一章 藍色の眼

 冬休み明けの教室。

 まぁ、騒がしいのは当然だ。が、俺はそれが気に入らない。

 公立の中学校、三年の三学期と言えば、それは高校受験の四文字でほぼ言い換えることができる。今はまさに、そのスタートの合図が鳴ろうとしているところ。

「だから、悪い冗談に決まってるじゃねえか。なんだってこんな時期に、転校生がやってくるんだよ」

 傍らの友人をなじるように、俺は口を開いた。

「俺に聞くなよ。俺だって信じられない。でも、確かに見たんだよ。あんな奴、絶対にこの学校にはいなかった。」

「どうせ一年か二年の間違いだろ?」

「担任と歩いてたし、ちゃんと名札も確認したって。俺、びっくりして二度見したもん」

 うちの中学校は、名札のプレートに引かれた線の色によって、その生徒の学年を知ることができる。今年度で言えば、一年は緑、二年は青、三年は赤。

「つったってなぁ……学年全員の顔と名前を覚えてるわけじゃねぇだろ……」

「いや、アレは見れば分かる。絶対外国人か、そうでなくてもハーフだって」

「余計胡散臭いっつーの」

 やれやれと首を振ると、クラスメイトは機嫌を損ねたらしく、ホントに見たんだよ、と毒づいて、自分の席へと向かう。ばかげている、と星野 閃斗(ほしの せんと)は思った。何故みんなああいうくだらない話が好きなんだろうか。もっと面白いことなんて、腐るほどあるのに。

 

が、しかし、今回ばかりはそうではないようだった。

 

 始業のチャイムから一分ほど遅れて、担任が教室に入ってきた。

「えー、休み明けで積もる話もあるのは分かるが、ちょっと静かにしてくれ、大事な話がある」

(いや、まさかな……)

「転校生を紹介する。ほら、入ってきなさい」

(マジかよ……)

 これはもう苦笑いするしかなかった。先程の友人はざまあみろと言わんばかりにニヤニヤしている。出入り口に見知らぬ人影が登場すると、ざわめきが大きくなった。

 確かに、日本人離れした風貌だった。ふわふわとした巻き毛は雪のように白く、大きく見開かれた眼は蒼い。小さく整った鼻、彫像のように白く、しかし柔らかな肌。口元はへの字に曲がっていたが、それでも愛らしさが漂っている。髪の毛は短いが、男子にしてはやけに背が低い。男か女か判断つきかねていたが、いずれにしても人形のようという表現がこれだけぴったり合う人間はないほどだった。制服の代わりに着ていたのは撥水のフード付きコートと、だぶだぶの青いコットンパンツ。ところどころすりきれたり、ほころびたりしているのが目に付いた。室内にしてはずいぶんと暑苦しい格好だったが、それでも物足りないのか顔をコートの襟に沈めている。寒がりなのか、それとも緊張しているのか。

「榊 斎人(ときわぎ さいと)君だ。このクラスとして生活する時間も残り少なくなったが、仲よくしてくれ。ほら、斎人君、君も何か一言」

 名前を聞いてようやく男と分かって、教室中がどよめく。しかし一方で、突然の新参者はだんまりを決め込んでいた。色素の薄い、空色の瞳で虚空を凝視している。見れば、肩が微かに震え、髪の毛と同じく真っ白で滑らかな肌は、少し火照っているようだった。

「……まぁ、無理しなくてもいい」

 緊張した様子を感じたのか、担任はこれで紹介を終えるつもりのようだった。

「おい、星野」

「え? あ、はい」

「教室の外に机が置いてある。中に入れてくれないか。君の隣は空いているだろう?」

「わかりました」

 めんどくさ、と心の中で舌打ちして、古ぼけた机と椅子を運び入れた。自分の席の左隣に置き、机の脚をビニールテープの印に合わせる。

 顔を上げると転校生と目が合って、思わずぎょっとしてしまった。慌てて視線をそらし、自分の席に戻る。斎人は礼も言わずにそっと椅子に腰を下ろした。その動作は静かで、幽霊のようだった。

 俯く斎人の姿を見て、俺はなぜかほっとしていた。脳裏には空色の視線がちらついている。内気な奴だと思ったが、それにしては、俺と目があってもそらそうとしなかった。何故こいつは俺に向かって、挑むような視線を投げかけてきたのか。

 

こいつはただものじゃねぇな。直感的に、そう考えていた。



「で、何の用だ?」

 俺の声は、無人の廊下によく反響した。正確に言えば、俺の他にもう一人。

「……ちょっとこれから時間ある?」

 初めて聞く斎人の声は、幼げな少年の声にも、凛々しい少女の声にも聞こえる。

「そりゃあ、もう放課後だからな、内容による。受験勉強より優先できるって言うなら、聞いてやらんでもない」

 と、暗に断ったつもりだったのだが、どうやら斎人には通じなかったらしい。

「君、腕っ節に自信はある?」

 唐突な質問に、ちょっとまごついたが、さらりと答えた。

「あ、あぁ。まあな。少なくとも平均よりは上だな」

 それが俺にできる精一杯の謙遜だった。実際、体力テストでは学年トップクラスだ。

「それなら充分だね」

 うーん、と小さく唸って、斎人は考え事を始めた。そこで初めて、俺は自分が観察されていたことに気がついた。

「お前、日本語喋れるんだな」

 名前は明らかに日本人だが、一日中全く喋らなかったから、根っからの外国人だと思っていた。

 しかし、斎人はふん、と鼻を鳴らして答えないので、少々カチンときた。呼び出しておいて何なんだこの態度は。

「あのな、用があるならさっさと言ってくれ。俺は無駄な時間ってやつが一番嫌いなんだ」

 斎人は、唇を尖らせたまま、まっすぐ俺を見つめる。

「頼みごとがあるんだ。大事なことだけど、僕の力だけじゃ無理だ。誰かの協力が要る」

「何故俺に?」

「賢そうだったから」

 斎人はきっぱりと言い切った。

「どうしてそう思った?」

 うーん、と首を傾けるが、視線はぴったりと俺に張り付いたままで、気味が悪い。

「態度というか、仕草というか、僕をずっと観察してたし、授業聞かないで、自分の勉強してたから」

ちょっと不可解だったが、褒められたので悪い気はしない。

「で、頼みってのは?」

ぶっきらぼうに訊く。

「殺人を止める」

「は?」

「殺人を止めるのを、手伝って欲しいんだ」



 幸いなことに、既に日は傾いて、紫がかった夕焼け空が俺に微笑んでいた。俺は、人気のない路地で、電柱の陰に身を隠しているところだった。遅くなると親には既にメールしておいたが、仮に帰れなくなったとしても気にしねぇだろうな、とぼんやり考えていた。

 奴は包丁を持っている。斎人はそう言った。鞄の中に入っていたのを見つけたらしい。

 もちろん、鵜呑みにしたわけではない。あまりにも突飛な話だったし、包丁を持っているからと言って人殺しをするとは限らない。

 しかし、俺はいつのまにか、斎人の頼みを引き受けていた。彼の言葉には妙に説得力があったし、たとえ騙されているのだとしても、謎に満ちた斎人を知る機会と思えば、儲けものだった。

(しかしなぁ、こんなことなら断っておくべきだったぜ)

少し後ろ、室外機の陰に隠れる斎人に聞かれないように、心の中で呟いた。もう三十分も待ち続けている。傍目から見ればずいぶんと怪しい。誰も通りませんように、と祈るしかできない。

