神楽と民俗学――西日本の事例を中心に

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神楽と民俗学

■神楽と民俗学


 皆さんは神楽というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。もしかして、キャラクターの名前ではないでしょうか? 私、神楽が盛んな島根県石見地方の出身でして、子供の頃は秋祭りの季節になると神社からピ~ヒャララと笛の音が響いてきて、夜神楽を見て眠気をこらえながら一晩を明かすといったイメージがあります。夜神楽、関東では騒音条例で不可能なのでしょうか。現在私が住んでいる横浜市では神楽殿のある神社は数社しかないとのことで、神楽社中も四社中あるとのことですが、全体的に見れば神楽不毛地帯です。


 また、島根県石見地方の場合、市民ホールや体育館で地元の各社中が集って石見神楽の共演大会を催していました。実は夜神楽や共演大会を見たのは数回ほどで、それほど深く漬かっているわけではありません。何せ恵比須えびすさんにお菓子を貰った記憶がありません。でも、子供の頃の幸福な記憶なのです。


 二十年以上横浜で生活してきて、神楽とは無縁の生活を送ってきていたのですが、インターネットの発達で、徐々に情報が入って来るようになりました。2007年に横浜市歴史博物館で「里神楽の魅力と伝承」講演を聴きました。講師は高山茂・日大教授(当時)でした。


 この講演で神楽のイロハについて学ぶこととなりました。「かぐら」の語源は神座(かむくら)が転訛したもので、神座に神をまねく儀式を神楽と呼んだことに発します。記紀神話におけるいわゆる天岩戸神話で、スサノオ命の暴虐を恐れ天の岩戸に閉じこもった天照大神を呼び戻すため、天鈿女うずめ命が神がかって舞ったのがその起源だとされています。実際、全国どこの神楽でも岩戸神楽は舞われているようです。特に九州では岩戸神楽を重視しています。


 そんな神楽ですが明治維新を迎え、一つの転機が訪れます。神楽の担い手は神社の神職だったのですが、神仏判然令が出され、神楽が修験道や陰陽道おんみょうどうの色合いをもっていたことから神職が神楽を舞うことが禁止されます。いわゆる神職演舞禁止令です。また、神がかり(トランス状態)となって託宣をすることが禁じられました(注1)。これによって多くの神職が神楽から手を引きます。神楽は大打撃を受けたのです。一方で、江戸時代末期に入って、神社の氏子たちの自分たちでも神楽を舞いたいという欲求が増してきます。この流れが一致して、神楽の担い手は明治時代以降は民間の氏子たちとなったのです。神職が氏子たちに神楽を伝授して継承されることとなりました。


 神楽の演目についても統制が入り、試験制度が取り入れられました。これは実技よりも古代史や神道の知識を問うものだった様です。この際、卑猥な所作や神を冒涜ぼうとくするような所作が禁じられたといいます。このようにして明治期に神楽の演目は整理されて現在に繋がるものとなったとされています。


 例外的に神職が細々と神楽を伝える事例も幾つかあります。その中でも代表的なのが島根県石見地方で伝承されている大元神楽です。大元神楽では数年に一度の式年祭で神がかり状態になって託宣を行なう行事が今でも残されているのです。


 ちなみに時代は下りますが、神社を一町村一社に集約する神社合祀令も神楽に打撃を与えたといいます。小祠が統合された結果、みょうを単位とした同族による祭祀が成り立たなくなってしまったのです(注2)。


 講演はこのように神楽の基本を教えるものだったのですけれど、余談もありまして、例えば巫女神楽ですが、ある地方では生理のあがったお婆さんと生理のまだ来ていない児童が担い手となっているそうです。ところが最近では小学三年生で来る子もいて困ったねえ、なんて話もあるとのことです。調べてみると、思春期早発症という症状だそうです。神道は血のけがれを嫌うといいますが、厳密に守っている地域もある様です。


 講演の内容からは外れますが、民俗学の泰斗である折口信夫は神楽の根源を鎮魂にあると考えました。古代の人々は生命は一定期間で衰えるために、定期的に生命の更新をはかるべしと考えました。おそらく太陽が冬至に最も衰えることに由来するのでしょう。そこで、折口は籠ることで魂を身体に付着させ生命の更新を図ることを鎮魂と定義しました。この説は現在での神楽の根源に関する定説です。また今上天皇が即位した際に催される大嘗祭でも鎮魂論が援用され解釈されています。


 さて、伝統芸能の神楽を学問として追及したのは民俗学者達でした。私が読んだ本だと石塚尊俊という出雲出身の民俗学者――出雲の碩学せきがくと言えますが――の『西日本諸神楽の研究』というものがあります。石塚は雑誌『山陰民俗』を主宰してもいました。


 『西日本諸神楽の研究』は西日本とあるように、中国・四国・九州の里神楽――宮中で行われる御神楽みかぐらに対して里神楽と呼ばれるのですが――を取り上げた論考となっています。近畿の神楽は巫女神楽が主体であることから割愛されています。


 神楽の分類で出雲流神楽というのがありまして、中国・四国・九州に分布しているとされています。出雲の佐陀大社(現・佐太神社)で安土桃山時代から江戸時代初期にかけて能楽の様式が取り入れられて七座神事、式三番しきさんば、神能と編成されて神楽の演劇化が始まり(神能)、それが全国に伝播したとするのが本書が著された時代の通説的見解です。神楽というと神話劇というイメージを持つ人もいるかもしれません。もう少し詳しく述べると、儀式舞の余興に演劇化された能舞が演じられる様になったのが、時代を経るに連れて能舞の部分が肥大化して現在の様に能舞中心となったという流れです。


 石塚はこれに対してちょっと待てと見解を述べます。石塚は中国・四国・九州の神楽を幅広く観て回っていて、出雲の神楽より古い神楽があるぞ、ということなのです。また、佐陀大社で能の様式が取り入れられる前から神楽の演劇化は始まっていたのではないかとしています。


 その中でも石塚が評価するのは――石塚神楽理論の中でも極意と言えるでしょうか――宮崎県の銀鏡しろみ神楽です。直面ひためんの者の舞があって、それにつられて着面の在所の神が現れ舞うといった様式の神楽です。この形態を神体出現の神楽と呼びますが、石塚は神楽が演劇化する前の古態を示していると考えているのです。


 例えば、島根県石見地方の大元神楽で「山の大王」という演目がありますが、「手草たぐさの先」とも呼ばれています。「手草」と呼ばれる場を清める儀式舞の次に舞われる演目という意味です。ちなみに「山の大王」は現れた山の大王を祝詞司のっとじがもてなすのですが、難しい山言葉――例えば餅を仏の耳と呼んだりします――で話す山の大王の言葉を祝詞司が一々曲解するというコミカルな内容です。


 『西日本諸神楽の研究』では中四国・九州の神楽を


・岩戸神楽を目標に舞う神楽

・五行神楽(五郎王子)を目標に舞う神楽(※王子神楽、所望分けとも)

・将軍を目標に舞う神楽


と分類します。目標とするとは、要するにトリの演目とするということです。岩戸神楽は前述した通り天岩戸神話を題材とした演目ですが、主に九州の神楽で多く分布しています。夜明け前に演じられるのは暗闇から光を取り戻す岩戸神楽にとってふさわしいと言えます。


 五行神楽はいわゆる五郎王子たんです。万物の始祖である盤古ばんこ大王の子息で東南西北・春夏秋冬を司る四人の王子たちの許に、末弟である五郎王子がやってきて自分にも所務が欲しいと要求しますが断られます。盤古大王が亡くなったとき、まだ母の胎内にいたので所務が与えられなかったのです。怒った五郎王子は四人の兄王子に戦いを挑むのですが、決着がつかず、文選もんぜん博士が仲裁に入り、四季の各九十日から土用の十八日を引いて各七十二日ずつとする、そして五郎の王子を中央に据えると仲裁して事が収まる……といった内容です。これは陰陽五行思想を具現化したものであり、島根県益田市の郷土史家である矢富巌夫は五行神楽を「農民の哲理」であるとしました。


 五郎王子譚は土公どくう祭文と呼ばれる祭文に取り込まれています。かまど祓いをする際に土公祭文が読誦されるのですが、土公神と五行神楽の神々とが習合している訳です。


 五行神楽は特に備後・備中地方で発展し、長大化します。全部演じるのに丸一日以上かかる地域もあるとのことです。広島県から岡山県にかけては、この五行神楽を目標に演じる神楽が多いようです。備後神楽では元はプロの神楽師によって演じられ、その論戦は見ごたえのあるものだったそうです。ですが、マスメディアが普及し始めたからか、昭和三十年代に急速に衰えたそうです。ちなみに島根県石見地方では岩戸神楽を最初にもってきて(※岩戸には始まりの神楽という意味合いもあります)、トリの演目を五行神楽としています。石見神楽では五行神楽は「五神」「五龍王」という題名です。


 土公祭文は奥三河の花祭でも読誦されますが、五郎王子が姫宮、つまり女性となっています。女性なので豪華な品々が盤古大王の遺産として贈られるのですけれど、所務の方がいいとなるのです。土公祭文が発展した最終形態が五郎の姫宮というところでしょうか。


 「将軍」は儀式舞で明確なストーリーはありません。将軍とは仏典に登場する天大将軍のことを指すようです。ざっくり要約すると、破邪の舞です。これも社中によっては神がかりする貴重な演目です。広島県の安芸あき十二神祇じんぎが代表的ですが、九州南部にまで伝播している、つまり古い神楽であると言えます。石見神楽でも古くは将軍舞を舞ったという記録があるそうですが、現在では伝わっていません。神がかりする危険な舞なので廃れたともされています(注3)。筆者がユーチューブで見た動画だと、高知の安居神楽の「将軍の舞」があります。神がかりはしませんが、弓くぐりの所作が見られます。


 続いて、神楽を伝えた「人」という要素についてみると、東北地方に顕著ですが、修験道の山伏が伝えたとされます。山伏が吉田神道の裁許状を得て、神主として地方の神社に定着、神楽を伝えたという流れです。石塚は西日本の事例として対馬の法者(ほしゃ、ほさ)と命婦みょうぶというペアを取り上げています。法者が奏楽を担当し、命婦が舞うといった古態が離島の島々には残されています。また、法者はその源流を遡ると、中央から地方に離散した陰陽師おんみょうじたちではないかとしています。神楽を伝えた人達として修験の山伏と共に陰陽師も登場してくる訳です。


 ユーチューブで六調子石見神楽の柳神楽「四剣」を視聴しました。天蓋の下の一間いっけん四方で四人が舞う内容で、神楽の古態を残していると考えられます。舞台を広く使う様になったのは後世のことなのです。


 『西日本諸神楽の研究』は西日本の神楽を概観する上で適当な本であると言えます。できれば東日本版も欲しかったところですが、一人の学者が見て回れる限界なのでしょう。普通の神楽研究者だと一県+αくらいがテリトリーですから。


 さて、島根県にはもう一人、神楽に詳しい研究者がいます。牛尾三千夫という人で『神楽と神がかり』という著作を残しています。牛尾は地元の神社の宮司であり、神がかり託宣を残す大元神楽の伝承者なのです。生まれながらの神楽研究者といってよいでしょう。ちなみに石塚尊俊も社家の出です。牛尾は戦前に国学院大学を出て、西角井にしつのい正慶『神楽研究』の出版の手伝いをしていました。戦後は広島・島根・山口の文化財保護審議会委員を務めていました。田植歌の採集でも業績を残しています。


 『神楽と神がかり』では主に島根県石見地方の山間部に残る大元神楽と広島県備後地方の比婆ひば荒神神楽を取り上げています。どちらも神がかり託宣を残す貴重な神楽です。大元神楽ではわらで蛇を作って、その藁蛇に大元神――姿も性格もはっきりしないが、自然の一切を取り仕切る根源的な神とされる――を乗り移らせて(藁蛇は依代よりしろと言えます)揺さぶり、託太夫をもみくちゃにして神がからせて託宣を得、その後で祭却、樹木に藁蛇を巻き付けて終わりという流れです。


 神がかり託宣は予め託太夫と呼ばれる人達を数人選びます。そして一週間ほど潔斎して当日の神楽に臨むのです。ですが不思議なことに、託太夫にくとは限らず見物客に憑くといったこともあるようです。「うおーっ」と叫び声を上げるそうです。そしてトランス状態になった託太夫に作物の豊凶、火事の有無などを質問します。「豊作だぞう」とか答えるそうです。あまり複雑な質問はしないとのことです。


 神がかりは心身を消耗し、人生で二度あっても三度はないと言われています。神がかりした際には腰抱き役の人が身体を支えます。そうしないと全力で走っていってしまうことがあり、その結果、狂い死にした人の事例もあるとのことです。なお、神がかりは単調なリズムの繰り返しで入っていくもののようです。また、牛尾は神がかりを解く打ちかえしの法を伝授されていたことでも知られています(注4)。


 ここで登場する神は記紀神話に登場する高位の神ではありません。祟る荒神やミサキと呼ばれる死霊などを指します。荒神を定義するのは難しいのですが、祀らないと祟るという点で霊威のある神格です。


 比婆荒神神楽では、三十三年目の式年祭に亡くなった人の魂が祖霊に加入する儀式が行われます。つまり人は亡くなってから三十三年経過することで祖霊となるということで、輪廻りんね転生てんしょうの仏教とは異なる死生観がそこに示されているのです。なお、吉田神道の影響を受ける前は浄土神楽なるものも執行されていた様ですが、それは記録に残るだけで現代には伝わっていません。


 現在の神楽は演劇化が進み、大衆の娯楽となっています。要するに、田舎のエンタメです。ですが、エンタテインメントの源流を遡ると死生観に辿り着くという点で神楽の持つ重要性が窺えるのではないでしょうか。


 島根県の石見神楽は大元神楽がルーツですが(※演目がほぼ重なるので容易に判断できます)、六調子と八調子とに区分されます。明治時代に誕生したより新しい八調子の方がテンポが速く、舞ぶりも激しいのです。六調子が「トントコ」なら八調子は「トコトコ」です(注5)。それが石見地方の海岸部における大衆の気質と合致したのでしょう、八調子の神楽が広がり、今ではゆったりとしたテンポの六調子神楽は少数派となっています。


 牛尾はこれらの神楽の現状を見て、神楽のショー化だと苦言を呈します。神楽の演劇化が始まり、徐々に神楽は大衆のものとなっていったのですけれど、衣装が華美になったり、舞ぶりが激しくなることで元々もっていた神楽の素朴さが失われているのも事実です。神楽の競演大会の審査員を依頼されることもあったけれども、全て断っていたそうです。


 『神楽と神がかり』は病床にあった牛尾の代わりに後述する岩田勝が編集したものです。その中に激烈な八調子石見神楽批判があります(注6)。牛尾は結局そのまま病死してしまいますので、どうしても言っておきたかったことになります。


 この様にして神楽の研究は進んできたのですが、ここで突然変異的な研究者が現れます。岩田勝という在野の神楽研究者です。岩田の本業は郵政公務員で、学歴は旧制中学校卒業とありますので、現在で言えば高卒相当になります。その岩田は独学で高等教育をマスターし独自の神楽理論を打ち立てるのです。

 広島県で江戸時代初期の神楽の古文書(広島県比婆郡[現・庄原市]東城町戸宇の宮脇杤木家に所蔵される神楽能本:備後東城荒神神楽能本)が発見されました。それ自体は岩田の業績ではないのですが、この古文書が眠っていた旧家に通い、古文書を実見するのです。


 岩田は広島県の出身で仕事の関係で中国地方を転々としていました。牛尾三千夫や石塚尊俊とも親しかったようです。おそらく広島県の比婆荒神神楽や島根県の大元神楽を実見してでしょう、ここで発想の飛躍が生まれるのです。


 岩田は神楽を託宣型と悪霊強制型に分類しました。これはマックス・ウェーバーの『宗教社会学』を読んでのものだったようですが、日本の神楽に援用するというのは岩田独自の着想でしょう。


 託宣型は広島県の安芸十二神祇の「関」という演目に顕著ですが、荒平あらひらという鬼が日本へやって来て、長々と自分語りをして如何に自分が凄い存在であるかアピールします。ところが日本は神国なので敗れてしまい、祝福の杖(呪具)を贈与するといった内容です。要約すると、舞につられて出て来た神の一人語りと呪具の贈与というモチーフを持つ、そして神が祝福の舞を舞い、祭却されるというものです。


 悪霊強制型は大元神楽や比婆荒神神楽に顕著ですが、悪霊として祟る神を守護霊として転化して祀る型と、祟る神として依代に依らしめ攘却する型に分類されます。


・託宣型……Ⅰ型(託宣の舞)

・悪霊強制型……Ⅱ型(祝詞のっとの舞=祭文の舞)

      ……Ⅲ型(使霊の舞)……ⅢA型(→悪霊)

                ……ⅢB型(→死霊)


 岩田の悪霊鎮送説は神楽の根源の解釈としてそれまで通説だった折口信夫の神座鎮魂説――こもることで善神を身体に付着させ生命の更新を図るという解釈――に真っ向から挑戦状を叩きつけたことになります。


 これらの分類は演劇化した神楽を見ているだけでは決して想像もつかないもので、広島県から島根県にまたがる領域をテリトリーとすることでその着想の母胎となったと思われます。


 また、岩田は日本のシャーマニズムを巫者ふしゃが単独でトランス状態に入るのではなく、神がからせる者と神がかる者とのペアでなるとしました。記紀だと仲哀天皇が琴を爪弾き、神功じんぐう皇后が神がかり託宣を行なうといった事例に見られます。


 岩田の神楽理論が反響を呼んだことは想像に難くありません。岩田が論考を発表していたのは 『山陰民俗』『広島民俗』『岡山民俗』といった雑誌でしたが、当時のその雑誌が活気に溢れていたことが読み取れます。


 また、これらの業績は1970年代の5年程で発表されたもので、非常に短期間で本職を上回る成果を叩き出したといってよいでしょう。これらの論考は『神楽源流考』という本にまとめられています。


 批判もあります。諏訪春雄という学者は『日中比較芸能史』で、井上隆弘という研究者は「神楽祭文研究の方法について―岩田勝・山本ひろ子の所説を中心として―」という論文で、また『霜月神楽の祝祭学』という著作でそれぞれ岩田説について批判的検討を加えています。


 諏訪説は神楽を天岩戸神話や奥三河の花祭のような擬死再生のモチーフと土公祭文のような祟る神を鎮める御霊ごりょう祓いのモチーフとに分類しました。折口説と岩田説との折衷せっちゅう説のような形です。基本的には擬死再生のモチーフが古代からあった観念で、中世に御霊鎮めのモチーフが加わったと考えるのです。


 井上説では神楽の託宣型と悪霊強制型は明確に分離できるのではなくそのどちらの要素も、言わば両義性が見られると指摘しています。


 批判もありますし、私自身、全てが正しいとは思っていません。自身の理論に強引に当てはめて解釈する傾向が見られます。例えば、天岩戸神話の解釈で悪霊鎮送説だとスサノオを鈿女うずめ命に憑依させて攘却するというアクロバティックな解釈になります。また、備後東城荒神神楽能本を読んで感じたのですが、能舞に託宣型や悪霊強制型を単純に適用できるのかといった問題があると思われます。しかし、議論の叩き台を作ったこと自体、他の誰もなし得なかったことなのです。


