第7話 自傷行為

「そろそろ起きて欲しいのですけれど」


「うわあ?!」


「おはようございます」


 月白は顔を覗き込むようにしてそう言った。

自分が無事に目を覚ましたことを確認すると、早く先に進みたいのか、早く起き上がるよう促してくる。


 情けない声を出してしまったことが少し恥ずかしい。


 後頭部と背中が痛い。床には大理石のタイルだ。枕も何も敷かずに直に寝ていたのだから当然といえば当然。

 仰向けで横になっていた身体を一瞬で起こし、パンパンと右手で背中を払った。


「早いうちに移動しましょう。さもないと──」


「さもないと────?!」


 その答えを聞く前に、ドンドン、バンバンと乱暴に扉をノックする音が聞こえた。


 響いてくるその音に体がびくっとなった。

 あの扉は、昨日寝る前に通った7階と8階を繋ぐ扉だ。


「そういうことか……」


 移動しなければ、どうなってしまうのか?

 月白から答えを聞かなくてもおおよその予想が着いた。


 先に進まずに同じところにとどまっていたら、いずれは扉が開き影に呑まれてしまう。寝ているところを無抵抗な状態で……と想像するだけで鳥肌が立つ。

月白と一緒で無ければ、平常心を保てなかったかもしれない。1人じゃなくて本当に良かった。


自分のそんな恐怖をよそに、月白は言った。


「多分、8階には到達したばかりなのですぐに扉を破られるなんてことはないと思いますが、急ぐことに越したことはありません」


 彼女の促しに、俺は「ああ」と同意をするしかなかった。

 月白は本当に頼りになる。多分、自分みたいな「囮役」がいなくても、何だかんだ影を一人で蹴散らせそうだし、平常心を保って次にやるべきことを忘れずにこなせるんだ。

ただそうなると。


 月白は影を蹴散らす力を1人で持っている。

 いくら自分が【デジャヴ】という擬似的なレーダーを持っていたとしても、俺がお荷物であることには変わらないだろう。それにいくら彼女が性格のいい奴とはいえ、ここまで親切に俺を扱うことに違和感を感じる。

 この不自然さは、まるでゲームの中でいうお助けNPCみたいじゃないか。

 自分が、これまで誰かに優しく扱われた経験があるなし関係なしに、感じるべき違和感だと思う。

 この違和感を早い段階で解消しておかないと、気持ち悪くて嫌だ。


「──どうしました?」


進もうと促した相手が足元を見て立ち止まっているのを見たら、質問したくのは仕方ないだろう。

もし変に探りを入れたら、これまでフォローしてくれた関係性、状態が崩れてしまうだろうか。

そう考えているうちに、恐ろしいパターンを思いついてしまった。

脱出する前の最後の最後で、「実は味方のフリをして自分はラスボスで敵でした」なんて言われたらどうだろうか。


俺はこの世界に来る前、学校で孤立した自分に対して、味方と思わせてやり取りしてきた生徒に色々自分の胸の内を明かしてしまったことがある。

その後の絶望は、もう二度と味わいたくない。


嫌だ。


それを味わうくらいなら、できるだけ早いうちに解消して、終わりにしたい。

楽に終われたら……いいな。

怖いけど、まだマシな方を選びたい。


自分はどういう表情をしながらこの後質問をするんだろう。

今、表情を見られたら怖い。

とにかく言わないと。


「月白ってさ。どうしてそこまで俺に親切にしようとしてくれるんだ?


 ……いや、俺からしてみたら一緒に行動してくれるのは心強いしありがたいけど──月白からしたらそんなことをするメリットなんてないだろ?」

 沈黙ができる。直視するのは怖いけど、沈黙の状態も怖い。堪え切れない。

 恐る恐る目線を向けると、彼女は戸惑いの表情を作ったようだった。


……珍しい。今までのやり取りでは迷いなく自分の思ったことを口に出していたようだったのに。


「どう説明すればいいか困りますね」


 彼女は間を開けた後、喋る。


「君と会う前までのことを話しましょう。朝目が覚めたとき、今までの経験が実体験したものとして認識出来ずにただ知識だけ積み上がった感覚でした。


ヘリオンさんが言った、ジャメヴと呼ばれる現象ですね」


 「ジャメヴ」。確かにあの天使はそう言ってたな。


「でも昨日水無君に出会った昨日から、君に剣を向けたあの時のことやヘリオンさんから説明を受けたこと、全てが自分の経験として記憶にはっきりと残っているのです。……こんなの初めてでした」


