第4話 自称・天使
「私は私のことが分からないのです」
彼女のその言葉は、俺の微かな希望を打ち砕いた。
「ええ……」
なんと反応していいかわからず、つい心の声が漏れる。
彼女は右手を口元にあて、目をそらし、「ごめんなさい」と言ってくる。
彼女の宣告に対し、呆気にとられた俺は表情がおもむろに出てしまったせいなのだろう。
その謙虚な仕草に可愛さを感じると共に、命の恩人に申し訳なさそうな態度を取られるのはこっちとしても気まずい。
「そ、そうなんだ。謝ることはないよ。知らないなら仕方ないし……」
埒があかないので、ひとまず共に歩くことにしたのだった。
「ちなみに、いま何時か分かる?」
俺は彼女の顔を見ながらだとなんだか気まずく喋りづらいと思ったので、ちらりと目線を他へ移して問いかける。
「それも……時計が存在するわけではないですから正確な時間は分からないです」
「そう……なんだ?」
「もちろん身体が疲れたら眠くなりますし、一定時間寝たら起きます。便宜上べんぎじょう、眠くなるころは夜、目覚める頃が朝と思っています」
「? 空が暗くなったら夜って感じじゃなくて?」
「ここではずっと青空のままです。夜空なんてものはありません」
「……え?」
確かに、この世界に来てからそれなりに時間は経つはずだ。
窓から差し込む光の強さを見る限り、それは全く変わっていない。
いくら綺麗な青空とはいえ、それがまた逆に不気味である。
あと。この世界へとやって来て半日は経っているはずだが、お腹は空かない。
「まさかとは思うけど……いつもご飯ってどうしてるの?」
「はい。ここでは一回も口にはしたことはないですね」
「……はは」
どうやら食べなくても生きていけるようだ。これをどう受け止めるべきか。いちいち深く考えてはいけない。そうしたら今の自分では頭がパンクしそうだからだ。それよりもまず冷静にならないと。
そういえば。
彼女と会う前のことだ。
迷い込んだ世界で仕方なくこの塔に向かって進んでいたら、どこからともなく黒く壁が迫ってきた。
一定以上止まっているとタイムリミットが発生し世界が崩壊していく……といったように何か一定のルールが存在するようで、進捗がないとどうやら影に追われてしまうらしい。
その前は自分は何をしていた?全然思い出せない。
しばらく考えたけどそれは時間の無駄なのかもしれない。
できるのは、この世界での出来事と、彼女との会話。
それにしても彼女は一貫して敬語で、現実世界にはいなさそうな謙虚キャラ。そういうキャラ作りをしている、ある種痛い人種かと思った。
でも、見かけがいわゆるコスプレとは思えない、作り物ではなく本物と思しき鎧と剣、銀の髪。そして翠の眼。
その真剣な眼差まなざしは、自分が抱いている疑念を野暮やぼなものだと思わさせてくる。
そういえば女子と会話したこと自体、何年ぶりだろうか。
俺の視線に気になったのか、彼女はやや困った表情で質問してくる。
「何……か? 何か私に思うところがあるなら言って欲しいです」
……自分の言いたいことをはっきり言ってくるところも、素敵だと思える。
「その喋るとき、別に敬語じゃなくていいよ」
「いえ。こっちの方が喋りやすいのです。慣れてからでないと……私、人見知りということもあって、最初は敬語じゃないと違和感を感じるのです」
「……俺だって人見知りだよ」
嘘偽りはない。
でも俺と彼女は違うと思う。
彼女は確かに、人の前に出て積極的に行動するようなタイプではない。しかしあくまで彼女はお淑しとやかで落ち着いているキャラなのであって、自分の意見を言うべき時はしっかりと言える。またほどよく社交的で良い友人がそれなりにいそうなタイプと見える。
「完璧」ではないけど、理想。自分の理想を、彼女は持っている。
彼女と自分が、対等に近い関係で話しているこの状況に不思議な感覚を覚える。
とはいってもここで色々突っ込んでも意味はない。ひとまずこの話題は置いておこう。
「ちなみに、ええと。名前は何て呼べばいい……のかな」
彼女は即答しない。
何か変なこと言ったかな? ……あ。人に名前を訪ねる時は自分から名乗るのが社会のルールってやつだっけ。
「俺は水無カズト……です」
自分の名前を名乗るのは怖い。日常で自分が名前を呼びつけられる時は、たいてい嫌なことしかなかったからだ。
……そして誰かに名乗ること自体がかなり久しいこともあるせいか、釣られて敬語になる。
「そう。私は月白イツカといいます」
つきしろ、いつか。
変わった名前だ。昔から何人かキラキラネームの奴を見かけたことはあるけれど彼女の名前はこれにあたるのだろうか?
