二章 鼻もちならない少女

 高校受験が迫っていた。

 さして成績が良かったわけでもなく、ましてや三ヶ月間勉強をほったらかしにしていた僕にとって、状況は絶望的だった。一番早く始まる私立推薦の願書受付開始は、五日後に迫っている。まだ間に合うとはいえ、進学を考えるなら迷っている暇はなかった。


 結局、僕は星野家にお世話になることにした。あまりの待遇に申し訳なさばかりが募ったけど、正直他に選択肢はなかった。星野君の言葉で目が覚めたのだ。心が見えるとはいえ、たった一人で世を渡っていくには、僕はあまりに物を知らなさすぎた。

 ――あ、星野君だとよそよそしいから、閃斗と呼べって言われたんだっけ。

 両親には、閃斗が話をつけてくれた。僕の境遇――両親に先立たれ、伯父に騙されて全財産を失ったこと――を話すと、二人は快く僕を受け入れてくれることになった。お手伝いさんやら庭師やら料理人やら、全部ひっくるめて二十人もいるのは流石にぶったまげたけど、閃斗の言っていた通りみんな家族が増えると喜んでくれたし、眼を見る限り本心からそう言っているようだった。

 ところでその能力のことだけれど、僕に人の心が見えることは僕と閃斗だけの秘密に留めることにした。閃斗の両親に黙っているのはなんとなく気がとがめたけど、閃斗曰くビジネスの最前線で活躍する両親が斎人の能力を知れば、ひょっとしてほうぼうで利用されることになるかもしれない、とのことだった。それぞれの会社の業績が数万の社員の生活に直結している以上、それを向上させる手段があるなら使わないわけにはいかないんだ。閃斗は厳しい顔で言った。


 進路について、一番無難なのは私立中堅校の推薦入試に出願することだった。滑り止めとして受ける人も多い私立中堅校では確実に生徒を確保するために推薦枠が多く、同じ学校、コースでも一般入試に比べれば難易度は低かったし受験科目も国数英の三科目だった。また、学校内の学力層が厚いために入学後の頑張り次第で在学中に進学コースに上がることができた。けど問題は、私立高校は軒並み授業料が馬鹿にならないことだった。

 星野家の財力からすれば、授業料なんて大した額ではないかもしれない。でも、親戚でもない赤の他人の家に転がり込む以上なるべく迷惑はかけたくなかった。できることならいつか受けた恩は全て返したいと思っていた。しかしそれも幼い子供の甘い考えなのだと、心のどこかで気がついていた。

 けれど、僕の迷いは、閃斗の一言で吹っ飛んでしまった。


「お前は俺と一緒に月高に入るんだ」

「え?」

 学校からの帰り道で切り出した閃斗の言葉に、僕は耳を疑った。

月高と書いて『つきこう』、あるいは『げっこう』と略される県立月島高等学校は、ここ一帯では私立高校を差し置いて最難関の進学校だった。一学年三百六十人のうち七割が旧帝国大学やら有名私立やら医学部に進学するという華々しい活躍っぷりで、全国的に見ても中高一貫の有名私立には後れをとるものの、公立高校の中ではトップクラスの進学実績だった。もっとも、一学年の半分は浪人するという話ではあったが。

「つ、月高って、あの月高? と、トップ校じゃん!」

「そりゃあもちろん、俺が行くんだからな」

あ、このナルシストめ。出願もしてないのに合格確定みたいな物言いを……

「無茶言わないでよ! 僕の成績そんなに良くないし、三ヶ月間全く勉強してないんだよ?」

「俺が教えりゃ何とかなるさ。それに、お前は自分が思っている以上に賢いと思うぞ?」

「え?」

 認めるのは癪だけど、閃斗の学力は本物だった。部屋にとってあった定期テストは、ほとんどが九十五点以上、数学や理科は満点でない方が珍しいくらいだったし、本棚には『量子力学』とか『解析入門』とか、見たこともないような分厚い本が並んでいた。大学で扱う内容だと聞いた時には、「気持ち悪っ!」と叫んで、閃斗に睨まれたっけ。

 そんな閃斗だから、もしかしたらできる人の見分けがつくのかもしれないと思っていたら、閃斗の言葉は期待を裏切るものだった。

「なんせ、転校してきたその日に俺を出し抜いたんだからな」

 それを聞いてがっくしと肩を落とした。つまりは自分が利用されたことが悔しくて、僕を持ち上げているだけなのか。買いかぶりもいいところだ。

「あのねぇ……僕の内申点知ってるの? 学年末テストも終わっちゃったし、万が一、当日点が満点だったとしても、門前払いだよ?」

 県下の公立高校入試では、各中学校で出す通知表の内申点と試験問題を解いて出た当日点の合計で順位が決まる。内申点は、九科目五段階評価で、それを二倍したのが点数になるから、九十点満点、当日点は五科目それぞれ二十点の百点満点だ。月高のボーダーがどれくらいなのかは知らないが、僕の一学期の内申点は二十八点、二倍すると五十六点だし、ほとんど登校しなかった二学期に至っては二十点だ。三学期の成績は一年間の平均として算出する以上、当日点で百点をとっても、結果はお察しだろう。

「それなら大丈夫だ。うちの中学甘いからな。月高目指すって言えばそれなりに配慮してくれるさ。俺だって……その……美術はいつも三だったが、たぶん五にしてくれるだろうし」

「……それってなんかズルくない? なんでそこまでして月高に行かなきゃならないのさ? 確かに、僕だってできることなら閃斗と一緒の高校に行きたいけど……無理だよ」

「……一緒の高校、それもあるけど、お前、西中の奴に会いたくないだろ?」

「あ……」

 西中、僕が前いた中学校、苦い思い出の多い場所だ。そっか、忘れてた。当然、西中の人たちも受験の年なのだ。入学後、高校で顔を合わせるのは大いにありうる。思わず、ぶるりと身震いした。

「……そう……だね」

「だろ? 月高はここから電車で一時間、だいぶ離れてる。しかも、西中学区のすぐ近くには竹高があるから、この辺の中学なら成績上位層の大半がそっちに行く。竹高も月高ほどじゃないが十分進学校だしな。それに、月高とセットで受けられる公立高校はあまりぱっとしないところが多いから、なおさら竹北とセットで受けられる竹高を選ぶ奴が多い。北中から月高目指すのも今のところ俺だけだし、西中からもせいぜい一人か二人くらいだ。西中の奴が来る可能性は低い」

 閃斗の言葉に僕はうなずいた。閃斗は続ける。

「それに、勉強できる奴はだいたい人間もできてることが多いからな。よっぽどいじめなんて馬鹿な真似する奴はいねぇ」

「それはどうだろう……?」

なんか自分は人間ができてるって言いたいだけのような気がするんだけどな。

「ま、もちろん統計なんかとっちゃいねえからなんとなくだけどさ。月高行こうぜって言ったのはそういうわけだ」

「なるほど……うーん、でも、本当に大丈夫なのかな……」

「大丈夫だって。月高受けるって言ったって、入試問題はどの公立高校でも一緒だろ。それに、その入試問題の難易度は全都道府県の中で最低クラスなんだぜ? 俺と同じくらい勉強すれば今からでも何とかなる」

「君と同じくらい勉強って……君は要領がいいし理解も早いからいいけど、僕が同じだけ勉強しても間に合わないよ」

 勉強のできる人って言うと、授業聞いてるだけで理解してそれほど勉強に時間を割かなくても満点取っちゃうとかそんなイメージだった。

 しかし、僕の言葉に閃斗は驚いたように言った。

「へぇ、まだ気がついてなかったのか。言っとくが、俺は頭悪いぜ」

 な、こいつめ。どの口が言うか。過剰な謙遜は逆にウザいって知らないのか。

 と、僕の心中を察したのか、閃斗はにやりと笑った。

「頭悪いって言うのは、勉強できねぇって言ってんじゃねぇ。生物学的な意味でだ。海馬って知ってるか? 脳の中の、短期記憶をつかさどる部分だ。形が海馬、つまりはタツノオトシゴに似てるからそう呼ぶんだが、俺は生まれつき海馬の機能が低い。要するに、物忘れが激しいんだよ。爺さんみたいにな。一旦しっかり覚えて、長期記憶として保管されてしまえば忘れねぇんだが、記憶を定着させるまでが苦手なんだ。普通の奴が三回で覚えられることも俺には十回やらないと覚えられない」

