三章 死神の見えざる手

「ええと、要するに、生き物の肌に触れると体内が見えると、そう言うことなんだな?」

 丸いちゃぶ台を挟んだ反対側で閃斗はうんざりしたような声で言った。

「違うよーっ。見えるんじゃなくて、感じるの」

 白宮さん、いや、タチが口を尖らせると閃斗は苛立ちを隠さずに言った。

「あーもう、だからその『感じる』ってのがわかんねぇんだって。もうちょい具体的に言ってくれよ、タチ」

「だめっ! タチって呼んでいいのは家族だけだもん」

 閃斗とタチのやり取りをはらはらしながら見ていた僕は、跳び上がりそうになった。

「えーっと、タチ? それってどういう意味……」

 僕はしどろもどろで尋ねる。

「ならいいじゃねぇか。お前と斎人が家族なら、俺と斎人も家族なんだからな」

 ニヤニヤしながらやり返す閃斗の言葉を聞いて、タチは自分の言葉の意味を悟ったようだ。

「あ、いやっ、そのっ、家族みたいに仲のいい人って意味でっ!」

 タチがふるふると首を振ると茶色がかったポニーテールが揺れる。文字通り子馬が尻尾を振っているようで微笑ましいというかなんというか。

「はーい、できたわよー」

 と、突然部屋に入ってきたのは百合子さん。手に持ったお盆にはシフォンケーキと紅茶が乗っている。

「あ、ありがとうございます」

 赤らめた顔を隠そうとタチは慌ててカップを取って危うくこぼしそうになった。うーん、残念ながらもう手遅れだと思うんだけどな……。僕は苦笑する。

「あら、大丈夫? 熱いから気をつけてね。ではごゆっくり」

僕の予想通り百合子さんはやけに上機嫌だった。空のお盆を抱えて去り際に僕に向かってウインク。だから余計なお世話だってば。

「わ、若いお母さんね……」

 タチが言うと閃斗は吹き出した。

「そっくりだな、お前ら」

「え?」

「僕も最初勘違いしたんだけどね、百合子さんはお手伝いさんだよ」

 苦笑してタチに説明する。

「……知らないもん、そんなの」

 むくれるタチを見て、閃斗がまた笑いだす。

「まったく一緒じゃねぇか! 仲いいな、ホントに」

「もう、学校でもさんざん冷やかしておいて、やめてよ」

 結構強めに言ったつもりだったけど、閃斗に笑いやむ様子はない。

退院して学校に行くと僕を出迎えたのはクラスメイトの好奇の眼だった。タチの不登校や僕の発作のことは誰もが気にしていたようで、唯一事情を知る閃斗の話は瞬く間に広がった。かくして僕とタチの間柄はあることないこと尾ひれがついてクラス中の話の種になっているのだった。

おかげで白い目で見られることは無くなったけど、他にもっとやりようがあっただろうに。閃斗は面白がって言いふらしているのだ。

「いいじゃねぇか、まんざらでもねぇんだろ? 実際」

「うるさいっ! ケーキ取ってやるぞっ」

「おいこらまた独り占めする気か! あのな、聞いてくれよタチ。こいつこないだケーキ一ホールまるまる平らげたんだぜ。おかげで俺の分が……」

「隙ありっ!」

「させるかっ!」

 素早く突き出したフォークからケーキの塊が逃げ、空を切ったフォークは机に当たる寸前で止まった。

「くそっ」

「まだまだだな。俺に不意打ちするのは百年早い……」

 と言っている間に僕は閃斗の紅茶にどっさりと砂糖を投入した。

「あ、てめっ!」

 慌てる閃斗をふふーんと笑って見上げる。

「不意打ちがどうしたって?」

「この野郎……やってくれるじゃねぇか」

 そう言って、閃斗は大きな手でわしゃわしゃと僕の頭をかきまわす。

「あ、やめっ! 暴力はんたいっ!」

「うるせーっ」

 ふふっと隣でタチが笑った。

「二人も十分仲いいじゃない」

 ばつの悪そうな顔で閃斗はようやく手を止める。

 僕とのいざこざで神経をすり減らしていたタチはすっかり元気になって透き通るような肌にほんのりと紅がさしている。気持ちほっそりとした輪郭からは弱々しさを感じるものの、筋の通った鼻がそれを引き締め理知的な雰囲気を漂わせている。ほっそりとした眉は緩やかに曲がり、こげ茶色の瞳が悪戯っぽく瞬いていた。

「おーい、斎人、聞いてるか?」

 目の前で日に焼けた手がひらひらと動く。

「顔赤いぞ、ん?」

「な、何?」

 聞こえなかったふりをして聞き返す。幸いそれ以上の追及は無かった。

「だいぶ話がそれたがタチの能力の話だ。百合子さんもしばらく戻ってこないだろうしな」

「だからーっ、タチって呼ぶのは……」

「堅いこと言うなよ、面倒くさい」

「もーっ」

 頬をふくらませるタチ。しかし、そんな彼女が手に入れた力は確かに不思議なものだった。


 タチの家の前で僕が倒れた時タチは完全にパニック状態だったという。僕の心臓が動いているのか止まっているのか、そればかりが気になって他のことを考えられなくなっていたらしい。本当はAEDを使えばすぐに分かるから真っ先に救急車を呼ぶべきだったとタチは言ったけど、冷静な判断ができないほど焦っていたのだそうだ。

 そのとき何かが起こった。タチは僕の肌を通して僕の心臓が止まっていることをはっきりと『感じた』という。鼓動を感じなかっただけでなくこぶし大の心臓の形やそれに絡みつく血管の一本一本まではっきりと分かったのだ。細かく痙攣していて心室細動を起こしていると判断したらしい。

 僕の心臓が止まっていることを知ったタチは目の覚めたように冷静になれた。事実が事実としてはっきりと認識できたことで、すべきことが頭の中に浮かび自然と体が動いたそうだ。不思議な力に目覚めたことで何もかもうまく行きそうだという自信も生まれた。救急車を呼び、気道を確保し、両親のクリニックに置いてあったAEDを持ってきて応急処置をやり遂げたのだ。能力は直接僕の救命に役立ったわけではないけど、この奇跡が無ければ僕は今ここにいなかったかもしれない。

「えっと、なんというか、肌に触れた手から幽霊の手みたいなのが伸びて体の中に入っていくの。その手は体の中をすり抜けていくんだけど触った感覚はある。体の中を手探りで進んでいくって感じかな」

「うーん、体の中を手探りかぁ……」

 話を聞いてて正直あまりいい気分はしない。きっと危害は無いんだろうけど、体の中を得体の知れない何かがうごめいていたと思うとむずむずする。

「触った感覚か。それじゃあ色は分からないんだな? あと、熱は感じるのか?」

「色は分からないけど熱さ冷たさなら分かるよ」

「え、でも、それじゃあ僕の能力に気がついたのは……?」

 タチは難しい顔をして考え込むように言った。

「それがよく分からなくて。形も温度も普通の眼と変わらないんだけど、とっくんの眼に触るとなんとなくぴりっと痺れると言うか、不思議な力が流れてるって感じがする」

「えっと、『とっくん』って……?」

「とっくんはとっくんよ!」

 どうやら僕のことらしい。一体いつの間にあだ名なんて決めたのか。

「おいこら、話をそらすな」

 そう言う閃斗も冷やかしたいのを堪えているようだ。

「斎人の、『心を見る』能力と同系統のものかもしれないな。『体内を触る』能力ってところか。自分の体はどうなんだ? 例えば、手を内側から触ったときにその不思議な感覚はあるのか?」

「そういえば……自分の体は触ってない」

 そう言ってタチは右手で自分の手首を取った。目を閉じて集中を高めている様子だ。しばらく待つと目を開けた。

「確かに私の手にも同じような力がありそう。特に手の表面あたり」

「なるほど。とするとやっぱり似た能力である可能性が高いな」

「うーん、どっちも『感覚』に関係してるよね」

 僕の言葉に閃斗は大きくうなずいた。

「そうだ。俺も同じことを考えてた。斎人の能力は『視覚』でタチの能力は『触覚』だ。推測の域を出ないが、ひょっとして『聴覚』、『味覚』、『嗅覚』を持ったやつもいるかもしれない」

 閃斗は興奮に顔を上気させて続ける。

「それに、タチの能力だけでも十分面白い。生き物に触った時しか内部を触ることはできないんだよな? 『生命とは何か』と言う問いは昔から大いに議論を巻き起こしてきたが、今ここにその答えがあるのかもしれない」

「な、なかなか大きく出るわね」

 ちょっと引き気味のタチ。僕も同じだ。だが閃斗は気にしない。

「例えばそうだな、死体に触ってみたことはあるか?」

「あ、あるわけないじゃないっ!」

 叫ぶタチに、閃斗は笑った。

「別に人間の死体だとは言ってねぇよ。肉とか魚とかさ」

 タチはほっと胸をなでおろす。

「ああ、なるほど……今度試してみるわね」

「頼んだ」

 閃斗はそう言って、紅茶に手を伸ばした。

「甘っ!」

 せき込む閃斗。どうやら僕が砂糖を入れたのをすっかり忘れていたらしい。

「ふふん、砂糖への愛が足りないよ」

 僕は閃斗のカップを取って一気に飲み干す。

「よく飲めるね……」

「斎人にとってはご褒美だからな」

「うるさいな、もうっ」

 口を尖らせると今度は自分の紅茶をすする。もちろんケーキは既に無くなっている。


「そう言えば、なんか他にも話すことがあるって言ってなかったっけ?」

「ああ、そうだったな」

 答える閃斗の表情は真剣そのものだ。

「二人とも、最近ここらで傷害事件が頻発しているのは知ってるか?」

 僕とタチはうなずいた。

「調べたらな、加害者か被害者のどちらかは西中の生徒、あるいは元生徒なんだ。ただ、今朝起こった事件は全然関係ないみたいだったが」

「確か校長先生が辞めるとか辞めないとかそんな話になってたよね。でも、どうして?」

「事件のあらましが篠原友璃さんの一件と似てるって、そう言いたいんだね?」

「そうだ。関連があるとは言い切れねぇが、なにぶん新聞やニュースだけじゃ良く分からないからな、状況を教えてほしい。特に加害者の性格、人を傷つけようとするような奴かどうかだ」

「えっと、篠原さんって誰?」

 そういえば僕の眼のことは話したけどそっちはまだだった。しまったと思ってすまなそうに閃斗を見やると、閃斗はごく簡潔に説明した。

「俺の友人だった幼馴染だ。ついこないだ死んじまった」

 それ以上閃斗は語らなかったけどタチの協力を促すには十分だったようだ。タチは真剣な顔つきで首をかしげた。

「うーん、校内でも情報は隠されてたしいろんなうわさが流れてたけど……。でもそんなに暴力的な人じゃなくて、どちらかというと大人しい人だったって聞いたよ。でもその、とっくんみたいに周りからの風当たりは強かったからいろいろ悩んでいたのかも」

