口下手な『ゆ』

猫猫仔猫

第1話 口下手な『ゆ』


 私は話せない。

 何を話して良いか分からない。

 何から話して良いかが分からない。

 私はいつも下を向いて歩く。  

 人と眼が合うのが怖い。

 眼が合うと話し掛けられる可能性がある。

 だから極力眼を避ける。

 相手に話し掛けられる機会を与えない。

 それが私の静かな防衛。

 爪先と床の残像が瞼裏に焼き付く。

 眼を下に向ければ首も下に向く。

 首が下に向けば肩も。

 そして背中も湾曲する。

 私は猫背になった。

 滑稽な姿。

 女性として背筋だけは意識して伸ばす。

 でも気を抜くと猫背に戻る。

 だから毎日毎日神経衰弱。

 びくびくしながら生きている。

 自分にも。

 他人にも。

 別に孤独が好きな訳じゃない。

 好きで地味になった訳じゃない。

 好きで目立たなくしてる訳じゃない。

 でも。

 孤独に成らざるを得ない。

 輪にいても孤独。

 ただ愛想笑いをしてるだけ。

 笑顔を忘れていないだけましかも。

 普通の話し方はどっかに逃げた。

 仕事上での会話。

 社交辞令的な会話。

 必要最小限度の会話。

 それだけ。

 私的な会話が出来ない。

 何を話して良いか分からない。

 何から話して良いかが分からない。


 沈黙が怖い。

 話が続かない。

 私のせいで話が終わる。

 話が途切れ途切れになる。

 次から話せなくなる。

 聞く手に回る。

 頷いていれば一応の格好は付いた。

 途中に笑顔も入れて。

 その方が楽だった。

 だから。

 自分から話す事を止めた。

 子供の時からそう。

 でも大人になれば変わると思ってた。

 普通に人と話せるようになると思ってた。

 でも。

 残念だけど。

 結局。

 大人になっても変わる事はなかった。

 寧ろ被害妄想的思考が膨らんだ。

 人は成長するにつれ色々な事を学習する。 

 想像の種類も質も深さも成長する。

 私の言葉から不快を得る人がいるんじゃ?

 視点論点がずれてる事を話してるんじゃ?

 傷付けるような事を話すんじゃないか?

 私の陰口を言われてるんじゃ?

 私の話を無視しているんじゃ?

 私を無視しているんじゃ?

 私の存在意味は?

 私は?