 岩田は続く『神楽新考』で再び折口民俗学への挑戦状を叩きつけます。「鎮魂」をタマフルと読むかタマシズメと読むかで考察が進み、更に神がかりを一言で要約すると「憑」だけど、「憑」をカカル、ツク、ヨルなどと読む場合に分けて考察しています。神楽を中世から一気に古代まで遡らせようとする試みです。筆者自身、到底理解しているとは言えないので、この程度に留めますが、『神楽源流考』の業績に留まらず、次なる構想もあったようです。


 ですが、岩田は『神楽新考』を世に問うて、その二年後に六十九歳で亡くなってしまいます。早稲田大学の非常勤講師となって間もなくの死だったようです。二年間では批判を受けるに十分な時間ではなかったでしょう。学者としては若くして亡くなってしまったことが惜しまれます。


 『神楽新考』には折口信夫と実際に接したかった旨の述懐があります。家庭の事情で大学に進学できなかった岩田の本音なのでしょう。実際、石塚尊俊は柳田国男と、牛尾三千夫は折口信夫に接していますから、世代的には不可能ではなかったのです。


 以上のようにして島根県から広島県にかけての神楽について見てきました。私の場合、『神楽源流考』『神楽新考』『西日本諸神楽の研究』『神楽と神がかり』を読むことで、神楽に関する認識を大分改めることができました。ただ、西日本の神楽までしかカバーしていないので、東日本は手薄です。


 そこで次なる書物として本田安次『日本の伝統芸能』シリーズを読みました。民俗芸能研究の基礎を一代で築いた大家の先生です。まだ一巻から三巻までしか読んでいませんが、これに全国の神楽の史料が記載されているので、かなり参考になりました。悉皆しっかい調査ではありませんので漏れはありますが、全国の神楽がバランスよく取り上げられていて、これも参考になる本です。『日本の伝統芸能』シリーズは戦前からの研究をまとめたもので、そういう意味ではフィールドワークに基づく神楽の実見と史料の書写・収集・分類という黎明期れいめいきの段階の本であるとも言えます。


 『日本の伝統芸能』二、三巻に納められた全国の神楽の史料を読むと、ほとんどが江戸時代のもので、つまり唯一神道流に改訂されており、それ以前、両部神道的な内容に遡ると思われるものはほとんどありませんでした。当時、国学者が詞章を改訂する動きがあったのです。そこで前述した広島県で発見された古文書などがその貴重な史料となるのです。『日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽』に備後東城荒神神楽能本として収録されています。他、奥三河の花祭の史料にも両部神道色が見られます(注7)。


 それから折口信夫の門下生、西角井正慶の『神楽研究』を読みました。昭和九年の発行ですから戦前の本になります。基本的には折口説で書かれていると言ってよいでしょう。


 神楽の始原として天岩戸神話が取り上げられますが、そこでは従来からある説として自然神話説と葬祭説を紹介しています。ちなみに、自然神話説として日食説が取り上げられていますので、戦前から日食説があったことが分かります。西角井はこれらに加えて、折口説の鎮魂を取り上げます。古代人にとって死は絶対のものでなく、生と死の境界は曖昧だった。魂が遊離した天照大神の身体に再び魂を付着せしめることで――これが鎮魂と書いてタマフルと読む説です――天照大神は蘇るといった解釈です。


 巻末が資料集であり、全国の神社に質問状を送り、その回答が収録されています。主に神楽歌や衣装、採り物の一覧の収集であり、神楽殿の寸法等の情報も記されています。


 『神楽研究』は神楽研究の黎明期に当たる時代の本です。先ず宮廷で行われる御神楽についてページを割いています。里神楽はそれからです。西角井が三十四歳のときの発刊ですから、当時新進気鋭の研究者が世に問うといったニュアンスが込められています。石塚尊俊や牛尾三千夫のような研究の集大成として出したものとは異なります。


 また、小寺融吉『芸術としての神楽の研究』を国会図書館で読みました。最古の神楽研究書になります。小寺は舞踊の専門家で全国芸能大会の顧問を務めたりもしました。芸術としての神楽とは美学的なアプローチになりますが、これは小寺が神道の専門家ではないという理由によります。『芸術としての神楽の研究』に研究の方法論、調査に赴く際の主な質問事項についてが記載されているのですが、それが後続の神楽研究書の基礎となったとのことです。


 それから早川孝太郎『花祭』を読みました。本来の『花祭』は二冊に渡る大著だそうですが、現在入手できるのは、その抄縮版です。


 奥三河の花祭を取り上げたモノグラフで、湯立神楽の系統に属します。祭りの式次第を図解を加えて極めて詳細に記述しています。実際に花祭を見たことがある訳ではないので到底理解したとは言い難いですが、魅惑の祭でした。

 現在の神楽研究でも『花祭』ほどに詳細に祭のあれこれを記述したものは無いと言えるでしょう。発表された当時、民俗学者たちに衝撃を与えたというのも頷けます。


 一方、読んでいて思い出したのですが、確か岩田勝の指摘でした、榊鬼の裏で土公祭文が読誦されていたそうなのですが、早川の注意は土公祭文には向かわないのです。土公祭文はかまど祓いの祭文でもあり、また、花祭で読誦される土公祭文では五郎王子が五郎の姫宮となっているといった特徴もあるのですが、本書では取り上げられていません。なお、石塚尊俊『里神楽の成立に関する研究』で裏が取れましたが、元の『花祭』では記述があったようです。今入手できる『花祭』は抄縮版であり、抄縮版の編者が割愛したと思われます。


 花祭に登場する榊鬼は年齢争いで負けて反閇へんばい(マジカル・ステップ)を踏んで大地を鎮めるなど、敬愛される存在であり、同じ鬼でも悪鬼しか登場しない中国地方の神楽とは異なっています。反閇はユーチューブに動画がアップされていますから見てみるといいでしょう。「反閇」でヒットします。探るような足つきです。


 早川は画家だったとのことで、その観察力が図解に活かされています。現代なら写真を撮るところですが、写真だと被写体の全てを描写するのに対し、絵だと描きたい、強調したいところだけを描写することになるから、却って分かりやすいものとなっています。


 また、三上敏視『新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子はやし』を読みました。著者は全国の神楽を幅広く見て回っている音楽家で、前半は神楽の基本的な知識について語られるので入門書としても読めます。後半では全国五十か所の神楽が紹介されます。二次元バーコードが添付されていて、スマートホン経由で動画にアクセスできるようになっています。音楽家が書いた本だけに、音楽面の記述が充実しています。


 著者のポリシーとして、神楽歌の無い神楽は神楽と認めないそうですが、関東の里神楽では神楽歌は歌われません。明治期の神楽改正で関東の神代神楽は神楽歌を止めたそうです。九州では、せり歌というものもあって、お囃子に合わせて観客が歌います。昔は若い男女の出会いの場ともなっていたそうです。意中の人めがけて恋の歌を歌うのだとか。


 後半では全国五十か所の神楽が紹介されるのですけれど、八調子石見神楽は取り上げられませんでした。その音楽性については大元神楽の項で触れられています。広島県の芸北神楽に関しても取り上げられませんでした。極めて現代的な神楽なので取り上げる意義はあると思うのですが。


 ちなみに、石見神楽や芸北神楽では改良笛が用いられます。リコーダーのように息を吹き込めば誰でも音が出せるように改良されたものです。ヒーロー笛という商標だそうです。


 そして、三村泰臣『中国地方民間神楽祭祀の研究』を読みました。三村氏は広島県出身で広島県在住の現役の先生です。この本は石塚、牛尾、岩田の延長線上にある本で、折口の神座鎮魂論――籠ることで善神を身に付着させ生命の再生を図るとする――の善神的な認識だけでは中国地方の神楽祭祀は説明できないとし、悪霊を依代に憑依せしめて攘却する悪霊鎮送的な認識で分析したものとなっています。


 その点では岩田勝の悪霊鎮送説を踏襲した方向性です。後発ゆえの有利さもあって、広島県を中心とし、美作みまさかから周防すおうにまたがる荒神信仰ベルトの神楽とこれまであまり光が当てられていなかった安芸十二神祇、芸予諸島の名荷みょうが神楽、周防地方の山代神楽などを紹介し、荒神神楽の意図するものを分析しています。


 例えば、神楽で天蓋てんがいは神を降ろす必須の舞台装置と言えますが(※修験との関係が薄いのか関東地方の里神楽では天蓋を使用しません)、元々は棺を覆うものだったとして、死霊鎮送的な意味を見出しています。その観点で荒神神楽の過去の資料を読み解き、今では無くなった浄土神楽はどのような内容だったのか考察しています。


 本書は神楽祭祀に関する論文なので、専ら人に見せる演劇化された神楽はほとんど扱われていません。その点で広島県の芸北神楽への言及は少ないのですが、一方で、中国地方では悪霊鎮送的な祭祀がルーツにあるため、現在でもテンポが速く悪鬼退治の演目が幅広く人気があるのではないかと考察しています。


 御薗生翁甫みそのうおうすけ『防長神楽の研究』を読みました。歴史学者である著者が八十八歳のときからフィールドワークをはじめたもので、超高齢での仕事です。毛利氏や大内氏の研究が専門ですが、神楽が消滅の危機に瀕しているので優先させたとのことです。歴史学なので民俗学の学者が書いたものとはちょっと異なるテイストです。


 山口県の神楽は周囲の影響を受け、混然としています。湯立神楽、山伏神楽に加え、石見神楽の流入も見られます。芸州の神楽や豊前の神楽の影響もあります。山伏神楽には将軍といった演目が見られます。


 神がかりも残されていたそうで、山口県ではチャンチキ舞といったとのこと。綱を張って、神がかって走り出すのを転ばせたそうです。


 歴史学らしいところは庶民の生活史。非常に貧しい、粥しか食べられない貧相な食生活だったようです。甘藷かんしょがもたらされるまでは、どうやって空腹を凌いでいたのでしょう。雪の降らない瀬戸内沿岸では麦の裏作をして凌いでいたとか。虫害も深刻で、いもち病でせっかくの稲を燃やさねばならない無念はいかばかりか。そんなところから五穀豊穣を願う神楽が支持されてきたのです。


 著者は九十二歳で亡くなったのですが、亡くなる一週間ほど前は意識が混濁して原稿の前後が錯乱してしまい、それを編者が今の形に直したそうです。残念なのは、資料集が付加されていないことです。資料集があれば、著者が意識しなかったことに他の誰かが気づくこともあったでしょう。


 『防長神楽の研究』では山口県岩国市の行波ゆかば神楽も取り上げられています。これは著者が存命であったら必ずや取り上げただろうということで編者が追加したものです。行波神楽は高い松の木を立ててそこに演者がよじ登る「八関の舞」が知られています。


 渡辺伸夫『椎葉神楽発掘』を読みました。宮崎県東臼杵うすき椎葉しいば村一帯に伝わる神楽を取り上げた論考集です。椎葉神楽は国の重要無形民俗文化財に指定されています。村の広報誌に連載された記事を元に一冊の本に構成されたもので、元が広報誌だから平易な記述かと思ったら、そうでもなくて読了まで時間が掛かりました。


 特に唱教(※神の本地を説く唱え言)の研究に力を入れており、他所の地域の神楽歌や和歌、歌謡などとの比較を行っています。データベース的で博覧強記と言えるでしょう。九州の神楽は江戸時代に唯一神道流の詞章改訂を受けたところが多いのですが、椎葉神楽には詞章改訂の影響を受ける前の形のものが保存されており貴重な史料となっています。


 その唱教なのですけど、基本的には口伝で伝えられる性質のものであって、それを何かの節目に書き物として記録するのですが、詞章が崩れている箇所が多々あって、意味が通じるようで通じない消化不良感があります。不明な箇所は他所の神楽の詞章などと比較することで意味が通じるようになる場合もあります。


 「宿借り」は特徴のある神楽です。暗くなって一人のみすぼらしい旅人が宿にやって来ます。破れ笠に蓑を負い、腰に刀を帯び、破れ草鞋を履き、竹杖をついています。旅人は「御宿申し候」と一夜の宿を乞います。宿の主人は「御宿なるまじく候」と断ります。それから宿借り問答が始まりとなります。旅人の正体はどうやら村に祝福をもたらす山人(山の神)らしいです。この後に仲裁役が出て宿の主人と旅人にお神酒を注ぎ盃ごととなります。最後に主人は「どうぞゆっくり泊っていって下さい」と言い、旅人は宿に上がらず、一礼をして神楽宿を去ります。旅人は宿を借りることになった……という内容です。

 他の地域では宿を借りず、祝福の杖と隠れみのを渡すという内容のものがあります。祝福の杖は志官杖しかんじょうという杖ですが、これは荒平の持つ死繁昌(死反生しはんじょう)の杖と繋がっているでしょう。なでれば老人も若やぎ、反対側でなでれば死人も生き返るという魔法の杖です。


 椎葉神楽では、ある舞の途中に見物衆が突如乱入することがあるそうです。芝入れといい、榊や御幣ごへいを手に乱舞します。そして見とがめられると「樽一本で許して下さい」といって酒を注いで回ります。これは次の曲の「芝荒神」にかかるものです。


 芝荒神は荒神が神主と問答をします。荒神の出自、神道に関すること、榊のいわれなど。問答の後に荒神は金剛杖を神主に譲り与える……という内容です。荒神と神主が問答する形式の神楽は九州各地に残されていて、唯一神道流に改訂されたものでは、荒神が神主と神道の知識を競い合う的な内容となっています。芝荒神の祖父おうじは荒平という詞章が残っているとのことです。荒平の系譜に連なることが見て取れます。


 椎葉神楽にも将軍舞があり、多くは「森」と言います。弓通しという信仰行事があって、舞子二人が向きあって坐し、弓をつき立てて互いに相手の弓弦ゆづるを引っ張り合って輪形を作ります。この弓輪の中を幼児や赤児や祈願者をくぐらせます。弓をくぐり抜けることで災厄を祓うというものです。また椎葉神楽の将軍舞には御酒の宝渡しがあるといった特徴があります。太夫が舞子に焼酎を渡すと、舞子はそれを矢とともに道化の衆に渡します。お宝の焼酎は道化の衆が飲む……といった内容です。


 また、神楽せり歌が多数収録されています。これについても和歌や歌謡と比較を行っています。ゴヤセキ(囃し)とは、老若男女問わずよく歌い、讃辞や風刺恋情を歌に表現して騒ぎ明かすことだそうです。せり歌は神楽に寄せる心情や男女の恋情を内容としています。昔は神楽がきっかけで結婚した者もいたとのことです。


 『日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽』に収録された備後東城荒神神楽能本を読みました。カタカナ表記が多くて読みづらかったのですが、漢字を補いながら読みました。延宝本と寛文本と二種類あります。荒神神楽が神道流に改訂される以前の能本が残されていて、「聖徳太子」といった能本もあります。仏教を保護した聖徳太子が正義で神道を保護した物部守屋が逆賊という扱いなのです。他にも「文珠菩薩能」や「帝釈天の能」などもあります。浄土神楽で演じられたと思われる能本も収録されていて「松の能」「目連の能」「身ウリ能」といった演目が演じられたと考えられます。「身ウリ能」は御伽草子おとぎぞうし「さよひめのさうし」が出典ですが、父の菩提を弔い病気の母を生かすため自らを千両で商人に身売りする姫がいました。姫は父の菩提を弔うため一日のいとまを乞います。ところが、商人の目的は奥州の池に住む大蛇が一年に一度人を取って喰うので、その生贄いけにえとして人を買うことだったのです。いざ大蛇に喰われんとしたその時、姫は一時の暇を得て法華経を読誦します。法華経の功徳によって救済された蛇は姫の母を壺坂の観音、姫を竹生島の弁財天とし、自らを蛇王権現とした……という内容です。読んでいてどういう結末なのだろうと思いました。備後東城荒神神楽能本を実際に読む前はもっと呪術的な内容かと思っていましたが、ストーリー性のある能本です。山路興造という民俗学者は備後東城荒神神楽能本には能楽大成以前の能の様式が残されていると考えています。


 『日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽』は分厚い本で、普通にコピーすると、ノドの部分が潰れてしまいますから、コピーして読みたい方は国会図書館の遠隔複写サービスを利用するといいでしょう。


 前述の井上隆弘『霜月神楽の祝祭学』を通読しました。奥三河の花祭など三信遠の湯立神楽を取り上げた論考です。


 本書の特徴として第一部では舞の形態学とでも言えばいいのか、舞の所作や足取りを図にプロットして、そこから分節され構造化されてくる舞台の空間秩序(コスモロジー)を分析しています。舞台は初めから舞台としてあるのではなく、舞によって分節されていくのだというのが著者の主張です。またこの所作にはこんな意味があるといったアプリオリ(先験的)な分析は行わず、あくまで舞の形態から意味(本質)を見出そうとしています。但し、詞章についてはその限りでありません。また適宜、南九州の椎葉神楽や島根県隠岐の島の隠岐神楽などと比較参照しています。


 最終章では岩田勝の『神楽源流考』を取り上げ、悪霊鎮送説(神楽を託宣型と悪霊強制型に分類する)に対して批判を試みています。『神楽源流考』が1983年の発刊で本書が2004年ですから、まともな批判が出てくるまでに20年を要したことになります。


 湯立神楽は清められた湯を神に献上するという意味が、霜月神楽には霜月(旧暦11月)という冬至に近い時季に太陽の再生を願うという意味があり、概ね折口の神座鎮魂論(善神を身体に付着させることで生命の更新を図るとする説)で説明可能ですけれど、著者は更に死霊鎮めや破邪の意義をもそこに見出しているのです。そういう点では岩田説を批判的に踏襲しています。


 山﨑一司『花祭りの起源 死・地獄・再生の大神楽』を読みました。奥三河の花祭の原型で、七日七夜に渡って催された大神楽おおかぐらの実像がどのようなものであったか考察した論考です。大神楽を行うには米二十五俵、金百両もの負担を要したとのことです。百両は現在の貨幣価値に置き換えると一千万円くらいだそうです。それだけ多額の費用が掛かるので、大神楽は二十年に一度の豊作の年にしか行われないものだったそうです。


 三遠南信地域に神楽を持ち込んだのは修験道の山伏たちでした。修験道の本山は熊野にありましたが、承久の変(1221)によって熊野修験団は崩壊、全国各地の霊山に離散した山伏たちがやがて土着し、神楽を伝えたとします。修験道の教理を視覚的聴覚的に分かり易く表現するものが神楽だったのです。

 大神楽は湯立神楽の系統に分類されますが、本田安次は三遠南信の霜月神楽を伊勢流神楽と分類しました。ですが、著者によると伊勢信仰が入る前から大神楽は実修されていたとしています。


