後ろ指
アルヴィが銀髪の兄と誓ったことを、ムンクはシリアに伝えていた。
アルヴィは何も気がつかない。彼は純真無垢なその心で、火竜と魂を分け合い、氷竜に愛を誓ったのだ。
彼が心をこめて誓うことは、ことごとくやぶれさる運命にある……。
誓はいつも、彼の心をずたずたに引き裂く。
シリアは、それを感じてしまう。
シリアの持っている力は、シリアという少女には重すぎた。
運命にしたがって生きていく身に、恋は訪れるはずもないことだった。
それなのに、あの方は仕切りを払って、いきなり私の目の前に現われて……燃える眼差しで、心を奪っていってしまった。
これは、運命? それとも堪えよという試練?
堪えよといわれても耐えきれない。どっちつかずの気持ちが、私の心を乱していって、今日もあの方を傷つけてしまった。
窓から外を眺める。
赤い髪はとても目立つ。さびしげに去っていく後姿を、シリアは見送ってつぶやいた。
「ごめんなさい……」
突然、シリアは窓から身を乗り出した。
「アルヴィ? あなた、何を……」
暴れ騒ぐ馬が見える。その馬に、真赤な髪の人影が近づいていく。
危ない!
シリアは心臓が止まりそうになった。
やめて! やめて!
思わずシリアは部屋を飛び出した。
砦を駆け下り、橋を渡り、さらに走る。村まで至る距離は、けして短くはない。
血相を変えた巫女姫の姿は、ガラルの人々を振向かせた。
普段は人前にめったに現われない姫が、ヴェールも被らず、いつもは隠している顔に動揺の色さえ浮かべて走っていく……。
村人たちはざわついた。
巫女姫が、息を切らしてたどり着いた時には、馬もアルヴィの姿もなく、馬を遠目に見ていた人々の姿もなく、代わりに巫女姫の姿を見にきた人々が遠巻きにしていた。
姫は畑の真中にへたり込んでいた。
そんな事件があったとも知らず、馬を手に入れてご機嫌なアルヴィは、鼻歌混じりで帰ってきた。実は、鼻歌はメルロイの影響なのだが、悲しいくらいの音痴には気がついていない。
「俺が、びっくりするほどの名馬にしてあげるよ」
馬はブヒブヒいいながらも、素直に引き馬されていた。
「おまえの名前……。そうだ、シリアに付けてもらおう!」
翌日から、アルヴィは馬につきっきりになった。
やっと種まきを終えて、ボロボロになったサリサがつぶやいた。
「やっぱり……アルヴィは、じゃじゃ馬よりも、本当の馬のほうがあっているよ」
だからといって、アルヴィがシリアの所へ行かなくなったわけではない。
馬を手に入れて二日後の夜、アルヴィは砦の階段を駆け上がっていた。
追い出されたままだったから、本当はもっと早くにあったほうがよかっただろう。
タタタ…タタタ…。
細かいノックは、アルヴィだという合図。人に会いたがらなくて、よく居留守を使うシリアのために、考えた方法だ。
ちょっとだけ気が重い。案の定、開けてもくれない。
俺に会いたくないという意思表示。
それに、俺、ちょっと馬くさいかも?
「シリア、明日またくる。君にお願いがある。それじゃあ……」
去っていく姿を、切なそうに窓から見ているシリアの姿に、アルヴィは気がつかなかった。
純血種は弱い。
日頃したことのない重労働の毎日がたたって、サリサが寝こんだ。
つくづく体の弱いやつ……。あきれながらも、アルヴィは様子をうかがう。
手が、まめだらけだ。そういえば、日焼けしたな。赤くはれて痛そうだ。
心が痛んだ。
俺が恋におぼれている間、こいつがんばっていたんだよな?