「え? ちょっと待って、それで今の成績ってことは……」

 閃斗はふふんと得意げに鼻を鳴らして、

「一日のノルマは平日八時間、休日十六時間。それが俺の平常運転だ。今日からお前にも同じだけやってもらうぞ。なに、中学の勉強なんて丸暗記と計算練習だ。そんだけやれば何とかなるだろ」

「へ、平日八時間? そんな、物理的に無理じゃん! だって、七時半に学校行って、四時半に帰ってくるでしょ? 起きてから出るまでに三十分、帰ってからも二時間半しかないじゃん!」

「なんでお前十二時間も寝てんだよ! ガキか!」

「え、だって、することないし……」

「勉強しろ! ったく、よくそれで平均キープできたな。逆に希望が見えてきたぜ」

「え、じゃあ君は何時に寝て何時に起きるの……?」

「六時に起きて十二時に寝る。あんまり睡眠削り過ぎても逆効果だからな」

「六時間しか寝てないの!? なんで生きていけるの!?」

「そんな簡単に死ぬか! まったく……」

 そうこう言っているうちに、そそり立つ門の前に着いていた。


「で、どうするんだ? やる気はあるのか?」

 小路の中ほどで立ち止まった閃斗は、家に入る前に僕の意思を確かめておきたいようだった。

「え、ええと……」

 僕は正直、自分がどうしたいのかよく分からなかった。これまで今日この日を生きるのに精一杯だったから、机に向かって勉強すること、ましてや自分が高校に通う姿など想像もつかなかった。けど、改めて考え直してみる。

(月高か……きっと、賢い人、閃斗みたいな人がいっぱいいるんだろうな……いや、それは不気味だけど)

 今まで、僕には年の近しい人で尊敬できる人はいなかった。同級生はみんな僕にひどい仕打ちをするから軽蔑の対象としか見ていなかったのだ。閃斗は閃斗でもちろん感謝しているし凄い人だとは思うけど、いかんせん自分の能力を鼻にかけているのが気に食わなかった。もうちょっと謙遜ってものを覚えようよ。ねぇ。

(尊敬できるような人と、友達になれるだろうか……)

 そう考えると、急に閃斗の提示したシナリオが、魅力的なものに思えてきた。

 そんなわけで、僕は無意識のうちに、『うん』と言ってしまっていた。



 始めて一時間で、僕は後悔していた。

初めに、社会科に取り掛かることになった。閃斗は教科書の虫食い問題を印刷して僕に手渡す。「分からんところは飛ばせよ」とは言ったけど、いや、ちょっと待って。『が』とか『の』しか残ってないじゃないか。ほとんど埋まらないまま進めるけど、全く終わりが見えない。それもそのはず、一時間経っても、プリンタの音は鳴りやまないのだった。

 予想通り、他の科目もそんな調子だったから、とてもじゃないけど閃斗の出すノルマが終わるとは思えなかった。一日八時間でも足りず、結局時間を測る必要はなかった。

睡眠時間も半分になったわけだ。最初は眠くて眠くて仕方なかったけど、だんだん慣れてきて、夜十時を回っても目が冴えるようになってきた。人間やればできるんだ、としみじみ思ったけど、そう言ったら、閃斗は、六時間睡眠は標準だぞと口酸っぱく言っていた。

まさに地獄のような勉強漬けの毎日だったけど、僕はいつしか乗り気になっていた。これまで僕は自分の努力じゃどうにもならない『運命』に翻弄されてきたけど、今初めて自分の努力で未来を勝ち取ろうとしているのだ。それはとても素晴らしいことに思えた。もちろん、とってもしんどかったけど。

 そうそう、しんどいのは勉強だけじゃなかった。

「買って来たわよー」

「あ、ありがとうございます」

「いいのよ、敬語なんて使わなくて。私は雇われ人なんだからね」

 にっこり笑って紙袋を押しつけるのは、初めて来たときに閃斗の母親だと勘違いした、家事手伝い兼お目付け役の百合子さん。服の持ち合わせがないのでいろいろ選んで買って来てくれたのだ。服だけじゃない。閃斗の部屋には僕用の机やベッドがそろい始めていた。なんか軒並み可愛らしいデザインだったのを見て警戒するべきだったんだけど。

「な、な、なんじゃこりゃ!」

 百合子さんが鼻歌交じりに出て行った後で、僕は叫んだ。

「どうした?」

閃斗が訊く。

「な、なんでもないっ」

僕は顔を真っ赤にして、閃斗に目もくれずに、逃げるように百合子さんを追いかけた。

「あ、あ、あのっ!」

 叫ぶと、百合子さんが廊下の突き当たりで振り返った。全速力でそれに追いつく。

「どうしたの?」

僕の必死の形相に、怪訝な表情を浮かべる。

「気に入らない服でもあった?」

「いえっ、そうじゃなくてっ、いや、そうなんですけどっ、そもそも、あのっ……」

 慌てて全然言葉が出てこない。落ち着け。大げさに二回深呼吸して、僕は叫んだ。

「僕、女じゃありませんっ!」

 その時僕が抱えていたのは、タータンチェックのミニスカートだった。

「えっ?」

百合子さんはきょとんとした表情。

「だ、か、ら、勘違いしないでくださいっ! 正真正銘僕は男ですっ!」

 恥ずかしさに顔から火を噴いている僕への百合子さんの反応は想像をはるかに超えていた。

「無理しなくていいのよ」

「は!?」

「私は全部分かってるんだから、隠す必要なんてないわよ」

そう言って悪戯っぽく微笑む。

「あ、あの、言ってる意味が……」

「そりゃあ、友璃さんが亡くなってから日が浅いもの。引け目を感じるのは分かるわよ。でもね、あれ以来ずっと閃斗はふさぎこんでいたの。おかげでずいぶん元気になったんだから、私はむしろ感謝してるのよ」

「はい!? え、ちょ、ちょっと!」

「でもねー、閃斗がそんなに惚れっぽいとは思わなかったわ。それに、まさか同棲なんてねぇ……あの子、そんなに大胆だったかしら」

何と言うか、とっても楽しそうな顔をしている。

「ち、違うったら!」

 最大級に顔を真っ赤にした僕の前で、百合子さんはにやにや笑っている。しまった、これじゃ余計に誤解を招くじゃないか。

「あんまり野暮なことは言わないけど、ほどほどにしなさいよ! じゃ、頑張ってね!」

 ウインクした百合子さんを、僕は必死に引きとめる。

「いや、ちょっと! 本当に勘弁してください……」

 しかし、そのまま百合子さんは行ってしまった。


 部屋に戻ると、閃斗は苦しそうに笑っていた。百合子さんが持ってきた紙袋は、既に開かれていた。

「確かに、俺も最初見たときは男か女か分かんなかったよ」

閃斗はにやりと笑った。

「もう、他人事だと思って!」

「まあなんだ、下着が入ってなくてよかったな」

「いや、そうじゃなくてさ……」

僕は暗い顔で、いきさつを説明した。

「あー、それはなかなか面倒だな」

 と言いつつ、閃斗は面白がった態度を崩さない。

「君も被害者なのに、どうしてそんなに落ち着いてるのさ」

「ま、別に実害ないし、百合子さんそういう色恋沙汰は大好きだからな。それで楽しんでるんなら、ほっときゃいいだろ」

「僕には実害あるんだってば! 着る服ないんだよ!」

「まあ、俺の服でも着とけばいいじゃねぇか」

「君のは大きすぎるんだよ……」

「あぁ、そうだったな。じゃあ、昔の服を引っ張り出すか」

「いや、あの、なんで誤解を解こうという発想がないんですか……」


 何度も説明して、ようやく分かってもらえたのは三日後のことだった。流石に、洗濯に回す下着が男物なのは変だと思ってくれたらしい。

「いや、それ以前に、一緒の部屋で過ごすのをごまかすために男装している、って発想が、どうやったら出てくるのか、理解できないんですが……」

 頭のネジが一本くらい飛んでいるとしか思えない、とは言わず。

「分かってないわね、恋は盲目なのよ! 恋する乙女は何だってやるわ!」

と、熱っぽく語る百合子さんの目は、輝いていた。

「そ、そうですか。乙女じゃないのでよく分からないです……」

 まとめると、百合子さんは僕のことを、ちょっと大人ぶって可愛い格好を避け、ボーイッシュな路線に終始している女の子だと思っていたらしい。こんなに可愛いのにもったいない! と気を利かして、張り切って可愛い服やら家具やら選んできたらしいのだが、僕としては大きなお世話だ。羊をかたどったクッションは気に入ったけど。

