迷い馬
「ウーレン王は……君だよ」
ムテの霊山を下山する時、メルロイがアルヴィに告げた言葉だ。
シリアに迷うことなく誓ったアルヴィだったが、メルロイに対しては気が重かった。
あまり言葉多いとは言えなかったが、間違いなくメルロイは、アルヴィがウーレン王となることを望んでいたはずだった。
そして、何よりも故郷を愛し、ウーレンの民を愛していたのは、アルヴィ本人だった。
王になる誓は、もうすでに破られてはいたのだが……。
「君の生き方は君が決めること。私に謝ることはないよ」
もじもじと話すアルヴィに、メルロイはそう答えたが、内心は違うのでは? と、アルヴィは勘ぐる。
「私はねぇ……。かつて、エーデム王の地位をほっぽり投げてしまった男だよ。君に、自分の心を犠牲にしてまで、国のために生きろ! なんて言うと思う?」
神妙なアルヴィの様子に、メルロイはくすくすと笑った。
「恋の病って、どれくらいで直るのかなぁ……。まさか、アルヴィはこのまま、本当にガラルで一生を終えるつもりなのかなぁ?」
まったく似合わない野良仕事をしながら、サリサがレイラに聞いた。
重たい鍬に振りまわされていたレイラは、手を休めた。
「さあ……。でも、あの子って一途よねぇ。シリア様のわがままに、ニコニコしながら応えているなんて、凡人にはできないことよ」
「もう嘘つきなんだから……。俺は女になんて振りまわされない! なんて言っていたのに……」
サリサはドロだらけの手で汗をぬぐった。
もう春だ。
一番の働き手になりそうなメルロイは、竜のために歌ばかりうたっているし、アルヴィはわがまま巫女姫のおもり。しかし、種まきはしなければならない。
「僕も、まさかこんなところで、畑起こしすることになるとは……。あーあ、マサ・メル様が知ったら、どんな顔するだろう?」
まずはカップ。これは割れたらもったいないから受け止める。
次は本。これは面倒くさいからよける。
それから……それから……もう投げるものはなくなった。
「もう、気がすんだ?」
溜息つきつき声をかけるアルヴィに、シリアは答えず、ベッドの上に倒れこむようにして横になったかと思うと、びっくりするような大声をあげて泣き出してしまった。
わけがわからないよ。
突然、ころころと気分が変わるんだから……。
今の嵐の原因はなんだろう? 思い当たらない。
たしか……そうだ……。
君の瞳を見ていると、兄を思い出すって言った。それか?
「出ていって! 出ていてください! あなたはシリアよりも、お兄様の元へでも行けばいいんです!」
あぁ、やっぱりそれか?
おしとやかな巫女姫の顔と、わがままな少女の顔を持つシリア……。
おかしなことだが、アルヴィにとっては、こんなわがままさえもかわいく思えてしまう。
「君は俺の兄に嫉妬しているのか? それだけ、俺のこと、好きか?」
今度は枕が飛んできた。
シリアにたたき出されてトボトボ歩く砦。
人々の好奇の眼差しなど、気にはしない。気になるのは、シリアのこと。
笑顔なんて見たことがなかった。憂いを秘めた顔でおとなしくしているか、ヒステリックに騒いでいるか……。
彼女の苦しみを、どうしたら和らげてあげられるのか?
俺は歌などうたえないし……。
俺にできることといったら……何もない。
村のほうが騒がしかった。
アルヴィは、橋から村のほうを見下ろした。
馬? ガラルには馬なんていない。
どこかから迷いこんできた馬が、興奮して暴れている。
アルヴィは走り出した。大概のエーデム族は馬を扱えないのだ。
馬は、ムンクや鈍竜のような心を持たない。
だから、心話で動物を扱うエーデム族は、馬を苦手としている。
興奮した馬は、畑を掻き乱し、尻跳ねし、人々は恐れおののいている。
アルヴィがたどり着いた時、馬は一応畑の真中でおとなしくしていたが、目は尋常ではなかった。
去っていく様子もなく、人々は馬に近寄れない。近寄ればまた暴れ出すのは必至だ。
アルヴィは、馬をじっと観察した。
黒馬だ。ウーレン産らしい。まだ若そうだ。
興奮しているらしく、薄い皮膚に血管が浮き出ている。
耳をまっすぐにたてて、アルヴィをじっと見ている。恐れているな?
手綱がついたままだ。どこかで乗り手をふり落としてきたらしい。
「オーラ、オーラ」
アルヴィは声をかけながら近寄った。
怖くない。怖くない。
しかし、馬の横腹には拍車で蹴られた痕があり、鞭打たれた傷がある。口元は、よっぽど強くハミをあてられたのか、切れて血がにじんでいる。
痛々しいな……。どんな名馬だって、扱い次第で単なる暴れ馬になってしまう。
一歩、また一歩と近づく。
そっと手を伸ばす。手綱にあと少し……。
「あ、あなた! 危ないわ! 蹴られるわよ」
村人の一人が声を上げた。とたんに馬は首を振り、走り出そうとした。
わずかな差で、アルヴィの手は手綱を握っていた。
「きゃーーー!」
甲高い悲鳴が響く中、アルヴィは馬に引きずられていた。
しかし、ウーレンの敏捷さが、その状況を長くは続けさせなかった。
アルヴィは手綱を手繰りよせると、いやがって暴れる馬の鬣に手を伸ばして捕まえた。
それを拠点に馬の背に飛び乗ると、畑を飛び出し、恐れおののく人々の横を走りぬけ、そのまま村の外まで走り去っていった。
調教がまったく至っていない。この馬は何も教えられていないのだ。
しかし、あれだけ暴れまくっていたのに、なんという速さだろう? 能力は充分だ。
アルヴィは、ただ乗っているだけだった。馬にすべてをまかせていた。
命令してもはじまらない。こいつは何も知らないのだから……。
手綱を引いてもケガをした口元が痛いだけだろうし、脚で合図しても傷に障るだけだ。
あっという間に、ガラルの渓谷を越えた。
その向こうに広がるのは、果てしない草原だ。
黄色く枯れた大地の所々に、黄緑色の芽が出ている。春だ。
アルヴィは、久しぶりに興奮した。
馬で草原を走っていく……。風になる。もっとも自分らしい。
ウーレンの血が騒いだ。
自分はやっぱりいつか、この大地を駆け巡るのでは? そう思った。
シリアに……俺のことをわかってもらいたい……。そう思うのは、わがままか?
この馬……。シリアみたいだ。
「おい、もう気がすんだか?」
馬は、心を持たない……のではなくて、単に心話できないだけなのだ。
心を伝えるのは難しい。
「俺は怖くはない。おまえをいじめたりはしない」
アルヴィは馬の首に愛撫した。
「どうどう……。もういいだろ? これ以上走ったら、おまえが傷つくだけだ」
それでも馬は心を開こうとはしなかった。
しかし、さすがに馬上のウーレン人に敵わないと悟ったのか、やがて走ることをやめて歩き出した。
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