「報道じゃ名前が隠されてたんだが、分かるか?」

「知らない。あんまり知っちゃいけないことだと思ったし……」

「まぁ、賢明な判断だな」

「僕はもう転校してたから全然知らない」

 そう言うと、閃斗は残念そうにため息をついた。

「そうか……そうだよな。なんか情報が入ったら教えてくれ」

「あんまり悩み過ぎないようにね。偶然かもしれないんだし」

「……ああ」

 閃斗はそう言ったものの、立ち止まる気はさらさらなさそうだった。


 タチを見送った後、六時きっかりに閃斗はテレビをつけた。トップニュースはもちろん、今朝起こった殺人事件……かと思ったら違った。

「今日の十五時だと……ついさっきじゃねぇか!?」

 今度も殺人事件で犯行現場は近くの本屋だった。二階はレンタルビデオ屋になっていて文房具なども売っているそこそこ大きいお店だ。少し前に帰ったタチのことが心配だったけど、既に犯人は自殺したらしい。

「西中の人じゃ……ないみたいだね」

 被害者、加害者ともに身元は公開されていたけどいずれも成人だった。僕が知る限り教員にも同じ名前の人はいない。

「一日で二件の殺人事件……やっぱりおかしい。どう考えてもおかしいぜ、これは」

 当然ニュースでも二つの事件とここ三ヶ月で起こった四件の事件を関連して取り上げていた。けれど最初の四件こそ西中の生徒が関係していたものの、今日起こった二つは西中とはなにも関わりが無かったし西中の生徒以外は皆年齢も職種もバラバラで共通の知り合いもいないそうだ。それに犯人は全員逮捕あるいは自殺していて複数の目撃情報もある。警察も目下関連を調査中とのことだ。

「一体何が……何が起こってるって言うんだ? 友璃も犠牲者の一人なのか……?」

 閃斗はがむしゃらにチャンネルを変える。いつもは滅多につけないような民放も含め。そうして画面に映ったある文句に閃斗は釘づけになった。

『死神の見えざる手』

 詳しいことは分からないけど、経済学の考え方、『神の見えざる手』をもじっているらしい。

『死神が見えない力で人々を狂わせ殺人に向かわせている、そんな印象を受けますね』

 勿体ぶった言い方で白髪の混じったいかにも学者風の男が解説している。

 閃斗はこういう地に足付かない主張を聞くと鼻で笑ってさんざんこきおろすのが常だったけど今回ばかりは黙っていた。

「死神、か……」

 その疲れ切ったような眼は既に虚空を眺めていた。心の中の水面は閃斗にしては珍しく不規則に揺れていて、もやもやしたものがわだかまっているのが分かった。僕もまったく同じ気持ちだった。



 見上げると黒く細い架線が鉛色の空をバックに駆け回っている。月高から帰る途中の乗り換え駅で僕はいつものように閃斗と一緒に人ごみの中を彷徨っていた。

 僕はあまり駅の雑踏は好きじゃなかった。今までなら教室の息苦しさよりは他人の寄せ集めの人ごみの方がずいぶん気が楽だったけど、心が見えるようになってからはそうもいかない。眼を見なければ心は見えないとはいえ通勤通学の時間帯でさらに複数路線の交わる乗り換え駅とあれば否が応でもたくさんの人間の眼が視界に入るし、決して気分のいいものばかりではなかった。だから電車の中では専ら本に視線を落としていた。それとも本に視線を落としたまま閃斗とおしゃべりしていると言うのが正しいか。けど電車乗り換えの移動はどうしようもない。降りる駅で階段の近くに出るためにホームの奥の方へ歩いていくその時だった。

『本日は……鉄道をご利用いただき、誠……がとうございます』

 突然響いた途切れ途切れの駅内放送に思わず上を見上げた時、視界の端に何かが映った。

 気弱そうな男性の横顔、虚ろな目に浮かぶ狂気の色を認識した瞬間に僕は叫んだ。

「閃斗! 白シャツジーパン眼鏡の男を取り押さえて!」

「は? どうしたんだ、突然」

「早く!」

 言いつつ、僕は荷物を放り出して駆け出す。

『ホームに参ります電車は通過電車です。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください……』

 スピーカーから録音された声が流れると、カーブを曲がってきた貨物列車のライトが見えた。ファーとけたたましい警笛を鳴らしてまっすぐこちらに走ってくる。

 視界に捉えた男まで三十メートル。だけど、人でごった返す夕方の駅のホームは通り抜けるだけで一苦労だ。

「誰か止めてーっ!」

 叫んだ声は警笛にかき消された。男がゆっくりと手を伸ばす。その先には、ヘッドホンをつけて本を読んでいる女性の姿。背後には全く気がつく様子が無い。

 ようやく事態を把握した閃斗がスパートをかけた。人ごみの中を縫うようにして男に迫る姿はまるで稲妻のようだ。けれどガラガラと線路に伝わる振動は強さを増し、カーブを曲がり終えた列車は加速してあっという間に距離をつめてくる。

 男が、女性を突き飛ばした。

 ぐらりと前につんのめった女性はあっけなく宙を舞った。両腕で空をかき、精一杯体をそらすけどもう遅い。僕は固く目を閉じた。

 どんっと鈍い音がして警笛は絶叫に押しつぶされた。ワンテンポ遅れて、ガラスを引っ掻くような鋭いブレーキ音がこだまする。長く尾を引くその音はなかなかやまない。

 立ち止まっていると、人の波がどっと押し寄せて倒れそうになった。慌てて目を開くと携帯を片手に殺到する人々が見えた。

「待てっ!」

 ぎりぎり耳に届いた叫び声は閃斗のものだった。人ごみの隙間からかろうじて見えたのは泡を食って逃げ出す犯人の姿。改札とは真逆の方向へ走っていくけど、どうやらホームの端から飛び降りるつもりらしい。

 けれど、人ごみをかき分けながら進む犯人は邪魔者の無い閃斗にあっという間に追いつかれた。動きにくい学生服にも関わらず軽やかに飛びかかった閃斗が男を押し倒す。男はうろたえるも素早く仰向けに直って殴りかかったが、閃斗はその拳を受け止めてそのまま捻って叩きつけた。あまりに痛かったのか男は観念してぐったりと背中をついた。それでも閃斗は油断なく警備員の来るまで力を緩める気はないようだった。

 見回すとあたりは地獄のような有様だった。

 はねられた女性は何処へ行ったのかわからないけどあたりにはまだ暖かい血が生々しく残っていた。パニックになって泣き叫ぶ人、関わりたくない様子でさっさと出口へ向かう人、現場の写真を撮る人、犯人を取り押さえた閃斗に拍手する人、緊迫した声で警察に連絡している人、人ごみをかき分けながら現場に近づく警備員、様々な人が各々の役割を演じているかのようで、夢を見ているんじゃないか、あるいは夢であって欲しいと無意識に感じているようだった。

 貨物列車は既に停車し、現場の少し奥が最後尾だった。かなりの速度を出していたようで停まるまでにかなりの距離を走っていた。どんなに楽観的な人でも女性が助かっているとは考えないだろう。線路から目をそむけるようにして僕は閃斗に駆け寄ろうと人の群れに体を押し込んだ。

 ――おや?

 僕はゆったりと落ち着いた足取りでこちらへ歩いてくる人間に気がついた。周りが足を速めてぞろぞろと現場に集まるのに逆らって一人悠然とした様子だった。最初はそのまますれ違おうかと思ったけどその眼を見て僕はふと足を止めた。あたりは恐怖と緊張と混乱に満ち満ちていて眼にもそれがありありと現れているけど、そいつの眼だけは違った。

 年齢は僕とそう変わらないように見えた。黒いブレザーにストライプのネクタイ、エナメル鞄を肩にかけた姿はありふれた高校生のそれだった。男子にしては長めの黒髪は軽くウェーブがかかっている。まっすぐと筋の通った鼻、薄く乾いた唇、彫りの深い顔立ちはどこか冷徹な雰囲気を醸し出しているものの女子受けはよさそうに思えた。きりりと整った眉、角ばった眼鏡に縁どられた真っ黒な眼は憂鬱そうな表情とは裏腹に笑っていた。

《ちょろいもんだぜ》

彼の眼の中を読みとったとき、ぞわっと寒気がした。

(この人は……もしかして……)

 その時彼がこちらに気がつく。眼が合って僕は信じられないものを見た。

《この人は……もしかして……》

 僕の意識が鏡のように跳ね返って映っていた。眉間にしわを寄せると彼の眼にも警戒の色が浮かぶ。

《何だと? こいつ、俺の心を見てやがる》

(まさか……僕と同じように……)

《こいつも……心が読めるのか?》

(ひょっとして……一連の事件は……)

《ちっ、気がつかれたか……》

(この人が、『死神』……?)

 まるで電気信号のように刹那に互いの意識が飛び交った。二人の意識が眼と眼の間で反響してめまいがする。凪ぎのように思考が止まった瞬間彼は周りにはばかることなくにやりと笑った。

《だったらどうする? 俺を止める気か?》

 それは紛れもなく僕へ向けられた言葉だった。反射的に閃斗の篠原さんを想う気持ちが浮かんできた。

《そうか、お前がその気なら……》

 続く言葉を見て僕は咄嗟に眼を閉じた。全身がぶるりとすくみ上がってもう一度寒気が走る。

 どれくらいの間そうしていただろう。恐る恐るまぶたを上げると彼の姿は無かった。二回深呼吸して心を鎮めると、まだ震えの残る手をポケットに突っ込んで携帯を取り出す。

 その時ぽんと肩を叩かれた。

「おい、あんまり趣味がいいとは言えないな。死体の写真を撮るなんて後悔することになるぜ」

「あっ……」

 聞き覚えのない声に心臓が跳ね上がりそうになって思わず声を上げた。あの人だ。間違いない。すぐ後ろにいる。俺の写真を撮るんじゃないぞって警告しているんだ。

 僕はぎこちない仕草で携帯をポケットにねじ込んだ。一体、何をするつもりだ。思わず身構えるけど肩に置かれた手の感覚は消えた。

 そのまましばらく固まっていた。閃斗が傍らにいないのをこれほど不安に思ったことは無かった。手のひらには冷や汗がべったりと張り付いている。呼吸は荒く心臓は波打ち吐き気がする。がんがんと頭痛がして今にも卒倒しそうに思えた。

 振り返ると今度こそ彼は去っていた。見えるのは恐怖と混乱に憑かれた人々と赤茶けた錆を晒して沈黙する列車。ほとんど日も沈みかけていて斜めに差し込む紅い光を補うようにぽつりぽつりと電灯が点き始めると、ようやくサイレンの音が近づいてくるのが分かった。けどその音に覆いかぶさるように彼の言葉が脳内に響く。