「うー、でも、女の子じゃなかったのは、ちょっと残念だったわね」

「知りませんよ、そんなこと」

僕は苦笑する。

「だから、敬語は使わない! 本当は、敬語使うのはこっちなのよ。気を遣わせないで」

口調とは裏腹に、優しい笑顔。

「はーい」

ふと顔を上げ、百合子さんと眼が合うと、その場で凍りついた。僕は、動揺を悟られないように慌てて部屋に戻った。

「おいおい、結局バラしちゃったのかよ。つまんねぇな」

 廊下での会話を聞いていたらしい閃斗は、僕の強張った顔を見て、心配そうに言った。

「どうした? 幽霊でも見たような顔して」

「いや、あのさ……」

(可愛い男の子と閃斗が一緒の部屋か……それはそれで楽しめそうね……)

 百合子さんの眼の中を語ると、流石の閃斗も引きつり笑いを浮かべた。それからしばらく、僕らは百合子さんと口をきかなかった。



 百合子さんに翻弄されていたころ、私立一般の合格通知が届いて一つの大きな自信になった。けれど公立高校の受験までわずか二週間に迫っていた。閃斗のノルマはまだ終わりが見えず公立一般の過去問にも一切手をつけていない。僕は焦っていた。

 何もかも投げ出したくなっていた。もういいじゃん。十分頑張ったよ。私立は受かったんだしどうとでもなるさ。やけっぱちになってそう思うたび、新しい家族の顔が浮かんで僕は自分が惨めになる。いろいろムカつくこともあったけど、自分の勉強時間を割いて僕の勉強を見てくれる閃斗。百合子さんはじめ、掃除や洗濯、お風呂の用意、身の回りのことをやってくれる星野家のお手伝いさんたち。一度も会ったことは無いけれど、僕を家族の一員と言ってくれた閃斗の両親。見ず知らずの僕にこんなにも尽くしてくれる人たちがいるのに、僕だけが怠けるわけにはいかなかった。辛さとありがたさで泣きそうになりながら、机に向かった。


 卒業の日はあっというまにやってきた。休み時間の間も閃斗にしごかれることになったから、結局クラスの人とはあまり仲良くなれなかった。最初こそ、関わりを持ちたくないと一心に思っていたけど、いざこうして別れの時がやってくると勿体ない事をしたなあと思った。閃斗の家で『いい人』をたくさん知った僕は、世の中悪い人ばかりじゃないんだとようやく思えるようになっていたのだ。校歌はうろ覚えだったけどなんとか周りに合わせて歌ったし、寄せ書きに書いてあったありがとうの言葉は一生の宝物だった。今まで貰った寄せ書きはことごとく何も書かれていなかったから。

閃斗の両親は案の定忙しくて来られなかった。他の人は友達同士で集まっては写真を撮ったりしていたが、僕はさっさと帰ることにした。今でも僕は物珍しい目つきで見られるし、僕のことを知らない保護者が来ているとなればなおのことだった。あんまり知らない人にじろじろ見られるのはまだ慣れない。閃斗は部活とかでいろいろ付き合いもありそうだったけど、一緒に帰ってくれた。


「ねぇ、それにしてもさ、どうなの、これ」

 僕が取り出したのは、今日卒業証書と一緒に渡された通知表だった。正直今日渡すのは卒業式ムードぶち壊しだと思うんだけどまあそれは置いとくとして、問題は中身だった。

 貰った時はびっくりして自分の名前が書いてあることを何度も確認した。まさかお前十段階評価か! とか疑ったりもした。けどもちろんそんなはずはなく、僕の内申点はオール五で、合計四十五点の満点だった。

「甘いったって限度があるでしょ!」

言いたくてうずうずしていた言葉をようやく口にした。

「なんか聞き覚えのあるフレーズだな」

そう言う閃斗ももちろん満点だった。

「だってさ! 絶対おかしいじゃん! 特に体育! 一学期も二学期も『一』だったのに! しかも三学期はろくに体育の授業なかったのに! なんで『五』になってるのさ!」

「まあ、いいじゃねぇか。願ったりかなったりだろ」

「それはそうだけど……なんかもやもやするなぁ……うぅ……」

「今更言っても仕方ねぇよ。内申書は高校側に出しちまったんだから」

「……でもさ、あんまり酷いと中学校の信用がなくなるじゃん」

「いいんだよ、それに見合った点数を当日取れば済む話だ」

「そうかなぁ……」

しかし、実際そうするしか他にないのだった。卒業式が終わったということは、すなわち、入試本番まであと一週間ということだ。


 前日になってようやく過去問に手をつけた。閃斗の掲げたノルマは何とか消化したものの、残された時間はあとわずか。やばい。明日の準備のことも考えたらほとんど解く時間ないじゃないか。あんまり夜遅くまで粘って本番集中できなかったら意味ないし、ぐぬぬ……。

 泣きそうになりながらもせめて一年分はやりきろうと思って、タイマーをセットし過去問集をめくりノートに答えを書いていく。しかし、十分くらい経ったところでふとペンを止めた。

「ねぇ」

「どうした?」

「これ……簡単過ぎじゃない?」

そう言うと、閃斗は笑った。

「だから言ったろ? 何とかなるって」

「いや、あの、そうじゃなくてさ、これくらいの問題だったらこんなに勉強する必要なかったんじゃないかなと、そう思いまして」

「ま、そうかもしれねぇな」

閃斗は真面目な顔でうなずく。

「もしかしてさ、ノルマの量、直前まで過去問に到達しないように調節してた?」

「いやぁ……」

「だってさ! なんか最近妙に多かったじゃん! いざ過去問やろうかと思ったらすかさずプリント渡してくるしさ!」

あっはっは、と閃斗は笑い始めた。

「本当に気づいてなかったのか!」

「はい?」

きょとんとした顔の僕に、閃斗はなおも笑い続ける。

「俺がそんなに物忘れ激しそうに見えたか? 手帳の一つも持ち歩いてないじゃねぇか。全部嘘だよ、嘘。ハッパかけるために言ったんだ。まさか本当に毎日八時間も勉強するとは思ってなかったけどな」

「な、なんですとっ!?」

 あんぐりと口を開けたまま絶句する僕を見て、笑い転げる閃斗は説明を続ける。

「いや、だからさ、記憶障害ってのは、口から出まかせだ。お前に勉強させるための口実だよ。知った上で乗り気なんだと思ってたぜ。あー、腹痛い」

「ひ、ひどいっ! 僕がどういう思いで勉強してたと思ってるんだっ! 訴訟も辞さんぞっ!」

「二言目にはいつもそれだな。まあ悪かったよ。てっきり眼を見て知ってるもんだと思ってたからな」

「あ……」

そっか、眼を見れば分かったはずなんだ。どうして気がつかなかったんだろう。無意識のうちに閃斗を信用していたんだろうか。今までは、誰の言葉も眼を見ないと信じられなかったのに……ううん、時には眼を見てもなお信じられなかったのに。

 笑い過ぎて涙さえ浮かんでいる閃斗の眼は、悪気のないことを如実に表していた。そうだ、閃斗の眼はこんなにも透き通っているんだ。閃斗はどこまでもまっすぐなんだ。だからきっと、眼なんか見なくても信じられるんだ。

「信じてくれて、ありがとうな。嬉しいよ」

 僕の考えを読みとったかのように閃斗が言った。驚いたけどもちろん本人にそんなつもりはないらしく、涙をぬぐう仕草に芝居めいたところは無かった。

「うん……こっちこそ」

 ありがとうと言いかけたけど、口をつぐんだ。

(いや、ちょっと待て、なんかうまくごまかされてないか……?)