 疑心暗鬼の堂々巡り。

 何も言えなくなった。

 何も言わなければ誰も傷付かない。

 私も傷付かない。

 何も問題なく時間が流れる。

 子供の頃の考えと同じ。

 何も変わってない。

 何も成長してない。

 身に付いた事は一つだけ。

 対人恐怖症。


 でも。

 子供の頃の人間関係より今の方がいい。

 大人の社会は過ごしやすい部分がある。

 仕事をこなしていれば誰も文句言わない。

 字が綺麗でパソコンが使えれば良かった。

 地味で型に決まった仕事会話でいい。

 だけど。

 それでも。

 話し掛けられる恐怖は常に付き纏った。

 咄嗟に言葉は出てこない。

 黙りこくって。

 考え込んで。

 当たり障りのない言葉を選ぶ。

 すると間が出来てしまう。

 すると自己嫌悪に陥ってしまう。

 汗が出て。

 咳が出て。

 頬が照って。

 心拍数が多くなって。

 呼吸が不規則になって。

 目眩がして。

 震えてしまう。

 家に帰って泣く。

 唯一安心出来る自分の部屋。

 気持ちが緩んで泣き続ける。

 社会に馴染んだと言い聞かせてた自分。

 少しは大人になったと励ましていた自分。

 全部嘘。

 自分で自分を騙していただけ。

 騙していた事に眼を背けていただけ。

 全然変わってない。

 酷くなってるだけ。

 最低。

 何を一人前ぶってるんだか。

 一人で道化を演じて一人で落ち込んでる。

 馬鹿みたい。

 毎日同じ事の繰り返し。

 何を話して良いか分からない。

 何から話して良いかが分からない。


 私は必要とされていない。

 無価値な人間。

 だから。

 存在無の女。

 劣等感だらけ。

 だから。

 相手の意志の受け答えが出来ない。

 何を望んでいるかを察する事が出来ない。

 だから。

 言葉では表現が出来ない。

 本能的行為に走る事も当然だったかも。

 大学生の時だった。

 帰り道が同じ同級生がいた。

 優しい人で私と同じで無口な人だった。

 家も近くだった。

 会話は彼がしてくれた。

 私は頷いて笑うだけ。

 だから彼の家でご飯を作った。

 それぐらいしか出来ないから。

 その後に付き合ってと言われた。

 言葉は当然出てこなかった。

 笑顔も。

 頷きも。

 全部止まった。

 だから。

 本能的行為になる事も当然かも。

 私は彼の手を握った。

 手を握る事しか出来なかった。

 手を握る事で想いを伝えたかった。

 彼は握り返してくれた。

 次に何をしていいのかが分からなかった。

 だから。

 本能的行為になる事も当然かも。

 私は彼に抱き付いた。

 彼も抱き返してくれた。

 そして。

 寝た。

 言葉はなかった。

 ただの本能的行為。


 私は必要とされていない。

 無価値な人間。

 だから。

 存在無の女。

 劣等感だらけ。

 でも。

 寝た時に私は思った。

 今。

 私は。

 求められ。

 必要とされている。

 存在を表現出来ている。

 価値を認識出来ている。

 初めての体験。

 初めての経験。

 でも。

 寝たという行為。

 その事についての実感は正直なかった。

 それ以上の充実感が私には生まれていた。

 初めて自分の存在を見いだせた充実感。

 初めて自分の価値を高められた充溢感。

 初めて自分を必要とされている至福感。

 やっと人並の存在を持てたと感銘した。

 ただ。

 それでも。

 話すという行為には抵抗があった。

 消えた訳ではなかった。

 全くそのまま。

 何も変わってなかった。

 下を向いて歩き。

 猫背を気にし。

 話し掛けられる事に気が滅入った。

 彼に対しても同じ。

 彼の話にどう反応していいか苦痛だった。

 嫌悪感が更に大きく膨れ上がった。

 他人であろうと。

 彼であろうと。

 結局みんな同じだった。

 どんな関係になっても。


 彼が可哀想になった。

 何も発展のない私。

 こんな私に話し掛けてくれる彼。

 でも。

 話し掛けられる事が私にとって苦痛。

 彼であれ。

 彼だからこそ。

 心が痛む。

 何も彼に対して出来ない自分。

 全くの他人なら聞き流せばいい。

 でも。

 彼に対してそれは出来ない。

 ちゃんと聞いて上げなければならない。

 見合った反応をしなければならない。 

 普段は会話を逃げている私。

 でも彼の会話からは逃げてはいけない。

 どうしても真剣に聞かざるを得ない。

 それが負担になった。

 きっと。

 周りから見れば彼の会話時間は少ない。

 でも。

 それでも。

 私には苦痛だった。

 ほんの僅かな時間でも駄目だった。

 彼との会話でさえ神経が疲労した。

 だから。

 言葉を必要としない行動に出る。

 彼に奉仕する。

 彼の手を握り。

 彼に抱き付き。

 彼と寝る。

 唯一自分が自分でいられる時間。

 その時間を彼と共有する事が私の言葉。

 寝る事が私にとっての会話だった。

 必要とされ。

 存在を表現出来て。