 感慨深げに月白は語った。

 過去に『自分は○○したはずだ』という知識自体はあるが実際に自分が体験したと実感出来てない状態。

 それは例えば幼少期の頃の経験、母親の腹から生まれた瞬間のこと、1歳の誕生日の時を祝ってくれたこと、幼稚園の入園式に参加したこと

……確実に経験したはずだが、はっきりと自分の過去体験として知覚出来ない。覚えていない。そういうのと同じなのか?分からない。


 とにかく歳を重ねる度に徐々にはっきりと記憶と実感が定着するのが普通なわけだが、月白の場合は昨日まではまっさらな状態が続いていたという。

 そんな状態から、朝、目が覚めても昨日の体験が、自分の過去の体験としてはっきり知覚出来るようになった、というのは半端ない感動を覚えるのだろう。


「その変化について、わたしは何がきっかけなのかを考えました。詳しい理由は分かりませんが、少なくとも君と出会ったことが原因だと思ってます。


 それに私は、昨日までの状態が続く限り、あの一階の部屋を永遠と彷徨い続けていたはずです。扉も開かずのままでした。でもそれが昨日突如開いたんです。

 今まで私が感じていた違和感、拭えない現状を突破したきっかけが、君との出会いなんです」


 そう言った。

彼女の澄んだ翠の瞳には、嘘偽りないことを証明しているよう。

 彼女の告白は、続く。


「私は、私に降りかかったこの違和感の正体を掴みたい。私を襲ってくるこの運命を明かしたい……それが君と行動する理由です」


 彼女は語気を強めて、そう言った。

 なるほど。


「詳しい理由は謎のままだけど、月白1人で出来なかったことも俺と2人なら攻略出来るってことか」


「はい!ではさっさと行きましょう」


 立ち話を結構続けてしまったな。

何も異論はない。


「にしても……」


 ここは俺の心象世界である、とあの自称天使は言った。初めて開いた扉など、よく分からない仕掛けは俺にあるのかもしれない。とにかく今出来ることは先に進んでこの世界から脱出することだ。

 塔の窓の外に見える景色は美しい。青い空と雲が拡がり、その下には砂漠が広がっている。


「──!!」


でもそんな自然美が体現された世界は一瞬にして「地獄的な世界」に変わる。この世界は安住出来ない。心を許してはいけないのだ。


「デジャヴ、か……」


「!! はい、出ましたね」


そう言った月白も、自分も剣を構える。


 デジャヴでの検知から数秒後、奴が現れた。

 地面から黒いサークルが出現し、もやもやと人型に形づくられていく。

 影だ。


 ……でも今まで出会ったものと何か違う。


 「影」の胸部に何かが刺さっている。棒、刀、ナイフ……距離がある為にはっきりと分からなかった。

 その影はこちらに近づき、胸から一本それを引き抜いた。


 角度的な問題と、距離が縮むにつれてそれが鋭利なカッターであることを理解した。

 胸に複数のカッターナイフ(のようなもの)を刺した痛々しい姿よりも、過去の開きたくない記憶を辿ることに集中してしまう。


 ◇





 自分がどうしても嫌になった時。


 自分で自分を守れない。いかに自分が惨めで無力な存在だと強く自覚させられた時。どうしようもないぐらい自分が嫌いになる。


 自殺の念に駆られた時、自傷行為をする人間の存在はもちろん知識として知っていた。


 まだ中学に入学してそんなに日が立たない頃、なんとかしてクラスメートの輪に入ろうとしてあくせくしていたある日のこと。


「何で生きているの?」と言われた時のことだったか?


 世間的にいじめの風当たりが強くなった今日だからこそ、意図的であからさまなものはなかったにせよ、突発的に事故は起こる。

きっかけ何だったか、もはや詳しくは覚えていない。自身の身体を殴られ蹴られ、まともな反撃が出来なかった日の夜がきっかけだったか。


 その後。何も出来ない自分に対し自分は自分を傷つけたくて仕方がなかった。

 自分の胸の中の心臓が、のうのうと動いていることに疑問を持った。


 だからこそ。


 ギギギと無機質な音を鳴らし、刃を露出して。

 両手で自分の胸に突きつけた。

 10代から20代の女性を中心に、自傷行為として手首を切る、いわば『リスカ』がある。もちろん女の特権ではなく男だってする奴はするのだろうが、そんな知識は当時の俺にはたまたまなかった。そのため手首を切るという発想自体がなく、ただ自分の胸を裂いてやりたいと思ったのだ。


 でも、俺は目的を完遂することが出来なかった。

 痛い。押し当てて少し皮の奥の肉に刃を沈ませるだけで精一杯だ。


 刃の先に赤い液体が付く。それを見た後、次はどこまで赤で染めることが出来るのだろう。

 一気に勢いを持って突き刺してやろう、と何度も思ったのに。


 そうしたのは、1回だけのことじゃない。何度か試みたができない。

 結局怖いのだ。俺は俺で何がしたいのか分からない。この現実に嫌気がさして死ぬのに未練はない、と思っていたはずなのに死を拒否する。


 自分は何がしたいのか分からない。ただ、一時の感情に流されて嘆いたフリをした何か。

明確な存在理由がない。存在するべき理由がない。肯定するべきものが何も無い。何から何まで俺はただの偽物だ――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る