《そうか、お前がその気なら……死んでもらう》

 まぶたの裏に焼きついた『死神』の眼は澄んでいたけど、それは逆になんとしてでも僕を亡き者にするという強い意志の表れだった。

 夢であってくれ。そう祈りながら僕はもう一度目を閉じた。



「着いたわよ」

 百合子さんの声に時計を確認すると既に二○時を回っていた。車のドアを押し開けて外に出ると夜の冷たく澄んだ空気が頬を撫でる。さあっと風の通り抜ける音にふと見上げると、雲の隙間で点々と星が光っている。あれはこないだ覚えたオリオン座だろうか。真っ黒の空に寂しそうに瞬く。

 簡単な事情聴取を受けた後で家に連絡して百合子さんに迎えに来てもらった。結局電車の運行は再開の目処が立たなかったから駅前はタクシーや自家用車で大渋滞だった。おかげで普段なら四十分くらいで着くところを二時間も三時間もかかってしまったのだ。百合子さんと合流するのも一苦労だった。目立つ車で行くとは言っていたけど、ようやく百合子さんを見つけて黒塗りの怪しい車に案内された時は流石の閃斗も苦笑いだった。

「それにしてもずいぶんな災難だったねぇ……閃斗もお手柄だったみたいだけどあんまり無理しちゃ駄目よ?」

「分かってるって」

 百合子さんに心配させないように笑って答える閃斗。こういう配慮が自然にできるのも閃斗の凄いところだ。僕もそうしたいのはやまやまだったけどとても笑い飛ばせるような気分じゃなかった。まだ震えが止まらない。

《ご両親も交通事故で亡くなられたらしいから、思い出しちゃったのかな》

 百合子さんはそう思っていたみたいだけど、それ以上に僕の心を蝕んでいたのはあの『死神』の眼だった。ぱらぱらと雨が降り始め、急かす百合子さんに生返事をして僕は足早に自室に逃げ込んだ。


「一体どうしたんだ斎人? ずいぶん参ってるみてぇだが」

 僕は廊下に出てあたりを見回し百合子さんがいないことを確かめてようやく口を開いた。

「あのさ……実はね、『死神』を見たんだ」

「『死神』?」

 驚いた閃斗に僕はついさっきの出来事を話して聞かせた。話を終えても意外なことに閃斗はあまり驚いてない風だった。

「そうか……心の見える奴がもう一人……」

「ねぇ、どうしたの? まるで、こうなることを知っていたみたいだけど」

「いや実はな、友璃の話をした時お前のこと疑ってたんだよ」

「僕を?」

「お前はそんな奴じゃねぇって分かったから、考えないことにしたんだけどさ、ほら、友璃は親殺しなんてするはずがねぇって言っただろ? でも、未遂だったにせよ実際にやっちまったわけだ。つまりそうするようにそそのかした奴がいるはずで、心が見えるならできるかもしれないって思ったんだよ。まさか、もう一人いるなんて思わなかったからな」

「そうか、それで、あの時……」

 僕は、閃斗の眼の中に篠原さんの姿を見たことを話した。

「もう一人っていうのは、あの人のことだったんだ……」

「俺の中に、友璃が……? いや待て、なんで友璃は知ってたんだ?」

「君が無意識のうちにもう一人の可能性を想定してたんじゃ……」

「うーん、無意識、か……」

 そう言う閃斗は何故か残念そうだったけど理由を見る前に目を閉じて考え込んでしまった。

「で、どうするかだな。『死神』は本気だったんだよな?」

 閃斗は厳しい声で言った。

「うん。間違いないよ」

「できると思うか? その……他人の心を見ながら殺人欲求を煽って特定の人物を殺させるようなことが?」

「わからない……でも実際、彼は何人も傷つけてきたわけだし、あの眼はなんとしてでも殺してやるって眼だった」

「無差別かそうでないかは結構大きいと思うが……しかし、甘く見るべきじゃなさそうだな。顔は分かるか?」

「うーん、ちょっと待ってて」

 机に置いてあった画用紙と鉛筆を手にとっておもむろに描き始める。幸か不幸か彼の顔はしっかり目に焼き付いている。たぶん二度と忘れないだろう。

「できた。だいたいこんな感じ」

 手にした画用紙から『死神』の顔がこちらを睨んでいた。

「……上手いもんだな。こんなに上手かったか?」

「自分でも、今までで一番の出来だと思う。あんまり嬉しくないけど」

「火事場の馬鹿力ってやつか? 技術力も関係あるんだな」

「……そうかもね」

 茶化した閃斗は真剣な表情に戻って紙の上の顔とにらめっこを始めた。

「いいか斎人。顔が割れてるお前は下手に出歩くな。そして外に出るときは必ず俺と一緒にいろ。いいな」

「うん、分かった」

 素直にうなずくと、閃斗はにかっと笑った。

「よし安心しろ。絶対俺が守ってやるからな」

 頼もしそうな閃斗だったけどその眼の中では俺ならやれるという自信と本当に大丈夫だろうかという不安がせめぎ合っていて、僕は励ましの言葉を素直に受け入れられなかった。

 抱きしめていた羊の形のクッションは柔らかかったもののどこか心もとなく思えた。


 夜はなかなか寝付けなかった。

 真っ暗闇の部屋の中電子機器の電源ランプだけが不気味に光っている。頭ではただの機械と分かっていてもそれが自分を見ているような気がして、目を閉じるのが怖くて仕方ない。疲れと不安と緊張とで頭はぼうっとしているけど目だけが妙に冴えている。ふかふかのベッドに寝転んでも頼りなさが先に立って、タンスの中の方が安心して寝られるんじゃないかと変な考えが首をもたげてくる。

 いつの間にか汗をかいていた。寝巻の下のシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。背中に手を突っ込むと背筋がぞくっとした。手が氷のように冷たい。どうせ着替えなきゃいけないし遅いけど一度熱いシャワーでも浴びてきた方がいいかな。そう思ってもぞもぞと布団を押しのける。

「寝られないのか?」

 閃斗の声。どうやら閃斗もまだ寝ていなかったらしい。

「う、うん。汗かいてるし、一回シャワー浴びてくる」

「気をつけろよ。暗いからな」

「分かっ……」

 言葉はそこで途切れた。

 立ち上がった瞬間、脳裏にあの黒く澄んだ眼が蘇ってきた。眼の中の『死んでもらう』の一言が鮮やかにフラッシュバックする。

 ぎゅーんと頭から血が引いていくのが分かった。倒れそうになるのを膝をついて何とか堪えると、ぜぇぜぇと大きく息をした。刺すような痛みが胸を貫く。

「おい、斎人! どうした!」

 ベッドから飛び降りた閃斗が電灯を点けてこちらに駆け寄る。ぱっと明るくなった部屋に思わず目を閉じる。

「く……薬、飲み忘れてた……」

 うっすら目を開けても閃斗の姿はおぼろげにしか分からない。これはまずい。自分でもよく分かった。

「馬鹿野郎! 待ってろ、すぐに助けを呼ぶ!」

 そう言って机の上から携帯電話を取ると緊張した声で話し始めた。

 ごうごうと次第に大きくなる耳鳴りの音を聞きながら僕は荒く息をしていた。


***


 私が古ぼけた引き戸を開いて一年八組の教室に入ると、星野君がクラスメイトに取り囲まれていた。

「なぁ星野、犯人はどんな人だった? 強かったのか?」

「うるせぇな。人違いだって言ってんだろ」

「なんだ、星野の捕まえたのは犯人じゃなかったのか」

「そうじゃねぇって」

「じゃあやっぱり星野のお手柄だったんだな。すげぇじゃん」

「あのなぁ……お前ら……」

 どうやら昨日起こった人身事故の話をしているらしい。へぇっ、犯人を捕まえたのは高校生って噂を聞いたけど星野君だったんだ。でもいつになく謙虚なような……。それにいつもそばにいるはずの人影もない。

「おはよーっ」

 話しかけると顔を上げた星野君はおはようと返した。その響きはどこかぶっきらぼうで、苛立っているのが分かった。

「とっく……じゃなくて、榊君は?」

「ああ、斎人なら病院だ。昨日の夜に薬を飲み忘れて発作が出てな。元気なんだが一応今日は大事を取って検査入院ってことになった」

「えぇっ!? また入院?」

 びっくりして思わず声が上ずってしまった。

「こら、あんまり大きな声出すなよ」

 星野君は不機嫌そうにぼやいた。

「だ、だって、入院って。あれからまだ一週間も経ってないのに。ど、どこの病院なの?」

「いやそんなに心配するなって。朝俺も見てきたけど大丈夫だから。明日には退院できるはずだ」

「でもお見舞いくらい……」

「駄目だ!」

 立ち上がって星野君が叫んだ。驚いて何も言えずにいると星野君はばつの悪そうな顔になった。

「あ、いや、すまん。寝不足でしんどいんだ。ちょっと放っておいてくれないか」

「ご、ごめん……」

 周りのクラスメイトも気まずそうに離れていった。私も席に戻ろうとして背中に声をかけられた。

「ああ、あと、早いうちに話したいことがあるからそのつもりでいてくれ」

 他の人に聞かれないようにささやき声だった。振り返ると星野君は何事もなかったかのように頬杖ついて外の景色を眺めている。

 寝不足だと言った割には眠る気はさらさらなさそうだった。どこか遠くの方を見つめる目はぎらぎらしていて追いつめられた動物が最後にもがくときのような弱々しさと危うさがないまぜになった表情だった。引き締まって日焼けした顔立ちにもどこか陰りが見えて悩んでいるのだと分かる。普段なら得意になってぺらぺらと武勇伝を披露するはずの星野君がクラスメイトの称賛を鬱陶しがっていたのも、一人で考え事をしたかったからなのだろうか。大きな声出すなって自分で言っておいて私に怒鳴るのもらしくなかった。

(大丈夫って言ってるけどずいぶん心配しているみたい……)

 いくら聞いても星野君は話してくれそうになかった。大丈夫だからと苛立たしそうになだめる様子が余計に不安をかき立てた。星野君は何か隠している。とっくんみたいに心は見えないけど私にもはっきり分かった。

(話したいことって一体なんだろう。もしかして、とっくんが……)

 瞬間、ちらりと頭をよぎった思いつきに恐ろしくなった。ふるふると頭を振ってそんなわけないと自分に言い聞かせるけど一度膨らんだ不安はなかなかしぼんでいかない。

 いずれにせよ学校帰りにお見舞いに行こう。そう決意した時に始業のチャイムが鳴って慌てて席に戻った。


 電車に揺られて駅に着き、そこから家に帰る道を少しそれて向かったのは、市の総合病院。結局星野君はとっくんの場所を教えてくれなかったけど、二人の家から近いし前に救急車を呼んだ時もここへ搬送されたから今回もそうだろうと思った。