 価値を認識出来て。

 会話と同じ。

 寝る事は唯一の表現方法。


 男性は寝る事を拒まない。

 すぐに私を抱いてくれる。

 すぐに私は私の存在を表現出来る。

 すぐに私は私の価値を認識出来る。

 でも。

 男性にはそれが分からない。

 私の真意を理解出来ていない。

 解ろうともしない。

 ただの性欲として片付けられる。

 色魔として色付けされる。

 淫乱として眺められる。

 言葉に詰まれば、寝。

 沈黙が生まれれば、寝。

 二人になると、寝。

 寝。 

 寝。

 寝。

 自分の存在を確認すればするほど誤解。

 自分の表現を大きくすれば色情魔とされ。

 自分の価値を高めれば欲情とされる。

 寝る事が会話とは思ってくれない。

 寝るだけの女とと思われる。

 純粋だった関係が崩れていく。

 寝る事が当たり前となっていく。

 寝る事が自然になっていく。

 寝る行為は一般的に控えるもの。

 女から誘うのも一般的には慎むもの。

 私は控えなかった。

 私は慎まなかった。

 そうなると男性は有り難みを失う。 

 身体だけの関係に墜ちていく。

 感覚的に薄い関係に墜ちていく。

 私の存在は性の捌け口へと移り変わる。

 寝る事が私の会話。 

 彼の心変わりも寝る事で知った。

 冷たく断定的な会話になった。

 心が軽く何も伝わってこなくなった。

 私の存在が不必要となった。

 価値が下がった。


 自然に彼とは別れた。

 ただ。

 存在という意味は私に残った。

 私にとって存在を確かめるには寝る事。

 そう自覚できた。

 他人と二人切りの状況は依然苦しい。

 何を聞かれても言葉が出てこない。

 どう答えて良いのかが分からない。

 思った事を素直に話して良いのか。

 相手に同調した方が良いのか。

 その判断が分からない。

 黙ってしまう。

 また自己嫌悪に浸ってしまう。

 そして。

 手を握ってしまう。

 男性でも。

 女性でも。

 手を握ってしまう。

 手を握ると安心出来た。

 少し気が和らいだ。

 少しずつ言葉が出てきた。

 ただ。

 誤解を招く。

 気があると見られてしまう。

 男性にも。 

 女性にも。

 手を握る事は生活中にそうない出来事。

 それは身体を求める仕草にもなった。

 相手がその気になるのも仕方がない事。

 私は迫られても拒む事はなかった。

 私にとって会話は寝る事と同じ。

 男性にも。

 女性にも。

 私なりに寝ながら会話した。

 実際に会話はしない。

 身体の波長で会話した。

 会話の内容ははごく自然な世間話。

 その程度の感覚で寝ていた。

 そう思ってたのは私だけらしいけど。


 性の快楽を楽しんだ事はない。

 生きる為に性の助けを借りているだけ。

 ほんの少し助けてもらってるだけ。。

 呼吸。

 瞬き。

 咳。

 それと同じ感覚。

 生きる為の防護策。

 一般常識感覚とは違うかもしれない。

 性感覚が麻痺しているのかもしれない。

 でも。

 私にとっては重要な事。

 仕方のない事。

 補う努力の結果。

 それが人とは違うだけ。

 少し誤解を招くけど。

 会社では二人切りになる状況は少ない。

 そして仕事を並以上にしていればいい。

 私語が不謹慎になる環境が向いていた。

 大人になると自然に性の会話を抑えた。

 その機会がない訳ではないが・・・。

 昔よりは少なくなった。


大人はいい。

 話す事が無理でも身体を委ねればいい。

 そんな関係が無意味に成り立つ。

 後々に引きずる人もいるが大抵は大人。

 割り切る人がほとんど。

 恨みはない。

 私もその方がいい。

 都合がいい。

 話す事を避けられるならいい。

 女性の私はその分恵まれている。

 もし私が男性なら難しい。

 男性から女性に手を握るとセクハラ。

 そこから先は望めない。

 女性の口下手な方が何かといい。

 たぶん。

 きっと。


     午後九時


 字が綺麗。

 特に『ゆ』の字が。

 

 彼女が入社して一ヶ月経つ。

 彼女には前から好意を持っていた。

 地味な印象だが何か気になる存在だった。

 普通の子とは違う空気を持っていた。

 そんな第一印象だった。

 彼女のノートを見た事があった。

 右隅に小さく名前が書いてあった。

 真野さゆり。

 自分で言うのもなんなのだが。

 僕は人の名前を覚えるのが苦手だ。

 ただ、彼女の名前は印象に残っていた。

 純粋に、字が綺麗だった。

 特に『ゆ』の字が綺麗だった。

 なんと言うか、自分好みの『ゆ』だった。

 線が細く。

 丸みも程良く。

 全体的に上品だった。

 基本的に字が綺麗な女性は信用出来る。

 自分自身、字が汚いから余計に感心した。

 そんな彼女と僕は残業をしていた。

 部署には二人切り。

 僕はコーヒを注ぎ彼女の机に置いた。

 彼女は会釈をし、コーヒに口を付けた。

 僕は彼女を食事に誘った。

 彼女は黙ったまま俯いていた。

 