「……蜂蜜飴……」
「え? 何かいったか?」
小さな声を、耳をよせて聞き取った。
「蜂蜜飴……食べたい……」
アルヴィが絶対に口にできない甘過ぎるお菓子だ。
たしか、砦の市場に売っていた。
「わかった。待っていろ」
アルヴィは、なけなしのお金を持って出かけた。
砦の一番下方の場所に、小さいながらも市が立つ。
ガラルで一番賑やかな場所だ。
花屋がある。まだ春浅いのに、どこで手に入れるのかな? きれいな百合の花だ。
シリアは、この花のように清楚で美しい。思わず、なけなしのお金を使ってしまいそうになる。
まずは、蜂蜜飴だった。
花屋の主人がこわばっているのに気がついて、アルヴィは立ち去った。
市場はあまり好きではない。
冷たい視線がいつも刺すように感じるし、聞きたくないことだってついつい聞こえてしまう。
ほら……今日も……。
「エーデムリングの角があってもねぇ……。あの目の色だから……」
「……フロル様を連れ去ったみたいに、シリア様を連れて行くんじゃない?」
「まったく、巫女姫が聞いてあきれるよ。自分の仕事も満足にできないくせに、わがままいっぱい。その上、男にうつつを抜かしているとはね」
「氷竜一頭慰めることができないけれど、男はたぶらかせるのか。巫女より向いているぞ」
「でもね、いくら王族の血を引いているといっても、石女だからな。所詮価値のない女だから。リューマの男だって、あれはいらんと言うだろうにねぇ……」
血が騒いだ。
アルヴィは、思わず剣に手をふれた。
俺のことを言うのはかまわない。
でも! でも、シリアのことを!
あんまりだ!
このガラルに、リューマの悪徳商人や盗賊がやって来ないのは、シリアが結界をはっているからだ。
シリアの恩恵を、こいつら感じていないのか? それすらも、シリアは必死なんだぞ!
あふれる力を彼女は持て余していて、どうともできないでいるのに!
それを……そういう風に……。
そういう風に……。
……そう言われるのは、俺のせいか?
「子をなせない女なんて……」
噂話をしていた男の言葉が途切れた。
燃える目をしたよそ者が、鼻先に剣をつきつけていたからだ。
その視線は、剣よりも鋭く、男を睨みつけていた。
この恐ろしい光景に、市場中の時間が止まったように静まりかえり、人々は固唾を飲んだ。
エーデム族の間で、それもかなり濃い血を持つ者たちの間で、剣を抜くことは許されないことであった。
さすがにその様子を察知して、メルロイが慌ててやってきた。
だが、もうおそい。
「シリアは石女かも知れないが、心は石にあらず! 運命ゆえに、シリアは心を石にして、エーデムのためにつくしているではないか! 人並みに悩み苦しんで……そして愛して、人並みに幸せになって、何が悪い!」
アルヴィの剣幕に、エーデムの人々は怯えていた。
「アルヴィ!」
メルロイが叫んだ。
しかし、アルヴィの剣はすでに振られていた。
「ヒィッ!」
人々全員が目をふさいだ。
パラリ……と、何かが鼻の上をかすめた。
男は恐る恐る目を開けた。
花屋の香に誘われた毒を持つ蜂が、まふたつに斬られてひらひらと落ちていった。
「むごいことをしたな。だが、刺されると鼻がはれる」
ウーレンの鋭い瞳が男を睨んだままだったが、口元だけが笑っていた。
だが、それは一瞬のことで、アルヴィは、再びきつい表情のまま剣をおさめると、呆然とする人々の間を通りすぎていった。
行く先は、蜂蜜飴屋ではなかった。
砦をあがって行く赤い影が見えなくなるまで、市場の時間は止まり続けた。
俺は、シリアのために生きるって誓ったんだぞ!
それが何だっていうんだ! これじゃあシリアの疫病神じゃないか。
ウーレンの燃える血が収まらない。
父上が母上を連れ去ったみたいに……。
あぁ、もうこんな所には彼女を置いてはおけない! お望み通り、連れ去ってやる!
「シリア! 入るぞ!」
ノックもせずに、怒りのままに、アルヴィは荒々しくドアを開けた。
シリアは部屋の片隅にうずくまっていた。
氷竜たちの心が収まらない時、シリアは広いところにいることができなかった。
「こいよ!」
アルヴィが伸ばす手を、シリアは首を振って拒絶した。
だが、アルヴィはかまわなかった。そのまま手を引いて抱き寄せた。
「俺とこいよ! 竜のことは忘れろ!」
そういうと、アルヴィは有無も言わさずシリアを連れ出した。
やっと時間が動き出した砦が、再び動きを失って、ウーレンの少年が巫女姫を連れ去る様子を、黙って見送った。
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