 大神楽の次第で最も重視されたのは「生れ清まり」と「浄土入り」でした。「生れ清まり」は子孫繁栄の願いと誕生した神子かんごが十三歳になったときに、そのケガレを祓い清めるものです。「浄土入り」は白山という地獄を模した祭場を築いて、白山入りして責め苦を受ける神子たちを山見鬼たちが救出、神子たちは新たな自身に生まれ変わるという内容で、擬死再生のモチーフが見てとれます。


 百番にも上る式次第があり、七日七夜に渡って実修された大神楽が現在では一日一夜の花祭に編成されているので、失伝した次第が多いのかと予想していましたが、実際には内容の失われた次第はあまり無くて、花祭に継承されている次第が多いようです。


 現在では花祭を行う集落が限界集落化していて、伝承の継承が危惧されているとのことです。


 中村茂子『奥三河の花祭り 明治以後の変遷と継承』(岩田書院)を読みました。タイトル通り、奥三河の花祭の明治維新以後における変遷を取り上げた論考集です。明治維新後の神仏判然令で花祭も多大な影響を受けたことが語られます。


 早川孝太郎が奥三河のフィールドワークをしていた時代には、明治期の変革について事情を記憶する人が残っていたらしいのですが、早川はそれについてはあまり書き残していないのだとか。


 花祭は神道花と仏花とに二分されるとのこと。この内、神道花が神仏判然令以降に神道流の改訂が行われたものとなります。仏教的な段が天の岩戸神話や大蛇退治、また天孫降臨の猿田彦命に改変されたのです。地元の神職らによって改訂が進められたのですけれど、中には改訂を拒否する地区もあったとのことです。


 事例として「花のほんげん(本元)」「花のほんげ(本華)」「花の次第」が挙げられる。花のほんげんは大神楽や花祭の根本精神とでも呼ぶものであって、「この祭文の詞章内容は、一度でも大神楽や花祭りに参詣して、花の御串を寄進したことがあるすべての者は、恐ろしい三途の川を無事に渡り、閻魔大王や浄玻璃(じょうはり)の鏡を無事に通過して、極楽浄土の曼荼羅堂へ納まることができ、御仏の手にゆだねられるというものである。」(三七頁)という重要な祭文でした。この祭文が神仏判然令以降は読み上げられなくなっていきました。昭和十年代まで読み上げていた地域もあったとのことです。仏花の地域では戦時中も戦死者の極楽往生を願って読み上げられていたとのことです。


 また、花祭はしばしば警察の干渉を受けましたが、呪術的儀礼を排除することで祭りの存続を保証したとのことです。呪術的とは神がかりになる段のことでしょう。


 奥三河は明治維新後、幾らかの曲折を経て林業を振興するようになっていましたが、戦後、林業が衰え、またダム建設で集落が水没する等もあり、過疎化が進行、祭りが廃絶していったとしています。


 興味深かったのは、マサカリを持った榊鬼の解釈について、山を切り開いた土地に住民が住み着くことを祭りの実行を条件に山見鬼が許すというものです。正確には、「山見鬼の鉞(マサカリ)による呪法(山の神が支配する土地に人々が山を切り開いて暮らすことを、祭りの実行を条件に許可する意味を持つ)」(四四頁)というものです。


 著者は花祭研究者の武井正弘の死についても触れています。武井は東京大学法学部を卒業しましたが、法律には興味を抱けなかったらしく、編集者として活動後、四十代になってから花祭の研究に身を投じています。武井は残された資料から花祭や大神楽の全貌を描き出すことに専念していましたが、志半ばで亡くなってしまいました。武井の死で花祭り研究は打撃を受けました。


 東北の山伏神楽については長澤壮平『早池峰はやちねたけ神楽 舞の象徴と社会的実践』を読みました。岩手の早池峰神楽を題材としていて式舞「鶏舞」「翁舞」「三番叟さんばそう舞」「八幡舞」「山の神舞」「岩戸開き舞」「権現舞」といった舞の所作の意味を分析、更に神楽のもたらす心的資源について考察します。


 岳神楽でも文化の客体化――文化の客体化とは平たく言うと、文化を本来の文脈から切り離して操作可能なモノとすること。神楽で言えば神事に加えてイベントで演じられること――が起きているとします。それは昭和初期に本田安次に「発見」されて以来、学者、行政、観光客といった視線に晒される様になった帰結です。ですが、岳神楽の伝承者たちは神事を「やる」、イベントを「見せる」と明らかに別のものとして扱っています。岳神楽の舞台は注連縄で四方を区切ったところに成立するのですが、伝承者たちの内面でも内的統一が成されていると分析しています。


 また、岳神楽のもたらす心的資源について考察されます。心的資源とは抽象的ですが、社会的相互作用によって人々にもたらされる、かつ行動の動因となる「良き事」です。インタビューで演者、地元民、地元外の観客の心境が語られます。そこには神楽体験によって「祈り」「喜び」「おそれ」「浄化」「活性化」といったスピリチュアリティ(霊性、精神性)が見いだされるとしています。


 西郷由布子「芸能を<身につける>―山伏神楽の習得過程」という論文では早池峰神楽の舞が手ごとという単位で構成されていて、手ごとを習得することで舞に習熟していくと分析しています。


 久保田裕道『神楽の芸能民俗的研究』を読みました。著者は先ず「民族」や「地域」といった概念に帰属意識という心意を見いだします。そして芸能が地域における帰属意識の単位となり得るのではないかと考察します。分析の対象となるのは東北の早池峰神楽と南アルプスの霜月神楽です。


 タイトルに「芸能民俗」とあります。「民俗芸能」が転倒したような概念ですが、その分析にはまず「民俗芸能」の定義が必要であると述べます。


 そこで議論の前提として「民族」という概念について考察します。要約すると帰属意識となります。つまり意識が媒介する概念なのですが、この帰属意識は対象範囲を狭めると郷土意識についても見ることができます。


 次いでムラをコミュニティと同義なものと考えて論を進めます。ムラも各種に分類されますが、ここでは心意の面、ハレとケの双方を含めた民俗から想定しなければならないとしています。


 更に地域という帰属意識の基盤となる概念を分析します。

・生産の方法とそれに用いる民具

・年中行事

・神社と祭りと民俗芸能

・講などと社会構造・年齢集団の活動 と分類するものと


・水田灌漑

・入会林野・共有林野

・交易圏(流通圏)

・国府祭のような神社祭祀 とする分類です。単純化しますと、


・経済

・社会

・信仰・儀礼 といった分類を行う立場があります。


 そして芸能による帰属意識という観点から地域への帰属意識を探るという方向性に持っていきます。民俗芸能の定義には諸説ありますが、まとめると下記の様になります。


・人、時、場所といった様々な制約条件を有すること。

・伝承者とその民俗社会および享受者との間に共通理解があること。

・上記要素を満たした身体表現もしくは道具を使用した操作表現であること。


 芸能研究は解釈をめぐる問題と機能をめぐる問題とで進められてきました。解釈には伝承的解釈と構造的解釈があります。伝承的解釈が進めば、それは機能に近くなってきます。そして機能は、


・その芸能を成り立たせている機能

・芸能が人々に働きかけるシステム


と分類されます。そうした芸能の機能およびその様々な範囲(集団、地域など)の相互関係が帰属対象としての地域を決定するとしています。


 著者は芸能の研究対象として神楽を選びます。神楽は信仰に直結しており、性質がつかみ易いとします。一方で神楽ほど明治期を境に大きな転換を遂げている芸能はないとしています。つまり本来持っていた目的や性格を外れ、その形が変貌しつつある芸能であるとします。その点で神楽に二面性を認め、神楽の持つ本質と属性から地域の帰属対象としての民俗を探ることとします。


 まず、東北の山伏神楽について、権現様と呼ばれる獅子頭を奉じる神楽です。代表的なものとして早池峰神楽の岳神楽と大償(おおつぐない)神楽とが挙げられます。両者は隔年ごとに冬場の巡業を行っていました。巡業のない年は炭焼きをしていましたが、炭焼きよりも神楽の方が実入りがいいのだそうです。


 大償周辺は耕地面積が少なく、煙草の栽培が大きな収入源でした。また、稲作可能な土地は少なく焼き畑農業も行われていました。巡業の地域はムラとマチに分かれていました。経済的に裕福なマチでは現金収入が期待できました。


 また、大償神楽では神楽の伝承者が特定の家筋の長男に限られていました。芸能の伝承者と享受者が明確に分かれるのです。


 岳神楽と大償神楽の弟子筋の神楽もありますが、巡業はせず、村内の年中行事に携わっていました。またマチで各種伝統芸能が一堂に会す祭礼には出演して芸を磨いていました。ここでは芸能の享受者と伝承者が互換可能でした。


 このように山伏神楽は興行型と慣行型に分類されます。


 南アルプスの湯立神楽では山伏神楽と異なり巡業地域、弟子神楽の形成は見られません。十五~六世紀頃の成立と見られますが背景には御霊信仰も見られます。


 大井川・安部川流域の神楽には太々神楽的な要素が見られるとします。これは伊勢の大神楽を元に形成されたものです。太々神楽といっても湯立的な要素を持つものと、現代の仮面劇的なものとに分かれています。


 神楽の精神的要素として願果たしが挙げられます。つまり願をかけることですが「立願」と「願果たし」に分類されます。


・宗教者を通じて願をかける。場合によっては舞を奉納する。

・願主自らが湯を浴び、再生することで健康を願う。

・健康に育った子供が自ら舞を奉納して願果たしをする。


 もう一つの精神的要素として神送りが挙げられます。神楽で招いた神を送るのです。土地の神を接待するものと土地の神――格の低い精霊を追い出してしまうものとに分けられます。これは疫神を送る神事とも重なります。山間地帯のため稲作の虫送りよりも疫神を送る神事が発達したと考えられます。鎮めの儀式として反閇が行われます。


 また、南アルプス圏の神楽に登場する鬼は、出雲流の神楽では悪鬼であるのに対してマレビト的性格を持つとしています。禰宜(ねぎ)との年齢争いに負けて舞を舞い退散させられるのです。この禰宜を最高神の天白とする説もあります。


 鎮めの儀式に用いられる面は「火の王」「水の王」が用いられます。


 ……この本、民俗については詳細に記述されていますが、それだけに筆者の実力では要約することが難しいです。


 橋本裕之『震災と芸能 地域再生の原動力』を読みました。2015年に初版が出ており、東日本大震災から四年が経過した頃に出版されたものとなります。著者の橋本氏が民俗芸能という無形文化財の分野で復興に奔走した様子が描かれています。民俗芸能は不要不急のものではなく、地域に暮らす人たちの生活のよりどころなのです。


 事例として鵜鳥うのとり神楽が挙げられます。鵜鳥神楽は岩手県沿岸部に点在する宿を巡業して回るのが特徴ですが、津波で宿となる家屋が流されたため、巡業できない事態となりました。そこで家屋の残った(風呂は壊れていましたが)有志が宿として名乗りを挙げ、神楽実施に及んだものです。鵜鳥神楽は芸術面でも優れていますが、地元の人たちに深く信仰されている、そういう意味では娯楽的な面も併せ持つ神楽であるとのことです。


 郷土芸能の復興には三つのステージがあって、第一段階は太鼓や衣装など道具類の調達、第二段階は練習できる場所(仮設でも)の確保、そして第三段階が郷土芸能に携わる人たちの雇用の場の確保としています。


 泉房子『<岩戸神楽>その展開と始原 周辺の民俗行事も視野に』を読みました。岩戸神楽に限らず、山形県、島根県、岡山県、福岡県、大分県の神楽が取り上げられています。神楽面の写真が多いです。演劇的な神楽はやはり江戸時代に演じられる様になったとしています。これが吉田神道の裁許状と相関関係にあるのかまでは分かりませんが、関連があるかもしれないと思わせます。神楽だけでなく仏教の修正会しゅしょうえ追儺ついな傀儡子くぐつしも取り上げられていて参考になります。中央で取り入れられた修正会が全国に伝播して、そこから鬼のイメージが広がったのかもしれません。


 諏訪春雄『日中比較芸能史』を読みました。神楽に限らず、日中韓の様々な芸能が取り上げられて比較されていますが、その中で諏訪は中国の目連もくれん戯に注目します。目連戯とは仏弟子の目連が地獄に堕ちた母を救うために地獄巡りをし、母を救い出すという内容の劇です。諏訪はその目連戯が奥三河の花祭にかつて存在した大神楽――七日七夜に渡って行われる――の「浄土入り」と構造が一致すると指摘するのです。また、日本の五郎王子譚についても中国の「坐后土」と呼ばれる神話劇とで粗筋がほぼ一致している――五郎王子では所務を巡って兄王子たちと戦いになるのに対し、「坐后土」では后土聖母娘娘が遅参した五郎に土用を割り当てるという違いがある――と指摘しています。


 諏訪はこうして大陸の芸能と日本の芸能を比較研究することの重要性を訴えたのですが、『日中比較芸能史』の登場には時代が追いついていなかったようです(注8)。


 本書が発行されたのは1994年でそれから25年以上が経過しました。現在では日本の学者の中国での調査も進んでいますので、出版当時の評価とはまた違っているかもしれません。


石塚尊俊『里神楽の成立に関する研究』を読みました。『西日本諸神楽の研究』と被っている部分が少なくないのですが、岩戸神楽の分析では、中四国九州に分布する岩戸神楽を


1. 神話の筋書きに従って一つのまとまった劇として構成されているもの

2. 神話に登場する神々は一応みな出そろうが、その間に劇としてのまとまりは少なく、いうならば“多くの神々の舞”といった状態にあるもの

3. そこまでもなっていず、ただ神話に登場する神々が出ては入り、出ては入りして、要すれば単神舞の連続といった状態にあるもの

(157頁)


と分類します。出雲や石見の演劇化された岩戸神楽は1に該当します。これらの分布を地図にプロットすると3>2>1(3の方が中心からより離れている)といった周圏が見て取れると指摘します。素直に解釈すれば1よりも3の方がより古態を残していると考えられるでしょう。


 他、「切目」に関する論考があります。切目とは熊野の切目王子という護法童子のことですが、なぜか出雲神楽・隠岐神楽・石見神楽にその演目があるのです。熊野の修験が伝えたとしか考えようがありません。「切目」は天から降ってきた鞨鼓かっこを切目王子が叩いて鳴らすという内容です。石塚はこの「切目」について史料を駆使して考察しています。なお、本書では取り上げられていないのですが、切目王子は怒りに任せて人をあやめてしまったので罰として片足を切り落とされたという伝説があり、その姿で描かれることがあります。神楽では当然ながら両足ともあります。


 津城寛文『折口信夫の鎮魂論 研究史的位相と歌人の身体感覚』を読みました。「レクイエム」が鎮魂歌と訳されたこともあって、鎮魂は葬送慰霊的なニュアンスで捉えられることがありますが、折口の言う鎮魂は魂を活性化させ身体への出入りを操作する術なのです。また、鎮魂が分からなければ神道は分からないとも言ったそうです。


 鎮魂とは他界と現界との間を行き来自在な霊魂を増殖させたり(たま殖ゆ)、現界の物体に憑依させたり(たま触り)、運動を制して一か所に固定させたり(たま鎮め)、結び留めたり(たま結び)するといった一連の操作過程です。

 例えば宮中の所作では、伏せた桶を矛で突く、糸を結んで箱に収める、帝の御衣を箱から出して振動させるといったことが挙げられます。


 第一部では「鎮魂」を巡る学説が取り上げられます。江戸時代の説として鈴木重胤が挙げられます。言及されていませんが、折口の説は重胤の説を基礎としているようです。そして近代の学説が取り上げられます。明治・大正期には目だった成果は無いようです。昭和期には折口説を踏襲してそれに修正を加えた説が見られます。また折口説には依らない独自の説もあります。が、いずれにしても折口説を塗り替える程のものはないようです。


 ここで鎮魂の定義を「鎮魂とは霊魂の操作にかかわる呪術的儀礼的行為一般である」とします。


 第二部では、霊魂の入れ物となる身体について歌人としての折口(釈迢空)の読んだ和歌から探っていく展開となります。ここでは身体境界の透過性と呼んでいます。折口は和歌を詠むことで身体境界の透過性から生じる不安を和らげていたのではないかと仮説を立てるのです。


 折口の鎮魂説の基盤には、何かが身体の外から内へ侵入してきたり、あるいは逆に内から外へ漏出していったりする特異な感覚があったとしています。

 著者は一応の結論として折口の内面における水的なものをを媒介とした透過性の克服、水の治癒力を挙げています。ちなみに折口は潔癖症だったそうです。


 この様にして読書主体の神楽体験だったのですが、インターネットの発展で、関東の神楽の情報もポツポツと入るようになってきまして、関東の神楽を幾つか拝見することができました。


 横浜市の神代神楽では巫女舞と浦島太郎を見ることができました。神楽というと神話劇のイメージですが浦島太郎を見て、昔話でもいいんだと感心させられました。実際、江戸の里神楽には桃太郎や浦島太郎、因幡いなばの白兎などの演目があるようです。


 それから東京の間宮社中の催した「江戸里神楽を観る会」に行きまして、これは毎年催されていますが、東京の里神楽を観ることができました。「根之堅州国ねのかたすくに」はオオナムヂ命(大国主命)が根の国のスサノオ命を訪ねて娘のスセリ姫を貰うために様々な試練が課される内容でした。神話劇が主体でしたが、江戸の里神楽は基本、黙劇でセリフはほとんどありません。手言と呼ばれる仕草で意味を伝えています。


 実はテンポの速い神楽に慣れた身として、テンポのゆったりした神楽を楽しめるのか始めは不安でしたが、実際に見てみると問題なく楽しめました。


 そして埼玉県久喜市鷲宮わしのみやにある鷲宮神社の土師はじ一流催馬楽さいばら神楽を鑑賞することができました。アニメ「らき☆すた」で聖地となったあの鷲宮神社です。関東の神楽の源流だそうです。鷲宮神社の神楽は儀式舞で、岩戸神楽もありましたが、劇的な構成ではありませんでした。神の仕草を表現するのだそうです。演目の間に端神楽はかぐらと呼ばれる短い演目を挟みます。これは巫女さんが舞うもので、私が見た日は何回目かの端神楽がトリの演目でしたから(もしかしたら、めくり台の演目をめくり忘れただけかもしれませんが)、女性が意外と活躍しているな、という印象でした。しゃくまいと呼ばれる演目は巫女さんが演じるもので華があります。


 相模原市・亀ヶ池八幡宮の番田神代神楽を見ることもできました。前年台風で中止となったので、念願の初鑑賞でした。神楽はまず三番叟さんばそうと大黒様とおかめ/ひょっとこの両面舞で始まり、次に「天の返し矢」。高天原から遣わされた天若日子あめのわかひこが大国主命に国譲りを迫るも娘の下照したてるひめに一目ぼれしてしまって、様子を見にきたきじを弓矢で射て、自身も射返されて死んでしまうという筋です。悲劇的内容で神楽を終わりにするのでなく、次にタリというモドキがおかめと道で鉢合わせして、互いに譲らず滑稽な所作を繰り返すという明るい内容で締めました。関東の里神楽なので基本、黙劇なのですけど、マイクで解説しながらの上演となりました。