実に不思議だった。何故『待ち』の嫌いな俺が、斎人の言いなりになっているのか。何がそうさせるのか分からないが、斎人は俺より何枚も上手だと言うことだけは分かった。


「ねぇ」

 斎人が突然小声で呟いた。

「なんだよ」

「足音」

 その言葉に、俺ははっと我に返った。

 じゃりじゃりと足音が近づいてくる。ごく近くだ。目の前の曲がり角。

 俺が呼吸を整える前に、一人の男子生徒が姿を現した。

 電信柱に身を寄せ、何とかやり過ごす。幸いこっちに気がつかず、曲がり角を右に折れて、大通りの方へと抜けていった。

(よし……)

 ふうっ、と詰めていた息を吐き出して、狭っ苦しい石の壁から一旦抜け出す。


しかし、それは迂闊だったと言わざるを得ない。

「星野君? 何してるの? こんなところで」

 思わず、跳び上がりそうになった。急いで振り返るとクラスの女子の姿があった。田中だったか鈴木だったかよく覚えていないが、今日は見間違えようもない。

 もう待ち伏せる必要はないと分かった。


「待ってたんだよ。お前を」

緊張で声が震える。相手の返答いかんで、俺が赤っ恥をかくだけで済むのか、それとも……

「出しな。包丁を」

 凄みを込めた一言に肩を震わせたのを見逃すはずもなかった。何より、その反応に一番驚いたのは俺だった。こうなれば斎人の話を信じるしかない。

「な、なんのこと?」

「包丁を渡せ、と、そう言ってるんだ。見ちまったんだよ。鞄の中に入っているのをな」

「何の冗談……」

「いいから出せ。つべこべ言わず俺に渡すなら、今日のことは忘れてやる」

 どさりと地面に落ちた通学鞄。か細い手が震え、たどたどしくファスナーを開ける。白い手を突っ込んでぞんざいに取り出したのは、確かに鞘に収まった包丁だった。


「危ない!」

斎人が叫んだ瞬間、少女は包丁を素早く鞘から抜き放って、俺に襲いかかってきた。一直線に撃ち出された銀色の刃が左胸に迫る。

 不意を突かれた俺は咄嗟に真横に踏みこんだものの、ぎりぎり刃をかわすので精一杯だった。体を反らしたことでバランスを崩し、ごつごつしたアスファルトに手をついて倒れ込んだ。それをめがけて少女はすかさず刃を振り下ろす。

「うわっ!」

 小さく叫んで体を捻る。空を斬った包丁が地面に当たって甲高い悲鳴を上げた。起き上がろうとするが、それを待ち構えるかのように斬り払われる刃に、俺は這いつくばったままじりじりと後退するしかなかった。

 がつんと背中が塀に触れた。もう退けない。すると、包丁を逆手に持ち替えた少女が一際大きく振りかぶった。

 その隙を、俺は見のがさなかった。刃を突きこもうと踏み込んだ少女の軸足を鋭く蹴ると、少女はよろめいて、その間に俺は立ちあがった。息を切らして塀に背中を張り付けている俺は、冷静さを取り戻しつつあった。

 唸り声を上げて、少女が突進してくる。けれど、思いのほか足へのダメージは大きいようで、先程よりも速度は遅い。はっと声を上げて気合を入れると、突きだされた腕をぱしりと捉え、受け流すようにしながら引き倒す。俺は少女の腕を返して、肘の関節を押さえ込んだ。

 くっ、と呻く少女は、もう動けない。合気道の基本技、『一教』。小さな力で大男もねじ伏せられる技であるうえ、体格も俺の方に分がある。勝敗は火を見るより明らかだった。

「おい、無駄な抵抗はするな。下手に動くと折れるぜ」

 力を失った手から包丁が離れたのを見て、それを素早く蹴り飛ばす。

「邪魔しないで」

 少女は俺をきっと睨んで歯ぎしりするが、全く動ける様子はない。

「邪魔なんてしないよ」

 突如、物陰から斎人が現れた。白い巻き毛がふわりと揺れ、口元は優美な曲線を描いていたが、まっすぐに少女を捉える眼は、品定めでもするかのように、冷たい空色に光っていた。

「あなた、確か転校生の……」

 少々意外だったようで、少女の声の殺気がいくぶん少なくなった気がした。代わりに、探るような目つきを斎人に向ける。

「包丁を見ちゃったのは僕なんだ。それで、星野君に協力してもらった」

「さっさと放して!」

 噛みつくように叫んでもがく。俺は腕に込める力を強めるが、バタバタと振り回される足は動きを止めない。

 その様子を見て、斎人は少し顔を曇らせると、何故か俺を振り返った。俺はびっくりして、腕に込める力を緩めそうになったが、かち合った斎人の視線は冷たい空色ではなく、少し色を濃くして、揺らめいていた。口元の微笑みもどこかぎこちなく、繕っているのだと知れた。少女には悟られないようにしながらも、俺と少女に交互に視線を泳がせて、握りしめた手には汗が浮かんでいる。

(迷っている……? 一体何を……?)

 俺が問いかけるような視線を投げると、斎人は小さくため息をついて、微笑みを繕った。まだぎこちなさが残るものの、妖精のような姿には不思議な魔力があった。

 斎人は、少女の顔の前にかがみこんで、そっとささやく。

「好きなんでしょ? 尾けてた男の子」

少女の動きが止まった。

「いい? 殺す必要なんてないんだ。大丈夫、彼も君を好いている」

「どうして……」

魂の抜けたような目で斎人を見つめ返す。

「間違いメールだね? 発端は。あれは彼の悪戯だよ。いわゆる、気持ちを確かめたい、ってやつだろうね。まぁ、ちょっと度が過ぎるとは、僕も思うけど」

「嘘!」

引きつった顔で叫ぶ。

「だいたい、なんで転校生のあんたが知ってるの!」

 斎人は、ちらり、と俺の方を見て、思わせぶりに微笑んだ。

「嘘だ……」

斎人の仕草を見て、女の声のトーンは一段低くなる。

「嘘かどうか、自分で聞いてみればいいじゃない。怒るのももっともだけど、問答無用で刺し殺すのは駄目だよ」

真顔で言う斎人。 両手で掴んでいる腕が、少し硬さを失ったような気がした。

「……信じてもいいの?」

「少なくとも、僕と星野君は、嘘は言っていない。それは誓う」

「……分かった」


「ほら、放してあげて」

 斎人にそう促されて、ようやく、拘束する必要のないことに気がついた。解放された女子生徒は、ゆっくりと起き上がり、うち捨てられた包丁をしばし眺める。一瞬びくりと小さな肩が震えて、包丁から視線をそらし、そのまま立ち去った。すれ違う瞬間「ありがとう」と、弱々しい声が聞こえた。だが、そんなことはどうでもよかった。

 ――今の話は全部、初耳だった。

「どうやって、知ったんだ。俺も知らないことを」

「あ、あの男の子の愚痴を聞いたんだよ。ほら、君がやり過ごした人」

 ぽつり、ぽつりと話す斎人の声は、少し震えていた。

「嘘をつくな。あいつの顔は知ってるが、別のクラスのやつだ。お前はずっと俺たちの教室にいただろう。俺もそうだ。お前が聞いてて、俺が聞いていないはずがない」

「知らないよ。聞いたものは聞いたんだから」

 強がる斎人の眼は、しかし、少しおびえたような色をしていた。まるで小動物をいじめているようで、ちくりと胸の奥が痛んだが、構わずに質問を続ける。

「包丁もそうだ。鞄の奥深くにしまってあった。確かに、あいつは憎悪で頭がいっぱいだったかもしれねぇが、みすみす見られるような真似はしねぇだろ」

「見たものは、見たのっ」

 俺は心の中で舌打ちした。これじゃ埒が明かない。いろいろな可能性を吟味するしかねぇな。

 今のは全て演技だったのか? しかし、女は躊躇いなく刃物を振り回したし、演技をする理由もない。しいて言うなら俺に近づくというのが候補に挙がるが、もっと別のやり方があるはずだ。殺人を止めろと言われて、普通は相手にしないだろう。それとも、校内に知り合いでもいて、色恋沙汰のことを教えて貰ったのだろうか。いや、それなら真っ先にその知り合いに相談するだろうし、包丁を持っていたことには気づけなかったはずだ。女のことを知っていたなら、もっと賢い止め方があるだろう。

