き気がした。けれどそんなことは二の次だ。
「シン……?」
シンの姿は消えていた。いつの間にかまた倒れてしまっていたので、起き上がってあたりを見回してみたけどやはりシンはいなかった。ついさっきまでシンがいた場所から血痕が橋の中ほどまで続き、欄干のところで途絶えていた。
(ひょっとして、僕が見ていたのは……シンの意識?)
よく状況は分からなかったけどとりあえず後回しにしてもよさそうだ。となると他に火急を要することがある。
「タチ! 閃斗!」
折り重なるようにして倒れている二人に駆け寄る。
「大丈夫!? しっかりして!」
閃斗はううんと呻き声を上げながらも体を起こした。太腿の傷はそれなりに深かったが、太い血管はそれているらしく出血はそれほどでもない。手当てをすれば何とかなりそうに見えたし、意識もはっきりしているようだ。けれど、タチの方は素人目にも駄目だと分かった。
「シンはどうした?」
「たぶん、川に身投げした。今はタチだ」
うつぶせに倒れているタチを抱え起こして、僕は必死に声をかけた。
「タチ、タチ! 僕だよ。返事して!」
背中から右脇腹に突き立ったナイフの隙間からでも信じられないくらいの血液が流れ出していた。内臓がやられているに違いない。もしナイフを抜けばたちまち失血死してしまうだろう。シンの脅威が去ったことに内心安堵していた僕をじわじわと締め上げるように絶望が蝕んでいった。
「タチ……ううっ……」
タチの眼は微かに開いていた。心の水面は濁っていて奥まで覗くことはできないけど次第に透明度を取り戻していくのが分かった。
「……とっ、くん」
「タチ!? 話せるの!? タチ!?」
気持ちまぶたを上げてタチは微かに息をついた。顔は蒼白で冷や汗をかいているが、眼はすっかり透き通り、平静さを取り戻しているように見えた。
「良かった……怪我してない……良かった……」
うわごとのように、ぶつぶつと呟いた。どうやら、シンの力によって、僕が襲われているものだと錯覚させられていたらしい。こみ上げるものがあって、僕はうっと嗚咽を漏らした。
「タチ! しっかりして!」
「大丈夫だよ……私なら……とっくん……」
涙ながらにタチの肩を小さく揺さぶったけど、タチはどこか超然とした恍惚とした微笑みを浮かべてどこか遠くの方を見ていた。僕の声も届いているかわからない。
「……大丈夫じゃないよ……こんな、こんな酷い怪我してるのに……」
「……怪我? 怪我してるの? 私が?」
タチは少し顔を曇らせて怪訝そうに言った。
「……わかんないなあ……何も感じない……なにも……」
「タチ!」
僕は堪え切れなくなって、わあわあと声を上げて泣き始めた。傍らに座りこむ閃斗も真っ青になって、ごめんな、俺のせいで、としきりに呟いている。
「とっくん、お願い」
思いのほか力強い声にはっとなってタチを見つめた。こげ茶色の眼は光を取り戻して僕をまっすぐ見つめていた。透き通るような真っ白な肌にも少し赤みが戻っているような気がした。
「傷が……診たいの。目じゃ見えないけど、触れば分かるから……。でも、手に力が入らないの。私の手を……怪我の近くの肌に、くっつけて……」
突然の申し出に戸惑ったけど、タチの眼が真剣なので素直に従うことにした。閃斗にタチの体を支えて貰ってタチの左腕を持ち上げる。タチの手首を掴んだ時に青白く細い指先がぴくりと動いた。躊躇いがちに服の中にタチの手を潜り込ませて、ナイフの刺さった右わき腹に当てると、服の上からそっと押さえてやった。タチは軽くまぶたを下ろした。
「……こっちが、肝臓で、こっちが、腎臓で……肋骨にもちょっと当たってる……うーん、血がいっぱい出てるなあ……」
まるで他人事のようにぼやいて微笑んでいるのは何とも気味が悪く、気が違っているのかもしれないと思えて哀れだった。
「……とっくん」
「……何?」