 2019年4月には品川神社で太々だいだい神楽を見ることができました。春祭で毎年四月第三日曜日(正確には四月十五日後の日曜)に催されているそうです。太々神楽は基本的には時計回りで舞台を回ります。足を踏み出す際に、かかとを後ろに大きく跳ねだしてからすり足で進む感じです。反閇へんばいなのかどうか分かりませんが、足を床に強く踏む所作が多かったです。これは大地を踏みしめ地霊を鎮める意味があるのでしょう。基本的には儀式舞で、最後の海幸山幸を題材にした舞(幸替の舞)でも演劇化はされていませんでした。二時間ほどで六演目舞いました。これで品川神社の太々神楽は江戸里神楽を観る会と併せて七演目見たことになります。上々の数字と言えるでしょう。


 2019年6月には横浜市のにぎわい座ホールで「かながわのお神楽」第二回公演を観ました。神奈川県下の四社中が集まって「御祝儀三舞ざんまい」「紅葉狩」「八雲神詠」「天孫降臨」が演じられました。「御祝儀三舞」ではまず三番叟さんばそうが登場し舞台を清めます。「紅葉狩」は謡曲を元にしたもので、戸隠山を舞台にした平維茂これもちの鬼女退治です。「八雲神詠」はヤマタノオロチ退治です。オロチが人と変わらぬ衣装を着ており、中国地方で普及している提灯ちょうちん蛇胴以前の上演形態が残されています。「天孫降臨」が終わった後、猿田彦命が残って「山神の舞」で締めくくられました。この公演は江戸里神楽公演学生実行委員会が催したもので、学生のボランティアと一般のボランティアからなる混成組織です。例年は埼玉県で公演を行っており、神奈川での公演は九年ぶりでしたが、令和元年に行事を催したいとの意向があり、実現したものだそうです。


 2019年夏には奉納神楽も見ることができましたが、関東の里神楽は幕間まくあいが長いのです。一時間くらい掛かります。神楽師の休憩と着付けに時間が掛かるのでやむを得ないのですが、その間に観客が入れ替わってしまうのです。また、奉納神楽はあくまで氏子さん達のものなので、宣伝は積極的にはしません。


 関東の里神楽の場合、娯楽が他に幾らでもありますので、地方のように神楽で観光客を誘致するという使命からは自由です。でも、その分、行政も特段の支援は行わないでしょうから、石見神楽や芸北神楽とは置かれた状況が異なっていることになります。


 名馬池月の伝説で知られる千束せんぞく八幡神社で「稲荷山」という演目を見ました。副題が「千箭ちのりの悪鬼退治」です。マイク解説の無い黙劇で上演されたのですけれど、見れども見れども登場するのは稲荷大神と天狐ともどきだけで肝心の千箭と鬼は登場しないのです。あれ? と思ったのですが、その後マイク解説台本を入手して「稲荷山」は前段と後段からなり、私が見たのは前段のみであることが分かりました。後段で稲荷大神から弓矢を授かった千箭が鬼退治するのです。関東の神代神楽は基本黙劇で、観客に日本神話の知識があることを前提としています。「稲荷山」の場合、記紀神話にはないお話だったので、黙劇で演じられるとストーリーが分からないということになってしまうのでした。そういう意味では神楽の敷居を下げるにはマイク解説があった方がいいのかなと思わされました。また、子供が見ることを考慮してもマイク解説が望ましいとなるでしょう。


 百聞は一見にしかずで、こうして関東の神楽を実見することで知識の裏打ちを得ることができたのですが、中国地方と比べるとバトルの要素が薄いのです。記紀神話に忠実であるとも言えます。ちなみに、関東の太々神楽には反閇を踏む所作が一般的な様です。反閇はマジカルステップとも訳され、大地を鎮める呪法です。


 なお、関東の神代神楽(神話劇を主に演じる神楽)でも足を強く踏み込む所作があるのですけれど、あれは反閇ですか? と尋ねたところ、どちらかというと、神楽殿の床下は空洞なので、強く踏み込むことで重低音を響かせているのですといった答えが返ってきました。


 他、関東の里神楽(神代神楽)ではモドキという滑稽こっけいな役を演じる存在が大きな位置を占めています。もどく(真似をする)が語源だそうですが、神の従者役を務めることが多い様です。中国地方では茶利が滑稽な役を務めます。茶利がトークで笑わせるのに対し、モドキは仕草で笑わせます。

 残念なのは、関東の里神楽は黙劇なので口上台本の類が存在しません。台本を読むという文芸的な楽しみ方ができないのです。例えば本田安次『日本の伝統芸能』シリーズの史料集でも保持演目の一覧程度の記載でした。なお、近年ではマイクで解説することが増え、マイク解説台本が存在していますので、いずれ文芸的な楽しみ方もできるようになるかもしれません。


 ちなみに関東の里神楽関連の書籍ですが、江戸里神楽公演学生実行委員会の公演プログラム『楽しくて、わかりやすい江戸里神楽公演』シリーズが国会図書館に所蔵されています。神楽の演目解説、社中の沿革、関係者へのインタビュー/寄稿、お囃子、面のコレクション、衣装の解説、楽屋、字幕解説、学生のスポンサー企業への訪問記といった活動記録、座談会など神楽公演を巡る諸相についてカラー写真付きで網羅的にまとまっており、関東の里神楽のどこに注目すればよいのか分かるようになっています。


 関東の里神楽の見せ場は男神と女神の連れ舞でしょうか。他、お約束的な舞として従者役のモドキやおかめさんがお酒などを運んでくる際に舞われるハコビの舞があります。その際、「にんば」という軽妙なお囃子が奏されます。

 関東の里神楽の魅力は笛にあるのかなと思います。「ひい」という裏音を多用する奏法は、システム化された西洋楽器にはないでしょう。裏音が響いて上演が始まると、一気に舞台が引き締まります。洗練されたお囃子です。


 なお、関東の里神楽には神楽歌が無いようです。鷲宮神社では催馬楽さいばらを歌いますが、それ以外、特に神代神楽では見られないようです。少なくとも胴取りが歌うことはありません。


 管見の限りですが、関東の神代神楽には神楽歌、天蓋、五行神楽(五郎王子)という三つの要素の欠如が見られるように思います。これは地理的に修験の山伏の関与が薄かったと推論できるのではないでしょうか。江戸発祥で娯楽色の強い神代神楽だとさもありなんというところですが、太々神楽でも同じ傾向が見られるかもしれません。前述の通り鷲宮神社では催馬楽を歌いますが、品川神社の太々神楽ではありませんでした。天蓋はいずれもありませんでした。五行神楽は山伏が持ち伝えた神楽で、関東周縁部には存在するようです。鷲宮神社では四神が登場する演目はありますが(浦安四方国固うらやすよものくにがため之舞)、五神は登場しません。五行神楽が神道流に改訂されたものと考えられます(注9)。


 間宮社中の「江戸里神楽を観る会」は品川の六行会りっこうかいホールという二五〇席ほどのキャパシティの小ホールで催されたのですが、無料でホールがほぼ満員になるという規模でした。「かながわのお神楽」公演が横浜にぎわい座ホールにて有料で四百人規模の動員でしたから、首都圏の神楽のコアなファンは推察するにその数は四桁いくかいかないかといったところでしょうか。現代演劇で小劇場系の観客動員数が「三千人の壁」と言われているそうなので、小劇場系の演劇より更に小規模なことになります。


 小劇場系演劇の顧客層は若い女性層が多いそうなので、老人層の多い神楽とは異なりますが、既存の固定客を大事にしつつ、その拡大を漸進的に目指すことになるでしょうか。そして、いかにして子供層を取り込むかも課題の一つとなると考えられます。なぜ子供が肝心であるかは章末で取り上げます。


 ここまで来て、まだ講演会で習った神楽の基本に触れていない部分がありました。最初にずらずらっと述べても聞き流してしまうかもしれませんので後回しにしています。


 神楽は舞いであり、旋回動作です。静的・様式的な回転動作です。一方、踊りは跳躍動作であり動的・開放的といった違いがあります。


 神楽の種類を挙げると

・巫女神楽

・出雲流神楽(中国・四国・九州に分布)

・伊勢流神楽(湯立神楽)

・獅子神楽(山伏神楽・太神楽だいかぐら

と分類されます。


 他にも分類法はありますが、私が前述した講演で教わったのはこれです。本田安次の分類です。巫女神楽は巫女の清まった身体に神を降ろす儀式です。昔は神がかりしたのです。湯立神楽は湯を沸かし笹や御幣で神々に清めの湯を献上する儀式です。釜で沸かした湯の湯気に神が降りてくると考えます。元々は出雲でも神楽というと湯立神楽を指していたようです。獅子神楽は権現舞、獅子という想像上の霊獣のかしらに神が降りてくると考えます。太神楽は獅子舞に加え演芸的な内容です。


 出雲流神楽というのは江戸時代初期に出雲の佐陀大社で能楽の様式が取りいれられて神楽の演劇化がはじまった(佐陀神能)。そしてそれが全国に伝播したという認識です。関東の里神楽も出雲流に分類されています。ただ、これまで述べてきたように出雲の神楽よりも古態を残している神楽もありまして、現在でも出雲流神楽という分類が有効なのかどうかは分かりません。佐陀大社で神能化したのは江戸時代の改革によってだという研究成果があるらしく、出雲が発祥というのは現在では否定的に見られているようです(注10)。


 出雲流神楽の代わりに採物とりもの神楽とする分類法もあります。神楽の特徴として、榊や幣などを手に持って舞うといったことが挙げられます。採物を依代とみる視点から採物を持って儀式舞と神楽能(神話劇)とを組み合わせて舞う神楽を採物神楽と分類するのです。


 しかしながら、採物神楽以外でも採物を手にとって舞うのですから、採物自体を分類基準にするのも変な気がします。


 ここまで読んできて、多少は神楽に興味が湧いたでしょうか。幸い今の時代、現地に足を運ばなくてもネットの動画投稿サイトで居ながらにして神楽を鑑賞することができます。


 例えばユーチューブで「石見神楽 大蛇オロチ」と検索すると石見神楽の代表的な演目である「大蛇」を鑑賞することができます。「大蛇」ですが今では共演大会などではトリの演目として舞われています。また、都会での公演や外国での公演でも主な見せ場となっています。それはヤマタノオロチ神話をベースにしたものであること、基本的に英雄が悪龍を退治する明快な物語であり、セリフの意味がとれなくても容易に理解可能であるからです。


 実際に見てみると何頭もの大蛇が登場して、一種のスペクタクルであるとも言えるでしょう。この大蛇は提灯蛇胴という竹と和紙で作った蛇腹状のボディから成っていますが、これは二十世紀初頭に開発されたもので、神楽のイノベーション、創造的破壊であるといえます。破壊なので、それまでの伝統を崩してしまった一面はあるのですが(それまではウロコ模様の衣装を着けていた)、蛇胴を得ることで「大蛇」は石見神楽を代表する演目としての地位を固めたのです。


 未だに語り継がれているそうですが、1970年の大阪万博が「大蛇」普及の一つの転機になったといいます。八頭+αの大蛇がステージに登場する勇壮なもので、当時、一緒に公演した他所の伝統芸能の伝承者たちは「大蛇に喰われた」と述懐していたそうで、それだけインパクトのあるものだったのです。


 大阪万博での「大蛇」上演で石見神楽は全国的知名度を得ました。それからは全国から出演依頼が来るようになり、出張公演を行うようになりました。近年では神楽で観光客を誘致する流れになってもいます。このように「大蛇」の変容が石見神楽自体の在り方を変えていったのです。


 一方で、前述したように神楽のショー化について研究者たちは強い懸念を示しています。「大蛇」はショー化した典型的な演目なのです。これについては功罪両方あり、次章で本質主義/構築主義について考察します。


 私が中学一年生のとき、担任の先生が郷土史家だったのですが、石見神楽を批判して、本物の神楽は大元神楽みたいなものなんだという趣旨の言葉を述べたことがありました。石見神楽では一着百万~ニ百万円もする金糸銀糸で刺繍ししゅうされた重い舞衣まいぎんを着て舞台に立ちます。大元神楽では白を基調とした昔ながらの袴姿です。もっとも、神楽の衣装の制作で生計を立てている人たちもいますので、一概には言えませんが、衣装が年々華美になっているのは事実です。


 ちなみに刺繍の技術は神楽衣装店の店主が農村歌舞伎の盛んな四国に修行して技術を持ち帰ったものだそうです(注11)。容易に真似のできない技術です。

 現在、島根県西部の市町では毎週末に一時間~一時間半ほどの神楽公演を行っています。神楽は今や観光資源なのです。穏健な見解としては、まず娯楽性の強い石見神楽を取っ掛かりにして、それからより神事性の強い出雲神楽や隠岐神楽に誘導しようという考えもあります。


 もう一つの例として広島県を挙げます。広島県も神楽が盛んな土地柄です。安芸地方、特に芸北では石見神楽にルーツを持つ神楽が盛んです。なので、学問上は芸北神楽は石見神楽に分類されています。


 どれくらい盛んかと言うと、例えばNHK広島局制作の「舞え!KAGURA姫」といった単発ドラマや『ヒマワリ』『カグラ舞う!』『放課後カグラヴァイブス』という芸北神楽を題材にした漫画が出てきているくらいです。また、広島市内の大ホールを埋める観客動員力があります。夏には高校生の全国大会である神楽甲子園が安芸高田市で開催されます。


 芸北は浄土真宗が盛んな地域で、雑業雑修を排すると言われていて、荒神信仰が入り込む余地が無かったものと想像されます。江戸時代の様子はよく分かりませんが(※十六世紀に荒平が舞われたことは分かっています)、江戸時代末期に隣接する石見地方から石見神楽が伝授される訳です。伝来地により阿須那あすな手、矢上やかみ手と分類されます。どちらも島根県邑智おおち郡の地名です。これは旧舞と呼ばれています。


 DVDで梶矢神楽団の「人身御供」と「鈴鹿山」を視聴しました(注12)。「人身御供」は猿神退治です。「鈴鹿山」は坂上田村麻呂が目の見えない鬼と紐を引き合いながら戦う内容でした(※鈴鹿御前は登場しません)。六調子なのか分かりませんが、八調子よりもゆったりしたテンポでした。高速旋回(平舞い)はありました。梶矢神楽団は芸北地区の神楽団に大きな影響を与えている団体で、「これが阿須那手か」と感心しました。


 この芸北神楽なのですが、戦後に画期がありました。第二次大戦の敗戦で日本はGHQの統制下に入ったのですが、神楽も思想統制の対象となったのです。そのため神国思想色のある舞が舞えなくなるという事態となりました。何でも、翼のある悪鬼(塵輪じんりん)がB29を連想させるからNGなんてこともあったそうです。


 そこで検閲を回避する創作神楽が生まれたのです。これは筆者も佐々木順三『かぐら台本集』という台本集を読みましたが、バトルの要素が強い、鬼退治が中心の創作神楽です。中にはヤマトタケル命や神武天皇の神話を題材としたものもありますが、人気が特に高いのは源頼光と四天王の鬼退治や玉藻の前といった悪狐退治の演目です。


 「天香山あめのかぐやま」という天岩戸神話にちなんだ演目があり、出雲神楽の「山の神」とほぼ同一内容の演目で、天岩戸神話の裏ストーリーとでも呼ぶべきものです。


 「山の神」のストーリーは次のようなものです。天照大神が天の岩戸に籠ってしまったので世界は闇にとざされます。天照大神を何とか復活させようとして八百万やおよろずの神々は相談し、鏡や勾玉など様々なアイテムを並べてお祭りをします(※ここまで前説)。その中に天の香具山の榊もあるのですが、神が天の香具山の榊を根こじにしようとして、それを見とがめた山の神が詰問します。そこで追いつ追われつとなるのですが、神が自分は何者で天照大神を天の岩戸から出すためにこうしているのだと説明すると、山の神はひれ伏します。そこで代わりに宝剣を授けて、山の神は悪切、つまり四方を剣でぎ払い、悪魔祓いをするという内容です。


 これは神事性の高いものですが、「天香山」では最後に魔神とのバトルが付加されており、蛇足と言わざるを得ません。なお、この一群の創作神楽ですが、能や歌舞伎、御伽草子などを元にしている演目が多く、出自自体が悪い訳ではありません。


 この終戦後に生み出された創作神楽は新舞(新作高田舞)と呼ばれていますが、広島県芸北地域で一世を風靡ふうび、非常に盛んとなりました。一方、その余波を受ける社中もありました。広島県西部に伝わっている安芸十二神祇という神楽が打撃を受けたのです。十二神祇神楽は劇的な構成ではなく、儀式舞の要素が強いのですが、ストーリー性のある、そしてテンポの速く舞ぶりの激しい新舞に押されるようになってしまったのです。十二神祇神楽を舞っている社中の中にも存続のために新舞を取りいれるところが出てきているのが現状だそうです。


 十二神祇神楽もユーチューブで動画が公開されていますが「八ツ花」は美しい舞です。上から見ると花のように見えるのだとか。


 ちなみに、新舞の作者である佐々木順三は茶利の存在を重視していました(注13)。その中でも「戻り橋」や「悪狐伝(中編)」などが人気の高い演目です。傘売り善兵衛や珍斉和尚が活躍するのです。


 「戻り橋」は源頼光の四天王の筆頭・渡辺綱が一条戻り橋で鬼の片腕を切り落とす内容です。「悪狐伝(中編)」は正体を見破られ那須の原に逃れてきた玉藻の前を珍斉和尚が迎えるという筋です。


 広島県では共演大会ならぬ競演大会が盛んです。それは神楽に優劣をつけるということでもあります。競争することで、レベルの向上が図れるメリットもありますが、一方で、未熟な人は舞台に立てないという側面も持っています。

 ちなみに芸北神楽では着面せずに直面ひためんで化粧をすることが主流です。これは農村歌舞伎の影響を受けているとも大衆演劇の影響だとも言われます。直面だと口上が聞き取りやすい(着面だと声がくぐもって口上が聴きづらい)メリットがあります。その代わり、仮面をつけて心身ともに変身するという要素は薄れます。


 広島県の新舞は、その成り立ちからして神事性が薄いと指摘せざるを得ません。筆者もユーチューブで「滝夜叉たきやしゃひめ」を観ましたが、石見神楽の「塵輪じんりん」を二倍派手にしたような演出だなと感じました。「塵輪」ではしん二人が片足立ちでくるりくるりと旋回する所作が見せ場です。それに対して「滝夜叉姫」では四人で旋回してみせるのです(注14)(注15)。神楽殿ではなく、明らかにステージで舞うことを前提にした演出なのです。


 他、ツイッターで「舞え!KAGURA姫」の宣伝映像を見ましたが、練習シーンでヒロインがくるくる回ってバレエかと思いました。他所のテンポのゆったりとした神楽をやっている人からすれば違和感があるでしょう。


