第二章
馬車
馬車が動き出した時、放心状態だったフロルは振動で我に返り、馬車の窓から身を乗り出した。
衛兵がじたばた暴れるアルヴィを、ついに担ぎあげて連れて行こうとしている。
モアは、最後までこちらに向かって頭を下げていた。
朝靄に、アルヴィと衛兵たちの姿は消えた。
やがて、頭を下げたモアの姿も、朝靄の中に消えていった。
馬車はスピードを上げて、その場を走り去ったのである。
しかし、フロルの耳には、まだ母を求めて泣き叫んでいるアルヴィの声が聞こえていた。
「アルヴィーー!」
フロルも叫んだ。
緑の大きな瞳には、涙が止めどなくあふれて、風に流されていった。
木霊が響いた。
これは血のなせる運命なのだ。すでに、この運命を受けるしかない。
しかし、フロルはアルヴィの姿が見えなくなっても、窓から身を乗り出していた。
ジェスカヤの街が、はるか遠く、見えなくなるまで……。
十三年前、すべてを越えて、この赤い大地へと嫁いできた。愛する人のもとへと……。
そして今、すべてを失って、祖国に帰る。
十三年間の記憶が、走馬灯のように流れていった。馬車の外を流れる風景のように。
楽しいことも辛いことも、いつも二人で、そして四人で乗り越えてきた。
「ギルティ……」
フロルはそっとつぶやいた。
ジェスカヤが見えなくなると、フロルは窓をしめ、壁にもたれるようにして、顔をふせた。
斜め向いに座っている、兄の顔を見たくはなかった。
それとは対照的に、セリスは妹の辛そうな姿を、目をそらすことなく見つめていた。かける言葉は見つからなかった。
少女時代の時のように、自分を罵ってくれれば、まだどれだけ気が楽だっただろう?
心から愛し合う兄妹ではあったが、セリスとフロルは事あるごとに対立していた。 幼い頃から、兄の思いと妹の気持ちは、同じようでまったく違っていた。
そして、今回も……。
妹の身を守りたい一心の行為だったが、彼女はありがたいとは思っていない。むしろ、その逆であろう。
他人には、王族的優雅さを披露するセリスだが、実は愛する者に対しては不器用な男であった。妹をなんともすることが出来ず、馬車の中は、重たい空気が支配していた。
「先ほどはすまないことをした。気分でも悪くなったのか?」
ついにセリスは堪えきれなくなって、この事態を打開すべく、母の横でじっとしているセルディに言葉をかけた。
「……いいえ、大丈夫です……」
セルディは、青白い顔で答えた。馬車酔いしていた。
昨夜から食事も喉を通らず、眠れもせず、さらに辛い別れをしたばかり。
セルディは、ふっと溜息をついた。
「馬車を止めよ。しばしの間、休憩する」
セリスは従者に命令した。
赤く乾いた大地は、いつの間にか緑豊かな風景に移り変わっていた。
馬車は限界に近いスピードで、国境を越えたのである。
「エーデムの地は広い。ここから首都・イズーまでは、さらに丸一日かかる」
セリスの言葉に、セルディは距離感がつかめなかった。
ウーレンではわずかに点在するオアシス都市のみが持ち得る景色を、エーデムはこの広い領地いっぱいに持っている。
セルディは、深く息を吸った。
青空に、大きな鳥が舞っている。
エーデム王は、ムンク鳥という心を読むことができる鳥を間者として使うのだと、聞いたことがある。
この場所が安全か、追手は来ないのか、セリスは上空を舞う鳥たちと心話を交わして確認していた。
心話をしたことがないセルディは、不思議そうにセリスを見ていた。
「私を、恐れているのか?」
エーデム王が話しかけた。
じっと見ていたことに気がつかれて、セルディは顔を赤らめた。
「いいえ、父から上の者には、話しかけられてから口を開くよう、言われていましたゆえ」
セリスは目を細めた。
「恐れてなどおりません。私は……。伯父上は、私を刺すつもりがないことを、知っていましたから」
「なぜ?」
「伯父上は、きっと、そういうお方だからです」
セルディの言葉に、セリスは笑った。
「おまえは、なかなか賢い」
セリスは、見ぬかれていた事を知った。
フロルを呼び戻すための手段とはいえ、セリスには、ナイフを持つことさえおぞましかったのだ。
知る人は皆無に等しいことだが、少年の日に、セリスはナイフで人を殺めたことがある。
その時の感触が、セリスには堪えがたい。
無表情の顔とは裏腹に、心の内は手の震えとして、あらわれていた。
エーデムの民にとって、人殺しほど恐ろしいことはない。
セルディは、締め上げられて恐怖におののきながらも、冷静にセリスを観察していたのだ。
フロルは兄と顔を合わさず、ただ風を見ていた。
セルディは、そんな母を見ているのが辛かった。
セルディが怖かったのは、ナイフなどではなかった。
あの時、泣き叫んでいたアルヴィとは対照的に、セルディは声をあげなかった。
あげられなかったのである。
怖かった。
母が、アルヴィの方へと走っていってしまうような気持ちに襲われていた。
やはり、自分よりもアルヴィを選ぶのではないだろうか? という思いが断ち切れなかった。
その瞬間を見るくらいならば、ナイフが自分の首を切ってくれたほうがましだ、とさえ思った。
やがて、弟は見えなくなった。
セルディの心の中に、安堵の思いが広がっていった。
そして次の瞬間、突然苦いものがこみ上げて、胸が悪くなってきた。
母の叫びを、弟の悲鳴を……快く聞いている自分の姿にぞっとしたのだ。
「俺は、いつもセルディの力になるよ。いつも味方だよ」
弟の明るく素朴な笑顔が、頭を横切った。
アルヴィの言葉を思い出して、セルディは馬車に酔ったのだ。
馬車は再び出発した。
「モア殿は、うまく事を運んだらしい。アルヴィラントのことは、安心しなさい」
セリスは、一言も口を開かない妹に、ムンク鳥からの情報を伝えた。
少しは心を開いてくれるかとも思ったが、兄の期待は見事に裏切られた。
「……裏切り者……!」
フロルは、声にもならない声でつぶやいたが、有角の兄の耳には、はっきりと聞きとれた。
モアに対してか、自分に対してか……。
おそらくは、二人に対してだろう……。セリスは黙した。
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