切り裂かれる者


 セルディはもともと勤勉だ。

 エーデムで教わる世界のことと、ウーレンで教わった世界のことは、まるで別世界のようだった。

 同じ歴史を語っても、ここまで立場の違いで話が変わるものなのか……。

 セルディには興味深い。


 父も、異国で学んでいた。かなり優秀だったと聞く。

 おそらく父は、ウーレンのみで語られる小さな視野では、世界を見てはいなかったのだろう。それに比べて、肩身の狭い思いを忘れるかのように、勉学に励んでいる自分は……。

 エーデムに来て早一ヶ月、少しずつ馴染んだとはいえ、セルディにとっては、ここも異国に感じていた。

 その感覚は、日を追うごとに深まってくる。

 エーデムでは、馬を扱うのはリューマの民の仕事であり、馬がいない。

 セルディは、父にもらった黒馬を思い出した。

 素直ないい馬だった。それなのに、名前さえつけてあげなかった。

 僕は心が狭い。


 王族はあまり外出しない。

 セルディにしてみれば、隠遁生活のようだ。

 剣の稽古をしたくても相手がいない。剣を使えることでさえ、内緒にしていたほうがよさそうだった。

 容姿はたしかにエーデム族だが、セルディの中にはウーレンの血も流れている。

 まるでぬるま湯につかっているような平穏な日々は、セルディにとっては苦痛に近い。

 でも、怖くて何もできないのだ。

 何かして……やっぱり、ウーレンの血を引く王子とは、後ろ指をさされたくはない。

 もう、異邦人になるのは嫌だ。

 いっそのこと、ミライに留学でもして、父のようになりたい。

 それも、無理なことだった。きな臭いミライ一帯は、今ごろウーレンの軍隊が包囲していることだろう。

 たとえ紛争が解決したとしても、セルディにはそのような希望を母や伯父に伝える勇気はなかった。

 母の瞳で、なぜ? と聞かれれば、もう答えることは出来ない。



 中庭での読書は、セルディの一番楽しい時間となりつつあった。

 その日も読書にふけっていた。

 近くにセリスとフロルがいることにも気がつかずに……。

「フロル、率直に話そう。昔のように……」

 セリスの声に、セルディは本を読むのを止めた。

 何だか深刻な話のようだ。そっと席をはずしたほうがいいのか?

 しかし、セルディは興味があった。

 それに、セリスの能力があれば、先日のシリアのようにすぐ見つかって、聞かれたくない話はしないだろう。

 セルディは、そのまま本を読んでいるふりをして、聞き耳を立てた。

 エーデム王の能力は、使おうとしないと使えないことなど、セルディは知らない。

 その上、セリスはその能力を使うことよりも、フロルに話す重大な決意のほうに心が向いていた。


「ギルトラント殿のことは残念だった。私はあの男が確かに苦手ではあったが、嫌いではなかった。アルヴィラントのことも……憎かったのではない。エーデムとウーレンの関係をよりよく保つために仕方がなかった」

「兄様は……昔からそういう方でしたわ」

 フロルの言葉には棘があった。だが、セリスは何事もないように話を続けた。

「そうだ……。私は昔からそうだった。血のために、おまえと結婚しようと考えたこともあった」

 セルディは耳を疑った。

 たしかに、ウーレンでも近親婚は王族の血を濃くするために行なわれてきたことだ。

 だが……。

「フロル、でも血のためだけではなかった。私は長い間、おまえと結婚すると本当に思っていた」

「兄様?」

フロルは驚いて、久しぶりに兄の顔を見た。

 兄は長身を折って、膝をつくと、妹の手をとってくちづけした。

「フロル、私は今……血のためでもなく、苦痛を背負ってでも、おまえに言う。心からおまえを愛している。おまえを王妃として迎えたい」

 フロルはあまりの驚きに、硬直した。

 そして、セルディも目の前が真っ暗になった。

「な、何を言うの? 兄様。兄様にはエレナがいるじゃない!」

「これは、エレナからの提案なのだ。このままでは、おまえが立ち直れない。エーデムでは、おまえはウーレンの寡婦として扱われる。おまえにふさわしい地位を授けるべきだと……」

 フロルは絶句した。

 兄様は、女心がまったく理解できない男なのだ。エレナが、心からそれを望んでいるわけではないことに、どうして気がつかないのだろう?