そんな僕の心象は知ってか知らずか、閃斗は言った。

「いや、しかし、よく頑張ったよ。平日八時間なんて、俺もテスト期間にしかやんねーもん」

 あ、それでも、テスト期間はそれぐらいやるんですね……。


 前日の夜にそんな調子だったから、おかげで本番は全然緊張しなかった。もしかしてそれも全部閃斗の計算だったのではないかと勘繰ったけど、閃斗はどこ吹く風だった。一応面接試験もあったけど、面接官の心が見えてしまう僕にはあまり評価の対象でないことがよく分かったので緊張しなくて済んだ。一緒に面接を受けた人たちが妙に頭の回転が速いのにはちょっと焦ったけど。

 そんなわけで、今はローカルテレビに映る解答速報を見て自己採点をしているところだった。

「どうだ? よさそうか?」

「うん、たぶん大丈夫そう。写し間違いはあるかもしれないけど……九十二点」

 数学で三点、理科で三点、社会で一点、英語で一点の失点。国語は満点だった。月高のボーダーはおおよそ九割だ。不本意ながら内申点は満点を頂戴しているので、当日点が九十二もあればよっぽど大丈夫だった。

「そうか、うんうん、やっぱりお前はやればできる奴だよ」

閃斗は満足そうにうなずく。

「ま、俺が教えたんだし、当然っちゃ当然だが」

 そう言う閃斗を僕は睨む。あーもう一言多いんだから。口を尖らせて聞き返す。

「ところで、閃斗はどうだったのさ?」

「えーっと、九十九だ」

「え、何間違えたの?」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、恥ずかしそうに閃斗は答えた。

「歴史の『歴』の字間違えた」

「は?」

素っ頓狂な声で聞き返したのが癇に障ったのか、閃斗は少し顔を赤くして言い訳を始めた。

「いや、だってさ、最初は正しく書いてたんだぜ? けどよ、見直したときに、どうもこの下の部分が、『止める』じゃなくて『土』のような気がしてきて……そんで、なんか『土』の方が歴史っぽいな、みたいな……」

「なあに、それ」

くすくすと笑ってからかう。これをのがせば閃斗をからかう機会なんてそうそうやって来ないから、逃すわけにはいかない。

「いいだろっ! 受かればいいんだよ受かれば!」

露骨な挑発だったけど閃斗は見事に引っかかってくれた。国語が満点でよかったと僕は心の底から思った。夕飯ごろまではいじり倒せそうだ。

「なんでお前俺に対してだけはサディスティックなんだよ……」

 ウザいからに決まってるじゃないか。どうしてその自覚がないんだ。心の中で呟いて笑った僕を閃斗は睨んだけど、僕の点数に心底ほっとした様子だった。

 

その日は百合子さんがケーキを焼いてくれた。僕はあの一件をずっと根に持っていたけど、そのケーキが閃斗が勉強している間にぺろりと平らげてしまう程度にはおいしかったので、すっかり機嫌を直してしまった。

「ちょっと待て! 百合子さんのケーキどこいった!?」

「ごめん、つい……」

「一ホール全部食べたのか!?」

「だってー、おいしかったんだもの」

 小綺麗なショートケーキは、お店で作ったものかと思うくらいの出来栄えだった。スポンジはふわふわで、甘いクリームはちょっと酸味の強いイチゴと相性抜群だった。あんなのどうやって作るんだろう。今度教えて貰おうかな……。

 余韻に浸っていると、閃斗は呆れたような顔で、ため息をついた。

「……お前、夕食後なのによく食えるな」

「甘いものは別腹だもん!」

そう言うと、羊のクッションを抱いてソファに座った。

「それに、テスト終わったのに律儀に勉強してるのが悪いんだよ」

「どこがいけないんだよ!」

「えー、なんかムカつくじゃん。今日くらいゆっくりしろっ!」

「意味分からん……」

 ぼやく閃斗は、少しイライラしているようだった。漢字の間違いでさんざんコケにしたからだろうか。眼を見ながら本気で怒る一歩手前で調節していたつもりだったんだけど、やっぱり性格悪かっただろうか。恐る恐る眼を覗いてみる。

違うと分かった。意外なことに閃斗は不安がっていた。もちろん昨日今日の入試のことだ。確かに自己採点では合格間違いない点数をとっていたけど、答えの写し間違い、採点ミス、そういった『もしも』のことは、結果が出るまで分からないのだ。

 閃斗の眼を見ているうち、合格発表までは安心できないなと思った。



 昇降口へ上る階段の下、三角形の薄暗がりの所に、人だかりができていた。午前十時三十分、物理的には小さくも、僕たちにとっては大きな意味をもったホワイトボードが運び込まれ、数字の羅列が露わになった。


 僕は生まれて初めて嬉し涙を流した。


「まったくあの日以来いつも泣いてばっかだな。少しは笑ったらどうなんだ」

「だって……だって……」

 ふふっと閃斗は笑って、わしゃわしゃと僕の頭をかきむしる。

「痛い! 痛いよ!」

「そんなに泣いてたら落ちたかと思われるじゃねぇか! 受かったんだからもっと堂々としてろ!」

「くそぅ、鬼め……」

 涙目でぼやく僕に何故が閃斗は悲しそうな視線を返した。

「それにな、落ちた奴だって当然いるんだ。だから受かったお前は嬉しそうにしてなきゃいけないんだよ」

 なんというか、この状況で他の人のことを考える余裕があるあたり凄いなと思うけど、あまりにも気が回り過ぎててちょっと不気味だった。

「そう言う閃斗だって、あんま嬉しそうじゃないじゃん」

「俺はあれだ、落ちるはずが無かったからな」

……まあそう言うとは思ったけどさ。もうちょっと小さな声で言った方がいいんじゃないですか。睨まれてますよ。

「なんだ、ちゃんと笑えるじゃねぇか。それでいいんだよ。折角可愛い顔してるんだからな」

「うげっ、気持ち悪っ」

「なんだよ、他意はねぇぞ!」

 珍しく慌てる閃斗を見て今度こそ盛大に吹き出した。確かに、お腹を押さえて笑うのは久々な気がした。


 ただ、その笑顔は一瞬で凍りついた。


「どうした? 深刻な顔して」

 目線の先には、ホワイトボードを覗き込む一人の少女。少し茶色がかった髪を、フリルのついたシュシュで束ねている。

「ははーん、一目惚れか? お前もなかなか隅には置けないな」

 閃斗が軽口を叩くのを無視して、僕は唇を噛んで黙りこくっていた。

「お、おい、どうしたんだ?」

僕のただならぬ様子を察して、閃斗がもう一度訊いたとき、僕はようやく口を開いた。

「白宮 橘(しらみや たちばな)」

それを聞いて閃斗は絶句した。閃斗も分かったのだろう。閃斗が知らない僕の同級生とはどういう存在なのか。

「西中の元クラスメイト……悪魔の一人だ」

 無意識に握りしめた手に自分の爪がくい込んだ。


***


(う……わっ……)

 俺は声に出さずに呟いた。手にしているのはクラス名簿。俺と斎人が同じクラスになっているのを見て喜んだが、そのまま女子の欄に移ると、例の『白宮橘』の名が同じ枠の中に収まっていた。

 受かっていたのか。そしてまさか同じクラスになるとは。合格発表の日にふさぎこむ斎人を会う可能性は低いと言ってなだめたのだが、面目丸つぶれだ。同じようにクラス表を眺める斎人は驚くでもなく、ただひたすらに仏頂面だった。

 入学式を終えて指定された教室に入ると既に担任が教壇に立っていた。何やらいろいろ書類を配り始めたので、斎人とおしゃべりすることもできなかった。

 確かに、合格発表のときに見かけた少女が同じ教室にいた。見覚えのあるシュシュでポニーテルにしている白宮さんはおろしたての紺色のブレザーに身を包み、淡々とプリントをさばいていた。後ろにプリントを手渡すときにいちいち会釈をしている姿には『悪魔の一人』という言葉は似合わなかったが、まあ斎人がそう言うのだからそうなのかもしれない。

 斎人は明らかに不機嫌だった。むすっとした表情で一言も口を利かない。結局、西中時代に何があったのか俺は詳しく聞いていないから、その心象は測りかねていた。俺にも斎人の力があったらなと考えるともどかしい。まあでも、同じクラスとはいえ名前を覚えないまま一年を過ごす人なんかもいるものだ。関わらないように気をつけていればなんとかなるだろと考えていた。

 しかし、それは大きな間違いだった。


「……榊君?」

 一通り話が済んで帰り支度を始めたころ、意外なことに白宮さんの方から話しかけてきた。俺は思わず身を硬くしたが、斎人はそれを無視してプリント類を鞄に詰め込んでいた。

「と、榊君だよね。びっくりしたー。月高受けてるなんて、知らなかったよ。あの……その、元気にしてた?」

 おや? 俺は違和感を覚えた。斎人が悪魔と呼ぶ割にはずいぶんと好意的なような。そんな俺の疑問をよそに斎人はぴたりと手を止めた。

「よくそんな口が利けるな」

「え?」

白宮さんはその場に凍りついた。

「よくそんな口が利けるな、って言ったんだ」

 見上げた藍色の視線を見て俺はすくみ上がった。なんて強い恨みのこもった眼なんだ。刹那、俺も心が見えるようになったのかと錯覚するほどに激しい、負の感情が俺を貫いた。その視線を正面から受けた白宮さんは真っ青になった。