 つまり、広島県の芸北神楽は最も先鋭化した神楽であると言えるでしょう。疑問も無しとしないのですが、しかしながら、テンポが速くストーリー性がある(勧善懲悪)ということで、それ故に人気を博しているのも実情なのです。


 関東の里神楽を実見して思うのは広島県芸北地域の神楽は鬼退治、バトル偏重であるということです。説話を大幅に取り入れた結果、神話劇から逸脱しています(注16)。儀式舞軽視で能舞偏重とも言えるでしょう。石見神楽も大概鬼退治に偏重しているのですが、それでも「恵比須」「岩戸」「八衢やちまた」「貴船」「五穀種元」「鞨鼓かっこ」「切目」「四神」「四剣」といったバトルの要素の無い演目も保持しています。なお、関東にも「紅葉狩」「神剣幽助」といった能楽に由来する神話劇でない演目があります。


 これは何も新しい知見ではなく、昔、民俗学の偉い先生が中国地方の神楽は鬼退治ばかりだと笑ったという逸話があります。つまり、まともな研究対象と見られていなかったということです。裏を返すと、悪霊鎮送的な神楽はまだ知られていなかったということでもあります。


 神楽面という側面からみても、芸石地域の神楽面には多彩な鬼の面がありますが、関東では赤鬼と青鬼との二種類とそのバリエーションしかないといった違いもあります。ちなみに、石見神楽と芸北神楽では和紙を使った張り子の面を使用します。木製の面より軽量なのです。石見地方では石州和紙が特産品です。また、面の型を粘土でとるのですが、それには長浜人形という浜田市特産の人形作りの技術が応用されているそうです。そういった土壌があって張り子の面が用いられている訳です(注17)。


 広島では「ひろしま神楽」と銘打って神楽をアピールしていますが、実のところ推しているのは観光神楽に積極的な芸北神楽で、それは広島の他の神楽、安芸十二神祇や比婆荒神神楽、備後神楽、芸予諸島の神楽など歴史ある神楽の権威を借りるための方便に過ぎないのではと見えてしまいます。


 ユーチューブで中川戸神楽団の「天の香具山」を視聴しました。「中川戸神楽団 天の香具山」でヒットします。視聴してみたのですが、結果は想像と異なっていました。調べてみると中川戸神楽団の「天の香具山」は創作演目で、天照大神を天の岩戸から復活させるべくというところまでは同じですが、その後の展開が異なり、天の香具山から榊を持ち帰ろうとした弥生姫を悪神が殺して榊を奪ってしまいます(※神が殺されるという神楽では異例の展開)。そこで山祇やまつみ神と娘のアタツ姫(コノハナサクヤヒメ)が榊を奪い返す、といった内容でした。内容が改変されているのです。


 中川戸神楽団はスーパーカグラなるものを主催する団体であり、創作神楽をよくする広島では有名な団体です。


「天の香具山」では最後に剣で四方を祓うのでなく御幣で祓っています。元の「天香山」の口上では「これなる剣は天津神より授かりたるものなれば、これなる神剣によりて四方よもの悪魔を調伏なさるべし」とあります。これは悪切を意識したものでしょう。剣で祓うから御幣で祓うへの変化の理由は、バトルで剣が血塗られてしまったからでしょうか。バトル展開にすることで改変を余儀なくされたようです。天の岩戸が閉ざされることで悪神が湧いてきたと言いますので、こういう展開もありかなとは思いますけど、原義が失われてしまったようにも感じます。


 創作神楽自体が禁止されている訳ではないのですが(注18)、あまり改変し過ぎると「それは神楽と呼べるのか?」ともなってしまう危うさが見られるように思います。なお、スーパーカグラは神楽の枠を超えた舞台総合芸術を志向しているとのことです。それゆえ「スーパーカグラ」なのです。


 ちなみに、スーパーカグラでは首を飛ばす演出(それ自体は天蓋を引く操作に由来する)のために神楽の重要な舞台装置である天蓋を外してしまっているそうです。


 スーパーカグラには、創作演目が競演大会で評価を得られないなら、自分たちでプロデュースしようとなって、使用料の高額な広島市内の大ホールで自主公演を決行、大盛況となったというサクセスストーリーの様な経緯があります。


 ところで、神奈川県厚木市の垣澤社中では、奏楽に打ち込み音楽を用いた試みがなされています。内容自体は神話から離れていないようですが、東西での試みがどう発展するか、要注目です。


 広島で催された中国経済産業局セミナー「伝統文化・神楽を担う組織の長期的な経営を考える~今だからこそ,将来を見据えた運営を~」(2021年1月25日配信)をリモート聴講しました。講師は静岡文化芸術大学文化政策学部芸術文化学科准教授・高島知佐子氏と星城大学経営学部講師・高崎義幸氏の二人です。


 中国経済産業局の狙いは、中国地方の歴史・文化・産業の融合を図り付加価値の向上を図るというものです。神楽は中国エリアを代表する文化コンテンツであり、知財として発信できないか検討しているとのことです。


 まず高島氏の講演ですが、2018年に文化財保護法が改正され、文化財の保存と活用が謳われることになりました。地方自治体は文化財の保存と活用について総合的な政策を立案することが求められることとなったのです。


 活用というと舞台での公演が想起されますが、これは別の観点から見ると、芸能のショー化です。そうするとショーで演じられる演目だけを継承する団体が発生します。ところが、その芸能が観光客に飽きられるとその保存団体自体が消滅してしまうことがあると指摘します。


 伝統芸能でよくあることで、一度鑑賞してそれで終わりでリピートに繋がり難いという問題があるそうです。


 また、現在では小中学校の教育題材として伝統芸能が取り上げられ、一定の効果を挙げています。しかしながら、高校、大学に進学すると地元を離れる子供も増えてきます。また、一方で伝統芸能の継承者の高齢化も見られます。そこで、10代後半から50代までの後継者獲得が課題となっています。


 質疑応答では、神事としての側面が軽んじられる傾向は全国的に見られると指摘します。神事なのかショーなのかで分かれるが、段階的に本質に踏み込んでいけるようにバラエティをもっていることが求められるとしています。例えば公演前にワークショップを行う団体があるとのことです。


 続いて高崎氏の講演です。ひろしま神楽は郷土芸能界の風雲児であるとします。勧善懲悪の分かりやすい内容で、初めて神楽を見る人や外国人にも好評であるとのことです。


 広島では大ホールの一階席(5000円のチケット代)が前売りで売り切れる。神楽ドーム(三千人収容)が満席になるといった観客動員力がある。村の芸能という文脈を超えていると指摘します。


 その人気を背景に観光活用が活発化しています。ひろしま神楽を活用した街のにぎわい創出について広島経済同友会が提言しているとのことです。

 神楽1.0が農村神楽なら新舞は神楽2.0。スーパーカグラは神楽3.0、現在は舞台芸術化した神楽4.0まで来ている。更に次世代の神楽5.0が求められているとしています。


 強みとしてエンタメ性を挙げます。一度見ただけで理解できる。無形文化財ゆえの柔軟性(舞いを変更できる等)があるとしています。その表現幅の広さと神楽支援の動きを掛け合わせて新しい神楽への挑戦ができないか模索中であるとのことです。かつての中川戸神楽団のように突出した神楽団が出て全体を牽引することが求められているとしています。


 質疑応答では、ショー化した神楽は掴みとしては良い。そこではまってもらって徐々に本質へと誘導するとの戦略が語られました。また、芸能は変化するものなので、今の価値観で物事を見ることも必要であるとしていました。ずっと同じところにステイしているのは伝承に過ぎないという意見もありました。


 ……現在、広島では芸北神楽を官民あげて支援しようという機運が生じています。芸北神楽は舞台芸術化が進んでいますが(既に農村の娯楽という文脈を超えているとしています)、当事者たちは更に新しい次世代の神楽を創造しようとの意欲に満ち溢れていました。ちなみに、ひろしま神楽≒芸北神楽だそうです。広島県の神楽の総称かと思っていたら違いました。


 広島県の神楽の魅力は地域によって多様性が見られることです。広島には神がかり(トランス状態になること)からスーパーカグラまで揃っています。様々な神楽がそれぞれの魅力を主張しているのです。


 なお、「ショーである」「見せ物である」とあしざまに批判されることの多い石見神楽や芸北神楽が何故それでも人気なのかですが、考えるに、それはテンポが速く闊達かったつだからだと言えそうです。テレビで石見神楽が紹介された際、石見神楽を8ビートと形容する人がいました。別の人はロックではなく、むしろジャズ(即興性)だとも答えていました(注19)。三上敏視『新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子』という本に石見神楽はBPM200に達し、ロックに近いノリだとあります(注20)。8ビートの音楽は二十世紀の音楽シーンを席捲せっけんしました。それと一脈通じるところがあるのではないでしょうか。


 石見神楽の形容として「躍動」や「勇壮」といった言葉が用いられますが、こういった性質が人々の心を惹きつけるのかもしれません。


 八調子石見神楽はテンポが速く舞いぶりも激しいので、舞い手は二十代から四十代の人が中心になります。歳をとったら奏楽に移行するとのことです。一方で、テンポのゆっくりとした六調子石見神楽は歳をとっても舞い手を務められるという違いがあります。


 ちなみに石見神楽の奏楽は大太鼓、締め太鼓、手打ちがね、笛からなります。大太鼓の奏者が胴取りとして演奏をリードします。神楽歌を歌うので、昔は喉のよい人が胴取りを務めるものだったそうです。また、近年では女性が笛を務めることが多くなりました。神楽の世界にも女性が徐々に進出しているのです。手打ち鉦(チャンチキ)は一見地味な役割ですが、神楽のリズムを身体に叩き込むという意味があります。


 島根県や広島県では親御さんが子供さんに神楽を見せるという習慣があります。早い人は赤ん坊の頃から慣れさせています。そうして神楽を見て育った子が成人して親となり、その子(孫)に神楽を見せるという複数世代にまたがるサイクルが確立しているのです。いかに「ショーである」とあしざまに言われようがビクともしないのは、こういったサイクルを確立しているからではないかと考えさせられました。


 石見神楽の動画を見ると、子供が舞台にかぶりつきで見ていることがよくあるのです。子供は素直に面白いと思っているのです。


 オンライン公開講座「島根の日本遺産 神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~」(2020年11月15日配信)を視聴しました。講師は俵木悟・成城大学文芸学部教授です。


 俵木教授は石見神楽の子ども神楽を下記のように評価しています。


・若年層の神楽が重要だと思うのは、これが更に下の小さい子供たちへも神楽の魅力を伝えて世代を超えて持続的に神楽に関心を持つ若者を育てていくから。

・伝統芸能というと年配者の長年の経験や知識に基づいて演じるものこそが正統だと思われてしまうかもしれないけれど、子供たちにはどんなに立派な演技であっても「何か知らない偉そうなオジサン」がやっているものでは中々魅力的に映らない。それに対して自分達よりちょっと年上のお兄ちゃんお姉ちゃんが一生懸命に芸能に取り組んでいるのを見たら、小さな子供たちもそれが恰好よくて、いつか自分も神楽をやってみたいと思うようになるのでないか。


・石見では他の地域の神楽の継承者が知ったら羨むのではないかと思う程、こうした持続性ができている。


・地域の真正な伝統文化だとか神事としての宗教的な意義だとかいった難しいことではなく、鬼や大蛇に立ち向かうかっこいいヒーローとして先ず受容されている。そうやって神楽の世界に踏み込んで、いずれ成長すれば、その先にある深淵な神話の世界や伝統の芸や技術の奥深さに目覚めていくかもしれない。


・多くの伝統芸能は奥深さを初めからアピールしてしまうためにハードルを上げてしまって裾野を広げることに失敗しているのではないか。


・この地域の神楽に取り組む若者や子供の活動は、神楽と共に生きる石見の人たちの最もベーシックな神楽への関心のあり方を示しているようで興味深い。


・神楽は単純に見て楽しめる面白いもの。初めから歴史的な価値のあるオーセンティックな(真正な)文化と思って見るよりも、まず純粋に子供のように面白がるのがスタート。はまるとその先に色々と奥深さがある。関心を集める、裾野を広げるために気軽に神楽に触れられる環境が必要である。


……といった内容でした。


 また、俵木教授は講演で強調されていましたが、できれば神楽だけを見るのでなく、その周辺にある生活文化(地域の伝統に裏打ちされた神楽面や衣装、蛇胴といった神楽関連産業や文化財など)も併せて見て欲しいとのことでした。


 人に見せることに特化した八調子石見神楽や芸北神楽ですが、人々が神楽を見て喜べば、それを見て神様もお喜びになるというロジックなのです。


 コロナ禍における神楽ですが、2020年現在、奉納神楽の多くが中止となり、神楽の稽古は密になるため稽古自体がストップした団体もありました。その最中、島根県益田市の久城くしろ社中が緊急事態宣言下の2020年3月22日にユーチューブで「鍾馗しょうき」の無観客ライブ配信を行いました。延べ二千人ほどが視聴したとのことです(注21)。鍾馗は科挙に落第したことを悲観して自殺した人ですが、病の床に臥した唐の玄宗皇帝の夢枕に現れ疫神を退治、玄宗皇帝は快癒したという伝説があり、それを神楽化したものです。「鍾馗」は疫病退散を祈願する神楽であり、石見神楽では特に重要視されています。社中で一番上手い人しか鍾馗役を舞えないそうです。戦時中は出征する人に鍾馗を舞わせたとも言います。普段は娯楽に徹している八調子石見神楽ですが、コロナ禍の現在、こういう事もできる柔軟性を示しました。


■神楽における本質主義と構築主義について


 島根県西部にて石見の夜神楽定期公演という催しがあります。これは毎週末、浜田市、益田市、温泉津ゆのつ、津和野といった市町で催されているのですが、石見神楽の演目を二~三演目ほど実際に演じて披露するものです。


 この内、浜田市の三宮さんくう神社で催されている定期公演は神社の拝殿内で神楽の公演を行っています(注22)。夜八時から九時までにかけて二演目を舞います。観光神楽ですが、短時間ながらも実際の奉納神楽に近い雰囲気が味わえ好評です。平成27年が2243人、平成28年が2811人、平成29年が3074人といった動員数で(注23)、一年に四十回の公演とすると、平均五55人から75人くらいの人が鑑賞していることになります。これは絶対数では少ないものの、三宮神社の拝殿の規模からすれば上々の数字で、満足度も高いと言えるでしょう。県外からの訪問客も少なくありません(注24)。


 この島根県西部を中心とした神楽振興の取り組みの背景には「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」通称「おまつり法」という法律があります。


 平たく言えば郷土芸能の観光資源化による地域振興を意図した法律です。その地域の郷土芸能を観光に活用することで他地域との差別化を図り地域おこしするのです。平成4年施行なので、もう25年以上の時間が経過していることになります。


 ですが、この「おまつり法」、制定当初は民俗学者たちの猛烈な反発を受けたのでした。ある民俗音楽学者は、神楽が(奉納神楽という)本来の文脈を離れて演じられたら、それは神楽のショー化だと厳しく指摘しています。何も神楽だけに限った話ではなく民謡などにも当てはまるのですが、ここでは神楽に絞って考えたいと思います。


 とあるシンポジウムでは、無形民俗文化財の指定に当たっては、「変えてよい部分」と「変えてはならない部分」を峻別することが民俗学者の役目だとしています。「変えてはならない部分」があるからこそ、指定によって「保存」するのだというロジックです。


 おまつり法には郷土芸能の「保存」から「活用」へといった変遷が窺えます。現代においては「保存」と「活用」は二項対立ではなく、むしろ表裏一体と言えるのではないでしょうか。なお、おまつり法が反発を受けたのは、主導権を握るのが祭り当事者でなく観光業者と商工業者たちであることも理由の一つです。


 ところで、石見神楽には昔から「ショーだ」という批判があります。竹内幸夫「『おまつり法』に思う」から引用します。


「地味な演目が遠ざけられ、「退治物」一辺倒となる。三十分ものに落ち着く。トリは「大蛇」(ドラゴンダンス)、大蛇多勢の「組み技」の開発すすむ。早い調子の集団舞が主力となり、個人技の見所薄らぐ。「断末表現」「刀あわせの火花」「衣装、面の早変わり」「忍者調投げ物」などの奇作進み、演出なくしてはという感覚進む。ドライアイス、レザー光線、シンセサイザー、ロックミュウジックetc。」

竹内幸夫「『おまつり法』に思う」86頁。


 竹内は大元神楽の伝承者です。また、高校教師で吹奏楽の指導者という側面があります。


 ショー化の要因として考えられるのは、


・神社への奉納という本来の文脈から外れてステージ(共演大会、競演大会)で演じられるようになった。また、ホテルの出し物やスーパーマーケットでの集客といったイベントに利用されることも増えてきた。要するに興業の目玉となった。


・金糸銀糸で刺繍された豪華な衣装で舞われるようになった(※一着百万から二百万円くらいかかる)。


・演出が派手になる。例えば大蛇オロチを何頭も出す(※大阪万博以前は一匹か二匹程度だった)、大蛇のフォーメーション、大蛇の目を電飾で光らせる、火薬を使って火花を散らす、ドライアイスを炊く、クモを投げて妖術を表現するなど。


・マイクを使って拡声する。


・広いステージを前提とした演出になる。


・高速旋回(平舞い)といった派手な所作(注25)。


・儀式舞軽視で能舞偏重である。


といったことが挙げられます。これらは筆者が子供の頃、四十年前からそうだったので、現代では既に演出として定着しているとも言えます。「ショーである」に対する反論は聞いたことがありません。せいぜい「好きでやっているんだから放っておけ」くらいなものです。


 石見神楽は芸北神楽と合わせて二百社中以上あると言われますが、その多くはとにもかくにも学者の評価や行政の格付けとは無縁な次元で活動していることは確かです。なお、石見神楽は2019年に日本遺産に認定されました。これには大元神楽も含まれています。


 文化財保護法が言わば個々の文化財を点で保存/保護していたのに対し、日本遺産は有形/無形の文化財群をストーリーで結び付けて面で把握し発信、地域の活性化を図るものです。国内のみならずインバウンドも見据えています。

 ちなみに、「ショーである」を「ショーアップされた」と転倒して肯定的に解釈する向きもあります。なお、ショーという批判ですが、例えば国の重要無形民俗文化財に指定されている岩手のたけ神楽ですら舞台での公演が増え「ショー化している」との批判があるとのことです。


 また本来は1時間くらいかかるところを30分で演じるといったダイジェスト版で演じられることも増えてきました。こうなると神楽が断片化され、演目上重要であっても退屈な場面はカットされてしまうことになります。また、少ない演目では神になりきれないといった舞い手の意識の問題もあります(注26)。