「ああ、いいよいいよ。気にしないで。用事とか何かあるよね。ま、互いに仕事、早く終わらそ」

「・・・・」

「・・・・真野・・・さん?」

「手、握っていいですか・・・」

「ん、ああ・・・いいけど?別に・・・」

「私・・・こうしてないと、二人切りでは話せないんです」

「ああ、そう・・・どうして?」

「・・・・」

「ん、いや。話さなくてもいいよ。人間一つぐらい秘密はあるものだからね。うん」

「・・・・・話すのが・・・怖いんです」

「怖い?どうして?」

「・・・二人切りになると話がすぐ続かなくなって、すぐ沈黙になってしまうんです、それが・・・怖いんです」

「そっか。でも、手を握られた男は変な気を持っちゃうから気を付けないとね」

「・・・・・」


 彼女は俯いた瞳を更に伏せた。

 僕は男の浅ましさを恨んだ。

 彼女は握る手をもう一つ強くした。

 僕の心拍数を察知したのかは分からない。

 ただ。

 男の欲望を感じ取られた気はした。

 そのすぐ後だった。

 彼女は椅子から静かに立ち上がった。

 そして僕に抱き付いた。


「真野さん・・・待った」

「・・・・・」

「あの、なんだ、男は全部そんな生き物じゃないよ。確かにそんな生き物だけど、僕もそうだけど、でも、違うんだけど・・・」

「・・・私の事、嫌いですか?」

「違う。そんな意味じゃない。真野さん。まず、話そう」

「でも・・・」

「ゆっくり、話そ?ね?僕だって話すのは得意な方じゃない。手を握られて動揺する小心者だもの。ね?話そ?」

「手は・・・握ってていいですか?」

「ああ、それはいいよ・・・」


 彼女は一つずつ話し始めた。

 どんな子供だったか。

 どんな性格だったか。

 今はどう変わったか。

 どう過ごしてきたか。

 どう対応してきたか。

 どう考えていたか。 

 自分の存在。

 自分の価値。

 自分の意義。

 自分の意味。

 少しずつ。

 ゆっくりと。

 考えながら。

 柔らかい声で。

 澄んだ声で話してくれた。

 僕は俯くしかなかった。

 互いに視線を合わせずに話し合った。

 

 彼女は自分を追い詰めて追い詰めていた。

 男は馬鹿だ。

 女性の一つの言葉を蔑ろにする。

 そして女性との一時の身体を優先する。

 女生との会話は身体への通り道。

 その程度しか考えていない。

 女性はその事実を熟知している。

 ほぼ、産まれた時から本能的にだ。

 そして。

 悲しい事にだ。

 男はその事実に全く罪悪感はない。

 種の保存的本能が最優先されるからか。

 脳内には身体を欲する血液が流れている。

 女生との会話なんて殆ど忘れる。

 女性の言葉なんて殆ど忘れる。

 しかし。

女性は一つの言葉を大切にする。

 身体は全然、後だ。

 個人差はあるにしろ、だ。

 真野さゆりは、両方の事実を知っていた。

 普通の女性よりも切実に知っていた。

 知らなくてもいい子が知っていた。


「・・・会話するよりも・・・寝た方が楽なんです」

「楽?」

「気持ち的に・・・身体を委ねればいいだけですから・・・」

「そんな・・・断ればいい事だろ」

「・・・私なんかに声を掛けてくれるんですから・・・私だって・・・少しでもお返しがしたいんで、す・・・」

「お返し?」

「もし・・・私が普通に話せたら・・・男の人と一緒に居る事も少しは楽になるかもしれません・・・でも・・・私には・・・それが・・・出来ません・・・」

「だから・・・身体でお返し?」

「はい・・・」

 

 馬鹿な。

 選択が間違っている。

 間違っている。

 ・・・しかし。

 彼女にとっては・・・。

 切実な結果。

 相手の気分を害させてはいけない気持ち。

 と言って。

 相手を楽しませる事は自分には出来ない。

 なら、どうするか・・・。

 会話の時間を消せばいい。

 飛ばせばいい。

 会話がない状況にすればいい。

 ただ、それだけ。

 会話がなければ・・・。

 緊張もなくなる。

 だから。

 彼女は身体を預ける。

 言葉はない。

 身体を預ければいいだけ。

 