別れの言葉でも言われるのだろうかと思って、僕は身を硬くした。やめてくれ、こんなことが現実だって突き付けるのは、やめてくれ。そう思いながらも、頭では既にタチの死を確信していて、何も言わずに逝ってしまうのは耐えられないと考えていた。けれどタチの言葉はおよそ信じられないものだった。
「邪魔だから、取って」
「え?」
「私の背中に、何か刺さってるの。邪魔だから、抜いてくれない?」
僕は絶句してタチの眼を見つめた。
「……抜いたら、間違いなく死ぬぞ」
隣で閃斗がささやく。しかしタチにはその宣告は聞こえていないようだった。
「お願い。このままじゃ、駄目なの」
言ってることは支離滅裂だったけど、タチの眼の中は凪いでいてやけくそを言っているのではないと知れた。平静で冷静で、細く一本の道筋を見据えているような眼だった。一瞬、まだシンの影響が残っているのではないかという考えが頭をよぎるも、僕は心を決めた。
「……閃斗、押さえててくれる?」
「やめとけ。むごいものを見るぞ」
「いずれ死んじゃうなら、一緒さ」
「投げやりになるのは、やめろ」
「投げやりじゃない。タチは何か思うところがあって、言っているんだ」
頑なな僕に、閃斗は遂に折れた。ため息をつくと、無言でタチの腕を肩に回した。
「あ、手はお腹に当てたままにして。あと、ゆっくり抜いてね。痛いから」
タチの声は弱々しくも、鈴音のようによく響いた。閃斗は立ち膝をつきわきに肩を差し入れ、担ぎあげるようにしてタチを支える。僕はタチの後ろに回り込んで息を飲んだ。
白いブラウスに広がる血の染みは背中全体に広がっていた。雨がその輪郭を滲ませて紅を吸い取っては地面に流れ落ちていく。ナイフの柄が飛び出したその根元からは、今まさにぽたりぽたりと血が滴ってコンクリートの地面に染み込んでいく。その地面は雨が清めるのよりも早く真っ黒に染まっていった。
傷口を広げないように慎重に柄に触れる。閃斗の手に馴染むようにぐるぐると滑り止めのテープが巻かれた柄は、雨に濡れて不気味な光沢を纏っていた。思いのほかしっかりと刺さっているようで少し触っただけではびくともしなかった。しかしタチの体の中には切っ先が埋まっているのだ。手の震えを必死に押さえながら、僕はナイフの正面に座って柄を握った。
「……いくよ」
小さく呟くと、茶色の髪が僅かに揺れてタチがうなずいたことが分かった。高鳴る鼓動を聞きながら、ほうっと一度深呼吸をして目を閉じる。傷口のすぐ横、背中の真ん中あたりを左手で押さえながらゆっくりと力を込めて、ナイフを抜き始めた。
その瞬間、膝に生暖かいものが当たって僕の体の熱が一気に冷えた。
「駄目っ!」
悲痛な声でタチが叫ぶのを聞いて、僕は思わず手を止めた。
「もっと、もっとゆっくり……間に……合わない……から……」
そう言われて再び力を込め、押しているのか引いているのか分からないほど微妙な力加減で少しずつナイフを引っ張った。すると不思議なことに、手に感じる抵抗力は少しも弱まることがなかった。不思議に思った僕は恐る恐る目を開く。
柄を握る手と藍色のジーンズは傷口から吹き出した血に濡れ、おぞましい色合いになっていた。けれど思ったほど出血はなく、既に血は止まっているように見えた。二センチほど引き抜かれたナイフの刀身は確かに紅くなっているけど、ぎらりと光る金属が露わになっているほどでほとんど血はついていなかった。
「次は、ここと、ここを、くっつけて……」
目を丸くして傷口を眺めている僕をよそに、タチは寝言のようにもごもごと呟く。その響きは心地よい夢でも見ているかのように弾んでいた。
「分かった、わかった。肝臓さえ、どうにかなれば、あとは……」
その瞬間、僕はナイフの柄が押し出されるような奇妙な感覚を覚えた。最初は小さな力だったけど、次第に大きくなったそれは確かに僕の手を押し戻して最後にはひとりでにナイフが抜けていくのが分かった。あまりにもあっけなくナイフは地面に落ちて甲高い金属音を上げた。思わず悲鳴を上げて両手で顔を覆ったけど、恐れていたことは何も起こらなかった。
