友人 虚無 有我(うない ゆが)からの手紙

中田祐三

第1話

 我が友よ、僕はもう駄目だ。  


  思えば僕が君にかつて語ったとおり、僕の生というものには常に死と諦観が付きまとう。


 僕の父はヤクザ者で、数種の物質の中毒者でもあった。


 それはアルコール、覚せい剤、睡眠薬だ。


 長き刑務所暮らしから帰ってきた父は身をやつし、落ちこぼれていた。


 覚せい剤で何日も覚醒し、切れ目の時に睡眠薬でそれをやり過ごし、それらが無ければ酒を飲んでは日々を無為に過ごしていた。


 そして、形の無い不満を爆発させては人々にぶちまけて暴力と破壊を繰り返していた。


 いま思えば若き頃からの覚醒経験により脳内はボロボロで心も壊れかかっていたのだろう。 


 そのくせ、不良であるゆえに洒脱者で香水の香りを醸し出しながら街を歩き回る。

 

 母はそんな父を恨みながらも、生来の愚かなまでの情の厚さを発揮して恐れ、そしていくばくかの執着で彼に付き従っていた。




 僕の一番古い記憶。 いやもっとも懐かしき死の記録のことを君は覚えているだろうか?


 暗い部屋。 指先すら見えない暗闇で誰かが僕に圧し掛かっている。 

  

 背中には慣れた布団の感触。 もっとも触れたであろう指先が僕の首を締め上げる。


 黒一色に染め上がった視界は酸欠の度合いによってゆっくりと赤く染め上げていく。


 そしてある一点を過ぎたところで僕はまるで自分が長い滑り台を滑り落ちていくような感覚に陥った。


 いまだ幼児であった僕でさえ、その落ちていった先にあるものが自身の死であるのだなと知識でもなく、思考でもなく、ただただ生物としての本能で悟ることができた。


 そして僕がもっとも愛し、また僕を愛していたはずの存在がギリギリと僕の人生を終わらそうとしていた。


 何も見えない。 世界は黒々として、それしか存在しないようだった。 それでも確実に死へ誘おうとした最愛の人は確かに僕の上に居た。


「ごめんね…ごめんね…」


 涙声の彼女は尚も確実な殺意を持って僕を殺そうとしていた。


 殺意…、いやそれは恨みでも欲望でもなく、なんと悲しいものがこもった感情だったのだろう。


 絶望と愛情が綯い交ぜになったそれは強い気持ちとは矛盾するように方向性を失った弱弱しい流れのようにも思える。


 その死にゆく顔を見たくないが為に明りを消し、もがく姿を見たくないが故にまた明りを消した彼女の決意は偶然の小さな決壊を持って霧散した。


「う…あっ、が…」

 

 僕が発した小さなうめき声。 その蟻の一穴のように彼女の絶望の中にあった方向性の失った愛情を浮かび上がらせてくれたことで力を緩めてくれたのだ。


 怯えて泣く僕を最愛の人はいつものように力強く抱きしめて、先程と同じように僕に、


「ごめんね、ごめんね」

 

 とひたすら謝り続けるのだった。


 


 そんなことが数度会った。 


 そのたびに僕は怯えていたが、同時に両親以外の存在と確実な関係性を持たなかった自分はそれを隠して無邪気に彼女らを愛し続けた。


 父には直接、殺されかけたことは一度だけだった。

 

 それは父が僕を殺そうとしたことが一度だけだったというわけではなく、標的が僕自身に移りそうな時に母が身を挺して僕を守ってくれたからだ。


 父の怒りには方向性がなく、覚せい剤とアルコールの酩酊によって起こる粗暴な気質がゆえにだったので相手は誰でもよかったのだ。


 母が成り代われば父は標的を母にするだけで、僕の目の前でぶちのめしてくれて、度が過ぎれば母は僕をかかえて屋外へと逃げ出す。


 それが僕の思い出だ。

 