 積極的なのか。

 消極的なのか。

 積極内にある消極的決断なのか。

 消極内にある積極的決断なのか。

 僕には分からない。

 ただ。

 一つだけは分かる。

 男からの視点だけだが。

 彼女の行為は相手を想った上での結果。

 彼女の場合、少し過度だっただけ。

 相手を想う事は悪い事ではない。

 寧ろ好ましい。

 自分勝手な奴よりましだ。

 しかし。

 男は馬鹿な生き物。

 身体が目の前にあると手が出てしまう。

 理由も知らずに、抱けてしまう。

『好きだ』

『好意を持っていたんだ』

 などと。

 彼女の気持ちを少しも理解せずに。

 勝手に理由を付けて納得してしまう。

 僕だって、この場所じゃなければ・・・。

 何も考えずに彼女を抱いただろう。

 流れのままに。


「ふしだらな女って思ってますよね・・・そうだと思います、私も。普通に見れば、変ですよね・・・でも、寝てる間は、私も役に立ててるんだなって・・・少し思えるんです」

 

 いじらしいと言って良いのだろうか。

 いや・・・。

 そんな事は。

 僕なんかが言える立場じゃない。

 彼女を簡単に総評なんて出来ない。

 生き方の深さ重さ、僕が口を挟めない。

 全てが無責任になる。

 僕は。

 僕は。

 僕は・・・。


「真野さん」

「・・・はい」

「話せるじゃないか。まだ二人で話すのは嫌だ・・・って思ってる?だったら大丈夫だよ。だって、今も、こうして、色々話出来てるじゃない?二人切りだけど?」

「・・・・・」

「簡単に言えば・・・前から真野さんがの事好きだったんだ。嘘じゃないよ。好意があるとか、安心出来るとか、きっと、まだそんな感じだろうけど・・・」

「同情なら・・・」

「同情じゃない。分からないけど・・・少なくとも同情じゃない。正直に言えば、真野さんを抱きたいよ。でも、それだと、真野さんが今まで寝た男と同じに扱われる。それは、どうも・・・嫌だ・・・きっと、こう思う事は・・・真野さんの事をを好きだから思う事なんじゃないかな・・・だから、今、分かったんだ。同情じゃなく、真野さんと一緒にいたいなって」

「でも・・・私のどこが・・・」

「ああ・・・それは、ね・・・『ゆ』の字だよ」

「?」

「真野さんが書く『ゆ』って字、綺麗なんだよね。真野ゆきえ。自分の名前なんだから今まで何万回と書いてきたんだろうけど・・・僕が今まで見てきた『ゆ』の中で一番上手だった。他の字も上手いけど、特に『ゆ』の字がね」

「・・・」

「だから、前から真野さんをいいなあ、とは感じてた。勿論、その他にも好きな箇所はあるよ」

「・・・・・」

「変かな?それとも不純かな?字だけで女性を判断してるみたいで・・・」

「・・・いえ・・・嬉しい、です」

「そりゃ・・・よかった」

「私・・・そんな風に言われたの・・・初めて・・・」

 

 彼女が言った、『初めて』の意味。

 自分を褒められた事に対してか。

 ただ、字を褒められた事に対してか。

 でも。

 今は。

 どっちでもいい。

 これでいい。

 彼女が少しでも笑顔を見せてくれれば。

 僕は嬉しい。

 今は飾りの笑顔かもしれない。

 でも。

 普通に。

 二人で。

 笑いあえたら・・・。

 

「それじゃ・・・とりあえず、ご飯食べに行こう・・・ね?」

「・・・・・あの」

「ん?」

「あの・・・今は、本当に、純粋に・・・抱きしめてくれますか・・・」

「あ・・・」

「少しだけ・・・このままで・・・いいですか・・・落ち着くんです・・・」

「あ、ああ・・・」

「それと・・・ご飯は・・・明日でいいですか・・・今日は・・・色々あって・・・気持ちが・・・まだ・・・慣れてなくて・・・」

「あ、ああ、いいよ。じゃ・・・明日は何食べようか?」

「一緒なら・・・どこでもいいです・・・」

 

 涙声。

 白い肌。

 細い身体。

 柔らかい匂い。

 紅い眼を擦る彼女。

 今は、このままで。


 たった些細な『ゆ』の出来事で。

 

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口下手な『ゆ』 猫猫仔猫 @nekonekokoneko

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