 市だけでなく近隣の大企業も出資している総合病院はこのあたり五、六の市町村の中でも最大級で、お父さんが言うには半径十キロメートルを『診療圏』としてカバーしているらしい。建物だけでも五つくらいはあるしその一つはなんと十二階建てだ。だから私が迷子になるのも無理のないことであって。

(えっと、入口どこだったっけ……)

 前来た時はとっくんを引き渡して急いで着替をして救急車に付き添いとして乗り込んだからついて行けばいいだけだった。しかし駅からの道のり、坂を下って辿りついた病院の建物は見渡す限りコンクリートの壁面で出入り口どころか人っ子一人見当たらなかった。どうやら側面に出てしまったみたい。左右には建物に沿って路地が走っているけど一体どちらに行けばいいのか。まあ迷っても仕方ないかと左に折れる。二、三分くらいコンクリートを眺めながら歩くと幸い正面玄関に出ることができた。

 改めて見ると、病院は実に綺麗だった。市営バスも入ってくるロータリーの中央には色とりどりの草花が茂り、行き交う人々に笑いかけている。見上げると南向きの壁は一面ガラス張りになっていて、沈みかけた日の光を斜めに受けてきらきら光っていた。私が生まれたころにはもう今の建物だったはずだけどよくもまあこれだけ綺麗に保てたものだ。こないだ行った星野邸も凄かったけど、目の前の建物は清潔感にあふれ機能性を追求した簡素な美しさがあった。

 中に入ると微かに消毒液の匂いがしてぴりっと緊張が走った。車いすに乗っている人や点滴台を引きずって歩いている人がちらほら。ああやっぱりここは病院なんだと実感して少しほぐれていた不安が再燃するのを感じた。

(お見舞いの受付は……)

 案内板を見つけてしばらく眺めると二階の地図に『総合受付』の文字を見つけた。たぶんここだろう。道筋を指で辿って確認する。エスカレーターを上って正面ね、よし。

 カウンターには小ざっぱりとした事務員のお姉さんがいた。幸い誰も並んでいない。

「す、すみません。お見舞いに来たのですが……」

「はい、御面会ですね。患者様のお名前は?」

「榊斎人です」

 そう言うと受付の人はキーボードに指を走らせて検索を始めたが、戸惑った様子でこちらを見た。

「あの……申し訳ありませんが、榊様は面会謝絶となっております」

「面会……謝絶?」

 私はぽかんとした顔で見つめ返した。

「えっと、どうして?」

「付添い人様のご希望です。人が来ると病状が悪化しかねないとのことで」

 付添い人の名前は教えてくれなかったけどきっと星野君だろう。

「病状……? 悪化……? そんなに悪いんですか……?」

「詳しいことは分かりませんが……精神的に参ってしまっているとのことです」

 急速に不安の渦が強くなっていくのを感じた。星野君は頑なに私をとっくんと会わせようとしなかったし自分も見舞いに行く風ではなかった。どう考えても普通の状況ではない。

「あ、あのっ!」

 とにかくいてもたってもいられなかった。

「お部屋に入れて貰えなくても構いません。部屋の前まででいいので、連れてってくれませんか」

 困った顔をされたけど私はてこでも動く気はなかった。しばらくそうしていると後ろで話を聞いていた風の女性が立ち上がって声をかけてきた。

「しょうがないわね、私が案内する」

「あ、ありがとうございます!」

 ぱっと顔を輝かせるとすらりと背の高い女性はふふっと笑った。優しそうなふっくらした顔に浮かんだ笑顔はどこか百合子さんと似ていた。

「ちょうど交代の時間だから、いいでしょう?」

受付の人はほっとしたような表情でうなずいた。女性は私に向き直ると言った。

「じゃあ、ついて来て」


 階段を上がって辿りついたとっくんの部屋は個室だった。

 ずらりと扉の並ぶ廊下は静まり返っていてときどき行き交う人の足音だけがやけに響いていた。つるりとした床は塵一つなくて丁寧に滑り止めの加工がしてある。さりげなくあちこちに手すりがついているのを見て行き届いているなと感心してしまった。

 中に入りたくてうずうずしていたけど、貴重な休み時間を割いて案内してくれた女性を裏切るわけにもいかないので大人しく扉の前に立っていた。せめて呼吸の音くらい聞こえれば多少は病状の検討もつくのだけれど、生憎病室の扉はそんなにやわじゃない。そわそわしながら五分くらい立ちすくんでいたけど寝ているのか覚めているのかすらわからなかった。しまいにはほとんど扉に耳をくっつけるようにしていたけど遂に諦めて女性に向き直った。

「無理を言ってすみませんでした。そろそろ失礼します。その、案内していただいてありがとうございました」

 はにかんだ女性が口を開きかけた時、背後で呻き声がした。

 驚いて扉を開きそうになるのを何とか思いとどまった。代わりに今度こそぴったりと扉に耳を押し当ててふうっと深呼吸をした。

「やめて……」

 上ずった声だったが確かにとっくんの声だった。

「……見ないで! こっちへ来ないで! やめて……お願いだ、やめてくれっ……」

 それほど大きな声ではなかったけど悲鳴に近い甲高い声はしっかりと私の耳に届いた。どこか心の奥の方がきりきりと痛むのを感じた。どうやらうなされているらしい。それもこのようにうわごとを言うのは、きっと高熱を出しているのだ。単なる心臓発作で高熱を出すという話は聞いたことがないからやっぱりただ事ではないのかもしれない。

「見るな……」

 そう言ったっきりとっくんはまた静かになった。部屋に入りたい気持ちを歯を食いしばって堪えると、改めて受付の女性にお礼を言って足早に去った。これ以上部屋の外で待っていたら自分を抑えておける自信がなかったから。

 階段を下りて受付の前を通り過ぎるとそのままエスカレーターに乗った。患者さんや高齢者への配慮なのかエスカレーターは妙にのろかった。歩いて下りて行こうかそのまま進むに任せていようかちょっと迷った時、後ろで声がした。

「そういえばね、さっきすごい剣幕の子供を見たのよ」

 私の二段上のところに四十くらいのおばさん二人が並んで立っていた。

「へえ、どんな?」

 片割れが興味深そうに尋ねると勿体ぶった調子で話し始めた。

「なんか、ぼうっとしてふらふらした様子で気になっていたんだけど、突然通りすがりのお医者さんをつかまえて怒鳴り散らしていたのよ。『なんとかしてくれよ、頼むから』って」

「ふうん、その子、そんなに重病だったの?」

「違う違う。病人の友達よ。なんでも心臓が悪いらしくていよいよ助かる見込みの無いところまで来ちゃったみたい。とっても苦しいのね……『死なせてくれ』って、うわごとみたいに繰り返してるそうよ」

 何の気なしに聞いていた私はその言葉にぴくりと耳をそばだてた。

「それは可哀想に……さぞかしその友達も辛い思いをしていたんでしょうね」

「そうみたい。最後にはほとんど泣き出しそうになってお医者さんに慰められていたわ。もう中学生か高校生くらいの男の子だったけど、赤ちゃんみたいにぐずってて痛ましかった」

「あの……」

 私が声をかけると二人はぎょっとしてこちらを向いた。

「その友達か病人の、もっと詳しいことご存知ですか……?」

 尋ねる声は自分でも震えていることが分かった。

「え、えっと、そうね……お医者さんに名前を聞かれた友達の方は確か星野って名乗ってたわ」

 恐怖に全身が縮みあがって卒倒しそうになった。頭の中が真っ白になって考えるより先におばさん二人の脇をすり抜けてエスカレーターを駆けあがっていった。

「ちょ、ちょっと! ここ下りのエスカレーターよ!?」

 背中に飛んでくる声を無視して懸命に駆け上がる。ぜぇぜぇ息を切らしながら上りきると元来た道を戻っていった。ほどなくしてとっくんの病室に着く。躊躇いなく扉を開けようとしたけど開かなかった。鍵がかかっている。

「とっくん、とっくん! お願い、返事して! とっくん!」

 扉を叩いて叫ぶ。こちらを不審そうな目で眺める人影にも構わずに声を張り上げる。そのうち病院の人が集まってきて扉の前から引き離されてしまった。そのまま入口まで連れて行かれほとんど放り出されるようにして私は病院を後にした。


 家に帰りついた時には八時を回っていた。がんがんと痛む頭を揺さぶって玄関のドアをくぐり機械的な動作で鍵を閉める。おぼつかない足取りで階段を上り寝室に辿りつくと、倒れこむようにしてベッドに横たわった。既に目は真っ赤に泣き腫らしていたけど、それでも足りずにまた声を上げて泣き始める。

(やっと、やっと、仲良くなれたのに……)

 何度も頭を駆け巡った言葉がもう一度顔を出す。

(死に目にも会えないなんて、むごすぎる)

 冷蔵庫にお母さんの用意してくれたご飯が入っているはずだったけどとても食事なんてできそうになかった。制服姿でベッドにうつ伏せになったまま夢かうつつかも分からない長い長い時間を過ごした。何度も息が詰まりそうになってせき込んでいるうち、喉もからからになって腫れぼったくなっていた。惨めだ。今までに見聞きしたどんな状況よりも惨めだった。

 ようやく我に帰ったときは真っ暗闇になっていた。いつの間にか分厚いカーテンが閉まっていて窓の外の街灯を遮っている。目覚まし時計を引き寄せると午前一時を指していた。

 どうやら悪夢を見ていたらしい。頭がぼんやりしてよく思い出せないけど、びっしりと汗をかいて走り回った後のように肩で息をしていた。珍しく寝ながらにして暴れたようでシーツがしわくちゃになり頭の位置が寝る前と逆になっていた。

 一度目が覚めてしまうと寝たいと思っていてもなかなか寝付けない。うっと突き上げるような吐き気もしたので仕方なく立ち上がってトイレに向かった。

 灯りを点けてトイレのドアを開けると便座のふたに張り紙がしてあった。どうやら調子が悪いらしい。しょうがない、クリニックの方のトイレを使おう。階段を下りクリニック側の扉をがちゃりと鍵をひねって開く。診療室や受付の横を通り抜けると待合室に出た。普段と違って真っ暗でがらんとした待合室は不気味だったけど、構わずトイレに入る。

 部屋に戻ろうと廊下に出た時、おやっと思った。行きは気がつかなかったけど扉が微かに開いてオレンジがかった光が漏れだしている。あの部屋は薬品庫だ。お母さんまだ起きてるのかな。

「お母さん?」

 扉の外から声をかけるけど返事は無い。恐る恐る扉を開くと中には誰もいなかった。

(おかしいな……)

 薬品庫は当然誰しも勝手に入っていい場所ではない。お母さんは使うたびにしっかり施錠しているし娘の私でも鍵の場所は知らなかったから、薬品庫の中は見るのも初めてだった。