「君が僕に今まで何をしてきたか、僕がどういう思いだったか、何も知らないくせに! 目障りだ! 早く消えろ!」

 斎人が叫ぶと、彼女は青ざめたままぶるりと体を震わせて逃げるように教室を去った。


 斎人は、口元を小さく歪ませてせせら笑っていた。

 伏せられた目はとろんとしていて、焦点が定まっていないようだった。水を打ったように静まり返った教室のただならぬ雰囲気も、意に介さない様子だ。

 玉のように綺麗で柔和な顔立ちの斎人は、むすっとしていてもどこかあどけない愛らしさを宿す。ましてや微笑みは実によく似合っていて眩しいほどなのだが、今の斎人の微笑みは一目見て空恐ろしくなるほど残忍だった。悪い霊にとり憑かれた妖精のように不気味に笑う斎人の姿を、クラス中の人間が眺めていた。

 しばらくそのまま笑っていた斎人は満足げにほうっと息を吐くと、蒼い目をしばたかせて顔を上げた。その瞬間、自分に突き刺さる視線に気がついたようで、淡い桜色の肌がさっと青白くなった。さっきとはうって変わって、檻の中の小鳥のように弱々しく怯えた様子で、視線を彷徨わせていた。

「今のは、お前が悪いぜ」

 すがるように俺を見上げた顔にささやくと、視線がかち合う前に斎人は再びうなだれて震え始めた。しまったと思った時にはもう遅く、斎人は教室を飛び出していた。

 斎人は、一滴も涙を流していなかった。



「参ったな……」

 予想はしていたが、家に帰っても斎人はいなかった。血の気の引いた斎人が走りだしたとき咄嗟に後を追おうと思ったのだが、斎人の荷物が落ちてプリントが四散したために叶わなかった。くそっ、こんなことなら無視してさっさと追っかければよかったぜ。心の中で毒づいて斎人の荷物と自分の荷物をソファに放り投げる。

 しかしまた、斎人の居場所の目星もついていた。斎人の住んでいたぼろアパートはまだそのままになっている。斎人の帰る場所を潰しておくのは俺の家に住むことを強制しているようで嫌だったので家賃を払い続けているのだ。おそらくはそこへ帰っているだろう。

 時間をかけて探せば、斎人は見つけられる自信があった。しかし問題は物理的な距離ではなく、心の距離だ。

 斎人は、俺に裏切られたと思っているだろう。

 もしかしたらそうなのかもしれない。俺は斎人をそれほど信用していなかったのかもしれない。しかしどうしても、白宮さんの反応は演技には見えなかった。斎人に話しかけるときの、ぎこちないながらも嬉しそうな笑顔。言い募る斎人に、息を飲み込んで震えた華奢な手。走り去るときの死人のような顔。こげ茶色の目に浮かぶ光は、必死にこらえようとしながらも滲みだしてきた涙だった。その後ろ姿にずっと感情を抑え続けてきた人間のある種の儚さを感じた。斎人の背中と同じだ。

 斎人は何か勘違いをしている。俺はそう思えてならなかった。心を読むことに関しては斎人の方が断然上なのだ。橘の気持ちに気がつかなかった斎人は彼女の眼を見ようすらしなかったということになる。斎人にそうさせる過去の出来事を何も知らないのが俺をいらだたせた。

 首に巻きついたネクタイを引っ張った拍子に、ペンダントの留め具が外れて床に落ちた。慌てて拾おうとした時、ペンダントにこびりついている血と輪っか状の鎖を見て俺ははっとなった。

 斎人のぼろアパートには、麻のロープが揺れている。それを思い出して、嫌な予感がした。



「おい斎人、いるんだろ?」

 薄い扉を荒々しく叩いても、中から返事はなかった。

 夕日はほとんど沈みかけていて、灰色の雲がたなびく空が濃紺に沈んでいた。自転車でアパートの前まで来た俺は顔をしかめて、斎人の部屋の前にあぐらをかいて座りこむ。

「いるなら返事してくれよ。頼むから」

 懇願するように言ってもやはり返事はない。本当にいないのか居留守を使っているのか、あるいはもう……。

 俺はかぶりを振ってその考えを打ち消す。しかし当然鍵がかかっていたし確かめようもない。扉はそれほど頑丈そうではなかったが流石に素手では壊せないし、そもそもそんなことをすれば捕まるだろう。

「しょうがねぇな……」

 小さくぼやいた俺は斎人が出てくるまで居座ることに決めた。

「こうなったら我慢比べだ。いつまでもここにいてやるからな」

 俺はドアに向かって怒鳴り、振り返って背中を壁につけると目を閉じた。いつまでもとは言ったものの本心は明日の朝までのつもりだった。斎人が絶対にここにいるという確証はない。もしかしたら明日ふらっと学校に現れるかもしれないし、逆に行方が知れないのであれば捜索願を出さなければいけない。そうなる前に出て来てくれることを祈っていた。


***


 ――閃斗は何も分かっていない。

薄暗い部屋の中で外から響く閃斗の叫び声を無視しながら、僕は乾いた木の板に寝そべってぼんやりと天井を見つめていた。床板のささくれがちくちくと背中を刺すと、背中に走る七針の傷跡が浮き上がってきたように錯覚する。

 ――あれは、中二の五月だったっけ。

 背中から窓に叩きつけられて割れたガラスで背中を切ったのだ。あまりの痛さに気を失って、起きた時には病院だった。後から知ったけど、加害者の三人は僕が気を失ったのをいいことに貧血で倒れた僕が一人でガラスに突っ込んだのだと弁明していた。確かに僕は小さいころから心臓が弱くて貧血で立ちくらむこともままあった。でも担任がそれを鵜呑みにしたと知ったときは何も言い返す気が起こらなかった。あのとき見ていたクラスメイトも誰も何も言わなかった。その中には白宮さんもいた。

 僕に実害のない傍観者も大勢いたけど、僕は加害者と同じように傍観者を憎んでいた。特に、下手に手を差し伸べても傷つけるだけだと自分に言い訳して、心優しい人間を気取っているような奴は吐き気がするくらい嫌いだった。当時は心が見えなかったから、誰がそういう輩かまでは分からなかったけど。

 しかし、白宮さんは傍観者ですらなかった。


 中三の四月、修学旅行の新幹線の席決めがあった。当然席の余りはなかったから、必ず二人一組で隣同士に座らなければいけなかった。先生のいないホームルームの時間に生徒に任された席決めは、僕の隣は誰になるのかに論点が集まった。黙りこくっている僕の目の前で堂々と繰り広げられる議論は、くじ引きで決めようという結論に着地した。

 クラス全員が見守る中わら半紙のプリントが切り分けられ、三十九枚の紙片のうち一枚に『はずれ』と書きこまれた。席替えのときと同じ要領で紙片が袋に突っ込まれ一人一枚ずつ取っていく。僕はその光景を虚ろな目で眺めていた。

 突如教室がざわめいた。

 列に並んでいた白宮さんが何かを落とした。慌てて拾おうとして隣にいた女子に止められた。彼女の袖口から落ちたのはわら半紙の切れ端。ご丁寧にもくじを作ったのと同じプリントの切れ端だった。手に隠し持っておいて引いたふりをするつもりだったということだ。罵られた白宮さんはくじとは関係なしに僕の隣になった。嘲笑の響く教室で僕はぎゅっと耳を塞いだのを覚えている。


――今回はお前が悪いだって? 冗談じゃない。

奥歯を噛みしめると、ぎりっと音がした。

――要するに閃斗は僕を信じてはくれない、それだけのことだ。

やっぱり僕は一人で生きていく運命にあるのだ。そう実感するも涙は流さなかった。


***


 翌日、ついに出てこなかった斎人を置いて俺は学校へ向かった。しかし俺に遅れること十五分ほどで斎人が教室に現れて心底驚いた。

 ふらふらとおぼつかない足取りで席に向かう斎人は目も当てられないほどにやつれていた。昨日は何も食べなかったに違いない。もともと白い肌は血の気を失い、のっぺりとして能面のようだった。

「……斎人」

 斎人の席の隣に立って話しかけた俺は当然のように無視された。そもそも斎人に聞こえているかすら怪しい。それほど斎人の眼は虚ろだった。愚直に呼び掛けるだけでは反応しそうにない。

