SENSOR

八枝ひいろ

序章 記憶

「返事しろよ……返事してくれよ! おい!」

 腕の中の彼女は絶望的な冷たさだった。

「聞こえねぇのか! 返事しろ! 返事……」

 抱きかかえた腕が、彼女の血に濡れる。

「嘘だ、嘘だろ、嘘だって、言ってくれよ! どうして……」

 既に日は落ち、窓の外には切れかかった街灯が、絶え絶えにオレンジ色の光を瞬かせている。まるで俺に現実を突きつけるかのように、それが紅の部屋をくっきりと照らし出す。

「もしもし、もしもし! 救急です! 血みどろで、女性が一人倒れています! 場所? 場所は、えっと……」

 いつの間に駆け付けたのか、玄関で誰かが電話をしているのが聞こえる。緊張した声のやり取りや、せわしない足音がいくつも迫ってくる。

「なんで……」

 もう一度、彼女の顔を覗き込んで、思わず目をそむける。その顔はオレンジ色の光の下でも酷く青ざめていて、毒々しい血の色と激しいコントラストを作っている。記憶の中の滑らかな黒髪は乱れ、力無く傾いた首から血が流れ、はつらつとした普段の姿は見る影もない。

 突如、激しい嗚咽が俺を襲い、絞り出したようなしわがれ声が漏れる。これが俺の声なのか。

「嫌だ! やめてくれ! 逝くんじゃない! くそっ……くそう!」

 あああああっ! という叫び声とともに、行き場のない感情を拳にのせて打ちつけると、それを追いかけるように大粒の涙が降り注ぐ。それと、一枚の紙切れ。

 はっとなって、俺はその紙切れを眺める。勉強机の上からはらりと落ちたメモ用紙には、震える手で書きこまれた掠れた文字が透けて見える。恐る恐る、それをつまみ上げて、裏返す。

「嘘だろ……?」

 何度目とも知れない、その台詞をもう一度口に出す。掠れ、震え、歪んでいたが、それは紛れもなく彼女の字だった。しかしその内容は、およそ信じられるものではない。

 立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りで彼女の部屋を離れる。紙切れをしっかりその手に握ったまま、灯りのない廊下を手探りに進む。

一歩一歩踏みしめるごとに、足が重たくなっていく。心臓の鼓動は早鐘のようで、全身を駆け抜ける寒気に、手に付いた血も凍りつきそうなほどだった。

 リビングに出ると、白い電灯の光が俺を包み込んだ。その光の真ん中に、もう一人、女性が倒れているのが見えた。紛れもなく彼女の母親だった。

 俺はその場にへたり込んだ。右手を開いてもう一度紙きれの文字を見つめる。嘘だろの一言はもう口に出ることはなかった。代わりにその紙を握りつぶし、無造作にズボンのポケットにねじ込む。

 既に涙は止まっていた。頭の中は真っ白だった。サイレンの音が遠くから聞こえてくる。彼女は……彼女は……なんてことだ……

 彼女は母親を手にかけた……



 ――これが十二月の出来事。彼女が何故こんな愚行に及んだのか、あの時は結局わからなかった。しかし、俺は今、当時何が起こったのか知るに至った。ある少年との出会いをきっかけにして。

 

――そう、あれは一月のことだった。


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