 はっきりと父に殺されかけたと胸を張って言える出来事のことは今でもはっきりと思い出される。


 夜、寝ていた僕らをたたき起こした父は無理やり車に乗せると、そのまま近くの山へと僕らを連れて行った。


 そして誰も居ない、人も通ることも無いであろう林道に車を止めるとトランクの中に入れてあったシャベルでおもむろに穴を掘り始める。


「殺してやるからな…お前ら全員殺してやるからな」


 車のヘッドライトで足元を照らしながら一心不乱に穴を掘る父を僕は何の感情もなくそれを見ていた。


 泣き喚く母の姿はすでに日常で、それはまるで雨が降ったとか空に雲があるのと同じように当たり前に思えていた。


 覚せい剤による妄想によって、彼なりに愛していたであろう家族を理解不能の憤怒と殺意によって。

 

 だがかろうじて僕は生きている。 


 途中で我に帰った父がバツの悪そうな顔で僕と母を車に乗せて元来た道を帰っていく。


 途中でファミレスに寄ったかもしれない。 そこで僕は何を食べただろう?


 帰宅の途上、車の中の雰囲気は日常そのものだった。


 いや、それは皮肉というものではなくて君や他の人たちが普通に体験しているであろう家族の空気だ。


 後部座席でうつらうつらしながら見上げた夜の空は、星が綺麗で月がいつものように空に鎮座していた。


 ふと、小学校にすら上がる前の子供の心に一つの思いが過ぎった。


「来年の今頃は生きてるのかな?」


 それは恐怖でもなく、不安でもなくて、明日の夕食のことを心配するような普遍的な疑問だったんだ。


 そして君は知っているだろう。 そのとき、その瞬間に、僕は誕生したのだ。 虚ろを無くし、我という存在が確かに有るということを。


 そのときに感じた疑問は、父の長期不在による、貧しくとも穏やかな日々によって埋没してはいったが、それは心の底の底、奥底で消えずに沈殿していた。


 その後の人生のことを話す必要はいまさら話す必要は無いだろう。


 非凡な体験をした子供は原因が取り除かれたことによって平凡な少年となったのだから。


 だが幼児期の強烈な体験によって僕はどこか人とズレていることに徐々に気づくことになった。


 僕には未来が無いのだ。


 正確に言えば未来のビジョン、これからというものを考えることが出来なくなっていた。


 小学校に上がってすぐの時のことだ。 担任の先生から40年後の自分に手紙を書こうという授業があった。


 未来の自分に聞きたいことを書きなさいと担任は言ったが、僕はどうしてもそれを書くことが出来なかった。


 なぜなら死んでいるかもしれないのにどうしてそれを聞くのだろう?


 そして大人になった自分というものがどうしても想像できなかった。


 考えてみてほしい。 


ある日、君は将来タスマニアデビルになると言われて、そのときにしたいことを考えて欲しいと言われて書くことが出来るだろうか?


 当時の僕にとって見ればそれほどに理解不能な出来事だったのだ。


 そして授業の時間、皆が動き出すその直前まで考えて書いたことは「いま、何をしてるの?」 だった。


 深い意味など無い。 ただどうしてもかけなかったから書いただけだ。


 そのときに久しく忘れていた本来の自分というものを認識した。


 


 前置きが長くなってしまいすまなかった。


 なあ、君よ、僕の一番の親友よ、常に離れずに一番近くに居てくれた君よ。


 僕達は僕達であるために様々なものを取りこぼしてきた。


 それを後悔することなんてしていない。 そうだろう? いまの僕達にとって必要なものはただ一つだ。


 そう、創作だよ。 


 世界を創り、人を創り、そしてその周辺を創り出した。 

 嫌というほどに現実を見せられて、その結果として空想の現実とそこで生きる人々を描くことに僕達は夢中になっているね。


 この趣味は頭さえ働くなら一生続けていくことの出来ることだ。


 無意識に、あるいは意識的に普通の人々が持っているそれを取り落としていくことを僕達は作り出していくことが出来る。 


 たとえそれが空想であって、妄想であって、現実には存在しないものだとしてもだ。


 だが友よ、僕は勘違いをしていた。 


 自身を磨り潰しながら書き上げていきながらおそらく僕はもうそれを書くことが出来なくなるだろう。

 