「兄様は、本気の本気なの? 私は恋敵なんか許さないわ! 王妃になったら、エレナなんか追放しちゃうんだから!」

 みるみるうちに、兄の顔がこわばっていく。

「それは嘘だけど、私は自分の地位のために、兄様の家庭を壊す気なんかないわ! 兄様の気持ちを利用する気もね……」

 兄は不器用なのだ。いつも血のため、エーデムのためと、自分の気持ちなんか後回し。

 それでも、本当に愛してくれていることは、フロルにだってわかっている。

 こんなトンチンカンな提案を持ってくるほど、私は兄夫婦を追いつめていたのね……。


 風が吹いた。

 雲が飛んでいった……。


「ごめんなさい。兄様、私、やっぱりギルティのことが忘れられない。兄様の気持ちにはこたえられない。でも、久しぶりに兄様と言い争えて楽しかった!」

 フロルは久しぶりに笑った。

 ふられたはずの兄の顔にも、ほっとした笑顔が戻った。

「エレナが養育園を手伝ってほしいといっていた……。そっちのほうが大事な話だった」


 

 兄妹が立ち去った後、花の中、セルディは硬直したままだった。

 伯父上は本気だった……。

 おそらく……。

 母のために家族を見捨てられるほど、母を愛しているのだ。

 おそらく……。

 セルディは、母の言葉を思い出していた。

『兄様は所詮、ギルティが嫌いなのよ! 妹をさらった赤い悪魔として憎いんだわ!』

 憎いはずだ。あの人は、父とは恋敵だったのだ。

 だから、アルヴィを救ってくれなかったのだ。


 裏切りだ。

 セルディは天を見上げた。

 母が見送った雲は、もう風にかき消されていた。水色の空しか見えない。

 涙が込み上げてきた。

 僕を救ってくれたのは、僕が、母に似ているから。エーデム族に似ているから。


 ――この人ならば、僕をわかってくれるかもしれない……なんて。


 伯父上の心を、どうして責めることができる? 僕が、勝手に心を許していただけなのに。

 涙を流せば、誰かに悟られる。空はまぶしすぎる。

 でも、ここでは馬で走ることすら出来ない。赤沙地海岸はないのだ。


 セルディは急いで自分の部屋に戻ると、鍵をかけた。窓も閉めた。

 そして短剣を取出した。

 ウーレンの王族たる者、常に武器を携えること……父の教えだった。

 短剣は、薄暗い部屋の中でキラリと輝く。まるで希望の星のように……。

 セルディは自分の手のひらを見つめた。

 色白の皮膚を通して、小さな血管が走っているのが見える。

 魅せられたように、セルディは短剣を手のひらに突きたてた。


 とたんに赤い血が吹き出した。

 手のひらいっぱいに血は広がる。


 この赤だ……。

 僕に足りないものは、この色だった。


 セルディは、髪を撫でた。髪に赤い血がついた。

 さらに流れる血を見て、セルディは微笑んだ。ウーレンの血だった。

 気が遠くなる……。すべてが……赤く染まる。

 血のぬくもりが、自分を抱きしめてくれるようだ。

 この時が一番気持ちいい……。

 この快感が、いつもセルディを楽にする。


 そう……あの時も……。


 図書館の出窓は、手を切るのにいい場所だった。

 つらいことが堪えられなくなると、あの場所で光にうもれて、自らを切る。

 そうすると、だんだん気持ちが遠のいて……心地よいだるさに身を任せられるのだ。

 そうすると、つらいことや悲しいことから逃れることが出来た。

 セルディの指先や手のひら、腕には、もう無数の傷があった。

 それは、母・フロルも気がつかないことだった。

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