「白宮さんさ、お前のこと好きだぜ。たぶん」

 言うと斎人は微かに首を動かした。それを確認して続ける。

「お前のことチラチラ見てたし、話しかけた時は本当に嬉しそうだった。そもそも、腫れものみてぇに思ってるんだったら、わざわざ話しかけたりなんてしない」

 机の上で斎人は拳を握りしめた。

「……そんなわけ、ない」

「違うって言い切らないのは、やっぱり眼を見なかったんだな」

 これは他の人に聞かれないように耳元でささやく。

「見なくたって、わかるよ」

 むすっとした顔で呟く斎人に俺は眉間にしわ寄せて言った。

「あのさ、昔何があったのか知らねぇけどよ、お前何か誤解してるんじゃねぇか?」

 斎人は答えない。

「出ていくときの白宮さんの後ろ姿、最初に会った時のお前にそっくりだった。怯えてたぞ」

 握りしめた斎人の拳が少し震えた。

「謝って来いとは言わねぇ。でも、もう一度まっすぐ白宮さんの眼に向き合ってみてもいいんじゃねぇか?」

「……分かってない」

 斎人は勢いよく立ちあがった。

「分かってないから、そんなことが言えるんだ! あいつが、あの悪魔が、僕と一緒だって? 冗談じゃない。同じなのは君だ。何も知らないくせに、分かったような口を利いて!」

「そりゃそうさ。俺はお前とは違う。話してくれなきゃ分からない分からずやさ。……頼むから何があったのか言ってくれよ。もちろん後でも構わねぇから」

「嫌だね」

 吐き捨てるように斎人は即答した。予想外の反応に自分の信用の失墜を感じた俺は悲しくなった。

「そうか……」

 それっきり、斎人は頑なに口を閉ざしていた。


 昨日の一悶着はクラス全員に見られていた。入学したてということもありとりたてて斎人に辛くあたる人はなかったが、皆、斎人からは距離をとって他の人に話しかけていた。西中から転校してきた時と真逆だった。斎人にしてみればそれは楽なのかもしれないが、クラスから孤立するのは時間の問題だと思った。斎人の過去を話して同情を買っておきたいのはやまやまだったが、斎人との秘密を軽々しく語るのも気が引けるし、そもそも俺ですら納得いかないのだから説得力に欠けると思った。斎人と知った風の俺に誰も何も聞いてこないのは幸いだったと言える。

 しかし、入学二日目で白宮さんは学校に来なくなった。親から体調不良だとの連絡があったらしいが理由ははっきりしている。

 何故か、斎人と白宮さんの二人の顔が友璃の死に顔と重なって、俺は気が気でなかった。



 今日は諦めて家に戻った。とりあえず斎人に自殺の意思はなさそうだったので、斎人のアパートにご飯を持って行って様子を見てくるよう百合子さんに頼んでおいた。斎人の体調は心配だったが一晩中家の前で居座っていては先に消耗するのは俺の方だ。大人しく家のソファに横になりながら何の気なしにテレビをつけると、画面に映ったニュースが俺を釘づけにした。

「おいおい、またかよ……」

 アナウンサーが緊張した声で語るのは近所で起こった傷害事件。被害者はかなりの重症らしく、加害者は自殺してしまったそうだ。両者ともに高校生ということもあって全国ニュースで取り上げられている。

 初めて斎人の家に行った翌日の給食の時間にクラスメイトが話していた傷害事件も、詳しい場所までは分からなかったが市内の中学だったという。確か同級生をカッターナイフで切りつけたということだった。被害者の生徒はもうすっかり回復しているが、受験期の事件でドタバタし苦労したと言ううわさを聞いた。

 あの事件を皮切りにこれで四件目だ。あれから早いもので三ヶ月が経つが、その間、学生絡みの傷害事件が市内で四件も起こるのは途方もない頻度に違いなかった。それも通り魔とかなら分かるが、全て加害者がはっきりしていて全然別の人物なのだ。

この調子じゃ学校教育はうんぬんとか、非生産的な議論がおっぱじまるんだろうな。そう思った俺はリモコンを取って電源を切ろうとした。

「……西中学校では、一連の事件を重く見て全校生徒にアンケート調査を実施する方針を固めました。……県教育委員会は、県全体で同様のアンケート調査を行うことを検討中とのことです」


――ちょっと待て。

 ――西中、だと?


 俺は報道が別のニュースに移ったのを見て電源を切ると、パソコンに向かった。スタートアップになっているブラウザから新聞の電子版のページに飛ぶ。事件に関わっていた人物はみな未成年だったから個人情報は伏せられていたが、偶然にしてはあまりにも一致が過ぎることから今回の事件報道で解禁された情報があった。四つの事件全てにおいて、あるいは加害者、あるいは被害者として西中の生徒が関わっていた。今回は高校生の起こした事件だったが、その学生は西中出身で斎人の元同級生だった。

 偶然なのか? 斎人の能力と何か関係があるのか? いや、確かに西中の人間は恨んでいるだろうが、このところ白宮さん以外とは会っていないはずだ。斎人の生霊がとり憑いて狂わせたと言うのでもあるまいし。いやいや何を考えているんだ俺は。

 しかし気になってよく調べてみると、ふと気がつくことがあった。

 事件の起こった日は四回とも『斎人が不機嫌だった日』と重なっていた。一回目は斎人の家に押しかけて説教した日。二回目は斎人に猛勉強を始めさせた日。三回目は百合子さんの誤解が明らかになった日。そして間を開けて四回目の昨日は、白宮さんとの一件で俺と仲たがいした日。これは初めて死人が出ている。それに気がついてすうっと背筋の寒くなるのを感じた。

 偶然の一致だと思いたかった。実際、斎人が機嫌を損ねたのはその日ばかりではない。斎人が手をつける前にクッキーを食べきってしまって買いに行かされそうになったり、俺が夜十時くらいに机でうとうとしていたのを見つけてむくれていたり。何かとわがままで無邪気な斎人はちょくちょく俺につっかかっていた。構って欲しかっただけかもしれないが。

 それにしても、活字になった情報から判断したことではあるが、なんとなくどの事件も友璃のケースと似ているように思われた。衝動的に刃物で切りつけたり殴りかかったりした加害者達は、すぐに自首して自分の罪を認めている。昨日の事件の犯人に至ってはその場で自殺していると言うし。それに友璃は中高一貫の私立中学に通っていたが、西中の学区に住んでいた。

 斎人がこの事件と関連していると考えるのは流石に安直だろうとは思った。しかしいずれにしろ、この一連の騒動は見過ごしてはいけないと直感していた。


***


もう春だというのにすっかり冷え込んだ朝、日が昇るよりも前に僕は一人住宅街の中を歩いていた。駅までは閃斗の家からならそこそこ近いけど僕の家からは遠い。それに、既に建て替えられたかつての家の前を通るのは忍びないのでだいぶ遠回りすることになる。

 道半ばでお腹がきゅうっと悲鳴を上げる。百合子さんがお弁当を持ってきたけど僕は頑として手をつけなかった。三ヶ月でだいぶ耐性がついたと思ったけど、閃斗の家で過ごすうちすっかり元に戻ってしまったらしい。もともと少食とはいえ給食も出ない高校では一日一食確保できればいい方だから、より厳しくなる。

 ふとクラスメイトの視線を思い出した。直接僕に何か言う人はいなかったけど、誰もかれも瞳の中に背筋の凍りそうな冷たさを宿していた。心なんて見えなければいいのに、と思うけれど僕にはどうしようもない。白宮さんの所業を告白しても今更言い訳にしかとらないだろう。閃斗だって僕を信じないのだから。そう、閃斗だって……

 

突然、宙に浮いたような気分になった。

 不思議な涼しさがさあっと体を吹き抜けて、頭を覆うもやもやが吹き飛んだ。

 恍惚とした解放感は、しかしあっという間に過ぎ去った。びっしりと汗をかいていることに気がつくと、目の前の風景がぐにゃりと歪んだ。

 あれ、僕、どうしちゃったんだろう。

 誰か……呟こうとして、息が詰まった。

 胃に何も入ってないはずなのに強烈な吐き気がした。

 どくん、と心臓が縮みあがった。

 強烈な寒気に手足の感覚がみるみる凍りついていく。

 お腹のあたりまで寒気が上ってくる。

するすると意識が漏れだしていく。

 ごうごうと耳鳴りが覆いかぶさってくる。

 じきに何もわからなくなった。


***

 

 私は、何日かぶりに鏡の前に立った。

 我ながらひどくやつれていた。茶色がかった髪は手入れをする気力もないのですっかり艶を失い、ぼさぼさになっている。ほくろ一つないのが自慢の真っ白な肌は、心の疲れがとれない今となっては幽霊のような不気味な印象を助長するだけだった。頬はこけ、筋の通った鼻だけがむやみに浮き上がって見える。無意識に噛んでいた唇は血がにじんでいて、消え入りそうな細い眉の下には泣き腫らして真っ赤になったこげ茶色の瞳が浮かんでいた。はあっとため息をついてずきずき痛む頭を振りながら、私はまたベッドに倒れ込んだ。