 部屋の四方には頑丈そうな金属フレームの棚が置かれガラス戸の奥で薬品のビンやら箱やらがラベルを向けて整然と並んでいる。けれどそのうち左手側の一つだけは高価そうな電子天秤や乳棒乳鉢などが収められていて、その下には引き出しがずらりと並んでいる。きっと薬さじ……じゃなくてスパーテルや、ピンセット、ハサミ、綺麗なハンカチや薬包紙などが収められているのだろう。他には電卓とかメモ帳とか筆記具とかを使うんだっけ。こまごまとした道具は薬局の方にも持って出かけるらしいから、こだわっているに違いない。

部屋の中央には傷一つないつるんとした机が備え付けられていて、端っこには流し台がついていた。手元が暗くならないように電気スタンドも置いてあった。

 薬品庫というからてっきり薬品が並んでいるだけなのかと思っていたけど、調剤の設備も整えてあるのを見てちょっと驚いた。怒られるかなと思ったけど鍵のありかを知らない私には戸締りできないんだしと言い訳して中に入った。要するに好奇心が勝ったのだった。

 一つ一つ棚を覗くと聞いたこともないような名前の薬品がいっぱいあった。よく処方される抗生物質や解熱剤のパッケージはかろうじて見たことがあったけど、他は何に使うのか全然分からない。

(やっぱり、私はまだ何も知らない……)

 そう実感して心細くなった。ちょっと目先が変わったことで意識の外に追い出されていたとっくんのことが蘇ってきた。

(私がもっとしっかりしていれば、助けてあげられるかもしれないのに……)

 ぼんやりと思ったけどすぐにかぶりを振って自分の言葉を打ち消した。プロのお医者さんがどうしようもないんだから十五の私にできることなんてない。不意にそれまでさんざん泣きわめいて受け入れようとしなかったとっくんの死が実際にあり得ることに思えてきて、虚しさが全身に広がった。

(私には……何もできない……)

 何故か涙は浮かんでこなかった。感覚が麻痺してしまってぼんやりと立ち尽くしていた。

 部屋に戻ろうと思って振り返ったとき、棚の中の赤いラベルが目に入った。

 びりっと切れていた神経が再び繋がったかのような感覚が全身に走った。

――『死なせてくれ』って、うわごとみたいに言ってるそうよ――

 エスカレーターで聞いたあの言葉が脳裏に蘇える。

 ぼうっと霞んだ視界の中央に『医薬用外毒物』の文字だけがくっきりと浮かび上がって見えた。

(楽にしてあげられるかな……)

ガラス戸はあっさりと開いた。鍵がかかっていないことを不審に思うこともなく、私はゆっくりと手を伸ばした。


***


(くそっ、ここも駄目か)

 心の中で呟いた俺は舌打ちして、天を振り仰いだ。

 斎人は今病院にいる。病状は心配だったが医者は確かに明日には退院できると言ったからとりあえず命に別状はないだろう。人目もあるし念のため面会謝絶にしておいたから今のところ斎人は安全だ。しかし、いざ斎人が退院してしまえば俺は斎人につきっきりでなければならない。『死神』のことを調べ上げるなら今がチャンスなのだ。

 けれど手掛かりの少ない現状、やれることはそう多くなかった。

 初めに手をつけたのは制服屋を回ることだった。

 斎人は、『死神』の顔だけでなく服もはっきりと覚えていた。よほどのショックで目に焼き付いているらしい。友璃の姿を見た時も後から思い出せるくらいはっきり覚えていたそうだから、意外とそういう特技があるのかもしれないが。

そういうわけで、適当に理由をでっちあげては制服屋に斎人の絵を見せて回り、どこの学校なのか特定しようと試みたのだが上手くいかなかった。しまいにはもしかしてただの変装でそんな制服なんて存在しないのではないかとさえ思えてきた。直接自分が手を下すやり口でもないからそんな面倒臭いことをしているとは思えなかったが、案外用心深い奴なのかもしれない。そう考えると直接の手掛かりは顔しかないことになる。

 今日回るのはここが最後と決めた制服屋から顔を出すと、すっかりさびれてしまった商店街が冷え切った夜の闇に沈んでいた。家から歩いて行ける店だから乗り換え駅で遭遇したあいつの情報は望み薄だと思っていたが、五軒目もあえなく空振りだと焦りがじわじわと這いあがってくるのを抑えきれなくなってくる。

 びゅうっと強い風が吹いてペンキの剥げたシャッターががらがらと音を立てた。まだ七時だというのに目に入る全ての店がシャッターを下ろしている。一体この中で営業している店がどれほどあるのだろう。近所にできたショッピングモールにすっかり客を吸われた商店街に今日は何故か同情を覚えた。

 俺は今強大な敵に立ち向かっているのだとひしひしと感じている。

 『死神』は相当頭の回るやつに違いない。いずれの事件の加害者と被害者――いや、どちらも『死神』の被害者なのだが――からも『死神』との接点は分からなかった。たぶん知り合いの知り合いのそのまた知り合いくらいからじわじわとプレッシャーをかけていくのだろう。いったいどのように煽動しているのか想像もつかない。

 純粋に心を分析する能力についても斎人を凌いでいると思われた。斎人は今俺が考えているような具体的に頭に浮かんだテキストは簡単に読みとることができたが、喜びや怒り、悲しみといった漠然として曖昧な感情をひも解くのはそれほど得意ではなかった。対して『死神』の手口からはターゲットの性格をしっかりと捉えていることが分かる。そうでなければこんな短期間で三つの殺人事件を起こすなんて不可能だろう。

 点滅を始めた青信号を見て小走りで横断歩道を渡った。すぐ後に今渡った大通りを眩しいヘッドライトを灯した自動車が激しく行き交う。会社帰りの車たちは気が急いているのかあわただしく加減速していてどこか危うい感じがした。それを見て思わず顔をしかめる。

 現時点では圧倒的に不利だ。対抗するには『死神』の蒔いた殺人衝動という種を一つ一つ探し出し説得や力ずくで止めないといけない。完全に後手に回る上根本的な解決にはならない。それに狙われている以上、殺人衝動を見抜ける斎人は迂闊に動けないから必ず取りこぼしが出るだろう。悲劇は永遠に終わることはない。

 かといって『死神』を法で裁くことはできない。彼は表面上何もやっていないのだから。殺人をそそのかされた本人すら気がついていないのに殺害の幇助を立証することは無理だ。たとえ斎人が申し出て『心を見る力』の存在を証明したとしても『死神』がその能力を持つという証明にはならないし、その能力で人殺しをそそのかしたのだという証拠もない。

 つまり『死神』は何か自分からヘマをしない限り無敵なのだ。たとえ正体を知ったとしても手の出しようがない。奴は安全圏から出ないように細心の注意を払っている。おそらく奴を止める手段はただ一つ。

(殺す……それしかないのか……?)

 ぎらぎらと街灯の輝く通りをそれて足元もおぼつかない暗い路地に入った。その瞬間しんしんと冷え切った空気が体を包み思わず身震いする。家へと続く道は緩やかに曲がっていて先が見えない。

 進んでいく道は殺すか殺されるかのどちらかにしか繋がっていない。俺にとっては両方破滅への道のりだ。『死神』が煽動行為に飽きてやめてくれるのならそれが一番いいが、一つ殺人事件を起こすのにもそれなりの労力を使うだろうにこれほど躍起になっているからにはただの道楽として以外に理由がありそうだった。

 しかも斎人が狙われている今となっては引き返せない。『死神』が斎人を疎んだ時点でもう俺の破滅は決まってしまっていた。まだ俺のことを知らないにしても時間の問題だろう。

 気がつくと家の前に出ようとしていた。ぽうっとオレンジ色の光を放つ玄関灯がいかめしい鉄柵の門を宵の闇から浮かび上がらせている。その光の円の端っこでちらりと動く影を見て俺は驚いた。

「……誰かいるのか?」

言いつつ咄嗟にポケットからサングラスを取り出して、眼を隠す。

「へぇ、昨日の今日なのに用意がいいじゃねーか。お前が閃斗だな?」

「お前は……」

 闇の中から現れたせせら笑うその顔は、紛れもなく斎人の描いた絵の通りだった。

「『死神』……?」

 緊張と混乱に声を震わせると青年は手をひらひらさせた。

「おいおいよしてくれそんな仰々しい呼び方は。自分で言ってて恥ずかしくないの? 俺のことは、『シン』って呼んでよ」

 シンと名乗る青年は斎人の絵からそのまま飛び出してきたかのようにまるっきり同じ出で立ちをしていた。唯一違うのは鞄を持たず手ぶらなことくらいだろうか。黒ずくめのブレザーに身を包み眼鏡をかけている。黒い眼はいけすかない長髪に見え隠れしているものの、その奥で力強く光っていた。あの眼が斎人と同じ力を持っているのだと思うと気分が悪くなる。

「……何しに来た。俺を、殺しにか?」

 ひょっとして今までずっと尾行されていたのか。十分にあり得るがそもそもどうやって俺のことを知ったのか。昨日駅でこいつに会ったのは斎人だけのはずだ。

「それは違うって分かってんだろ? 星野閃斗。なーんで君一人殺すのに俺がわざわざ手を汚さなきゃいけないのさ。確かに白髪のおチビさんよりは手こずりそうだが」

「何しに来たって聞いてんだ。答えろ」

 吐き捨てるように言ってもシンは笑みを絶やさない。

「取引だよ。情報の交換だ」

 シンは言った。

「説明しろ」

「俺がこの能力に目覚めたのは半年前、交通事故に遭遇した時だ。自転車に乗ってた俺が夜道を渡ったら酔っ払いが慌てて急ブレーキかけてよ、スピンして歩道に突っ込んだんだ。理由はよく分かんねーけどそれから心が見えるようになった」

 シンの話を聞いて俺ははっとなった。何の偶然か知らないが、それは斎人の両親が亡くなった事故だった。

「最初は遊び半分だったんだぜ? ちょっと刺激してやるだけで自分の思い通りに人が動くのは実に痛快だったよ。しかしそれで女を一人自殺に追い込んだとき、俺にもう一つの能力が宿った。その時俺は気がついたんだ。神様だか何だか知らねーが、人柱を捧げれば俺の能力はみるみる高まっていく。実際そうだった。最初は心中語しか分からなかったが、今では一目見ただけで考え方や好みまではっきりと分かる。どうやって感情の矛先をすり替え、恨みや妬みや憎しみに持って行けばいいか、がな。どんな人間でも思い通りに動かすのも、そう遠くない未来には不可能じゃねーだろう」

「だから、どうした?」

「白髪のチビ、榊斎人って言ったか。あいつがどうやって『視覚』を手に入れたのか教えてくれよ。俺だって今みたいなまどろっこしい方法は嫌なんだ。他の方法があるならそっちの方がいい」