 競演大会では規定時間35分という制約が一般的ですが、個人的にはこれくらいが長くもなく短くもなく見やすいとは思います。

ちなみに競演大会で優秀な成績を収めた神楽団には名誉の他、奉納神楽の依頼があちこちから舞い込むようになるメリットがあります。そのために各神楽団は芸を磨くのです。


 山﨑達哉「佐陀神能の変化とその要因に関する研究―神事と芸能の二面性―」『待兼山論叢 50 文化動態論篇』という論文があります。


 佐太神社の佐陀神能についての論文なのですけれど、大正十五年(1926一九二六年)の日本青年館における第二回全国郷土舞踊民謡大会に出演したことを取り上げています。


 この全国郷土舞踊民謡大会の反響なのですが、


・郷土舞踊や民謡を素人が行う素朴で田舎風のものと考え、出演した芸能が技巧に走ったり、演芸風・都会風だったりすると厳しい批判を加える(柳田国男)

・新調した衣装や派手な衣装に不快感を示し、禁止の指示を出す

・この種の芸能は郷土を離れて舞台上で再現することは不可能と考え、他の芸能との比較や芸能そのものにある郷土色などある特殊なおもしろさを狙う。こうしたおもしろさが舞台上に現れるように適宜アレンジする(小寺融吉)

・郷土舞踊や民謡は純粋で素朴かつ田舎風で、昔からのやり方を無闇に変え趣向を凝らすべきではない

・一度舞台に出てしまえばある意味芸術化し、変化していくことを認識し肯定する

・郷土舞踊や民謡について、研究資料としての価値を認めながらも、芸術的・技術的な面で質が低いとする


……といった見解が列挙されています。郷土芸能がステージ上で演じられるようになるのは大正末の日本青年館での公演が嚆矢となるのですが、当時も現在も見解はあまり変わらない様です。永遠の問題とも言えますが、百年近く経過した現代でも進歩がないとも言えるでしょう。


 郷土芸能は変わらないことに価値を見いだすのですが、一方で八調子石見神楽や芸北神楽の様に積極的に新しい演出を取り入れる芸能については手厳しい批判が向けられるのです。


 ここで、民俗学者たちが危惧しているのは、神楽が見世物化、ショー化することで神楽の持つ本質が失われてしまうといったことです。


 実際、昭和の時代、高度経済成長期に農業が機械化されることによって、多くの民俗が失われました。時代が進歩する、豊かになることの裏返しです。民俗学者たちは常にこういった事態に対して危機感をもって警鐘を鳴らしてきました。


 筆者は子供の頃に「石見神楽はショーである」という批判や「本物の神楽は大元神楽なんだ」といった批判を耳にしたことがあります。それから数十年、どうこの批判に答えてよいのか分からないままに過ごしてきましたが、民俗学関連の論文や本を読んでいる内に、これらの背景が見えてきました。


 神楽がショー化されて、神楽の本質が損なわれるといった批判は、どこかに本物の神楽がある、または、神楽の神髄があるといった理解に立脚しています。


 神楽に限りませんが、こういった文化には時代を超越した不変の本質があると考える立場が本質主義と呼ばれることを知ったのです。事物に不変の本質があると考える立場は、英語だとエッセンシャリズムなのでエッセンス(精髄)があるというニュアンスです。


 この本質主義に対して、これまで不変の本質と考えられてきたものは、実はその時代の政治経済的背景、思想的背景によって影響を受けているとして、歴史的文脈によって相対化する視点があります。時代の文脈によって解釈され、再構成、再創造された文化だと捉えるのです。これを構築主義(構成主義)と呼びます。


 本質主義が静態なら、構築主義は動態と呼べるでしょう。民俗芸能の分野では平成に入った辺りから論じられるようになったようです。

先ほどのおまつり法案に対する民俗学者たちの反応からして、大多数の学者は本質主義に立脚していると考えられます。一方、若い世代(当時)には構築主義が流行はやっているようです。


 この本質主義/構築主義の対立は現在的な流行でもありますが、遡ると、スコラ哲学の実在論と唯名論の対立にまで遡るとされていて、実は古くからある根深い対立であることが分かります。


 構築主義(構成主義)の認識論は、我々は個であるのではなく、我々を結ぶ関係性の網の目の中にいるとします。関係性の中に意味が発生すると考えるのです。そして我々を取り巻く現実は社会的に構成されるのだとします。ポストモダン思想に影響を受けた観念論的な認識論です。


 ただ、観念論的に全てを疑い出すときりがなくなりますので(物の実在まで疑っている訳ではない)、どこかで判断停止(エポケー)しなければならないという問題点があると思われます。


 民俗学や文化人類学に大きな影響を与えたのは、ホブズボウム他『創られた伝統』です。この本は主に英国(スコットランドやウェールズもしくはインド)の歴史を取り上げ、その伝統とされていたものの多くが実は近代の産物であったと指摘します。近代に入り、国民国家として国民をまとめあげる必要が出てきたので、様々な儀式や儀礼が創出されたのだとしています。この創られた伝統論は文化構成主義のはしりとなりました。なお、本書には唯物史観の影響が見られるとされています。意外なところで猛威を振るっている印象です。

 創られた伝統論が一歩進むと、伝統の捏造論が出てきます。近代に発明された偽物の伝統だとする見方です。これは近代以前からある伝統を暗黙のうちに本物と見なす点で本質主義に基づいたものとなっています。


 では、神楽を構築主義的に捉えると、どうなるでしょうか。神楽は江戸時代に国学の影響で唯一神道的な詞章改訂を受けます。更に明治時代には神職演舞禁止令が出され、神職が神楽を舞うことを禁止され、担い手が氏子に移ります。これに伴って神がかり託宣も失われました。また、試験制度が取り入れられて、神を冒涜する所作や卑猥な所作を禁じる、また古代史や神道の知識を問うといった統制が加えられました。我々が見ている演目は実は明治時代に入ってそういった過程を経たものなのです。


 島根県石見地方の石見神楽について見ても、構築主義と相性がよいと言えるでしょう。石見神楽でも明治時代に入り、神職が神楽を舞うことを禁止されたため、担い手が氏子に移ります。神職が氏子を指導することもあった様です。また、当時の国学者が台本の詞章を俗なものから古風に改訂します。これは口上台本の詞章が崩れていたのを訂正し、台本の一元化を図るものでした。更に八調子と呼ばれるテンポの速い囃子が導入されます。つまり、こういった神楽改正を経た八調子石見神楽は言わば近代の産物なのです。石見人が明治という時代に応じて再構成した神楽だと言えるでしょう。よく言えばモダンな神楽です。


 その後も変化が訪れます。蛇胴という竹と和紙で作った蛇腹状の胴体が演目「大蛇オロチ」に取り入れられます。この蛇胴の大蛇が人気を博すのです。1970年の大阪万博で上演された「大蛇」は八頭だての大蛇が舞う内容で、非常にインパクトを残しました。スペクタクル化した「大蛇」は観光神楽の主要な演目となり、地位を向上させました。共演大会ではトリの演目となっています。蛇胴を導入することによってそれまでの上演形態が失われたのですが、神楽における創造的破壊、イノベーションとも言えるでしょう。

学問上は石見神楽に分類されますが、同じことが広島県安芸地方の芸北神楽についても言えます。芸北神楽は石見神楽の影響を受けて成立したものですが、戦後、GHQの思想統制の影響を免れるために、新舞と呼ばれる創作神楽が誕生しました。新舞は源頼光と四天王の鬼退治など神祇とは関係のない演目が多く、演劇化された神楽としても神話劇から逸脱してしまった一面があるのですが、この新舞が一世を風靡、定着して七十年近い歴史があります。更にスーパーカグラも誕生しています。


 このように芸石地域の神楽は近現代の産物であることが明らかなのですが(※関東の里神楽もそうです)、構築主義が極端に振れると問題を起こします。それは、現在の「伝統文化の独自性」とは実は観光上の要請から来た「虚構」に過ぎないとする見方です。


 これについては反論しなければなりません。舞いたいから舞うのです。江戸時代末期に浜田藩で氏子が神楽を舞うことを禁止したという歴史があります。つまり、江戸時代末期頃から見様見真似で神楽を舞っていたということです。そして明治時代に神職が神楽を舞うことが禁止されて神楽の担い手が神職から氏子に移ります。つまり、氏子たちは舞いたいから舞ったのです。そこに観光上の要請はありません。全てが「虚構」とは限らないのです。


 なお、この論者がなぜこのような極論に至ったのか探ると、一つには創作和太鼓が挙げられます。創作和太鼓は全国に数千もの団体を数えます。創作なのであくまで近年に発足したものなのですが、現在では地域おこしの核として期待されてもいます。こういった事象を捉えて「どこが土着の(ヴァナキュラーな)音なんだ」と言いたかったのが上記の「虚構」発言です。でも、全てに当てはめるのは危険です。


 それでは、「本物の神楽」「神楽の神髄」というのはあくまで歴史的文脈において相対化されたものとして解釈されなければならないものなのでしょうか。本質主義は現代において無価値化されてしまったのでしょうか。


 詞章改訂を受けた神楽は多いのですが、舞いそのものはそれほど影響を受けていないとの見方もありますので、判断が難しいところです。


 私見ですが、石見神楽では「塩祓しおはらい」という儀式舞が「石見神楽の神髄」に当たると考えられます(※芸北神楽では「神降ろし」)。神楽で一番初めに舞われる演目で、舞台を清めて神を招く象徴的な意味があります。神の所作は全て入っていると言われ、基本的な演目となっています。なお、共演大会や競演大会で塩祓(神降ろし)を舞うことはその社中にとって名誉なことだとされているとのことです。塩祓を最初に教える社中と、ベテランにしか舞わせない社中とがあるそうです。


 また、芸北神楽の神楽団では「ステージで舞うときも氏神社での奉納神楽と同じ心構えで」と指導するそうです。競演大会のステージで舞うこと自体は戦後からですが、こういった心構えは容易に変化しないものと言えるでしょう。


 ここで岡山県の備中神楽の事例を取り上げます。岡山県は戦後の高度成長期に大きく発展します。臨海部の重工業化や新幹線の岡山延伸、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン等による観光客の増加などが前提として挙げられます。


 神楽は農閑期に行われていたのですが、産業が第一次産業(農業)から第二次産業(製造業)第三次産業(サービス業)に移るにつれて、週末に公演が集中することになります。また、観光客の増加につれて、観光神楽の比重が増してきました。神楽のショー化がここでも起きたのです。そのため、神楽を舞う神楽太夫の数が不足、未熟な技量の舞い手が舞台に立つことになりました。また、神楽同好会の数なども増えて、神楽を舞える人の数自体は増加したのですが、質的には低下傾向にありました。


 これらの状況を見かねた神楽歴五十年以上のベテランの神楽太夫が集まり、互いの知識と技術を持ち寄って協調的に擦り合わせ「正しい神楽」を求める活動が始まりました。


 神楽太夫たちは自らの言葉だけでなく、彼らが師事した名人たちの例を引いて「○○先生はこう舞っていた」と発言するのです。それは伝聞形式による知識の伝達です。従来であれば師弟関係によって身内で伝えられてきた知識、技術が広く共有されることで、他の神楽社中にも伝わっていくことになります。

 これらの伝聞は現在のベテラン太夫の一世代か二世代前くらいまで遡れませんが、「正しい神楽」「神楽の神髄」を求める活動が続いているということです。限界はあるものの「オーセンティック(真正な)神楽」と呼べるかもしれません。文化人類学の戦略的本質主義になぞらえられるでしょうか(注27)。見方によっては備中神楽の標準化が行われているとも言えます。


 これに対しては、その「真正さ」とは現時点の神楽太夫がそう解釈しているに過ぎないのだと構築主義の立場からはそうなります。構築主義を突き詰めて、全ては解釈の問題に過ぎないとなると、伝統文化に本物も偽物もなくなります。それでは民俗学も文化人類学も現状を追認するだけの学問に成り下がるではないかと問い返したくなります。いや、伝統文化に携わる人々の主体性、創造性をそこに見い出すのだ(これを文化構成主義の主体性バージョンもしくは文化の客体化と呼びます)となって……、結果、主体によって付与された伝統文化の独自性とは一度きりの説明で終わるものではなく常に説明を迫られるものであり、全ては虚構である……となって堂々巡りとなるのです。


 それはともかく、構築主義を突き詰めると、文化に本物も偽物もない、つまり何でもありとなってしまいます。それは流石さすがに違うんじゃないかと思います。


 文化人類学だと植民地主義における支配する/支配されるという力関係があるため、例えばバリ島のケチャなど植民地支配後に支配者の影響下で先住民によって創始された祭礼において、先住民の主体性を尊重して文化に本物も偽物もないとするのは一定の説得力がありますが、民俗学、特に一国民俗学を標榜する日本民俗学では、北海道と沖縄という例外はあるものの、文化に本物も偽物もないという結論に至ってしまうと、それは審美眼が無い、単なる現状追認ということになってしまいます。


 私見ですが、文化の客体化論――文化を本来の文脈から切り離して操作可能なモノとすること。そして客体化した文化に支配される側が主体性をもって取り組むこと――は、支配する側にとっては植民地支配は歴史的に覆せないのだからとエクスキューズを与え、支配される側にとっては限られた範囲ではあるが主体性を発揮しているのだからとエクスキューズする点である種の二面性があり、場合によっては非常に虫のいい理論という気がします。「お前らの努力は認めるよ。でも植民地支配の歴史は覆せないけどな」と暗に言っているように読めるのです。


 一方で、本質主義の欠点は芸能の歴史的変容を認めないことです。言わば、理想化、純化された神楽の幻影を追い求めて、ありのままの神楽を見ていないことになります。権威主義と表裏一体です。


 例えば、岩手の中野七頭ななづ舞ですが、従来の伝統芸能がひたすら見て真似るの繰り返しであるのに対して、「手を六十度くらい上げる」といった近代的な練習方法を取り入れています。とある民俗芸能のシンポジウムでその練習風景と一緒に中野七頭舞が披露されたのですが、神楽研究者の岩田勝は「少女歌劇」と一刀両断しました。そこには神楽の研究で権威と化した岩田の姿を見ることができます。


 「~であるべきだ」を当為命題、「~である」を存在命題と分類しますが、存在と当為は異なるのです。本質主義者の芸能観は「べき」論が「である」論に先行してしまって認識が歪んでいるように感じます(注28)。

なので、本質主義、構築主義のいずれにも与することができないのです。一長一短です。


 構築主義的解釈によると、人間存在は他者によって構築されると考えます。ここで言う他者とは自分を取り巻く環境も含みますし、一方で親という他者からの遺伝で持って生まれた気質もある訳です。心理学だとこういった場合、環境と遺伝の両因からなる輻輳(ふくそう)説的な見方をします。性格にしても学力にしても輻輳説的見方をする訳です。


 民俗芸能にも同じ様に重ねることはできないでしょうか。本質というのに語弊があるなら「型」と置き換えましょう。文化財保護法が無形文化財について様式、型の伝承を重視しているのは、そこに核となる本質を見いだしているからでしょう。


 型は意味伝達の効率化です。そして型は無形です。演技には型があります。そこで、型が歴史的な文脈と輻輳してその時代の演技となるといった風に考えられないでしょうか。比喩ですが型が演技の関数となる訳です。すなわち構築主義的認識では型と演技の場合分けが適切になされていなかったのです。演技は時代によって変わりますし、その場一回限りのものですが、型は一回限りのものではありませんし、容易に変化しないはずです。型と演技では明らかに時間の流れが違います。


 輻輳というのは混み合うという意味なので、誤用に近い感じがありますが、心理学に倣います。


 演技は役そのものになりきって演技するスタニスラフスキーのメソッドと歌舞伎の様な型を重視するものとに分けられます。民俗芸能は伝統的に型を重視する訳です。岩手県の早池峰神楽では手ごとという型を習得していくことで神楽に習熟していきます。型は真似をすることで学んでいきますから、身体性もあり、伝承者によって揺らぎはあるかもしれませんが、ある程度は固定的なものと見ても間違いではないでしょう。もちろん、型が崩れることもありますから、不変な訳ではありません。常に維持されているといった方がいいでしょう。構築主義で民俗芸能を分析する場合、演技と型は分けて論じた方が適当だと考えます。


 成城大学の俵木教授は「身体と社会の結節点としての民俗芸能」という論文で井上隆弘『霜月神楽の祝祭学』のレビューを行っています。『霜月神楽の祝祭学』では霜月神楽における型の意味を分析しますが、俵木教授は型も歴史的変容を受けているのではないかとしています。それを確かめる術はないのですが、型が歴史的変容を受けたというよりも、型を通した演技が歴史的変容を受けていると解釈した方がいいのではないでしょうか。我々は演技を通して型を見ている訳です。


 八調子石見神楽も石見神楽を近代という文脈の下でテンポの速い躍動感のあるものとして変えて舞うのです。八調子神楽には六調子神楽にある膝をつく所作はないそうですので、それは六調子から八調子への移行時に失われたと言っていいでしょう。ですが、他の型、所作については維持されている訳です。つまり、連続性のある舞で、全くの異質なものではないのです。


 また、芸北神楽の新舞を舞う神楽団では安芸高田市の梶矢神楽団の所作を研究して舞っているそうです。梶矢手と称しています。梶矢は神楽が最初に伝わった地なので最初の伝承地と呼べるでしょう。その点で伝承の由来地を示す阿須那手や矢上手とは異質なのですが、新舞も旧舞の型を継いでいると言えます。ちなみに梶矢神楽団の「鍾馗」は広島県の無形民俗文化財の指定を受けています。


 ある所作が流行る場合もあります。ユーチューブで「塵輪」の動画を見たとき、何を表現しているのか分かりませんが、神(しん)二人が身体を斜めにして片足だちでくるりと一回転してみせる所作がありました。この動画を見た記録を不覚にも付けていませんでしたので、どこの社中の演技か分からなくなってしまったのですが、塵輪動画をあれこれ見ても見つかりませんので一部での流行だと思います。こういった新しい所作が登場する場合もあるのです。


 民俗芸能に構築主義を適用すると何でもありになってしまいます。また不断に再創造されるのだと考えると型まで再創造されることになってしまうのです。これらは不自然な印象を与えます。型と演技は明らかに時間の流れが違います。とりあえず型と演技を区別することから初めてはいかがでしょう。


 芸能はある時期までは盛んに新作を発表しますが、それ以降は古典の上演に注力し新作の発表は少なくなっていきます。歌舞伎も明治時代に散切り狂言などを生み出しましたものの、やがて古典に注力する様になりました。歌舞伎が古典化したのは、歌舞伎が担っていたメディアという役割を活動写真に奪われたからです。


 現代では文化財保護法によって伝統芸能は変わらないことを是とした見方が中心となっていますが、本来、芸能とは時代に応じて変化するものなのではないでしょうか。変化することが、その芸能が生きていることの証となるのです。


 備中神楽は元々は徒弟制的な師匠―弟子関係を結んで習得するものでした。現在では上記取り組みの他、子供神楽の育成といった取り組みもなされています。


 関東の里神楽では家元制度で神楽を伝承しています。家元という権威に支えられた制度です。昔はプロの神楽師がいたそうですが、現在では兼業となっています。そして関東では元締が神楽師を束ねています。元締制の場合、今日は○○の演目ができる人が揃っているから○○をやろうとなるそうです。