 つまり、こいつは、女以外は知りようがなかったことを、知ったのだ。

「まさか、さ……」

 斎人は、観念したかのように、ふっと息を吐いた。

「君の考えてることなら、合ってるよ」

「……マジで言ってんのか?」

「どうやって言い訳しても聞く気ないくせに、よく言うよ」

斎人は不敵に笑う。

 ――こいつは、人の心が読める。

「よく気がついたね。正直、びっくりしたよ。まぁ、今回の一件をなんとかするために、誰かにバラすことになるかもしれない、とは覚悟していたけど」

 あり得ない、と俺は必死に自分に言い聞かせていた。しかし、何故か自分の中に生まれた仮説は揺るがなかった。知りたいと思う自分と、それを抑え込む自分がせめぎ合っている。

「いや、信じらんねぇな」

 苦し紛れにそう言った。

「信じないなら、信じないでいい。僕だって人に知られたくないもん」

 そのまま立ち去ろうとする斎人の背中を見て、好奇心が勝った。

「いや、待て。そいつはどういう仕組みなんだ? どうやって人の心を読む?」

「なんで答える必要があるの?」

「人に知られたくないんだろ? そのことを」

 斎人は、振り返ると、にやりと笑った。

「ふうん、僕を脅してるの? 君にそんな酷いこと、できる?」

「言っとくが、好奇心の強さだけは自信があるぜ」

 言いつつ、確かに良心が痛まないでもなかった。

「よく言うよ。相当プライド高いでしょ、君」

「うるせぇな。で、どうなんだ」

「言わない。話したかったら話してみれば? どうせだれも信じないよ。それに」

 体ごと向き直って、鋭い視線で俺の顔面を射抜く。

「秘密を握ってるのはお互い様だよ。心が見える僕の前では、秘密は秘密にならない」

「やめろ!」

俺は思わず叫んでいた。

 やめてくれ、誰に向けるでもなくもう一度呟いて、固く目を閉じ、うなだれる。

「……いや、すまない。分かった。今日のことは忘れる。だから、それだけは、それだけはやめてくれ……頼む……」

 斎人は驚いた様子で俺を見つめていた。だが、それを気にする気力も俺には無かった。俺は荷物をとって、そのまま走り去った。


 毎日通る通学路に出ると、ようやく落ち着いた。大きく息を吐き出し、酷く疲れていることに気づく。

 思い出したように空を見上げると、真っ赤な海を、真っ黒な雲が切り取って、強烈なコントラストの斑点模様を作っていた。かつてないほど不気味な空。その景色は、俺の目の前にあの日の記憶を突き付ける。


 あの事だけは、あの事だけは、知られてはいけない。

 ぶるぶる震える手で、ペンダントを固く握りしめた。


***


(寒いなぁ……)

 くしっ、と小さなくしゃみを鳴らして、僕は執拗な視線の雨を通り抜けた。私服の転校生なんて注目を浴びるに決まっているけど、好きでそうしてるんじゃないんだし、放っておいて欲しかった。今はもう、誰とも関わりたくない気分なんだ。

 教室に入ると、案の定、四方八方から視線が突き刺さる。頑張って嫌そうな表情を作ろうとするが、あまりうまくいかない。ため息とともに席に座ると、思い出したように左隣を見る。

 隣の席の星野閃斗は、窓際の席で肘をついてひたすら外を見つめていた。その後ろ姿は何も語ることはない。だが、諦めることなく視線を窓の方に移した。

《確証はねぇが、『あのこと』はまだ斎人に知られてないだろう》

 立ち込める黒雲が作りだす暗がりが、窓の表面を磨きあげている。そこにはこちらに背を向けた星野君の顔がはっきりと映っていた。

つんつんと逆立った短髪、見上げるほどの背丈、つっけどんな口調。彫りの深い目鼻立ち、日焼けした顔は、がっしりとした骨格に裏打ちされて引き締まっていた。いかにも体育会系だけど、細い眼の奥、真っ黒な瞳は冷ややかで、頭の回転の早さをうかがわせた。

その眼に焦点を合わせると、その中に、うっすらとたゆたう水面が見えた。静かにゆったりと波打つ様子から、彼が平静そのものであることがわかる。

 これこそ、『心の見える』能力そのものだ。眼の中に現れる水面の波の様子や色から、おおよその感情が読みとれる。そして、頭の中で言葉をめぐらしているときは、その言葉がまるで船のように、水面の上を滑っていくのだ。

《つまり、斎人に分かるのは今現在考えてることだけで、記憶までは辿れねぇってわけだ。心を晒す機会は少ないほどいい。……あいつは確か、『心が見える』と言った。こいつは大きな手がかりだ。何かを見ることを通じて、心を見ている可能性がある》

 そこまで見て、思わずぞっとした。

《顔だな、たぶん。あいつは典型的な引っ込み思案だ。なのに、堂々と俺の目を見て話しやがる……》

 その瞬間、窓の中の星野君と目が合った。そこで、ぎくりとなって表情を変えたのがいけなかった。おそらくは全てを悟った彼は、素早く目をそらし机に突っ伏して、腕の中に顔をうずめてしまった。

(なんなんだよ、いったい!)

 僕は心の中で叫んだ。まったく、どうかしてる。心が見えるのは顔じゃなくて眼を見た時だけど、それ以外は全て図星だ。

 僕は茫然と傍らの同級生を眺めていた。もちろん、その背中は何も語らない。心を隠されている現実が、僕は信じられなかった。賢い人だとは思っていたけど、心を見るプロセスまで気がつくなんて、信じられない。まるで、真実そのものに一足飛びに辿りつくセンスを持っているみたいだ。

(まずい、まずいぞ)

今の視線のやり取りで、反射を利用したテクニックも知られてしまったから、これから眼を盗み見る機会はほとんどない。その間にも星野君は、自らの保身のため、知識欲を満たすために、僕を調べ上げるだろう。それだけは勘弁してほしい。

(昨日、秘密は秘密にならないと言ってみたあのとき、星野君の焦りっぷりは尋常じゃなかった。よほど知られたくないことがあるんだ。それさえ、知ることができれば……)


 ちょうどその時、始業のチャイムが鳴った。教室のあちこちで生徒が席につく。

「ったく、ちょっとは返事してくれてもいいじゃねぇか……」

 言葉とともに舌打ちの音が通り過ぎた。我に返って顔を上げると、男の子が一人が去り際にこちらを睨んでいた。どうやらずっと僕に話しかけていたらしい。刺すような視線から、おぞましい嫌悪感が露わになっていた。

 それを見て、息が詰まった。

 自分に向く冷たい視線なんて、見慣れたはずだった。でも、今の視線のやり取りは、僕の心を深くえぐった。なんて、なんて、恐ろしいんだ。普通なら見えない、むき出しになった負の感情は想像を絶する痛みをもたらした。心が見えるようになったからには、この痛みとも戦わないといけないのか。そう思うと、背筋が震えた。

 我に返ると、昨日やりあった女子生徒が視界に入った。昨日の殺気に満ちた眼が嘘のように、晴れやかな笑顔を浮かべている。昨日の僕が望んだ結果だ。しかし、今の僕には、彼女が憎たらしくてしょうがなかった。


 

三日後、家の前に星野君の姿を認めて、仰天した。

「なっ……」

思わず隠れようとした僕に気がついてにやりと笑うと、彼は本を閉じた。

「おう、待ったぜ」

 そのまままっすぐ僕に近寄る。逃げられなかった。

「ど、どうやってここに……?」

 尾行されたのか? 星野君ならやりかねないと思ってたから、気をつけていたはずなんだけど。いや、それにしても、なんで先回りしてるんだ……?