「……タチ?」
返事はなかった。ただ、息はしていた。ゆっくりと深い呼吸だった。
「……斎人、ナイフを」
閃斗に言われて目を開け、足元に転がった凶器を慎重に拾い上げるとタチの体を支える役を交代しながら閃斗に渡した。閃斗はそれをしっかりと鞘に収め、細い革ひもでぐるぐる巻きにして結び、懐にしまった。
「傷は……?」
タチの背中の上の方、肩甲骨あたりを肩で支えてゆっくりと服をずりあげる。恥ずかしいだのなんだの言っている場合ではない。
「信じられない……塞がってるよ」
「なんだって?」
「ナイフの傷なんて跡形もないんだ。血はついているけど、何処に刺さってたのか分からないくらいだ」
肌は新品のキャンバスのように真っ白で、傷やその痕跡は一つもない。閃斗に言った通り服に染み込んだ血が肌に張り付いて固まり始めていたけど、それ以外別段おかしなところはなかった。
「助かった、のかな……」
僕が服を元に戻すと閃斗はタチの手をとって手首を軽く押さえた。
「脈ははっきりしている。だがたとえ傷が塞がっていたとしても相当な出血だったはずだ。すぐに病院に連れていった方がいい。問題はこの状況をどう説明するかだが……」
「四の五の言ってる場合じゃないよ! 早く救急車呼ばないと!」
タチは深い眠りについているようだった。ちょっぴり口を開けてすやすやと寝息を立てている。いつか僕の病室で見た眠りに落ちた時のように表情こそ安らいでいたものの、顔はまだ白かった。その姿は気がつけば散っている桜の花のように儚いものに見える。
「任せてちょうだい」
突然後ろから声をかけられてぎょっとした。振り返って後ろに立つ人影を認めて仰天する。
「百合子さん!?」
二人で一斉に叫ぶとすらりと背の高い世話焼きの女性はにっこりとはにかんだ。
「こんなこともあろうかと、お母さまからお医者さんの手配を仰せつかっていたの。さあ、早く乗って!」
手招きした先には見覚えのある黒塗りの外車。血まみれの味方を背負ってこんな車に乗り込むなんて怖いおじさんたちのすることじゃないか。そう考えると、ちょっぴり可笑しかった。
二人でタチを担ぎこんでドアを閉める。それを合図に急発進した車は街路をジグザグに走り抜け、あっという間に幹線道路に踊り出た。それでも物足りないと言わんばかりに百合子さんはさらに速度を上げる。
「ちょ、ちょっと待て、事故ったら全部台無しだぞ!?」
流石の閃斗も怖気づいた様子で顔をひきつらせている。
「見くびらないでくれる? このくらい、まだまだ序の口なんだから。もっと飛ばそうか?」
「や・め・ろ! だいたい、パクられたらどうするんだ! ただでさえ人目をはばかる状況なんだぞ?」
「その時はその時。適当にごまかす。それに、みすみす捕まったりなんてしない」
「あの……百合子さんって、一体……?」
僕の当然の疑問に、百合子さんはバックミラー越しにウインクを返すだけだった。
車のエンジン音が座席を伝わって、力強く体を震わせる。タチは僕の方に寄りかかるようにして、雨に濡れた髪の毛をまっすぐ落としている。その静かな吐息を聞きながら、僕はふと窓の外を見上げた。
空はまだ陰っているものの、いつの間にか日がさし始めていた。まだ大粒の雨の雫が太陽の光を受けて真珠のように優しい光を振りまいていた。そういえば今日の雨はにわか雨だと言っていたっけ。これならもしかして、虹が見られるかもしれない。
ぐっしょりと濡れた手に何かが触れた。見ると、ゆっくりとこちらに倒れ込んでくるタチの手が僕の手の上に重なっていた。口元をほころばせてそっと指を絡めると、張り詰めた緊張の糸が切れたように、強い眠気が僕を襲った。
(きっと、大丈夫……きっと……)
そのまま、深いまどろみに沈んでいった。
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