 石見神楽や芸北神楽もプロ化はしていません。多いところでは年に四十~五十回の公演をこなす団体もありますが、構成員は皆兼業です。特に衣裳代にお金が掛かるので儲けはでないと考えられます。


 なお、石見神楽東京社中、大阪社中が結成されており、都市部での石見神楽の紹介に尽力しています。現在では奉納神楽を任されるまでに至っています。ただ、関東の場合、活躍すればするほど既存の社中のテリトリーを侵食することになってしまうのが懸念材料です。大阪は能舞を演じる地元社中がないはずなので、そうした心配はないと思われますが。


 ちなみに、神楽のような芸能が本来の文脈(※神楽で言えば奉納神楽)を離れたところで共演大会の様なステージ上で催されるイベントとして上演されることがありますが、これは本来の意味に加えて新しい第二義的な意味が付与されたことになります。信仰、敬虔さを伴っていた芸能がもっぱら観光、審美的な見方で鑑賞されることになるというくらいの意味です。すなわち、セカンドハンド、略してセコハン(中古)です。ファーストハンドに対するセカンドハンドです。こういった疑似民俗文化をドイツ民俗学ではフォークロリスムス(英:フォークロリズム)と呼び、現在では学問上の重要な概念となっているそうです。直訳するとフォークロリスムスとはフォークロアみたいなものです。「純粋な民俗文化」と「疑似的なフォークロリスムス」の二項対立ですが、この「純粋な民俗文化」といったアプリオリ(先験的)な認識は修正を迫られています。


 なお、フォークロリズムが何故セカンドハンドにも関わらず人を惹きつけるのかについて民俗学は語っていません。観光客が望むものを観光に適した利便性でもって提供しているからだというところでしょうか。しかし、それは観光学の答えであって、民俗学の答えではない気がします。それとも、自明のことだからでしょうか。


 「かながわのお神楽」第二回公演の後でとった神楽師へのアンケート結果を見せてもらったのですが、そこでは奉納神楽と舞台上の劇場公演の違いについて質問されていました。劇場公演での観客の視線の強さを意識した回答がありました。この方はベテランの神楽師で、当日の観客の入りについては「気にならない」と回答されていました(※当日は満員でした)。実は「気になる」とした回答の方が多かったのですが、有料公演ということもあってか神楽に集中できる環境だからか、観客は皆、舞台を注視しています。そのことを述べたものだと思われます。なので、神が不在の劇場公演だからといって気が抜けるかというと、そんなことは無いようです。


 劇場公演となると奉納神楽に対してセカンドハンドであり、それはフォークロリズムとの指摘を受けることにもなりますが、当事者の演技に対する意識自体はそれほど差が無いような結果でした。

劇場での公演には天候の心配をしなくていい、空調の効いた快適な空間で鑑賞できる、トイレの心配をしなくていいという二次的なメリットがあります。奉納神楽を観光客が訪ねても別段問題にはならないのですが、駐車場が無い、大人数は収容しきれない、神社によってはトイレが無いといった難点が挙げられます。大勢の観客を収容するには劇場の方が向いているのです。神が不在のセカンドハンドですが、劇場神楽には神楽の敷居を下げて裾野を広げる効能があるのです。


 「ショーである」という批判について、これはある種のレッテル張りのようにも見えますが、演劇に対する「商業主義」という似たような批判と比較してみるに、演劇では芸術性と商業性とが二項対立的なものとして捉えられることがあります。そして利潤を追求するという資本主義的な行動原理が第一の眼目に据えられるのが商業主義化ということですが、実はこれには大衆社会論が裏打ちされています。大衆化され自ら文化を生み出す力を喪失した大衆に提供されるレディメイドの均質化された画一的、紋切り型の大衆文化(マス・カルチャー)であるという批判です。


 加えて、昭和の高度経済成長で物質的には豊かになりましたが、それが心の豊かさに直結したかというと、そんなことはない訳で、心の豊かさを充足する何かが求められる訳です。そうしたマス・カルチャーに飽き足りない人々が芸術や芸能を求めるのではないでしょうか。


 現代の民俗芸能の場合、芸能そのもので採算ベースに乗ることはないでしょう。その点で商業主義という批判は当たらないことになりますが、一方で大衆社会という補助線を引いてみると、そこでの民俗芸能はテレビ、ラジオ、映画といったマス・カルチャーに押されて、大衆社会化以前の活発さを失っています。人々がそんな民俗芸能に求めるのはノスタルジーでしょうか。ノスタルジーを満たす手軽なセカンドハンドとして現在の民俗芸能のフォークロリズム化が進んでいるというところでしょうか。


 要約すると、神が不在の劇場神楽の様なフォークロリズムは奉納神楽といった本来の文脈に対して第二義的な文脈であり、すなわちセカンドハンドですが、大衆社会化した現代に於いて観客のノスタルジーを喚起し、また若年層にとっては未来のノスタルジーの種を植えつけるものとなり、かつ神楽の敷居を下げ裾野を広げる効能があると言えるのではないでしょうか。


 しかしながら、札幌のYOSAKOIソーランの様な神なき都市の祝祭といったノスタルジーでは説明できない現代的なフォークロリズムもありますので、十全な回答とは言えません。それともバウジンガーの言う内的エキゾチシズムでしょうか。ちなみに札幌のYOSAKOIソーランは高知のよさこい祭りのセカンドハンドです。もっと言えば徳島の阿波踊りのセカンドハンドでもあります。


 奉納神楽が第一義的な神楽、神不在のステージで舞う神楽が第二義的な神楽だとしますと、ライブ動画配信は第三義的なものと言えるでしょうか。


 伝統芸能はライブで見てこそ意味があるという意見もあるでしょう。そう思われる方はこう自問されてみてはいかがでしょう。例えばコンサートに出かけるときには予めCDやMP3で曲を耳に馴染ませてから行きませんか? その方がより深い鑑賞ができるからです。つまり、現代においては芸術/アートとは先ず複製から入り、それから本物へと遡及していくというあり方が日常化しているのです。少なくとも古典においてはそうです。伝統芸能についても同じ様に言えるのではないでしょうか。


 動画配信がライブと等価だと言っているのではありません。あくまで情報発信の一手段としてです。子供が神楽を見て好きになるとしたら、それはライブで見てでしょう。


 ライブの重みについては二つの立場があります。演劇には「生の」上演とそれに立ち会う観客が必要だとする立場と「生であること」はメディア化の進む時代にあっては時代遅れの概念だとする意見が対立しています。


 メディアを重視する見解はロック・コンサートを事例として挙げています。ロックの場合、レコーディングされた曲があって、それからライブで披露されるという形になりますので、複製から本物へと逆の流れとなるのです。また舞台のテレビ中継を特等席にいるのと変わらないとしています。劇場とテレビ鑑賞を等価に捉えていますので疑問のあるところです。


 ここで視野を広げて美学を取り上げたいと思います。審美眼について詳しく知りたいと思っているのですが、適当な本、論文が見当たりません。ここら辺は将来の課題にしたいと思います。


 辞書を引きますと、審美眼とは美醜を見分ける能力だとのことです。美醜の判断は一瞬でなされますから感性的なもの、一種のセンスということになります。センスがある/ないといった使い方をされます。


 感性には生得的なものと後天的なものがあるとされています。子供が神楽を熱心に見るのは生得的な感性によるものでしょう。


 後天的な感性が審美眼と言えるでしょうか。 審美眼は長年の鑑賞の積み重ねで培われます。神楽の権威たちは長年培った審美眼で神楽の善し悪しを判断していることになります。


 しかしながら、感性において判断は一瞬でなされるのです。積み重ねた経験を瞬時に統合/判断するというのは科学哲学でいう暗黙知の概念に近いかもしれません。


 暗黙知は唯物論の様に上部構造と下部構造のピラミッドを想定します。下部構造のそれぞれの構成要素が創発によって瞬時に統合され上部構造が生じます。そして上部構造が下部構造をコントロールする様になる……といった見方をします。


 過去には便器が美術館に展示されたこともあり、感性に快をもたらすものだけが美だとは言い切れなくなってはいます。便器を芸術だと認識するには理性の働きが必要でしょう。ですが、民俗芸能の場合は、感性に訴えるものと考えてよいでしょう。


 牛尾三千夫にしても岩田勝にしても石塚尊俊にしても長年の神楽鑑賞で培われた審美眼がある訳です。それが、八調子石見神楽/芸北神楽とは決定的に摩擦を生じた訳です。すると、審美眼というのは常に正しいものなのでしょうか。ここで言う審美眼は長年培った鑑賞経験を瞬時に統合/判断し感性で好悪を決めるとします。とすれば、牛尾たちは自分の内にある神楽経験に照らして八調子石見神楽や芸北神楽を一旦理解できないものとし、そして受容することを理性的に拒絶したとも言えます。言い換えれば、ありのままの神楽として見ることができなかったのだろうと思います。むしろ、審美眼が確立されていますからこそ、ありのままに見られなくなるのかもしれません。牛尾、岩田、石塚たちは石見系神楽への好悪を感性によってではなく理性で判断したのではないでしょうか。


 ちなみに民俗芸能では芸能の体現者に注目しません。芸術との違いです。没個性なのです。芸術と工芸を分けるものは作者の精神性によるのだそうで、芸術と芸能の関係にも同様の構図が当てはめられるかもしれません。


 そもそも何のために神楽は奉納されるのかですが、秋祭りのシーズンでは五穀豊穣を神々に感謝するためでしょう。参考までに御薗生翁甫『防長神楽の研究』に記された百姓神楽の起源についてみてみると、


一 悪疫の流行によって死亡者が続出することを避けようとするもの。


二 天候不順で五穀がみのらず、百姓の多くが餓死することのないように、稲作の無事息災や風雨順時を祈願したもの。


三 雨乞。


四 非業の最後をとげた者の怨霊、すなわちミサキを鎮め、また非常の災害にあった人民が餓死した折に、これを鬼神のたたりとしてミサキ鎮めをおこなうもの。


五 同族が親和団結をはかるために神を祭って神楽を奉納する、いわゆる祖先崇拝にその端を発するもの。


六 住民とはなんの関係ない神人等がやってきて伝授したもの。

(59―60頁)


とあります。六は除くとして以上の様な理由が挙げられます。これは山口県の例ですが、中国地方ならば大体これでいいんじゃないかと思います。神楽は演劇化されていき儀式舞から能舞に比重が移りますし、時代が下るにつれ、審美的な見方をされる様になっていったというところでしょうか。


 確かに芸北神楽の写真を見ると豪華絢爛けんらんな衣装で舞台映えするのです。重い衣装を着て激しく舞う新舞は審美的な観点からは華やかで美しいです。一方で、神話劇からの逸脱が見られるのです。最も先鋭的な神楽と言えるでしょう。ですが「ちょっと待て」という意見があってもおかしくはありません。


 神話劇からの逸脱、裏を返せば、神楽は神話劇という縛りを免れることで飛躍的な発展を遂げているという解釈も可能です。しかし、一方でバトルに特化した内容に偏っていますので、その点で発展の方向性が限られてしまっていると言えるかもしれません。


 芸能は本来は時代に応じて変化するものです。歌舞伎が明治時代に古典化したように、あるときに古典化して固定的なものとなります。とすれば、石見系神楽が変化していくのは芸能本来の働きであり、生きている芸能であることの証だとも言えるのです。


 八調子石見神楽や芸北神楽は現在でも変化し続ける、生きている神楽です。ある意味最先端を走っている神楽ですので、そういった動向にも配慮する意義はあると考えます。そして神楽は今や地域のアイデンティティでもあるのです。


 最後に、本質主義/構築主義の対立は根深いもので、それを止揚するのは素人には困難です。もしできる人がいたとしたら、それは学者として大成したと言えるでしょう。「石見神楽はショーである」という批判を耳にして数十年が経ちましたが、ようやく核心部分に辿り着いたという印象です。ただ、そこから学問的に無限に広がっていくのも事実です。これから先は気長に取り組みたいと思います。


■まとめ:今なぜ神楽なのか


 出身地によっては神楽に触れるのは初めてという方もいらっしゃるかもしれません。今なぜ神楽のなのかですが、関東でもかつては神楽は盛んでした。ただ、関東の場合、娯楽が幾らでもあります。歌舞伎や能楽の様に芸術の域にまで昇華された芸能もあります。昭和の時代になるとテレビなどのマスメディアが発達します。それらに押されて神楽は衰退してしまったのです。


 伝統芸能の八掛け理論というものがあります。伝統芸能の次世代への継承に当たって約八割しか伝承できないとしたら(それでも上出来ですが)、二世代で0.8×0.8=0.64と六割四分しか継承できないことになってしまうのです。三世代でほぼ半分となります。故に常に継承への努力と創意工夫が必要なのです。行き過ぎたら振り子の様に戻ってくるの繰り返しだといいます。

 時代に必要とされていないものはいずれ消え去る運命かもしれません。ですが、果たして必要とされていないとまで言い切れるでしょうか。単にその魅力を知らないだけかもしれません。よって流れに抗う試みがあってもいいのではないでしょうか。


 以上のようなところが現在私が神楽について書ける全てです。「ショー」というクリティカルな言葉にこだわった内容となりました。とりあえず、どこから手をつければよいか、また平成に入ってからの民俗学の動向にも配慮したつもりです。全て国会図書館で入手可能です。なお、三信遠の霜月神楽や東北の山伏神楽など重要な神楽が手薄で、出雲流神楽に偏っていますが、ご了承ください。理屈をずらずら並べるより、百聞は一見にしかずです。ネットの動画でありますので、気軽に検索してみてください。関東の里神楽だと間宮社中や垣澤社中がユーチューブで神楽動画を公開しています。機会がありましたら、奉納神楽にも足を運んでください。神楽は何も畏まって見るものではなく、お酒を飲みながらでもいいのです。なお、写真撮影する場合、フラッシュは焚かないようにしましょう。


 学生の頃、民俗学というとハレとケくらいの認識でした。神楽や口承文芸が民俗学のサブジャンルだと知っていたら民俗学に対する見方が変わっていたでしょう。自分は気づくのに何十年も掛かってしまいましたが、後続の世代には時間を空費して欲しくないのです。


■脚注

(注1)神楽が修験道や陰陽道の色合いを持っていたからという部分は、藤原宏夫「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」 『民俗芸能研究』第43号(民俗芸能学会、2007)81頁。

神仏分離令の記録は残っているものの、神職演舞禁止令と神懸り禁止令の根拠となる資料は見当たらないようです。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000131377

2020年11月9日確認。


(注2)神社合祀令と名を単位とした祭祀云々の出典は、岩田勝『神楽新考』のあとがきによる(470頁)。


(注3)神がかりして危険なので廃れたとされるのは広島での話。


(注4)「打ち返しの法」と呼称しているのは岩田勝。


(注5)「トントコ」と「トコトコ」は竹内幸夫の例え。藤原宏夫「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」『民俗芸能研究』第43号(民俗芸能学会、2007)83頁。


(注6)『神楽と神がかり』11頁。

『石見神楽の海岸部のものは、今は殆ど新風の八調子となり、儀式舞は殆ど無視して、能舞のそれも激しい舞のみを主として、衣装に金をかけ、その重たい衣装を着て、八咫の大蛇を一疋から二疋とし、最近では八頭十頭と出して得意としている。全くショウ化した。こんなものはもう神楽と私達は思っていないが、その熱心さだけは益々盛んになって学童の神楽にまで及んでいる。』


(注7)奥三河の花祭の史料は、『奥三河花祭り祭文集』(武井正弘/編、岩田書院、2010)、『日本庶民生活史料集成 第17巻 民間芸能』(三一書房、1972)を参照。


(注8)三村泰臣『中国地方民間神楽祭祀の研究』12頁。

『更に諏訪は目連戯に止まらず、中国南方の民間祭祀と日本の民間神楽祭祀との間に深い関係性があり、日本の神楽の謎を解く鍵もそこに隠されていると指摘した。日本の民間神楽祭祀の解明には中国南方を始め、東アジアの民間祭祀と比較考察する必要があることをしきりに提案した。しかし当時の日本の神楽研究者たちは、東アジアの民間祭祀を実見することも確認することも怠り、諏訪の貴重な指摘を眉唾物とみなし、神楽研究の新たな芽を育てる道を拒否し続けてきたのである。』


(注9)浦安四方国固之舞で登場する四人はそれぞれ句々廼智くくのち命、軻遇突智かぐつち命、罔象女みづはめ命、金山彦命を指します。四人がそれぞれ青、赤、白、黒の幣を持って右手に鈴を持って舞うのです。五人目に相当する埴安はにやすひめ命は登場しません。五行神楽が神道流に改訂されたものと考えられます。


(注10)オンライン公開講座「島根の日本遺産 神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~」2020年11月15日配信。講師は俵木悟・成城大学教授。


 本田安次「採物舞の舞楽要素―銀鏡神楽―」『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』(濵砂武昭、弘文堂、2012)に出雲流神楽に関する一文が記載されています。


(注11)オンライン公開講座「島根の日本遺産 神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~」2020年11月15日配信。


(注12)「年末太刀納神楽~玄武の舞~2015」上下巻。


(注13)佐々木順三が茶利を重視していた件、出典は斉藤裕子アナウンサーのブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」より。

http://yuuko.xii.jp/blognplus/index.php?d=20190123

2020年11月7日確認。

※斉藤裕子は広島県在住の神楽に詳しいアナウンサー。


(注14)片足を軸にして身体を斜めにくるりと旋回する所作は近年の一部での流行のようで、取り入れていない団体も多々あります。ユーチューブで視聴したのですが、不覚にもどの団体か記録を取っておらず、どの団体のと指定できないことをお詫びします。


(注15)「塵輪」は新羅の国から大軍を率いて攻めてきた塵輪という悪鬼を仲哀天皇(神功皇后の夫)が退治する内容です。出典は『八幡愚童訓ぐどうきん』で、これは元寇がきっかけとなったものです。元寇の影響が見られるという点で異敵防御という思想が見て取れます。「滝夜叉姫」は平将門の娘の五月姫が復讐を企てる内容です。


(注16)石塚尊俊は「曲目もどんどん新作され、神楽といいながら神話とも縁起とも関係ないものがもっぱら賞翫されるに至っております。」と述べています。

「地方にいて思う民俗学の過去将来」『山陰民俗研究』第3号(山陰民俗学会、 1997)26頁。

 採物神楽の定義で「神話や説話を題材にした着面の舞(神楽能)」というのもありますが、これは神楽の実態に即したもので、基本的には神話劇が優越するでしょう。


(注17)オンライン公開講座「島根の日本遺産 神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~」2020年11月15日配信。


(注18)石見神楽や芸北神楽では創作演目も盛んですが、その多くは地元の伝説に題材をとったものです。


(注19)「秘密のケンミンSHOW」2018年10月25日放送分。石見神楽が8ビートだと答えた人は一般客でした。ジャズと形容したのはタレントの江上敬子(津和野出身)。


(注20)『新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子』では石見神楽は取り上げられておらず、大元神楽の欄に記されています。