 創意が衰えたわけじゃない。 いまこのときだって、僕の心の中の宇宙は膨張を続け、様々な世界の雛形達がそのときを待って鼓動を続けている。


 だが僕自身を磨り潰していった結果、僕はそれに必要な物も同時になくして言ったのだ。


 紙がなければ、書く場所が無い。


 ペンが無ければ書くことができない。


 指がなければペンを持つことすら出来ない。


 それはしごく当たり前のことだ。

 

 僕は僕自身の全てを磨り潰して作品に変えることで肉体的な衰えとそして健康を壊すことになってしまった。


 そしてもっとも必要な物、書こうとする意志すら削りきっていた。


 それは薪の尽きた釜戸、あるいは燃料の無い車と同義だろう。

 

 最近身体が痛いんだ。 動かない。 ただただ死体のように様々な残骸のうえでひたすら倒れているだけだ。


 エネルギーが枯渇している。 好奇心も感情の揺らぎもなく、ただ毎日がこの肉の器の不具合に意識のほとんどを奪い取られている。


 無視することが出来ない。 我慢することも。


 そんな段階はもう通り過ぎた。


 もはや急な坂道を転がり落ちる大きな石のように止めることも、持ち上げることも出来ずに僕は毎日をベッドの上で日々悪くなる状況で過ごしている。


 友よ、親愛なる友よ、おそらく君もその異常に気づいているはずだ。


 僕達はあまりにも失うことに無頓着すぎた。


 それが他人や外郭のことならば、それらはただの重荷でしかなかった。


 だが自身のことをもう少し大事にすべきだったのだ。


 決して遠くは無い未来。  


 明日か。 明後日か。 来週か。 それとも一年後か。 数年後か。


 いずれそのときが来るだろう。 


 だがもう遅いのだ。 僕達の墓穴はすでに掘られている。


 死という概念があの時の父のように嬉々と墓穴を掘っている。


 友よ、どうか長生きをしてほしい。 僕の心の中に残された彼らを引き継いで、世界を構築して欲しい。

 

 だがそれはきっと不可能だろう。 果たしていくつの世界がこの場所から飛び立てるだろうか?


 死にゆく僕が君に残せる言葉はひどく自分勝手で、でもそれが共に過ごした親友への最高の言葉と思っている。


 友よ、腐り果てた肉は戻ることは無い。


 ならば前に進め、懊悩も憐憫すらも捨てさってその想いと最低限の肉体だけで君は僕の代わりに世界を創り続けていってほしい。


 誰に感謝されることもなく、誰にも見られず、誰にも評価されず、ひっそりと捨てられていくかもしれない世界を君は墓穴に土がかけられる直前までそう足掻いてほしい。


 もはや恨むことも悲しむことも無い。 ただただ僅かに残った揺らぐ感情を材料に世界を造れ! 創り続けていけ。


 だって僕達の手には何も無いのだから。

 

 そして何も無い僕達だからこそ、無我夢中で創り続けた無数の世界が存在できたのだ。


 もう書くことは無い。 いや書くことすら出来ない。


 友よ、虚無の世界から我を糧に世界を、人々を創り続けるのだ。

 

 そしてこの名前『虚無 有我(うないゆが』を君に返そう。


 いずれ滅びる前にそれを手渡しておくのが生まれてから今まで共に居た僕からの最後の選別だ。


 ああそれにしても、あともう少し…あともう少し、生きることが出来たのなら…ただそれだけを願う日々だ。

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