「尾けてた、とか考えてるのか? まあ、半分当たりだ」

口をへの字にした僕を見て、彼は笑った。

「図星か? 俺にも多少は心が読めるみたいだな。なに、だいたいの場所が分かれば、しらみつぶしに探すだけだ」

「し、しらみつぶし? この一帯全部?」

「ローマ字で表札出す方が悪いんだよ。『ときわぎ』なんて滅多にいねぇからな。独り暮らしのアパートに目星を付ければ、すぐだ」

「なんで……」

僕は声が震えるのを止められなかった。

「なんで知ってるのさ、僕が一人暮らしだって、まさか……」

 ぎこちない沈黙が吹き抜ける。

「知ってるの? 僕に、親がいないこと……」

「……あぁ、そうさ。だから、今日は謝りに来たんだ」

 俯いた姿から、ひょうひょうとした態度が消えていた。

「だからさ、頼むから、入れてくれ……」

か細い声で呟いた星野君の眼を見て、はあっとため息をつく。

「……どうせ無理やりにでも入るんでしょ」

「……ちぇっ、やっぱバレたか」

 小さく首を振って、がちゃりと鍵を回す。星野君は真後ろにぴたりと張り付いていて、油断も隙もない。僕に逃げ場はなくなった。


 一緒に部屋に入ると、カーテンは閉まったままで、夜かと思うほど薄暗かった。古ぼけた電灯が点くと、床の木目が浮かび上がる。

「……おいおい、ずいぶんと悪趣味なインテリアだな」

 見上げた星野君の視線の先には、天井からつり下がるロープ。先っぽは首がかかる様に、輪っかになっている。

「気にしないで、ずっと前から掛けてあるんだ」

「なんだってこんなものをずっと……」

「君のここに来た理由、もう一度言ってもらおうか」

 僕が無表情で睨むと、星野君は体を硬くして、顔をそむけた。

「分かってる」

 そう言って、彼は膝をついた。床の木板が悲鳴を上げる。

 その行動をいぶかしんでいると、決然とした表情の星野君は、額を床にたたきつけて叫んだ。

「すまねぇ! 節操ってもんが無かった。知っちゃならねぇ事にまで首を突っ込んじまった。許せとは言わねぇが、この通りだ!」

 僕は唖然として、彼を見下ろした。

(なんなんだ……この人……)

 僕はもう少しで口に出しそうになった。謝りに来たと言うのも意味が分からなかったけど、自尊心の強い星野君が土下座までするとは思わなかった。正直、警戒が先に立つ。演技なのか? でも、何のために?

「……眼を見せて」

 それが一番手っ取り早かった。星野君はゆっくりと顔を上げる。

その目はうっすらと濡れていた。けどそれは僕にとって些細な驚きだった。真っ黒な眼はガラスのように透き通り、身を切るような自責の念を露わにしていた。ここまで強い『意思』を僕は見たことがなかった。しかもその感情は、僕に対する深い同情に根ざしていた。

「……もしかして、君も大切な人を亡くしているの? ごく最近に……」

星野君は微かに俯いた。その瞬間、眼の奥に一人の少女が垣間見えた。綺麗な人だったが、その姿には血のイメージが纏わりついている。

僕は、今まで他人に興味を持たなかった。お父さんとお母さん以外はみんな敵だったから、もし、興味を持ったとしても、それは結局自分を守るためだった。

 けど今、僕は星野君の過去を知りたいと思った。いかに乗り越えるか、その答えを、眼前の少年は知っている気がした。

「どうやって知ったの……? 親のこと」

でも、先に口に出たのはこっちだった。星野君が話し始める。

「中三の年明けに転校してくるなんて、余程のことがない限りそんなことはしねぇ。親の離婚か、死別か、俺にはそれくらいしか思いつかなかった。で、簡単な方から調べたのさ。半年以内に起こった殺人事件、事故……それで、三ヶ月前に起こった交通事故の記事を見つけた。お前の名前は載ってなかったが、親御さんの名前が載ってた」

「でもそれだけじゃ、僕が一人暮らしってことまでは、わからない」

「……学区内には孤児院なんかねぇし、親戚に引き取られたって考えんのが普通だ。だが、それは違うと思った。お前は私服だったからな。普通なら、前の学校の制服着てくるもんだ。事故があったのはすぐ近くだったから、お前は制服のある、この辺の学校に通ってたはずだ。つまり、何故か制服を失くし、新しい制服買うほどの余裕が無いってことだ。で、部活で知り合った他校の友達に片っ端から聞いてみたんだが……」

「待って」

星野君は再び顔を上げた。嘘でないことを確かめる。

「そこからは僕が話すよ」

 僕は抑揚の無い声で言った。

「……てっきり止められるもんだと思ったんだが、いいのか? 思い出したくないんじゃないのか?」

「なんか、君なら……」

僕は『わかってくれるかもしれない』の言葉を飲み込んだ。世の中そんなに甘くないことは、身にしみていた。けど、不思議と話すのは躊躇わなかった。


「いつからだっけ……物心ついた時には、もういじめに遭ってた。髪の色と、目の色のせいで」

 そう言って、真っ白な髪をさする。くるくると指に巻きつく髪は綿のように柔らかいけど、それが鬱陶しい。部屋の隅っこに置かれた小さな鏡に視線を移すと、くすんだ藍色の眼が映った。

「僕は何もしてないのに、ってずっと思ってたんだけどね、なんて言うのかな、だんだんすり替わっていくんだ。最初は周りの人が憎いんだよ。でもそのうち、人を憎いって思ってる自分が惨めになってきて、どうしようもない人間に思えてくるんだ。じゃなきゃ、こんな仕打ちに遭うはずがないもん、って。

でもね、一度でもそんな愚痴を言ったことはなかったのに、一番辛くて、あとちょっとで折れてしまいそうな時、お父さんとお母さんはいつも励ましてくれたんだよ」

 そこで一旦話を止めて、僕は唇を噛んだ。

「けど、二人とも、死んだ」

こもった声は、壁に届かずして消えた。

「三ヶ月前、絶望したよ。もうね、文字通り一日中泣いていたんだ。それまで、辛いのを我慢して学校にもなんとなく出てたけど、それどころじゃなくなったし、実際行かなかった。……あいつが来るまでは」

 視線を下げて、星野君の様子を窺うと、正座したままの閃斗が、まっすぐとこっちを見上げていた。なんとなく、その眼を覗くのがはばかられて、そのまま話を続けた。

「伯父、って言ってた。それももう本当のことかどうかは分からないけど、たぶん、嘘じゃなかったと思う。とにかく、あいつは突然やってきた。お坊さんを連れて来て、僕と一緒に小さなお葬式を出した。今思えば、あのときから警戒しておくべきだったんだ。僕らはクリスチャンだったのに……」

 徐々に、三ヶ月間抑え込んでいた怒りが、自分の皮膚を食い破るのを感じていた。体を流れるどす黒い熱に、焼き切れる寸前の神経がきりきりと悲鳴を上げる。

「忘れもしない、誕生日の前日だった。登校も再開して、立ち直りつつあったと思う。事故のことはみんな知ってたから、嫌がらせする人も減った気がした。あの時は、あいつは優しかったんだ。学校に行くことも無理強いしなかったし、引っ越すのが嫌ならここにいればいいって言ってくれた。でも、全部、全部嘘だった」

 もう、耐えられない。口からあふれだすのにまかせて、僕は叫び始めた。

「その日帰ったとき、門に大きな南京錠がかかってた。不動産屋の電話番号が貼ってあったんだ! あいつは、あいつは! ……僕が学校に行く間に、全て事を終えていた! 財産権を引き継いだのをいいことに、家を売り払ったんだ! 僕の物、父さんと母さんの物、家族の思い出を! 何もかも!