「……なるほど、な」

 そう言って俺は黙ったまましばらく立ちすくんでいた。シンは気味悪くにやにや笑っていたが、あんまり俺が黙っているので口を開こうとした。

 その瞬間を俺は見逃さなかった。

 音もなく地面を蹴り三歩先のシンに迫る。同時に、上半身を左に捻るのに合わせて右手を振りかぶると、袖口に仕込んでいたナイフが飛び出し手に収まった。鞘を噛んで一気にナイフを抜き放つと、勢いそのままに鋭く斬りかかった。

 迷いなく両眼を狙って薙ぎ払った刃に、シンの眼鏡が弾け飛んだ。血も散ったが、整った鼻に少しばかり紅い筋が浮かんだだけだった。かっと見開かれたシンの眼に憤怒がひらめく。

 上体を大きく後ろに反らしたシンはバック転の要領で俺の顎めがけて蹴りあげた。まるで俺の斬撃を待っていたかのようなカウンター。背中を向けて咄嗟にかばうが左肩に鈍い痛みが走る。

 続けざま両手で着地したシンは脚を大きく広げて薙ぎ払う。慌てて身を引いた俺の鼻先を鋭い蹴りがかすめた。その隙にシンは後ろに跳んで地に足をつける。

 あとは一瞬の出来事だった。

 俺がもう一度斬りかかろうと前かがみになった瞬間、シンの拳が弾丸のように飛んできてみぞおちに強烈な一撃を叩きこまれた。目の前に火花が散って呻くと、風船のように体が浮き上がり、受身を取ることもできずに地面に叩きつけられた。全身がじんじんと痺れてナイフとサングラスをもぎ取られた時も、ぴくりとも動けなかった。

 がっちりと俺を組み伏せたシンは勝ち誇ったように高笑いした。

「はっはっは、閃斗、お前もなかなかやるみてーだが俺には勝てん。暗殺は諦めた方がいいぜ。今ここで殺しても状況的には正当防衛だが証人がいねーなら仕方ない。生かしておいてやるよ。ただし、人目のつくところで俺を殺しに来たら死ぬのはてめーだ。覚えとくんだな」

「くそっ……この野郎……」

 虚しく抵抗するも俺を押さえつける力は岩のように重く一ミリも動きそうにない。

「あんまり手荒なことはしたくなかったんだがな、こうなったら仕方ねー。眼の中を見せて貰うぜ」

 俺はすぐに眼を閉じたが、その直前にシンの眼が視界に入った。

「なるほど。生存本能として『視覚』に目覚めたのか。なら交渉決裂だ。俺には真似できねーからな」

 俺は背筋が寒くなった。ほんの一瞬で見抜かれてしまった。斎人は心中語を読むのでさえたっぷり一秒はかかるというのに。

「それに、俺の最初の獲物はお前の女だったんだな。通りで俺を恨むわけだ」

「……今、何て言った?」

 それまで抑えていた怒りが急速に湧き上がってくるのを感じた。

「……篠原友璃は、お前が、殺したのか?」

 ははっとシンはもう一度笑った。

「人聞きの悪い。あの女は自分で死んだんじゃねーか。死んでもらった、って言ってくれよ」

「てめぇ!」

「はっはっは、知ってるか? 大切な人を傷つけた人間の絶望に満ちた眼を。最高だぜ? 母親を手にかけた女の眼を人目がなければ拝んでやれたんだがな、実にもったいなかったよ、あれは!」

「外道め!」

 怒りにまかせて左手の拘束を振り切ると、もう一つ仕込んでいたナイフを投げたが、鞘のついたままのナイフは簡単に弾き落とされてしまった。

「あんまりかっかするなよ。奥の手は最後まで取っておくものだぜ。それに、心配しなくてもあの世でじきに会わせてやるさ。そうだな、気にいらねーならお前にはあの女より酷い運命を用意してやろう。『友人を殺し、友人に殺される』ってのはどーだ?」

「黙れ! 何でも思い通りにいくと思うんじゃねぇぞ!」

「何とでも言えよ。じきに思い知ることになるさ」

 首に強い衝撃を受けて目の前が真っ白になった。耳には、シンの嘲笑がこびりついている。そのまますっと意識が遠のいて、俺は何も分からなくなった。


***


 一日中こんこんと眠り続けると、僕はだいぶ落ち着いた気分になった。

 真っ白に塗られた天井はよく見ると細い傷が走っていたり小さなへこみがあったりする。点滴台も少し年季が入っているようで、金属製の脚の部分に錆が浮き始めていた。窓から差し込む光は眩しく、とうに朝は過ぎ昼に差し掛かろうとしているのが分かった。

 再び病院に運び込まれて最初に目が覚めたのはちょうど昨日の今頃だった。心臓はすっかり調子が戻っていたけど、悪夢にうなされて高熱が出た。どうやら自分で思っていた以上に精神が参ってしまっていたらしい。閃斗もタチも何故か会いに来てくれなくて、心細かった。

 点滴で栄養は取っているものの長いこと何も口にしていないので胃は空っぽだ。だんだん頭の中が澄んでくると、お腹がきゅうっと鳴った。たくさん汗もかいているけど熱は下がったみたいだ。体を起こしてナースコールのボタンを躊躇いがちに押すと、看護師さんが飛んで来て空になった点滴を外したり汗をぬぐうタオルを置いてくれた。体温を測ると平熱に戻っていた。もう歩けそうだと告げると、一時間後くらいに診察をするからまた呼びに来ると言われた。

 タオルを冷たい水で少し湿らせると、入院服をはだけて丁寧に全身を拭いた。さっぱりとした体をそよ風が撫でると不安も和らいで清々しい気分になる。この調子なら明日にも学校に戻れそうだ。そう考えると嬉しかった。

 たっぷり寝た後ですっかり目も覚め退屈を持て余して体を伸ばしていると、コンコンと遠慮がちに扉を叩く音がした。看護師さんかと思ってそのまま待つけど一向に扉の開く気配はない。変だと思ってベッドから抜け出し扉に歩み寄ると、鍵がかかっていることに気がついた。何の気なしに鍵を捻った瞬間、引き戸がひとりでに滑った。

「た、タチ!?」

 目と鼻の先に立っていたタチは顔を真っ青にして、魂の抜けたような出で立ちだった。こげ茶の眼は虚ろで、その中ではうすぼんやりとした虚無の水面にばらばらに砕け散った感情の断片が漂っていた。強いショックを受けて発狂する一歩手前の眼だ。

「ど、どうしたの!?」

 華奢な腕をつかんで揺さぶるとタチの眼に徐々に光が戻ってきた。

「……とっくん?」

 呟いたその時、タチの眼の中に凄まじい感情の渦が巻き起こった。

 閃斗から僕の入院を告げられたこと、僕のうわごとを聞いたこと、信じられないうわさ話を耳にしたこと、昨日一日でタチが経験した出来事がその時のタチの動揺とともに嵐のように吹き抜けていった。続けざまに薬品庫での記憶が鮮やかに蘇る。

 不意に視界が暗転した。

 気がつくと、僕は薬の瓶がずらりと並んだ棚を見つめていた。

 オレンジ色の光に照らされているものの室内は薄暗かった。驚いて周りを見回そうとするけど僕は吸い込まれるようにして薬のラベルを見つめたまま動かなかった。

(ここは……タチの家の薬品庫……?)

 動揺する僕の意識と何かもう一つ重なりあって存在している意識があった。それは悲しみに満ち満ちていて、まるで僕が親を失った時のようだ。それが小さく声を上げた。

 ――楽にしてあげられるかな……

(……タチの声だ。ということはここはタチの記憶……? タチの記憶を僕は見ているのか?)

 僕の手がゆっくりとガラス戸に伸びた。その先に、赤いラベルのついた瓶があるのに僕は今気がついた。

 ガラス戸が音もなく開いた。いや、僕が開けたのだ。瓶を取ろうと手を伸ばす僕のもう一つの意識、すなわちタチの意識は、じんじんと痺れて自分の手が震えていることさえ分からないみたいだ。

 蝋人形のような血の気のない手はじわじわと毒薬に近づき、触れるか触れないかぎりぎりのところで止まった。

 その瞬間、ぴーんと頭の中で何かが弾けた音がした。詰めていた息をはっと吐き出してぜぇぜぇと荒く息をついた。手の震えが全身に広がって立っていられなくなり腰が抜けて尻もちをついた。咄嗟に床に打ちつけた手に鈍い痛みが走る。

 がんがんと悲鳴のような痛みが頭の中で反響していた。切り離されたトカゲのしっぽのようにひとりでにぶるぶると震える手で頭を押さえる。ぱちぱちと目の前で白い火花が散って耳鳴りが激しくなってきた。

 ――私……今、何を……?

 うずくまるようにして床を見つめていた。

 ――とっくんを……殺そうと?

 強い吐き気がして腫れた喉を酸が刺した。視界がかすんで何も見えない。鼓動が荒れ狂って、呼吸が早くなった。頭痛に押しつぶされて何も考えられないまま全身の感覚が無くなっていく。

 ――私は……わたしは……


 我に返るとタチが僕にすがりついてすすり泣いていた。振り払うどころか恥ずかしいと思えるほどの気力もなくて、僕はただ茫然とされるがままになっていた。

(なんだったんだ、今のは? こんなこと、初めてだ……)

 最初の方こそタチの見た映像が目の前に現れただけだったけど、しまいには僕が僕であるという感覚が完全に消失してタチの精神に同化し、痛みや悩みも現実のように生々しかった。今病室でタチの前に立っていることの方が夢のように感じられるほどだ。

(それに一体何が起こっていたんだろう……? タチは僕が危篤だと勘違いしていた……?)

 僕は一瞬のうちにタチが何を見聞きしたのか理解していた。病院のエスカレーターで聞いたうわさ話。僕は死なせてくれなんて言った覚えはないし熱は出ていたけど心臓は正常に戻っていたはずだ。閃斗が医者に懇願していたと言うのは本当だろうか?

(まさか……全部『死神』の仕業なのか……?)