(注21)2020年3月23日、NHKのWEBサイトにおける報道。


(注22)他、大田市温泉津町の龍御前神社でも夜神楽定期公演を行っています。2020年11月現在はコロナ禍のために中止となっています。


(注23)浜田市のWEBサイトに掲示された観光資料より。


(注24)2020年11月現在ではコロナ禍のため予約制にして観客数を絞っています。


(注25)オンライン公開講座「島根の日本遺産 神々や鬼たちが躍動する神話の世界~石見地域で伝承される神楽~」2020年11月15日配信で大元神楽の「塵輪」の映像が流されましたが、その中にテンポはゆったりとしているものの平舞いが見られました。昔からあったことが分かります。


(注26)神になりきれないというのは備中神楽での話。後記俵木論文参照。


(注27)戦略的本質主義は文化の客体化論に対し、被支配側がとる立場。支配される側が支配する側に対する抵抗として特定の政治的問題に対して本質主義を採用するもの。


(注28)存在と当為については法哲学者ハンス・ケルゼンの著作より。


■参考文献

・『西日本諸神楽の研究』(石塚尊俊、慶友社、1979)


・『里神楽の成立に関する研究』(石塚尊俊、岩田書院、2005)※銀鏡神楽、「山の神」について。他、一間四方の神楽など。


・『出雲神楽 出雲市民文庫17』(石塚尊俊、出雲市教育委員会、2001)※「山の神」について。


・『神楽と神がかり』(牛尾三千夫、名著出版、1985)


・『神楽源流考』(岩田勝、名著出版、1983)


・『神楽新考』(岩田勝、名著出版、1992)※天岩戸神話の解釈あり。また、岩田は「あとがき」で「能舞の芸能神楽は、もはや民俗芸能の範疇でとらえることすらためらわれるほどになっている。」(472頁)と記している。これは八調子石見神楽や芸北神楽について述べたものである。


・『本田安次著作集 日本の伝統芸能 第一巻 神楽Ⅰ』(本田安次、錦正社、1993)※全国の神楽の概説。


・『本田安次著作集 日本の伝統芸能 第二巻 神楽Ⅱ』(本田安次、錦正社、1993)※全国の神楽の概説と史料集。


・『本田安次著作集 日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ』(本田安次、錦正社、1994)※全国の神楽の史料集。


・『神楽研究』(西角井正慶、壬生書院、1934)


・『日本民俗選集 第16巻 官国幣社特殊神事調 芸術としての神楽の研究 小寺融吉 著』(小川直之/編、クレス出版、2010)


・『かぐら台本集』(佐々木順三、佐々木敬文、2016)※芸北神楽の台本集。


・『校訂石見神楽台本』(篠原實/編、1982)


・『考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編』(佐々木浩、加計印刷、2011)※旧舞の口上台本。校訂石見神楽台本に見られない台本が収録されている。


・『<岩戸神楽>その展開と始原 周辺の民俗行事も視野に』(泉房子, 鉱脈社, 2018)※神楽のみならず、仏教の修正会や傀儡子も取り上げられている。


・『日中比較芸能史』(諏訪春雄、吉川弘文館、1994)※岩田勝の神楽理論について。五郎王子譚の日中比較に関する論考あり。目連戯で花祭との比較あり。


・『霜月神楽の祝祭学』(井上隆弘、岩田書院、2004)※岩田勝の神楽理論を検証。


・『日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽』(芸能史研究会/編、三一書房、1974)※備後東城荒神神楽能本所収。他、武州鷲宮神楽資料を収録。大元神楽、六調子石見神楽の台本もあり。芸北神楽能本集に荒平の台本収録。芸北で十六世紀に荒平が舞われていたことが分かる。


・『中国地方民間神楽祭祀の研究』(三村泰臣、岩田書院、2010)


・『大荒神頌 シリーズ〈物語の誕生〉』(山本ひろ子、岩波書店、1993)※五郎の姫宮について。他、切目王子など。


・『花祭』(早川孝太郎、角川書店、2017)


・『新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子』(三上敏視、アルテスパブリッシング、2017)※石見神楽がBPM200に達すると指摘。他、改良笛や神楽歌について。神楽の入門書としても適当。


・『早池峰岳神楽 舞の象徴と社会的実践』(長澤壮平、岩田書院、2009)※岳神楽について舞台での公演が増え、ショー化しているという批判があるとしている。


・『神楽の芸能民俗的研究』(久保田裕道、おうふう、1999)※東北の早池峰神楽と南アルプスの霜月神楽を取り上げた論考。


・『荒神とミサキ―岡山県の民間信仰―』(三浦秀宥、名著出版、1989)

・『石見神楽』(矢富巌夫、山陰中央新報社、1985)※「五神」を「農民の哲理」とする。


・『今を生きる日本の伝統芸能 江戸太神楽』(丸一仙翁、散太郎神楽出版、2016)


・『防長神楽の研究』(御薗生翁甫、未来社、1972)


・『椎葉神楽発掘』(渡辺伸夫、岩田書院、2012)


・『花祭りの起源 死・地獄・再生の大神楽』(山﨑一司、岩田書院、2012)


・『奥三河の花祭り 明治以後の変遷と継承』(中村茂子, 岩田書院, 2003)


・『折口信夫の鎮魂論 研究史的位相と歌人の身体感覚』(津城寛文、春秋社、1990)


・『民俗芸能研究という神話』(橋本裕之、森話社、2006)※「芸術としての神楽の研究」の美学的アプローチについて。他、牛尾三千夫論あり。


・『震災と芸能 地域再生の原動力』(橋本裕之、追手門大学出版会、2015)※岩手県の鵜鳥神楽について。


・『トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―』(太田好信、世界思想社、2010)※支配する/支配される関係下での文化における主体性の発揮について。文化の客体化論。


・『舞台の上の文化 まつり・民俗芸能・博物館』(橋本裕之、追手門大学出版会、2014)※文化財保護法と通称おまつり法について。


・『あなたの社会構成主義』(ケネス・J・ガーゲン、東村知子/訳、ナカニシヤ出版、2004)※社会構成主義(構築主義)の入門書。構築主義の成り立ちとその認識論などを平易に解説。


・『創られた伝統』(エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー/編、前川啓治、梶原景昭 他/訳、紀伊国屋書店、1992)※近代英国史について。従来伝統と見られていた儀式などは意外と近代の産物であることを指摘する。神楽とは直接関係ないが、構築主義のはしりとなった本なので挙げておく。


・『現代演劇のフィールドワーク 芸術生産の文化社会学』(佐藤郁哉、東京大学出版会、1999)※小劇場系演劇に対する商業主義化という批判を検証している。


・『「よさこい系」祭りの都市民俗学』(矢島妙子、岩田書院、2015)※札幌のYOSAKOIソーランについて。フォークロリズムに関する解説を参照。


・『フォークロリズムから見た今日の民俗文化』(河野眞、創土社、2012)     ※バウジンガーはフォークロリズムについて内的エキゾチシズムを指摘する。


・佐々木健一「美学への招待」(中央公論新社, 2019)


・「明治演劇史」(渡辺保, 講談社, 2012)


・石塚尊俊「五行神楽の分布と源流」『芸能論纂』(本田安次博士古稀記念会/編、錦正社、1976)249―263頁。


・田中重雄「五行祭盛衰記」『広島民俗』第18号(広島民俗学会、1982)116頁。※備後神楽の五行神楽について。プロの神楽師が務めていたが、昭和三十年代に急速に衰えたとのこと。


・井上隆弘「神楽における死霊祭祀―山口県山代地方の山鎮神楽について―」『佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集』6号(佛教大学総合研究所、2018)17―34頁。※「将軍舞」について。


・萩原龍夫「大元神楽見学記」『神々と村落 : 歴史学と民俗学との接点』(萩原龍夫、弘文堂、2014)167―183頁。※託太夫の託宣について。


・岩田勝「牛尾神楽学を継承していくために」『広島民俗』第26号(牛尾三千夫先生追悼号)(広島民俗学会、1987)※『神楽と神がかり』の編集について。


・田中重雄「岩田勝さんを惜しむ」『広島民俗』第42号(広島民俗学会、1994)39―45頁。※岩田勝の略歴について。


・山路興造「もう一つの猿楽能―修験の持ち伝えた能について―」『芸能史研究』44号(芸能史研究会、1974)35―48頁。※備後東城荒神神楽能本に能楽大成以前の能の様式が残されていると考察。


・西郷由布子「芸能を<身につける>―山伏神楽の習得過程」『身体の構築学―社会的学習過程としての身体技法』(福島真人/編、ひつじ書房、1995)101―141頁。※早池峰神楽の舞が手ごとという単位で構成されると分析。


・三隅治雄「神楽の歴史と分布」『渡部雄吉写真集 神楽』(渡部雄吉, 新潮社, 1998)pp.177-194 ※神楽の歴史について芸能史的観点からの記述あり。


・山路興造「『佐陀神能』再考―『佐陀神能』は慶長期以降の改革神楽である―」『民俗芸能研究』67(民俗芸能学会編集委員会/編, 2019)pp.83-110 ※本田安次の出雲流神楽の分類についての考察。中世に新たに開拓された地域に修験の山伏といった宗教者が入り定着し、神楽を伝えたと考察する。その点で神楽能は佐陀神能以前からあったと考察する。


・山﨑達哉「佐陀神能の変化とその要因に関する研究―神事と芸能の二面性―」『待兼山論叢 50 文化動態論篇』(大阪大学大学院研究科, 2016)pp.1-34 ※佐陀神能に関する論考。慶長期の神能成立から大正末期の「郷土舞踊と民謡の会」における「佐陀神能」の命名などに渡る。


・川野裕一朗「文化財行政の抱える問題――島根県佐陀神能の事例から」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学・心理学・教育学:人間と社会の探究』77(慶應義塾大学大学院社会学研究科/編, 2014)pp.127-158 ※佐陀神能を事例に文化財保護法、ユネスコ無形文化遺産保護条約の問題点を指摘。文化財保護法の昭和五〇年(一九七五年)の法改正時には無形文化財に対して芸能的側面からだけでなく、信仰的側面からの保護を要望する意見があったが、憲法の政教分離の原則から実現しなかったとしている。


・迫俊道「芸北神楽におけるフロー」『フロー理論の展開』(今村浩明、浅川希洋志/編、世界思想社、2003)※GHQの検閲で「塵輪」がNGとなった件。


・井上隆弘「神楽祭文研究の方法について―岩田勝・山本ひろ子の所説を中心として―」『民俗芸能研究』59号(民俗芸能学会編集委員会/編、2015)26―44頁。


・森林憲史「関東地方の神楽囃子について―楽曲から神楽の系譜を辿る試み―」『民俗芸能研究』第42号(民俗芸能学会、2007)41―81頁。※関東の里神楽に反閇が見られることについての指摘。


・藤村和宏「地域伝統芸能の継承と変容が市場創造に及ぼす影響に関する考察―島根県の3地域における神楽をケースとして―」『香川大学経済論叢』84(4)(香川大学経済研究所/編、2012)293―379頁。※島根県の神楽について、娯楽性の強い石見神楽にまず誘導して、それからより本格的な出雲神楽・隠岐神楽に誘導すべしとする考え。


・迫俊道「伝統芸能の継承についての一考察―広島市における神楽の事例から―」『大阪商業大学』第5巻第1号(通巻151・152号合併号)(大阪商業大学商経学会、2009)609―621頁。※安芸十二神祇で芸北神楽をレパートリーに取り入れた神楽団へのインタビューあり。


・水上勲「《塵輪》《牛鬼》伝説考―『新羅』来襲伝説と瀬戸内の妖怪伝承―」『帝塚山大学人文科学部紀要』第18号(帝塚山大学人文科学部紀、2005)19―37頁。


・川野裕一朗「民俗芸能を取り巻く視線―広島県の観光神楽をいかに理解すべきなのか」『森羅万象のささやき 民俗宗教研究の諸相』(鈴木正崇/編、風響社、2015)711―728頁。※ときに「見せ物」であると批判される芸北神楽についての考察。芸北神楽の「ステージで舞うときも氏神社で舞うときと同じように」との心構えを指摘する。


・新谷尚紀「映像民俗誌論―『芸北神楽民俗誌』とその制作の現場から」『歴博大学院セミナー「民俗学の資料論」』(国立歴史民俗博物館/編、吉川弘文館、1999)※中川戸神楽団のスーパーカグラ開催の経緯について。


・俵木悟「八頭の大蛇が辿ってきた道―石見神楽『大蛇』の大阪万博出演とその影響―」『石見神楽の創造性に関する研究』(島根県古代文化センター、2013)


・俵木悟「『正しい神楽』を求めて―備中神楽の内省的な伝承活動に関する考察―」『日本常民文化紀要』第33輯(成城大学大学院文学研究科、2018)53―93頁。


・山﨑達哉「佐陀神能の変化とその要因に関する研究―神事と芸能の二面性―」『待兼山論叢 50 文化動態論篇』(大阪大学大学院研究科, 2016)pp.1-34


・「シンポジウム『民俗芸能とおまつり法』」『民俗芸能研究』17(民俗芸能学会編集委員会/編、民俗芸能学会、1993)78―97頁。※おまつり法についてのシンポジウム。また民俗芸能の文化財指定について。「変えてはならない部分」を保存するのだとする。


・小島美子「民俗芸能が観光の材料にされる!!」『芸能』34(3)397(芸能学会/編、1992)62頁。※民俗芸能がステージで演じられたら、それはショー化だと厳しく指弾する。


・茂木栄「伝統芸能のイベント活用法案について」『民俗芸能学会会報』第22号(民俗芸能学会、1992)213頁。※おまつり法について。


・竹内幸夫『「おまつり法」に思う」「民俗芸能研究」19(民俗芸能学会編集委員会/編. 民俗芸能学会, 1994)pp.81-87


・足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」『歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3』(片岡新自/編、新曜社、2000)132―154頁。※文化構成主義の主体性バージョンについての批判。また、現代の伝統文化の独自性は観光上の要請からきた虚構に過ぎないと指摘する。


・足立重和「伝統文化の管理人 郡上おどりの保存をめぐる郷土史家の言説実践」『社会構築主義のスペクトラム―パースペクティブの現在と可能性―』(中河伸俊、北澤毅、土井隆義/編、ナカニシヤ出版、2001)175―195頁。※文化構成主義の主体性バージョンについての批判。また、現代の伝統文化の独自性は観光上の要請からきた虚構に過ぎないと指摘する。


・八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」『たいころじい』15号(十月社、1997)17―25頁。※創作和太鼓について。


・才津祐美子「そして民俗芸能は文化財になった」『たいころじい』15号(十月社、1997)26―32頁。※文化財保護行政について。時代に応じて変化するため保存に適しないとされていた無形民俗文化財が文化財保護法で保存されることになった経緯について。


・太田好信「文化の客体化―観光をとおした文化とアイデンティティの創造」『民族学研究』57―4(民俗学会、1993)383―410頁。※支配する/支配される関係にある者の文化における主体性の発揮について。


・岩田勝「シンポジウム雑感」『民俗芸能研究』18号(民俗芸能学会編集委員会/編、1993)76―78頁。※中野七頭舞を「少女歌劇」と一刀両断。


・「シンポジウム 民俗芸能の継承・断絶・再生」『民俗芸能研究』18(民俗芸能学会編集委員会/編、民俗芸能学会、1993)22―51頁。※中野七頭舞を取り上げている。


・門田岳久「フォーラム ドイツ民俗学の転機とフォークロリスムス―バウジンガー著『科学技術世界のなかの民俗文化』を読んで―」『日本民俗学』232(日本民俗学会、2002)139―145頁。


・八木康幸「フェイクロアとフォークロリズムについての覚え書き―アメリカ民俗学における議論を中心にして―」『日本民俗学』236(日本民俗学会、2003)20―48頁。


・ハンス・モーザー, 河野眞/訳「民俗学の研究課題としてのフォークロリスムス(上)」『愛知大学国際問題研究所紀要』90(愛知大学国際問題研究所、1989)63―95(232―264)頁。


・ハンス・モーザー, 河野眞/訳「民俗学の研究課題としてのフォークロリスムス(下)」『愛知大学国際問題研究所紀要』91(愛知大学国際問題研究所、1990)1―35(214―248)頁。※フォークロリズムの出典。ドイツの民俗でキリスト教以前の上古から続くと思われていた伝統が実は近世近代に始まったものが多いと指摘する。


・河野眞「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方―フォークロリズムの理解のために(1)―」『文明21』19号(愛知大学国際コミュニケーション学会/編、2007)37―53頁。※フォークロリズムは価値判断の術語ではないと弁明する。


・リチャード・ハンドラー, ジョスリン・リネキン, 川森博司/訳「伝統、本物か? にせ物か?」『世間話研究』第6号(世間話研究会、1995)1―25頁。※ケベックやハワイを事例にして本物の伝統も偽物の伝統も無いとする。


・リチャード・ハンドラー, ジョスリン・リネキン「本物の伝統、偽物の伝統」『民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から』(岩竹美加子、未来社、1996)125―157頁。※「伝統、本物か? にせ物か?」の別訳。


・芝村龍太「地域の活性化と文化の再編成―串原の組の太鼓と中山太鼓―」『ソシオロジ』135(社会学研究会、1999)21―37頁。※構築主義に関して、文化に本物も偽物もないとすると平板な取り扱いしかできないと指摘する。


・岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」『民俗芸能学会会報』第21号(民俗芸能学会、1991)2―3頁。※岩田のオロチ観が表明されている。


・大石泰夫「シンポジウムに向けて『民俗芸能の継承・断絶・再生』がめざすもの」『民俗芸能研究』18号(民俗芸能学会編集委員会/編、1993)15―22頁。※伝統芸能の七掛け理論を例として挙げる。八掛け理論は島根県浜田市の西村神楽社中の日高均氏によるもの(2019年7月12日:立教大学・公開セミナー「石見神楽 神と人のエンターテイメント」にて)。


・小田亮「文化の本質主義と構築主義を超えて」『日本常民文化紀要』20号(成城大学大学院文学研究科)111―173頁。※文化人類学における文化の客体化論について踏み込んだ考察がされている。


・日隈健壬「いわゆるいまの『ひろしま神楽』の今日的位相」『広島修大論集』第50巻第1号(広島修道大学学術交流センター、2009)71―96頁。

・『第二回かながわのお神楽公演解説プログラム』(江戸里神楽公演学生実行委員会、第二回かながわのお神楽公演実行委員会、2019)


・『2017年度 文教大学生活科学研究所 特別公開講座 地域に伝わる伝統芸能 神楽の魅力と課題』(斉藤修平/構成、文教大学生活科学研究所、2017)※関東の里神楽の神楽歌について、明治期の神楽改正で神楽歌を止めたとする。


なお、「長州住保頼塩焼」「斉藤裕子でごじゃるよ~」といった神楽をテーマにしたブログの記事も参照しましたが、ブログはログ形式なので体系性が無く、具体的にどの記事と提示できません。お詫び申し上げます。

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