 馬鹿だったよ。あんな奴を、ちょっとでも親がわりだと思ったんだ。もちろん、強引に家の中に入ったよ。でも、余計苦しむだけだった。中の物は一切合切無くなっていた。家具も、家電も、食べ物も。ほのかに残っていた、お父さんとお母さんの匂いも、全部、消えていた。ただ一つを除いては」

 僕は口をつぐんで振り返り、当たり散らすような足取りで窓際の小物入れに近づく。この部屋の唯一の収納は作りが悪い。中々開かない引き出しと格闘して取り出したのは、一枚の写真だ。

「がらんどうのリビングに、ポツンと落ちてんたんだ」

押し殺した声で言って、星野君に向かって突き出すと、写真に空いた二つの穴から驚愕の表情を張り付けた星野君の顔がのぞいた。斎人と一緒に写った両親の、顔のあった場所だ。鉛筆で無惨にえぐり取られている。両親の笑顔は、もう残っていない。

 写真をしまった僕は力無く腰を下ろした。しばらく黙って、またぽつりぽつりと語り始める。

「もう誰も信じないって誓った。そしたらいつの間にか、人の心が見えるようになってたんだ。これなら、誰にも騙されることなく、一人でも生きていけるって思った。で、今こうしているんだ」


 話し終えて、僕はぐったりとしたままうつむいていた。閃斗はその間、何も言わなかった。

 しばらくして顔を上げたとき、全身がだるく、頭に靄がかかったように感じた。乾ききった視界の奥には、まるで人魂のような藍色の光が揺らめいていた。それが星野君の眼に映る、自分の眼の色だと気がつくのに、しばらくかかった。

「なんでだよ……」

星野君が、震える声で言った。

「なんでなんだよ! 何でお前、そんな話して、な、泣かずに、いられるんだよ……」

 尻すぼみになる声に、ぼうっとした頭が徐々に冴えていった。

「泣いて、いいの……?」

「え?」

「……馬鹿に……しない?」

 心からの言葉だったけれど、意外にも星野君の眼には驚きが見てとれた。口元をわなわなとふるわせながら、心の水面は次第に怒りと憐みをないまぜにして、渦巻き始めた。

「ふ、ふざけんじゃねぇ! 誰が、誰が馬鹿になんか……」

 星野君の反応は、僕には大きな衝撃だった。自分の中の柔らかいところを、知らず知らずのうちに覆って閉じ込めていた何かに、ひびが入ったような思いだった。唖然として見つめる間、星野君は大きく息をして、僕にかける言葉を探しているようだった。頬に涙を伝わせて俯いた彼の姿に、胸を打つものがあった。

ぼーっとしている間に、少しずつ星野君の思いが自分の中に染み込んでいくのを意識した。しばらくそうしていると、突然自分の中で何かが弾けて、僕はわっと泣き始めた。

「うわあああああぁぁん……」

「お、おい」

 慌てる星野君の姿も、意識には上ってこない。

「お父さん……お母さん……どうしてぇ……えぐっ……どうしてっ!」

 必死になだめようとする声も、やがて聞こえなくなった。

 心の奥底から湧き起こる雫をそのままぶちまけて、僕は赤ん坊のように泣いた。透き通った、清らかな涙の流れは、体中をめぐって、全身の感覚を洗い流していった。


 

薄暗かった。

 誰かが僕を呼ぶ声がする。いや、気のせいに決まってる。だって、僕は独りだから。

「おい、斎人。起きろよ、朝だぞ」

「う……ん……?」

「寝ぼけてんじゃねぇよ、朝だって言ってんだろ?」

 ぽかり、と頭を一発やられた。目をぱちぱちさせる。

「あれ?」

「あれ、じゃねぇよ。もう一発殴られたいか。まったく……」

 星野君はあぐらをかいて部屋の隅に座っていた。もちろん、最近越してきたばかりのぼろアパートの一室だ。相変わらず埃っぽくて、くすんだ窓ガラスから漏れる朝日はあまりに弱々しい。

「な、なんで君がここに?」

「お前、なんも覚えてねぇのかよ! それともなんだ、まだ寝ぼけてんのか?」

「え、ええっと、昨日君がここにきて、それで……」

「『あの話』をした後、お前大泣きしてさ、そのまま寝ちまったんだよ。まったく、赤ん坊じゃねぇんだから」

「う、うるさいな!」

「なんだ、いじめられっ子の割にはちゃんと言い返せるじゃねぇか。ほらよ」

 そう言って僕の方にレジ袋を放った。恐る恐る中を覗くと、何のことはない、菓子パンの包みが入っていた。そう言えば、結局昨日の夜は何も食べなかったっけ。

「あ、ありがとう」

 無断で家に押し掛けるような奴に借りを作るのは癪だけど、空腹には勝てない。そそくさとビニールの包みをちぎって、大ぶりのメロンパンにかじりつく。ざらざらした触感の生地を噛みしめると、香料の甘いにおいが鼻をくすぐる。なんだか、甘いものなんて久しぶりに食べた気がした。

 黙々と三個目の菓子パンを平らげると、頬杖ついてそっぽを向いていた星野君がビニール袋を差し出してきた。どうやら既に食べ終わっていたらしく、中には三つほどパンの包みが入っている。

「お前さ、本当に独りで生きていくつもりか?」

 ゴミを片付けている僕の背中に、星野君が呼びかけた。僕は振り返らず沈黙で答える。

「冷蔵庫もねぇ、洗濯機もねぇ、キッチンもねぇ。あんのは水道と風呂、トイレだけだ。服も数着しかねぇみたいだし、現金の貯蓄も見当たらない。こんなんで一体どうやって暮らしていくつもりだ?」

「……仕方ないじゃないか」

 消え入りそうな声で、僕は答えた。

「何が『仕方ない』だよ! 確かにお前が人と関わりたくないのは分かった。けどな、生活保護の申請をするとか、新聞配達するとか、いろいろ方法はあるだろうが。このままだと、そう遠くないうちに野たれ死んじまうぜ」

「それならそれで、いい」

「本気で言ってんのか? なら聞くが、なんでこんなもん作った?」

 閃斗は麻のロープでできた輪っかをつかんだ。

「死ぬつもりで作ったなら、お前は何故生きてる。本当は死ぬのが怖いんだろ?」

「うるさい!」

 ついに僕は振り返った。

「勝手なことばかり言って! 何様のつもりだ! じゃあ、もし同じ立場なら、君はきちんと行動できるって言うのか!」

「できねぇよ! だからこそ忠告するんだ。何も言わなきゃお前はずっとこのままだ!」

「なんだと!」

 きつく睨む視線を、星野君はまっすぐに受け止めた。瞬間、僕はその眼の中身に言葉を失った。本当に、心配してくれている。それがひしひしと伝わってきた。

「進路はどうする気だ? 行く高校決めてんのか? それともフリーターにでもなるつもりか? 中卒で、人間不信じゃやっていけねぇぞ。それにお前の見てくれじゃ、年齢詐称は無理だし、人目につく。力仕事にも向きそうにねぇから、そもそも雇ってもらえるか怪しい」