 谷底に突き落とされたような深い絶望を感じた。一度そう考えるとそうとしか思えなくなった。

 うわさに登場した閃斗は人相特徴の手掛かりはなく、ただ自分から星野と名乗っただけだった。タチの耳に入ることを見越して芝居をうったのだ。でも、どうやって僕の発作のことを知ったんだろう? それに、閃斗の名前もタチのこともたった一日で知られてしまったのは何故だ? 僕を殺すと宣言した翌日に、赤の他人ならともかく僕に好意を寄せているタチを刺客として差し向ける『死神』の力に鳥肌が立った。

(今回はぎりぎりのところでタチが思いとどまってくれた。けどもしかしたら、本当に僕を毒殺しようとしたかもしれない)

 僕が発作を起こしたのは偶然だ。でも、『死神』はその偶然をしっかりとらえ使えると判断して、タチの不安を煽り僕に自殺願望があると錯覚させた。もちろん失敗する可能性の方が高いと『死神』も思っていただろう。ここまでタチが追いつめられたのも偶然に偶然が重なった結果だ。でも、奴には次がある。今回の失敗もタチが傷ついただけで『死神』には何のリスクもない。同じような手口で何度も僕を殺そうと試みるだろうし、次はどうなるかわからない。僕の命は風前のともしびだ。明日生き残れるかどうかすら確かではない。僕は身震いした。

 げほっとタチが咳き込む音で僕は物思いから覚めた。僕の肩に頭を預けるタチは小動物のようにぶるぶる震えていた。僕の左手にすがりつく氷のように冷たい手をしっかりと握り返して、そっと背中をさすった。

「大丈夫だよ。僕はもうすっかり元気だから、安心して」

 タチはずっとしゃくりあげていた。

「つらかったね。心配かけてごめんね。でも本当に大丈夫だから。タチ、君は悪い夢を見ていたんだよ」

 一言一言ゆっくりと言い聞かせるように語った。

 タチの頭がぴくりと揺れて肩から離れた。タチはぼろぼろと涙を落としながら小さく首を振って口をもごもごさせた。どうやらショックで口が利けないらしい。

《違う……夢なんかじゃない……私……とっくん……を……》

 眼の中の言葉も途切れ途切れだった。

《絶対……恨んでる……会わせる顔なんて……》

「違うよ。僕は嬉しいんだ。そんなになるまで僕のことを心配してくれて」

 きっぱりと言ってもタチは聞こえていないようだった。

《私……わたし……もう……生きて……》

「タチ!」

 タチの手をぎゅっと握るとタチは驚いたように顔を上げた。目が合ってそらされそうになったけど、両手でタチの顔を挟み込んで阻止した。

「タチ、僕はここだよ。聞いて」

 タチは黙ったまま吸い込まれるようにして僕の眼を見ていた。

「タチがいなくなったら嫌だ」

 タチはゆっくりと瞬きをした。

「僕さ、ずっと友達がいなかったんだ。閃斗が初めてでタチは二人目なんだよ。だから『好き』ってどういうことかまだよく分からない。でもこれだけははっきり分かる。タチがいなくなるのは、嫌だ。ずっと……できるならずっと一緒にいたいって、そう思う。嘘じゃない。本当だよ」

 涙でいっぱいになったこげ茶色の眼が大きく見開かれた。その中で、僕の言葉が一言ずつこだまのように跳ね返って、染みとおっていくのが分かった。瞳の奥にぱっとひらめいた眩しいほどの輝きは透き通っていて、言葉にできないくらい綺麗だった。

「だから落ち着いて。いなくなるなんて言わないで……お願い」

 タチの眼をまっすぐ見つめていると、突然それがとろんとなって力の抜けた体がもたれかかってきた。

「わわっ」

 慌ててそれを受け止めるけど、もともと力はないし病み上がりなので支えきれずに後ろに倒れてしまった。

「た、タチ! ちょっと!」

 のしかかるタチは僕の胸のあたりに頭を乗せていた。眼に気を取られて気がつかなかったけど今日は髪を下ろしているらしい。さらさらとした茶色がかった髪が僕の肩や首のまわりにかかっている。そこから、ほのかに花の香りがした。

(ね、寝てる……?)

 唖然として見るとタチは確かに目を閉じてすーすーと小さく寝息を立てていた。精神的に耐えられなくなって気絶したのかと不安だったけど呼吸は穏やかで次第に手足に熱が戻ってきている。

(よ、よく分からないけど、とりあえずは心配しなくてもいいのかな……)

 どぎまぎしながらタチの頭を取り落とさないようにゆっくりと体をずらして上体を起こすと、肩に手をあてて揺さぶった。

「タチ、起きて! こんなところで寝てたら、迷惑だよっ!」

 それでもタチは一向に起きる気配はなく、開いていた手を軽く握っただけだった。

(だめだこりゃ……どうしたものかな……)

 ため息をついてふと見下ろすと、僕の膝の上に頬を擦り寄せるようにして横たわっているタチの表情は安らいでいた。頬を咲き始めの桜のような薄い桃色に染めて、幸せそうに微笑んでいる。

(敵わないなあ……)

 心の中でぼやいた僕は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じながら、その寝顔に見とれていた。



「せ、閃斗!? 大丈夫なの!?」

 退院して家に戻った僕は閃斗の姿を見て仰天した。

 顔のあちこちに絆創膏を貼り付けて手首や肩に包帯を巻いている。服に隠れて見えないが、胸や脚にもあちこち傷があるらしい。

「心配すんな。骨や筋は痛めてねぇ。かすり傷だ」

「い、一体何があったの?」

「話すと長くなるんだけどな……タチはどうしてる?」

「タチなら、家に帰ってると思うよ」

「帰ってる? タチは今日は学校に来てなかったぞ?」

「あ、いや、だから、病院にやって来たけど家に帰ったんだよ」

「病院に来た? おかしいな。面会謝絶にしておいたはずなんだが」

「あー、いや、話すと長くなるんだけど……」

 あの後、家を飛び出したタチを追って病院にやってきていたタチの母親に現場を目撃されてしまった。とっても気まずかったけど母親は娘の顔を見てほっとしたようで、特に僕をとがめることもなくぐっすり眠るタチを半ば引きずるようにして去っていった。いや、あの時は本当にどうしようかと思った。今度から駅へ行くときはタチの家の近くは通らないことにしよう……。

「じゃあ、三人集まってから話そう。タチに連絡できるか?」

「ええっと……できないね」

「ったく、カノジョの連絡先くらい聞いとけよな」

「……うん」

 答える僕に閃斗は目を丸くして気味悪そうに僕を眺めた。

「なんだよ、突っかかってくると思ったら。それともなんだ、病院で告白でもしたのか?」

「ち、違う! ぼんやりしてただけっ!」

 慌てて否定した僕を見る閃斗は悪戯っぽい目をしていた。

「じゃあ、タチの家まで行くぞ。斎人は場所知ってるよな?」

「え!? えっと、それは……知ってるけど……」

 ついさっきタチの家には近寄らないと決意したばかりなのに。今日たまたま休みだったというタチの母親も家にいることだろう。

「……なんだ? やっぱり何かあったのか?」

 すっかり顔を火照らせてしまった僕を見て閃斗はため息をつくと急に真剣な顔つきになって言った。

「悪いが俺もお前も命がけなんだ。一分一秒だって惜しい。早く準備してくれ」

 その言葉に水を被ったように体の熱が冷めた。

「……わかった」

 そう言って壁にかかった上着を取ると閃斗と一緒に部屋を出た。


『はい、もしもし?』

 インターホンから聞こえる声は記憶に新しいタチの母親のものだった。

「あの、白宮さんのクラスメイトの榊です。白宮さん起きてますか?」

『あら、さっきの……』

 向こうも、僕が誰だかすぐに分かったようだ。思わず表情が硬くなる。

『ちょっと待ってね』

 ほどなくしてドアが開きタチが現れた。

「あれっ? 二人揃って、どうしたの?」

 つい五時間前の幽霊のような顔つきが嘘のようにけろりとした様子で出迎えるタチに僕は面食らってしまった。

「三人で話したいことがある。能力に関係することだ。時間いいか?」

 僕の動揺など露知らず、閃斗は切り出した。

「うん、大丈夫。場所はどうするの?」

「あー、他人に聞かれたくないんだが、俺の家まで戻ってると時間がかかるな……」

「それじゃあ、上がってもらおうかな。ちょっと待ってて。ママに聞いてみる」

「一つ条件があるわ」

 突然響いた声の方向に三人の視線が集まった。

「ママ!?」

 振り返ったタチの背後にいつの間にかタチの母親が立っていた。タチの顔を少し細長くしたような色白の女性の表情は、険しかった。

「その話、私にも聞かせて貰おうかしら」

 厳しい顔で見下ろす姿に僕ら三人は凍りついた。

「最近、橘が酷く悩んでいるのと何か関係があるんでしょう?」

「え、えっと、ママ?」

「あなたには聞いていないわ。どうなの? そこのお二人さん」

 閃斗は神妙な面持ちで黙ってタチの母親を見つめていたが、しばらくして小さく首を振った。

「……場所を変えるぞ、斎人。この際、白宮さんには話せないが、仕方ない」

「待って、閃斗」

 自転車にまたがろうとした閃斗を服を引っ張って止める。

「タ……じゃなくて、白宮さんのお母さんが心配するのももっともだよ。それに白宮さんにも聞かなきゃいけないことがある。……話そう。最初から最後まで全部」

 閃斗は渋面を隠さなかった。

「……どうしてもか?」

「どうしてもだよ。あれは……」

 僕はちらりとタチの母親を見やった。

「……てこでも動かないって眼だ」

 苦笑した僕を見て閃斗は髪をかきむしった。

「お前が言うならそうなんだろうな。今日中に話し終わるといいんだが。今のうちに遅くなりそうってメールしとくか……」

 そう言って閃斗は携帯を取り出すと素早く文字を打ち始めた。ものの十数秒で入力を終えると何故かその画面を僕らの方に見せた。

『悪いがこれからは筆談で頼む。会話は聞かれている』

 画面にはそう表示されていた。そのままスクロールして続きを見せる。

『下手をすると、俺たち全員の命に関わる』



 かなりかいつまんで伝えたつもりだったけど筆談だったこともあり、状況を説明し終わったころにはとっぷりと日も暮れ街灯が夜闇で幅を利かせる時間帯だった。白宮家のリビングルームで丸い机を囲む四人は閃斗が鞄から取り出した大量のコピー用紙に各々がペンを走らせることで語らっていた。初めは僕と閃斗による説明が中心だった。

『榊君は自分の命のためタチを巻き込もうとしている』

 タチの母親が僕を見る眼は金属のように冷たくのっぺりとした光を映していた。

 タチが大きく首を横に振って母親にすがるも強引にその腕は押しのけられた。僕に心が見えることはすでに伝えたけど全く臆する様子はない。

『あなたのことで娘がどれだけ悩み私たちがどれだけ心配したか分かってる? これ以上辛い思いをさせるのは駄目。命を危険にさらすなど論外』

 閃斗は不機嫌そうに眉を上げた。

『もう引き返せません。シンは斎人の能力を知る白宮さんを生かしておこうとは思わない。今はシンを止めるのが唯一の手段』

 タチの母親はぎろっと閃斗を睨んだ。閃斗の主張は正しい。でも母親の気持ちも痛いほどよく分かる。僕だってできるだけ他の人を巻き込みたくはない。今こうしてタチの母親に秘密を打ち明けたことでシンの標的を増やしたことにも強い罪悪感を覚える。それがタチなら尚更だし、僕でさえそう思うのだから母の心配は当然だ。その眼には、娘の命に危機が迫れば自分の命を投げうってでも守ろうとするであろう、強い意志が感じられた。