(榊君に恋をしたのは、中二の初めだったっけ)

同じクラスになった榊斎人ははっと目を引く姿をしていたから、見た目を好きになったのではないと言えば嘘になる。けれどもともと口下手で本音と建前の混じった息苦しいやり取りが苦手だった私は、クラスメイトの喧騒をどこか超然とした様子で眺めている榊君の姿に、あこがれにも似た感情を抱いていた。

 でも、彼の態度の裏にある事実を知るまでにそう長い時間は必要なかった。決定的だったのは、五月の出来事。窓ガラスに叩きつけられて気絶した榊君は救急車で運ばれていったけど、いつの間にかそれは斎人が勝手に倒れたということになっていた。てっきりいじめっ子の三人は謹慎にでもなるのかと思ったけど、何事もなく時間だけが過ぎていった。榊君が背中を縫ったと聞いたときには胸の締め付けられるような思いがした。

(どうしてあの時先生に言わなかったんだろう。榊君が退院するまでは心配でそれどころじゃなかった。学校に来たときは安心してそれどころじゃなかった。そんなの言い訳じゃない)

私はまた唇を噛む。

 支えてあげたい、今度はそう思った。でもなんて声をかけたらいいのか分からなかった。意を決して話しかけようと近づいても、痺れたようになって足が止まってしまう。榊君の超然とした態度は誰も関わるなという強い意志そのものだった。同級生の女子にさえ自分から話しかけることの少ない私には、ただ榊君を眺めることしかできなかった。

 ずるずると時間が過ぎ、三年生になってしまった。このまま別のクラスになってしまったらもう二度と榊君には近づけないかもしれない。そう思うとたまらなかったけど、好運なことにまた一緒のクラスになれた。でもまた一年手をこまねいていたら、中学卒業と同時に本当に会えなくなる。私はこの一年で何とか話しかけてみようと決意した。神様の思し召しか、意外にもチャンスはすぐにやってきた。

 まんまと隣席になった修学旅行の新幹線の中、窓際の榊君はずっと外の景色を眺めていた。

 どぎまぎしながら車窓を眺めるふりをして、おっかなびっくり榊君を眺める。こんなに近くで斎人を見るのは初めてだった。

 トレードマークの白い巻き毛は、ふわふわとしていて羊のようだった。柔らかい肌には微かに赤みがさしていて、頬は桜色に染まっていた。頬杖をついてけだるそうに流れる景色を見つめる様は、旅行の始まる前だというのに疲れがにじみ出ていた。それでも、窓から差す光に切り取られた妖精のような姿はうっとりするほど幻想的だった。不機嫌そうな顔でさえこうなのだ。榊君が笑ったらどんなにか愛らしいのだろう。

 榊君が頑なに車内に目を向けないのをいいことにぼんやりと見とれていたら、いつの間にか目的地に着いてしまっていた。結局話しかけることはできなかったけどなんだかそれで満ち足りた気分になってしまって、最初の決意はどこ吹く風、なあなあになってしまった。

(今思うと、あの時話しかけなかったのが決定的な溝を作ってしまった……)

 十月初め、榊君は学校に来なくなった。その日の新聞で両親が亡くなられたことを知った。私の恋は終わったと気がついた。あのときは榊君の親の死を自分の親の死のように悲しんだっけ。しばらくして榊君が学校に現れた時、絶望に沈む藍色の眼を見ても何も話しかけることができなかった私。そんな自分が情けなかった。榊君はまた来なくなって、転校したと教師が告げた。

 高校の教室で見かけたときには心の底から驚いた。浮かれた気分で弾みをつけると一年経っても叶わなかった目標はあっけなく達成できた。榊君への風当たりの強さが無意識のうちに話しかけることを躊躇わせていたことにようやく気がついた。

 その時返ってきた榊君の言葉は私の心にぶすりと刺さった。

(私は榊君の気持ちなんて考えようともしなかった……)

 くじ引きのイカサマも、榊君の目には鼻もちならない出来事として映っていたに違いない。そんなことも、思い通りにいって浮かれていた私には分からなかったのだ。


 枕はすっかり湿ってしまっている。緑色のカーテンの向こう側はまだ真っ暗だ。勉強机の上で時計がカチカチと音を立てている。暗くてよく見えないがまだ朝の五時くらいだろう。ぴったり閉じられたドアの向こうから両親の声が漏れ聞こえてくるから。

「……大丈夫そうか? タチは」

 私をタチと呼ぶのはパパの声。

「分からない……今日も学校に行けないかもしれないわ」

「一体どうしたんだろうな、月高に行くの、あんなに楽しみにしていたのに」

「それが、ちっとも話してくれないのよ……」

「タチはあれこれ悩みやすいタイプだからな。しかし、入学初日で不登校になるというのは……」

「カウンセリング、頼んだ方がいいかしら?」

「あんまり酷いなら、そうした方がいいかもしれないな……」

 パパがそう言って会話が途切れた。カチャカチャと食器を下げる音が聞こえる。ママは嘆くように言った。

「せめて、もう少し家にいられたら、話もできるのだけど……」

「こればっかりは、仕方ないからな……」

 パパがううんと唸る。仕事が忙しいのだ。

「あなた、今日も遅くなりそう?」

「ああ。今日は夜勤なんだ」

「分かりました。軽めのご飯を置いておくから」

「すまないな」

「いいのよ」

 しばしの沈黙の後食器洗浄機の音が響き始めてそれ以上やり取りは聞こえなくなった。

 医者のパパと薬剤師のママ、二人の朝は早い。パパは一週間のうち二日間は市の総合病院の外来、四日間は開業し、休みの木曜にもしょっちゅう医師会や学会に出かけている。ママはパパのクリニックで処方した薬の調剤をするほか、パパの外来の日には薬局で働いている。

 大好きだしあこがれの存在でもあるパパとママ。忙しい両親にここまで心配をかけていることに改めて気付かされて胸がちくりと痛んだ。行かなきゃいけない、わかってる。でも榊君のあの藍色の眼で睨まれることを思うと、足がすくんで動けなかった。あの眼は本当に怖かった。制服に袖を通そうとすると全身に寒気が走って吐き気がした。そうでなくとも一日中ずっと頭痛がするし、微熱もある。いつか榊君に自分を見て欲しいというささやかな夢は、最悪の形で実現してしまったのだった。

 頭痛はさらにひどくなっていた。寝不足でめまいがする。しがみつくようにして布団を引き寄せると、せめてもう一時間ちゃんと寝ておこうと目をつぶる。耳鳴りもしてきたけどもともと疲れていたので、手足の痺れていくのを感じながら眠りに落ちていった。


 霞んだ意識を揺り起こして緑色のカーテンを引き開けた。東に面した窓から、オレンジがかった朝日が入ってくる。とろんとした目で窓の外を眺めると、視界の端に雲のような白い塊が映った。

 ゆっくりと視線を移すと、家の前の路地を榊君が歩いていた。夢うつつの私は驚くでもなくただぼんやりとその姿を見下ろしていた。

 その足取りはゆったりとしていた。いや違う。ふらついているのだ。風になびくすすきのように榊君はゆらゆらと歩いていた。

(ううん、まだ夢を見ているのかな)

まだめまいが収まらないみたい。ずきずき痛む頭の中で呟いた。

(こんなになってもまだ榊君の夢を見るなんて)

 頭痛がひどくなってきた。硬く目を閉じてからもう一度開くと視界から榊君の姿は消えた。

(やっぱり、寝ぼけているんだ……)

 もう学校に行く時間だ。この調子じゃまた行けないかもしれないけど、せめて行く努力はしないと。そう思って立ち上がると、塀の死角に隠れていた人影が露わになった。

 榊君が倒れていた。

 たっぷり二秒間、通りを見下ろしたまま固まった。

 寝巻のまま寝室から飛び出したときは、頭から水を被ったように目が覚めていた。階段を駆け下り廊下を突っ切る。鍵がかかっていることも忘れて玄関のドアに突進してしまい反動で転びそうになった。慌てて錠をひねって開けると目の前に彼の姿があった。

「ときわぎくんっ!」

 上ずった声で呼びかけても何も反応が無い。びっしりと冷や汗をかいていて顔は真っ青だ。まるで人形が転がっているかのようにぴくりとも動かない。

 駆け寄って口と鼻とに手をかざす。何も感じない。

(呼吸が……止まって……)

 頭の中が真っ白になって自分まで倒れそうになった。

(馬鹿、私が何とかしなきゃ……榊君は……)

 どきり、と心臓が跳ね上がった。

(と、とにかく、心臓は動いているの……?)