 全くの正論だ。でも、そこに救いの道はないことがはっきりとわかった。

「じゃあ、どうしろって言うんだ……」

「うちに来い」

「……え?」

「俺の家に住め、って言ってんだ。なんなら俺が家庭教師もしてやる。お前が付いてこれるかどうかは保証しかねるがな」

「な、え、なん……」

慌てる僕を見ても、星野君は笑わなかった。

「ま、警戒するだろうな。言っとくが、義理や人情からこんな提案してるわけじゃねぇ。取引だ。俺はお前の能力に大いに興味がある。ギブアンドテイク、代わりにその能力についていろいろ聞かせてもらうぜ」

「そ、そんなに面白いかな? 別に君が人の心を覗けるようになるわけじゃないんだし……」

「面白いか、だって? 野暮なことを言うじゃねぇか。今までの話だけで気になることが山ほどある。考えてみろ、『他人』に『心』があるって証明できたやつは、誰もいなかったんだぜ?  それに、お前の能力は『心』が外からも認識できる現象であることも、同時に証明している。心を見るプロセスも気になるな。細かい眼の動きから無意識に読みとっているのか、可視光でない光を見ているのか、或いは光じゃなく、光と同じようにガラスで反射する未知粒子が存在して、それを見ているのか。さらには、何故そんな能力が芽生えたのか、何故お前にしかできないのか。疑問は尽きねぇ」

ニヤニヤした顔で、閃斗は一気にまくしたてた。

「そ、そうなの……でも、その、君が勝手に決めていいことじゃないでしょ? 経済的なこともあるから、君のご両親が許してくれるかわからないし……」

 僕は暗い顔で続けた。

「嫌々引きとられて冷たい目で見られるくらいなら、一人がいい……」

 けど、星野君は笑いを引っ込めずに言った。

「は、なんだ、そんなこと心配してんのか。気にするんじゃねぇ、俺の家は金持ちだからな。その気になりゃ恐竜だって飼えるぜ」

「うーん、そんなもんかなぁ……?」

「大丈夫だって」

そう言って、急に真顔になった閃斗は、背を向けてゴミ袋を片付け始めた。

「すぐに決める必要はねぇ。だが、今日一日は家に来てもらうぜ。話したいことがある……秘密にしてても、どうせバレちまうだろうしな」

「話ならここで聞くけど……」

「時間見てみろ。あと五分で出ないと遅刻だぜ? それに、遠慮なんかするんじゃねぇ。俺だって家に押しかけて泊めてもらったんだからな」

 反射的に『うん』と言いかけたのを堪えて、僕は立ち上がった。背後のリュックを手にとって、無言で教科書を詰める。

(義理や人情じゃないって言ったくせに、矛盾してるじゃん。カッコつけちゃってさ……)

 心の中で呟いた僕は、しかし、星野君の提示した取引は僕に遠慮をさせないためのものだと、無意識のうちに気がついていた。


***


どくんと俺の心臓が波打った。

 背後では、斎人が身支度をしている。しばらくは目を合わせずに済むが、それまでに心を落ち着かせ、取り繕わねばならない。もし今の心を読まれたら全てが駄目になる。なんとしてでも隠しとおさねばならない感情が、俺の中に沸き起こっていた。

俺は斎人を疑っていた。

 

もちろん、本気で疑っているわけではない。むしろ、ありそうもないことだと、心の中で首を横に振っていた。しかし、胸の奥の方で疑念は確かに疼いていて、忘れようと思っても決して消えない。それほど、俺にとってあの記憶は信じがたいものとして残っているのだった。『あの話』を斎人にぶつけ、反応を見ないことには、疑念は消えそうになかった。

 最大の問題は、今日一日、斎人からこの感情を隠さねばならないことだ。しかも、昨日までとは状況が違う。斎人に露骨に隠し事をすれば、斎人は悲しむし、俺への信頼を失うことになる。そうすれば、斎人を立ち直らせることのできる人間は、誰もいなくなってしまうだろう。

 斎人の前を歩いて学校へ向かう道すがら、俺は必死に策を練っていた。


***


 僕にとって、学校生活の中で一番鬱陶しいのは給食の時間だった。

 教室の端っこで、給食当番の生徒たちが白衣を脱いで袋に押し込んでいる。配膳はもう終わったので、後は当番の生徒が座るのを待つのみだ。

 僕の目の前には星野君の姿。それと、隣と斜め前に女子二人。鬱陶しさの原因は、四人で席をくっつけて食べなければいけないことだった。

 いただきますの声がおざなりに響くと、僕は箸に手をつけずに目を閉じ、しばらく待ってから食べ始めた。

「ねぇ」

鮭の切り身を口に運ぶ僕に、女の子が声をかけてきた。

「ずっと不思議だったんだけど、なんですぐに食べ始めないの?」

 僕はそれが聞こえないふりをして、蒸しご飯に箸をつける。給食用のご飯は一度にたくさん作るので、炊かずに蒸して作る。だから決まって味がなくて、糊のようだった。

「親がクリスチャンらしいから、きっと食前のお祈りだろ」

 僕は箸を止めた。

 女の子は、へぇっという顔で、まじまじと星野君を見た。

「いつの間にそんなこと聞いたの?」

「ちょっとな」

 そう言って笑う星野君の意図を、僕は測りかねていた。やめてくれよ。他人と関わりたくないの、知ってるくせに。

「ねぇ、榊君ってさ、ハーフなの? そうだとしても珍しいよね、真っ白な髪って」

 僕と星野君を交互に見つめて、もう一人の女子が聞く。黙れ黙れと心の中で念じながら、牛乳パックにストローを挿す。牛乳はあまり好きじゃないけど、まともにありつける食事は給食くらいしかないから、そうも言ってられない。

「クオーターらしいぜ。何でも、爺さんがフランス人だとか」

「違う、イギリス人!」

 思わず否定した瞬間、星野君がにやりと笑うのが分かった。しまったと思った時にはもう遅く、矢継ぎ早に質問が飛んでくるハメになってしまった。一度答えてしまったものだから、どうにもしつこい。――前はどこの学校にいたの? 親は何してるの? どうして転校してきたの? ――しかし、僕がどんどん暗い顔になるのを察したのか、話題は徐々に僕の好物や、得意なことに移っていった。あんまり無邪気に訊くものだから少し後ろめたくて、絵を描くのが好きだと漏らすと、やけに感心した様子なので、思わずその眼を疑ってしまった。ぎこちないやり取りが終わって、ようやく、市内の中学で起こった傷害事件に話題が移ったときには、とっくに食べ終わっていた。当番の生徒がじれったそうにしているので、慌ててお盆を持っていく僕の後ろでは、星野君が小さくため息をついていたが、気にも留めなかった。



 学校帰りの人気のない路地。隣を歩く星野君に、僕はむすっとした顔のままささやいた。

「なんだって、あんなこと言ったのさ」

「どうせ無視する気だったんだろ? そんなこと続けてたら、誰もお前のこと構わなくなっちまうぜ」

「余計なお世話だよ。もう誰とも関わりたくないんだ。知ってるでしょ?」

「あのな、確かにいろいろ詮索してくるが、お前と仲良くなりたいと思ってそうしてるんだ。騙したり、おとしめたりしようとして訊いてるんじゃない」

「……あの事は、話したくない。それに、話してしまっていたら、僕は君の秘密を守ろうとは思わない。君も困るよ」

「訊かないように気を遣ってくれただろ? もし訊こうとしても俺が止めたさ。それに、まんざらでもなさそうだったじゃねぇか、お前も」

「……うるさい。で、どっちなの、君の家」

 立ち止まった僕に、星野君は右だと言って、先を歩く。僕は黙ってそれに従う。何もかも打ち明けた反動で朝から会話は少なかったが、給食の一件があってから、僕は休み時間のたび質問攻めだったし、閃斗の仕打ちに腹が立っていたので、話しかける気にもなれなかった。だから、クラスの人に絵を描いてとせがまれたときは、隣で眠そうにしている星野君をモデルに、ずる賢そうなキツネを描いて、うっぷんを晴らしたりしたけれど。