『せめて娘を気遣って。不安にさせて悩ませないで。娘がシンに対抗できないなら知らせる必要はない』

 タチが母親の手をとった。真剣な目つきで訴えるように母を見ている。ペンをとって一文字一文字確かめるように書いた。

『知らないことの方が怖い』

 その字は丁寧に書いているにも関わらず少し震えていた。

『榊君がいつの間にかいなくなるのは耐えられない。ずっと傍にいたい』

『落ち着いて。あなたがそんなにお熱になるなんておかしい』

『理由なんてない』

 駄々をこねるようにタチは小さく首を振った。

『困った子。よく考えなさい』

 そう書いた紙をタチに押し付けると僕に向き直った。言いにくいが仕方ない。僕はペンをとった。

『あなたは昔の僕と一緒です』

 タチとよく似たこげ茶色の瞳にきつい光が宿った。

『タチの心を決めつけて眼を見ようともしない』

 意外にもタチの母は怒らなかった。唖然とした顔で僕を見つめている。

《タチのあだ名を……どこで?》

 眼には純粋な驚きがあった。

『タチって呼んでくれって言われたんです』

 僕の渡した紙を手にとるとタチの顔と交互に見つめる。タチは小さくうなずいた。母親は信じられないという様子でまじまじとそれを見ていた。しばらくそうした後に口元がふっと緩む。

《もういつまでも子供じゃないのね……》

 嬉しさの中にちょっと寂しさが見え隠れしている、そんな眼だった。前に家族以外にはタチと呼ばせないと言ってたけど、思っていた以上に深いわけがあるのかもしれなかった。

『話を続けて』

 あっけにとられた顔の閃斗にタチの母親は紙を差し出した。閃斗はゆっくりとペンをとって書き始めた。


『ここからは推測』

 そう前置きして閃斗は綴る。

『シンのもう一つの能力は『聴覚』』

 走り書きした閃斗の字は少し読みにくかったけどすっかり慣れてしまった。

『一昨日の斎人との遭遇からたった一日で俺と白宮さん、斎人の発作のことを知り、白宮さんをけしかけ俺に取引を持ちかけた。遠く離れた場所の情報を得る能力を持っている』

 黙ったまま僕は小さく手を上げて異議のあることを示した。

『尾行は? 周りの人間やタチの心を見て探れる』

『不可能なことがある。病院と俺の家の両方を特定した件。病院の場所はタチ、俺の家は俺を尾行して初めて分かる。同時には調べられない』

『最初から星野君の家を知っていた可能性は?』

 タチが尋ねた。

『ない。そのために駅から車で帰る俺達を尾行するのは無理。大混雑だった』

 なるほどと心の中で呟いた。二人もそれ以上異論はない様子だった。

『聴覚だと判断する理由は?』

『シンは、斎人の名字を正しく読んだ。字面を見れば『さかき』で『ときわぎ』とは読めない。斎人の名前を聞いて知ったはず』

『見るのも聞くのも両方できるのかも』

『シンは俺の顔は知らない様子だった』

 僕は顔を引き締める。

『つまり、シンは地獄耳で、遥か遠くの会話まで聞くことができる』

 閃斗はうなずいて少し付け加えた。

『何かしら条件はありそうだが』

 閃斗が筆談を申し入れたのはそういうことだったのか。だいぶ回り道をしたけど、ようやく合点がいった。僕らがどこまで知っているかはシンに知られない方がいいに決まっている。

『聞けば聞くほど、厄介な相手』

 苦々しい表情でタチの母親は頭に手を当て俯いた。よく見ると茶色がかった髪はところどころ明るい色が混ざっている。白髪染めの色だ。年の割に多いその本数から普段の気苦労が透けて見える気がした。


『次は私の番』

 タチは昨日病院で見聞きしたことを淡々と綴った。病室で会った時の様子を思うと身を切るように辛いであろう出来事を、よどみなく書き連ねていく様子を僕は唖然として見ていた。

『まるで他人事みたい』

 そう書いて見せるとタチはよく分からないといった風に首をかしげた。その眼の奥はいわゆる明鏡止水のように澄みわたり一片の動揺もない。どこか無機質な感じがして背筋がうすら寒くなったけど、酷く気に病んでしまうのではと心配だったからほっとした。あと、もう一つ幸いだったのは、どうやらタチは僕と病室で会ったことを忘れてしまっているらしい。自分で話すのも恥ずかしいので適当にごまかしておいた。

『つまりシンの行動はこう』

 閃斗は残りの三人を見回しながら状況の整理を始めた。

『駅で斎人と会った日に『聴覚』で俺の家を見つけ俺が斎人と親しいことを知る。翌日俺と白宮さんの学校での会話を聞き白宮さんが斎人と親しく斎人の発作を不安がっていることを知る。白宮さんの眼を盗み見て利用できると判断し病院まで尾行する。会話を聞いて眼を見ながら不安を募らせていくことを感じ取って、それを決定的にするため白宮さんの目に直接触れないところで俺を装って騒動を起こし斎人が危篤だといううわさを白宮さんの耳に入れる』

 僕は閃斗の言葉を反芻して粗がないか考えたけど見つからなかった。ただ一つ気になってシンの似顔絵をタチに見せたが分からないようだった。まあやすやすと顔を覚えられるような真似はしないか。その時タチの母親がペンをとった。

『おかしい。朝見たけどトイレに張り紙なんてなかったし、薬品庫の鍵も閉まっていた』

 そう書いて顔を曇らせる。閃斗も考え込むようにして頬杖をついた。

『玄関と薬品庫の扉を見せて貰えますか』

 閃斗の意図を察して母親はこくりと頷いた。

 案内された薬品庫の前に立って閃斗は錠前を調べ始めた。鍵はごくごく普通のシリンダー錠で、角ばった椀を伏せたような形の金属の塊に鍵穴が縦に入っている。閃斗はそれをペンライト片手に子細に眺めた。

閃斗が指さした場所には確かにうっすらと真新しいひっかき傷があった。周りに比べて微妙に白っぽくなっている線は細く、鍵で引っ掻いたのではできないような傷跡だった。

『夜中に忍び込んでお膳立て?』

 閃斗はこくりと頷いた。

『タチが自室に戻った後もう一度忍び込んで張り紙をはがし、薬品庫の鍵を閉めた』

 そのやり取りの間タチの母親は薬品庫の中で盗られた薬品がないか点検していた。微かに瓶を机に置く音が聞こえてくる。

『ちょっと意外』

 背中をつつかれて振り返ると、タチも紙を握っていた。

『シンはあくまで自分の手は汚さないような人だと。焦ってたのかな』

『バレなきゃいいってこと。直接の損害がなければ警察も本腰入れて動かないだろう』

『普通の人に鍵をこじ開けるなんてできる?』

『慣れれば楽らしいが、ピッキング用の道具は錠前屋以外所持を禁止されている。南京錠でもないしただの針金じゃ難しいだろう。おそらく心得がある』

 閃斗の言葉を見るうち僕の中でシンの人物像がどんどん不気味なものに変わっていくのが分かった。シンは一体何者なのか。つきとめなければ明日は来ないかもしれない。

(それにしても……)

 僕は心の中で疑問符を打った。

(どうしてそこまでしてタチをけしかけたんだろう。殺人でないとはいえ自分の手を汚すのはシンにとっては大きな決断のはずだ。ただでさえ危ない橋を渡っているんだから。それにタチの眼を見て性格を知ったなら僕を殺す可能性は限りなく低いって分かってたはずなのに……)

 肩に手を置かれて見上げると閃斗がぐいっと腕時計を突き付けてきた。既に十一時が迫っている。

《すっかり遅くなっちまった。帰るぞ》

 眼でそう言ってから薬品庫のドアをノックし、タチの母親に二人でお辞儀をした。タチに手を振って別れると僕たち二人は帰路についた。



 閃斗と縦に並んで夜道を自転車で通り抜ける。自転車のライトや街灯はあるものの住宅の電灯はほとんど消えていて、心細いことこの上なかった。できる限り太い道を通っていたけど行き交う車もなく、静まり返った闇の中を滑るようにして僕らは黙々と自転車をこいでいた。

 小学校に突き当たるT字道のあたりで、ふと、ぷんと焦げ臭いにおいが鼻をついた。おやっと思ったその時、前を走る閃斗がブレーキをかけた。

「斎人、見てみろ」

 閃斗に促されて彼方に視線を移すと、夜空に紛れて見えにくいけどもうもうと黒煙が上がっているのに気がついた。火は住宅に隠れてほとんど見えなかったが、時折ちろちろと蛇の舌のように姿を見せる赤い火の粉があった。

「駅の近くだ。行ってみよう」

 そう言うと閃斗は地面を蹴って再びペダルに足を乗せた。その後を黙って追いかける。

 ほどなくして駅前の通りに出ると、むっとするような熱風にむせ返りそうになった。ここに来るまでの間にあちこちでサイレンが鳴っているのにも気がついていた。

 燃えているのは駅に隣接するホテルだった。あちこちの窓から炎が吹き上がり、どす黒い煙が天に吸い込まれていく。その周りを数え切れないほどの消防車や救急車が取り囲み、何本もの水柱が放物線を描いて炎に立ち向かうものの、あえなく霧散しては消えていく。それほど火の手は激しかった。緊急車両を取り囲むようにしてたくさんの野次馬の姿が見えた。着の身着のまま集まって来たような寝巻姿の人も混じっている。誰しも不安そうにしてごうごうと燃えさかる建物や担ぎ出される人々の様子を眺めている。その集団を押し分けるようにして担架や車両が行き交う。その救急隊員や消防士の表情は、マスクに隠れてよく分からなかった。

「酷い……」

 僕はあっけにとられてぽつりとつぶやいた。

「これも、あいつの仕業だと思うか?」

 遠くの方を見ながら閃斗が言った。僕はその言葉にはっとなった。

「まさか、全部囮だったのか……?」

「囮?」

「シンは、この事件を僕たちに止められたくなかった。だから、タチをけしかけて……」

 閃斗は眉を寄せて僕を見た。

「斎人の考え過ぎ……だといいんだが……」

ちりちりと火の粉が肌を刺激するのも構わずに、僕らは茫然と立ち上る炎を眺めていた。


 翌朝のニュースによると死者は九名、意識不明の重体が十二名のほか、多数のけが人が出たということだった。犯人は四十代無職の男性で、ホテルの二階に部屋をとり深夜にホテルのあちこちに油をまいて回って火を放ったということだった。その時に居合わせた従業員が刺されたらしい。犯人も焼死体として見つかった。

 当然のようにシンとの繋がりはつかめなかった。しかし僕はこれがシンの仕業だと直感し、シンに比べた時の己の小ささが痛いほどよく分かった。

 ――あんなにもタチを苦しめておいて、全部ただの囮だったって言うのか!

 タチを利用され傷つけられたことで、僕のシンへの怒りは確固たるものになった。自分の命が狙われているということ以上に僕を奮い立たせるものが生まれた瞬間だった。


 しかしこれもまた、開戦ののろしにすぎなかったのだった。

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