……これも特に深掘りすることではないな。
「そうなんだ。ええと月白……さんはどこからここに?」
「さんは付けなくていいですよ」
いくらノリでタメ口で喋っているといっても、初対面の呼び名までタメ口というのには抵抗があったから”さん”付けしたのに。
「いや、そっちは敬語な訳だしさ」
「ええ。これは私の我儘です。どうか許してください」
「分かったよ。ならさっきの質問だけど月白……」
ずっと1人だった自分に、まともに会話することも、同年代の女子の名前を呼ぶこと自体も自分にとっては久しぶりのことで、一瞬どもる。
「……月白はどこからここにやって来たかも分からないってこと?」
「それは……覚えていないのです」
そう答える。
「もちろん、以前からこの世界でさまよい、影と戦い続けた経験をしてきたのだろう、と受け止めています。……でも、どうしてもそれを感情的に実感出来ないのです。全てのことが初めての経験のように錯覚するのです」
「?……それってどういう意味」
記憶喪失のようで記憶喪失ではない。これは────
という思考の瞬間、それは訪れた。
意識の隔絶。
それが起きた後に、それを認識した。
何かがおかしい。音が消え、視界が真っ暗になり――という訳ではない。
ただ”一瞬”が隔絶されただけではない。眼に映る光景――微かな外からの光が照らすこの光景を目の前に月白が隣にいて会話をしている。
このシチュエーションを以前どこかでも体感したことがある、という感覚に襲われる。
時間間隔の矛盾むじゅんというやつだろうか。一瞬が切り離され、それをまたパズルのピースのようにはめられた。そんな感じ。
その違和感の正体を掴もうとしたその時。
「いわゆる【ジャメヴ】という奴ね」
月白の発言に対しての回答。
どこからそんなセリフが飛び出す直後。月白は西洋剣ロングソードに手をかけていた。
その声の主のでどころを探す。
「なっ」
月白が顔を向けた方向の床に変化が起こる。白亜の床には時計回りでぐるぐると黒い渦が湧き上がる。それはサークル状に押し広がり浮き輪ほどのサイズでとどまる。
そして。
頭部からにゅるっと、空気が振動する様な音と共にヒトの形をした何かが顕現けんげんする。
神々しさを感じた。そこからは光の粒が溢れる。
それはツインテールの金髪をなびかせる、小柄な少女だ。
瞑っていた瞳を開き、やや気だるけな眼差しにとは相反するように、清く白い服を纏っている。
身体の輪郭には粒子を纏うかの如く、チラチラ光っており神秘的な光景だった。
その身体が全身を現し、ふわっと宙に浮いたかと思うと、混沌を象徴するサークルは「ヴン」と音を鳴らし中央に収縮して消える。
そして彼女は大理石の円柱の台座に、裸足でぺた……と着地。
台座は彼女の低身長を補うほどの高さで、こちら2人を見下す形になる。
「私の名前はヘリオン」
その声は幼さが宿りつつも静かに、重く響き渡る。
「私は天使よ」
と彼女はそう言った。
天使か。天使ってもっとこう……お淑やかというか優しそうなイメージだったのに。
その振る舞いはSっ気が強そうで、一部の人たちには好まれそうなだけど、少なくとも俺は苦手意識を感じやすいタイプだ。
神秘的なご登場シーン、しかも天使を目の当たりにしたわけだが、命の危機を感じたできごとの後なのだ。このぐらいではもう動揺なんかしない。
挨拶をされたらちゃんと返そう。さすがにそれが出来ないほどコミュ障という訳ではない。
「……どうもこんにちは」
「随分ずいぶん冷めた反応ね。まあいいわ」
へリオンと名乗る少女は月白に対して、ちらと目線をやる。
「貴方……今回が最初で最後ということかしらね」
その目線の先は月白だ。
月白は黙ったまま答えない。
最初で最後とはどういうことだ?そしてこの2人は知り合いなのだろうか?
「ふむ」
そのへリオンと名乗る少女は、腕を組んで目を瞑りながらそう言った後、目を開く。
窓に映った一面に広がる砂漠や、宮殿のような造りの塔の造形を眺めているようだ。
そしてこちらに視線を戻し、再び口を開く。
「綺麗な青空に一面広がる砂漠。そして宮殿を模した塔。何も先入観無しに見たらここは「綺麗な世界」なのでしょう。
……でも心の在り方によっては、それはあっけなく黒く侵食されて醜悪な化物が徘徊する世界になっていく。
この世界があなたを象徴する世界だと言われたら、心当たりはなくて?」
「俺を象徴……?」
この自称天使は何を言ってるんだ。
「俗に言う心象風景だとか心象世界ってやつね。繰り返す日常の中で、自分は何事もないように取り繕っている。でもあなたの心の中には確実に蝕んでいる何かがある」
なるほど。この世界がなんとなく分かったような気がした。
つまり。
「ここは夢ってことでいいんだよな?」
夢では意味がわからないことが積み重なるものだ。そして目が覚めれば完全に無意味なものになる。
「夢と思うなら目覚めてみなさいな」
頬をつねる。ベタだが目を覚ます動作として定番だ。
…………
「痛い」
くそ。痛いだけで何も変わらない。
とはいっても自分自身、こんな動作でこの世界から脱出できるなんて信じられなかったし、つねる前から諦め半分であった事も事実だ。
残るのは沈黙。
なんだこの間は。俺がすごい間抜けみたいじゃないか。
「話を戻すけど、アンタが天使ってことはここは」
認めるのが怖いので、間を開けて言う。
「……つまりあの世ってこと?」
「そうね」
へリオンはあっけらかんと答える。
「──え」
可能性の1つとして脳内に浮かんではいたが。あの世って。……冗談だよな?
「俺は……死んだ?」
この世界は夜というものが存在するわけでなく、お腹もすかずに食事をしなくても生きていける。先ほどの月白との会話から常識とは外れた世界だとは思っていた。しかし。
俺もよくラノベとかネット小説で異世界転生ものを一時期よく読んだものだけれど、必ずそういうのってトラックに轢かれるとか死ぬきっかけがあるわけで。
それに対して俺にはそんな心当たりがない。
「この世界に来たからといって死が決定したわけじゃないわ……あなたは臨死体験って言葉は知らないのかしら?」
「りんしたいけん?」
一時的に死を体験するとかいうアレか。もしそれが本当だとして俺の知る知識では、こういう死後の世界に行く場合は……
「天国だの地獄って……最初は三途の川とか渡るんじゃなかったっけ?」
「ええ。ここまで来たってことは、確実に貴方がいた世界とあの世の境界を渡ったことになるわ」
「心当たりがないんだけど」
「それなら貴方がここまで来た経緯を聞いてあげるから話してみなさい」
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