「着いたぞ」

 声をかけられて顔を上げると、急に目の前が開けたのが分かった。僕は門の前に立っていた。夕日を纏って鈍く輝く、凝った作りの鉄格子の門は、僕の背丈の倍はあった。その門の脇には、生垣が真冬にもかかわらず青々と茂り、左右均等に、路地の奥の方までずらりと並んでいる。目を凝らすと視野に入る限り、全て丁寧に切りそろえられているのが分かる。

「え?」

思わず顧みる僕に、星野君はにやりと笑ってみせた。

「言ったろ? 金持ちだって」

 そう言って門に手をかけると、堅牢な門はやすやすと開いて、僕らは芝生の中を突っ切る石畳の道に入っていった。


「ただいま」

「お帰りなさい。あら、友達? 珍しいわね」

 家の外も凄まじかったが、中も相当だった。大理石の床は鏡のように磨きあげられて、てらてらと不思議な光沢を放ち、訪問者を出迎える階段は絨毯張りで、手すりには草花をかたどった華麗な装飾が施されている。そしてその上には、燦然と輝くシャンデリア。

「ねぇ、金持ちったって限度があるでしょ」

唖然としている僕に、星野君は苦笑した。

「『玄関は家の顔』が父さんの口癖だからな。居心地悪いのはここだけだから、安心しろ」

 恐竜だって飼える、と豪語したのも、あながち冗談じゃないのかもしれない。

「星野邸へようこそ。えっと、お名前は?」

「と、榊です。榊、斎人」

「へぇ、変わったお名前ね。待ってて、今お茶を用意しますからね」

「あ、いや、お茶はいい。二人で話したいことがあるんだ」

 女性はちょっと眉を持ち上げたが、特にいぶかる風もない。

「あら、そうなの」

「あと、今日は泊ってもらうから、食事は二人分頼む。いつも通り、時間になったら俺の部屋に運んでくれるか」

「はいはい。お部屋はどこにするの?」

「俺の部屋でも、もう一人くらい寝れるだろ。そうしてもらうよ」

「わかりました。では、ごゆっくり」

 そう言って、奥の部屋に引っ込んでいった。


「……若いお母さんだね」

 そう言うと、星野君は吹き出した。

「違う違う、お手伝いさんだよ。母さんは忙しいからな」

「……知らないもん、そんなの」

僕は顔を赤くした。確かに、この家ならお手伝いさんの一人や二人、いてもおかしくないけどさ。

「というか、眼に書いてなかったのか?」

 星野君は不思議そうに尋ねる。

「……あのね、心は見えても、読むのはそんなに簡単じゃないんだよ。雲行きを見て先の天気を当てるみたいな感じ。考えてごらん。『今自分がどんな気持ちで、何を考えているか』なんて、はっきり説明できるものじゃないでしょ?」

「なるほど、一理あるな。しかしその割には、俺の考えてることは筒抜けだったじゃないか」

「……君は読みやすいんだよ。単純だから」

「ちぇっ、言うようになったな」

 本当は、単純だと言うのは褒め言葉だった。普通、眼の奥に見える心の水面ははっきり見えず、不規則に波打っているし、言葉が浮かんでいることも少ないのだけど、星野君は違った。思考回路のほとんどがテキスト化されていて、水面を覆うように湧き出る言葉が互いにぶつかり合い、新しい言葉となって、また漂っていく。その奥に透けて見える水面の動きもはっきりしていて、躍動感にあふれている。見ていて飽きないほどだ。たぶん、賢いというのはこういうことなのだろうと僕は考えていた。でもそう言って閃斗が調子に乗るのも癪だから、『単純』と言ってごまかしたのだ。

 階段を上りきると、明るい森の中で二羽の小鳥が鳴き交わす様子を描いた、綺麗な絵に出迎えられた。左に折れて長い廊下を突っ切るとようやく星野君の部屋だった。確かに玄関ほどきらびやかではなかったが、それでも普通の家のリビングくらいの広さはあったし、ふかふかのソファ、ベッド、テレビ、オーディオ、パソコン、タンス、勉強机、本棚。中学生の部屋としては十二分の設備が整っていた。

「まぁ、適当に座ってくれ」

 僕に向かって薄いクッションを放ると、星野君は絨毯の上に同じものを敷いて座った。

「あ、ありがと」

「ま、これが俺の家だ。見ての通り金は有り余ってるし、親もあまり家にいねぇから、居候するのを気兼ねする必要はねぇ。親や使用人も家族が増えたと喜ぶだろ。でもまあそれはお前が決めることで、今日呼んだのは俺の話をするためだ」

そう言って、星野君は目をつぶった。

「悪いが、しばらくは俺の眼を見ないでくれ。……自分の言葉で話したい」

 その言葉にはどこか引っかかるものがあったが、今までの様子から、辛い話だと察していたから、僕は小さく「分かった」と答えた。


「篠原 友璃(しのはら ゆうり)」

星野君はその名を出して、ちょっと間を開けた。どこか、僕の反応を窺っているような気がした。

「俺の、えっと、友達だ。学校は別だったが、小さいころからの知り合いでな。けど、先月死んじまった」

 はっとなってまじまじと星野君を見る。制服の上からでもわかるほどしなやかで屈強な体つきの中に、ぽっきりと折れてしまいそうなか細い芯があるのを感じた。

「あの日、俺は友璃と出かける予定だった。けどいくら待っても駅に来ねぇし、電話しても返事がねぇから、様子見にあいつの家まで行ってみることにした。呼び鈴鳴らしても出ねぇから、おかしいなと思って試しにノブを捻ってみたら、開いた。ますます変だと思って中に入ったら、友璃が勉強机に突っ伏して首から血を流していた。俺が着いた時には、もう……」

 そこで口をつぐんで悔しそうに首を振った。

「友璃の母親も、リビングで刺されて倒れていた。母親は助かったが、友璃は逝っちまった。で、問題はこれだ」

 星野君は目を閉じたまま学生服のボタンを少し外して、女物のペンダントを取り出す。手のひらのちょこんと乗っかった小ぶりでハート形のペンダントは、友璃が生前持っていたものだという。写真なんかを入れるために中が空洞になっているようで、星野君は薄目を開けて銀色の蓋を取り外し丸まった紙きれを取り出した。星野君が丁寧にその紙を開くとかさかさと乾いた音がした。名刺くらいの大きさのメモ用紙には、赤黒い血が飛んでいて、ひび割れた大地のようにしわが走っている。眼を凝らすと、震えた鉛筆の字がかろうじて読みとれた。


 わたしが お母さんを 殺した 

 ごめんなさい

 わたしも

さようなら


「病院で目を覚ました友璃の母さんは、友璃の変わり果てた姿を見て、自分で自分を刺したのだと言った。俺もこの紙は警察に見せていない。しかし、包丁は友璃の手元に落ちていたし、友璃の母さんの傷はとてもじゃないが自分で刺せる場所じゃなかった。背中から刺されていたからな。ただ、俺は警察に必死に頼み込んで、友璃が母を傷つけたということは黙ってもらうことにした。死んだ友璃の名誉のためにな。

 思い当たる節が無いわけじゃなかった。前日、友璃は母さんと喧嘩したと言ってた。確かに友璃の母さんは厳しかった。でも、一人娘の友璃を本当に可愛がっていたし、父さんのいない友璃も、女手一つで育ててくれた母さんを慕っていた。それに、あんなに優しかった友璃が、そんなことするはずがなかったんだ。今でも、俺は信じられない」