震える手を榊君の胸に当てる。

(わかんないよ……わかんない……)

 耳元で自分の鼓動が響いている。手のひらを打つ振動は榊君のものなのか、自分のものなのか。

(わかんないよ……神様……)

 完全にパニックに陥った私は、そのまま榊君の胸に手を押し当てていた。



 いつの間にか寝入っていたらしい。目を覚ますとアルコール消毒剤の匂いが鼻をつく。真っ白なベッドにうずもれる榊君はまだ目を覚ましていないようだった。だいぶましになったけどまだ頭の芯がびりびりする。もうひと眠りしようかな。でももし、その間に榊君が……

 そう思ったところで、目の前の白い手がぴくりと動いた。

「か、看護師さんっ!」

 慌てて、廊下を歩いていた女性を呼びとめる。事情を話すとすぐに担当医を呼びに行ってくれた。

「ここは……?」

 榊君の消え入りそうな声が耳を打った。思わず名前が口に出そうになってはっと口をつぐんだ。

 振り返ると、まだ朦朧とした様子の榊君がうっすらと目を覗かせていた。起き上がろうとするものの力が入らないのか、頭が枕に落ちる。目と首だけを動かしてあたりを見回していた視線が私にぶつかった。

「え……」

 榊君がささやくのを聞いても私は目をそらすことしかできなかった。

「し、白宮……さん?」

 すぐに分かってくれたのはちょっと嬉しかったけど、何て返事をすればいいのか分からなかった。こちらに向く目は蒼く、まだ生気を取り戻していない様子だった。

「やぁ、目を覚まして良かった。一時はどうなるかと思ったが、一安心だな」

 がらりと扉を開けて医師が入ってきてほっとした。目の覚めた榊君と二人っきりは気まずいことこの上ない。

「あの……僕は……?」

「心臓発作だ。あともう少し対応が遅れたら危なかった。お嬢さんが手当てしてくれなかったら今頃どうなっていたか」

「お嬢さんって……白宮さん?」

 榊君は狐につままれたような表情で医師と私を交互に見つめている。医師は大きく頷いて上機嫌に語る。

「倒れた場所がお嬢さんのお家の前だったのは不幸中の幸いだったぞ。いやはや、お医者さんの娘さんだとは聞いたがそれにしたってお手柄だ。救急車の手配、回復体位、AED、心臓マッサージ、人工呼吸、たった一人でよくやったよ。それにまだ高校生らしいじゃないか。たいしたものだ」

「じ、人工呼吸……」

 うろたえる榊君はすっかり目を覚ました様子だった。

「ははは、そんな君が思ってるほどロマンチックなものじゃないぞ。まあ元気そうで何よりだ。その様子なら今日ゆっくり休めば明日には退院できるだろう。もちろん、明日いろいろ検査をして異常が無ければだが」

「あ、ありがとうございます……」

「お礼なら隣のお嬢さんに言ってくれ。ああ、高校の方にも連絡したからじきにお家の人も来るだろう。じゃあ、私はこれで」

 そう言って医師は風のように去っていった。再び私と榊君が取り残された。

 榊君は不思議そうな目つきでまじまじと私を見つめている。私のことをどう思っているのだろう。全く見当もつかなくていたたまれない気分だった。でもここで帰ってしまったら何もかも曖昧になってしまいそうで、帰るに帰れなかった。自分の足元を見つめ上目遣いでちらちらと彼の様子をうかがう。

 しばらくそうしていたら、榊君は天井に視線を移してぽつりと言った。

「……あの、その、ありがとう。助けてくれて」

「ごめんなさい……」

 私が言うと榊君は少し体を起こした。

「今まで、助けてあげられなかった……」

 きょとんとした表情だったけど、空色の眼は鋭く光り、観察されているような気がして怖かった。視線を落とした手はひとりでに震えている。

「うぐっ……」

「だ、大丈夫!?」

 突然胸を押さえて苦しむ榊君に跳び上がるようにして駆け寄る。点滴のためにむき出しになった左腕を取ると、規則正しい鼓動が感じ取られてほっと胸をなでおろした。

 榊君の心臓は、今朝の様子が嘘のように力強く拍動していた。ラグビーボールのような形の心室が膨らむと太い血管の繋がった心房を通じて血液が流れ込む。それに続いて縮む力で血液が動脈へと押し出されていく。その様子が、はっきりと分かった。

「良かった……なんともないのね。でも、どうしたの?」

 ぎょっとした様子で榊君が見下ろしたのに私は気がつかなかった。その瞬間別のことに気を取られたから。

 ――榊君の眼、特別な力がある……?

「ちょ、ちょっと」

 榊君に呼びかけられて、はっとなった。

「ご、ごめんなさいっ!」

 慌てて腕から手を離す。顔が熱い。

「あ、あのさ」

 声をかけられて見上げると、榊君と目が合った。そこにはさっきまでの探るような色はなくただ純粋な驚きをたたえていた。

「え、えっと……」

 焦りと迷いがそこに加わる。榊君は、しばらく悩んだ後、決心した様子で口を開いた。

「どうして、分かった?」

 厳しい声で尋ねられて、眼のことを聞かれているのだと理解するまでにしばらくかかった。

「ど、どういうこと?」

 榊君は再び困った顔をしたけど、首を振って諦めたように口を開いた。

「僕さ、眼を見ると、人の心が見えるんだ」

「え?」

 

榊君の腕に触れた時、彼の眼はぽうっと光が灯っていた。

 もちろん現実の光じゃない。肌を通して伝わってくる眼の像と言うか、影と言うか、そこから何か特別な雰囲気を感じた。形でも色でもないそれは何なのかよく分からなかったけど、特別な力が宿っているのだという不思議な確信があった。

 だからなのか榊君の突拍子もない話はすっと心にしみるように信じられた。それとも彼が嘘をつくはずがないと信仰に似た思いがあったからなのか。

(心が……見える……?)

 それでもその話の意味するところを正しく理解するには時間がかかった。しばらく呆けたような顔で榊君を見つめていた。

(あれ? それじゃあ、私が榊君を好きだってこと、ばれちゃってるんじゃ……)

 その瞬間、榊君は面食らった表情でシーツにもぐった。

(あ……今、ばれちゃったのね……)

 まるで他人事のようにのんびり考えていたけど。

(あれ?)

 一呼吸置いて一気に頭が回り始めた。

(ちょ、ちょっと待って? 私が榊君を好きな気持ちが、榊君に伝わったってことは、つまり、こ、告白……)

 ようやく私も真っ赤になった。

(え、こ、告白っ!? 嘘っ!? そ、そんなつもりじゃなかったのにっ!? でも、結果的には……)

 少し顔を出した榊君の表情が少し和らいだ気がした。

「み、見ないでっ!」

 思わず叫ぶ。

「ご、ごめん。いや、その、白宮さんって意外と天然なんだな、って」

「うるさいっ! 何なの、もうっ……」

「僕と一緒」

「え?」

 榊君はぎこちなく笑みを浮かべて、目をそらすようにして上を向いていたけど、蒼く滲んだ眼差しは真剣そのものだった。

「ごめんね、本当に、ごめん。ずっと誤解してた。勝手に白宮さんの気持ちを決めつけて眼を見ようともしなかった。そのせいで、傷つけちゃって……」

 戸惑いを隠さない歯切れの悪い榊君の言葉は、それでも泣きそうになるほど嬉しかった。

「いいから、もう、いいの」

 心の底からそう思った。

「もう全部、終わったことだもの」

「……ありがとう」

 そう言う榊君は硬い表情を崩さなかった。まだ本心から許してくれているわけではないのだ。けど、多少なりとも歩み寄れたのだと分かった。

「ひとつ、お願いしてもいい……?」

「……何?」

 それでもやっぱり物足りない気がしていた。怒られないかなと内心びくびくしながら思い切って聞いてみる。

「し、『白宮さん』じゃなくて、『タチ』って呼んでくれる?」

 榊君がほんの僅か口元を緩めるのに気がついて、うっとりしながら眺めていた。

「よろしくね、タチ」

 私、今、幸せだ。胸の奥がほんのり暖かくなるのを感じた。


 榊君には、すぐに目をそらされてしまった。

――でも、今はこれで充分。

 心中で呟く言葉は榊君にも見えているのだろうか。

 ――きっといつか、通じ合える時が来るはず……。

 私はにっこりと笑った。

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