 信じられないんだ、星野君は、自分に言い聞かせるようにして、もう一度呟いた。


***


 不意に、斎人への疑念が全て馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 俺が引っかかっていたのは、斎人と出会ったあの日、斎人が殺人を止めたことだった。斎人は心が見える能力を使って、殺人衝動に駆られた少女を説得したわけだ。斎人の力は一人の命を救い、一人の罪を防いだ。友璃の一件と真逆だ。

 友璃の行動は、自発的なものとは思えない。ということは、友璃本人すら気がつかないうちに誰かがそそのかしたのだということになる。それはそれでありそうもない話だが、心の見える能力があったらどうだろうか。そんな疑惑が、昨日斎人が寝入った後に頭の片隅にふっと浮かんできたのだ。もちろん難しいに違いない。しかし、目の見えない人が絵を描いたり耳の聞こえない人が曲を作ったりするよりも、心の見える人間が心を操る方が至極たやすいだろう。

 ぽんぽんと優しく肩を叩かれて、眼を閉じたまま顔を上げた。

「話してくれて、ありがとう」

 斎人の声は柔らかく響いた。

「大丈夫。友璃さんの名誉のために、今日聞いたことは誰にも言わない。絶対に。……約束する」

(そうだよな……)

 俺は自分が恥ずかしくなった。斎人がそんなことをする理由もないし、そもそも、斎人は人の命をもてあそぶような奴じゃない。斎人の能力ばかりに気をとられて、斎人その人を見ようとしていなかった。……この愚かな妄想は、すっかり忘れてしまおう。そう誓って目を開ける。

 斎人の反応に神経をとがらせていた集中の糸が切れると、どっと疲れが押し寄せてきた。友璃の顔と血の色がちらついて、思わず涙が落ちそうになる。友璃……俺は小さく呟いた。


***


 その後しばらく、僕と星野君は一言も会話を交わさずに黙りこくっていた。ごろりとソファに横になった星野君は、ときどきしゃくりあげるようにして泣いている。普段の様子からは想像しがたい姿だが、無理もない。まだ一ヶ月しか経っていないのだ。僕だって、まだしょっちゅう泣きたい気分になる。

 青色のクッションを抱えて考えていたのは、話し終えた星野君の眼に浮かんだ女の子の姿。昨日、謝る彼の眼に垣間見た少女だった。きっと、篠原友璃さんの姿なのだろう。滝のように流れ落ちる黒髪は滑らかで、お嬢様らしい品のいい顔には微かに紅が差していた。けれど、僕が気になっていたのは、星野君の眼の中の彼女がまっすぐこちらを見つめて、しきりに何かささやいていることだった。その声は聞こえなかったけど、あれは一体何と言っていたのだろうか。

 

料理は七時きっかりに部屋に運ばれてきた。運んできたのは先程のお手伝いさんで、しんみりとした部屋の空気を察したのか、お盆を置いてさっさと出て行ってしまった。詮索しないでくれるのは有難かったが、飼われているかのような、居心地の悪さが募った。

メニューはライ麦パン、鮭とほうれん草のクリームシチュー、シーザーサラダ、プリン。他の皿に比べて、シチューだけやけに家庭的な雰囲気が漂っていたのに少し違和感を覚えた。

「……おいしい」

 猫舌の僕にはちょっと熱かったが、とろりとしたシチューはほんのり甘くて、飲み込むとお腹の底の方がじんわりと暖かくなった。ほうっと息を吐き出すと、ふわふわと白い湯気が漂って、にんじん、玉ねぎ、ほうれん草、暖かい野菜の匂いが口いっぱいに広がった。その香りは、不思議とどこか懐かしいような、そんな気がした。

「だろ?」

サラダをつついていた閃斗は、嬉しそうだった。

「母さんな、忙しいけど、夕飯の一品だけは必ず自分で作るんだ。そりゃ、プロじゃないから見た目はコックの作ったやつに叶わないけど、負けず劣らず旨いんだぜ」

 ふと、キッチンに向かうお母さんの姿が蘇ってきた。そういえば、牛乳嫌いの僕に、しょっちゅうシチューを作ってくれたっけ。最初はいやいや食べていたけど、僕向けに甘く作ってくれるようになってから、シチューは僕の好物になった。どこか懐かしいのは、忘れかけていたお母さんの料理の味を思い出したからかもしれない。そう考えると、鼻の奥の方がつんと痛くなった。泣き出しそうになるのをこらえながらスプーンを動かしていたら、ずいぶん時間がかかったけど、とろみのあるシチューはずっと暖かいまま僕を待っていてくれた。


 食事の後はお風呂に入った。なんとなく予想はしていたが、お風呂場は一人用にしてはずいぶん大きかった。星野君に勧められたとはいえ、先に入ることには少し罪悪感を覚えたが、お湯につかるのもしばらくぶりだし、まだ時間も早いので、その申し出に甘えることにした。

 石鹸を泡立てて、細い腕にこすりつける。思えば、伯父に家を売られてからというもの、心身ともに汚れ、すさんでいく一方だった。もし、あの時星野君に話しかけていなかったら、一体どうなっていただろうか。

 お湯につかると、思わずため息が出た。三ヶ月分の疲れが一気に取れていくような気がした。僕もずいぶんオッサン臭くなったな。突然そう思って、むしょうに可笑しくなった。十分か二十分、しばらくぼうっとしていると、ある顔が浮かんできた。

(……まただ)

 先刻の篠原さんの顔は、やはり必死に何かを伝えようとしているような気がした。けど、どうしてこうも目に焼き付いているのだろうか。それがよく分からなかった。相変わらずその声は聞こえないし、まっすぐこちらを覗きこんでいる。

 唇の動きから何を言っているのか探ろうとしていた僕は、ふと思いついて、その黒い眼の奥に意識を集中することにした。映像や写真の眼を見ても心は見えないけど、記憶の中の眼ならどうだろうか。閃斗の眼の中の、さらに友璃の眼の中を覗くことになるのであまりうまくいくとは思えなかったが、妙に鮮明な記憶の中の眼にメッセージが宿っているのが見えた。

「もうひとり、いる」

 口に出してみた僕には、その意味するところは分からなかった。もっとよく見ようとしたけど、集中が途切れたのか少女の顔はかき消すように消えてしまって、それっきりだった。

 

部屋に戻ると、星野君が入れ替わりで風呂場へと向かった。僕はソファに寝転がって、かけっぱなしになっていたクラシックに耳を傾ける。中三にしてはずいぶん渋い趣味だと思ったけど、ひょっとしてピアノなりバイオリンなり習っているのかもしれない。

(おぼっちゃまだもんな。上品さはかけらもないけど)

思わず笑ってソファに腰掛けると、めまぐるしいピアノの旋律が止んだ。代わって、ゆったりとしたバイオリンの調べが始まると、篠原さんのメッセージについて考え始めていた。

もうひとりとは誰のことなんだろう。

そもそも、もうひとりと言うからには、誰か対比する人がいるんだろう。もうひとり心の見える人間がいるということかな。そうだとしても、何故篠原さんが僕の能力を知っているのだろう。あるいは、閃斗が心の奥でそう思っているのかな。だとすれば、どうしてその考えが篠原さんの眼に宿ったのか。

 篠原さんは何を伝えたかったんだろう。

 曲が変わって、再びピアノの旋律が響き始めた。この曲は知っている。ベートーベンの『月光』だ。僕の家にピアノは無かったけど、お父さんが時々聴いていた。その、もの悲しい調べは、しかし、じんわりと心の奥をあっためてくれる気がした。聴いているうちに、うとうとまどろんでくる。ここ三ヶ月の中で今が一番幸せだと、心から思った。白いクッションを抱きしめて、僕は幸せな夢の中に溺れていった。



 ――結局、篠原さんのメッセージのことは星野君に言わなかった。しかし、今思えば、このときに伝えることで、救える命があったのかもしれない。


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