花
フロルは、子供たちにエーデムゆかりの名前をつけた。
第一皇子には、エーデムの名君と誉れの高いセルディ・エーデムの名を、第二皇子には、父・アル・セルディンから名前をとった。
父は非業の死を遂げてはいるが、王以上に民人の心をつかんだ尊敬すべき人物である。
名は体をあらわすというが、アルヴィを見ていると、もしかしたら父もこのような人物だったのでは? と、フロルは思う。
「アルヴィラント様、今までいったいどこへ行っていましたの! 今日は、歴史のお勉強をするはずでしたでしょ?」
自慢の赤馬・サラマンドで遠乗りから帰ってきたところを、中年女教師が捕まえた。
「あぁ、そうだった……。でも、朝にしか咲かない白カトラの花を、先生にプレゼントしたかったんだ。ほら!」
白い可憐な花が、怒りで真っ赤になった教師の前に投げ出される。
「んまっ! ままぁ……」
珍しい美しい花に、中年女の顔は、ますます赤くなった。
先生の顔がうっとりになった隙に、アルヴィは馬に合図を送り、笑いながら走り去った。
アルヴィがみんなに愛されているのは、ウーレン・レッドの髪のせいだけではないらしい。
何をやらかしても、なぜか憎めないところがある。
あのリナ姫さえも、ぶうぶう文句を言ってきたが、鞭で叩かれたことすら許したのだ。
「まぁ……ね。素直に『ごめんなさい』と謝ってきたから、許しますわ。ギルトラントの子にしては、いい子よね」
アルヴィは確かに父親似ではあるが、ギルティのようなひねた感じはない。
だいたい幸せいっぱいで育ってきているから、ひねる必要もない。
その上、エーデム族が持っているどこか人を和ませる能力を、彼は生まれながらに持っていた。
「困った教え子だとは思いますわ。でも、憎めないのです……」
女教師はさらに付け足した。
「ですから、あの子が歴史に疎くても、私を責めないでくださいまし……」
教師の報告に、フロルもなぜか笑ってしまう。
一緒に王妃とお茶を楽しんでいた宰相・モアも微笑んだ。
しかし、それは一瞬のことで、彼はふっと下を向いた。
宰相は、王・ギルトラントの義父でもある。
ウーレン人らしからぬ穏健派という表向きだが、影ではあらゆる根回しをし、つねに政権に影響を与えてきた男である。
先王・ジェスカのエーデム制圧の戦いでも、彼はその能力を発揮した。
その能力の犠牲になった者、アル・セルディンが、王妃・フロルの父親とは、因縁深い。
モアは、セルディン公の誠実で純粋な人柄と、慈愛に満ちた微笑を思い出した。
アルヴィは、確かにアル・セルディンに似ているところがある。
でも、その優しさゆえに、セルディン公は裏切られ、死を選んだ。
アルヴィは、本当に人を疑うことを知らない。セルディン公と同じ運命が待っていなければよいが……。
モアは、時々不安になった。
両手にいっぱい摘んだ白カトラを、アルヴィはセルディにあげるつもりだった。
この花を手にした兄は、どんな表情をするだろう? よろこんでくれるかな?
馬のことは、俺は考えなしだった。ついうれしくて、あんなによろこんでしまった。
リナ姫の言葉を聞くまで、セルディの辛い気持ちがわからなかったなんて……。
乗馬の腕は、確かに自分が上だ。でもそれ以外は、兄・セルディに負けている。
勉強はまったくかなわないし、剣も三度に一度勝てるかどうかだ。
ガサツなアルヴィに比べ、セルディはいつも身なりを整え、礼儀正しく振舞う。
美しい銀の巻毛は、ウーレンの男が皆そうするように束ねられ、赤い飾り紐で飾られている。
本を読んでいる時の横顔など見ていると、溜息が出てしまうほど美しいと、アルヴィは思う。
なぜ、こんなに聡明で美しい兄を、ウーレンの民は遠巻きにするのだろう?
せめて、自分を愛する三分の一でも、兄を愛してくれたなら……。
アルヴィは、白カトラの花束に目を落した。甘い香りがした。
王宮図書館の重たい扉を開くと、アルヴィは花を抱えたまま、中に入った。
思ったとおり、出窓のところにハシゴがかかっている。
逆光でよく見えないが、窓辺に人影らしきものが見える。
セルディに違いない。
彼は、いつもあそこで本を読んでいる。
アルヴィは、驚かそうとそっとハシゴを昇った。花が一輪、ハシゴを昇っている間に落ちたが、アルヴィは気にしなかった。
セルディは本を読んではいなかった。
なぜか、指先をじっと見ている。
緑の瞳の中に、どこか恍惚とした色が見てとれる。
アルヴィは不思議に思い、声をかけずにセルディの手元を見た。
「セルディ!」
思わず叫んだアルヴィの声に、セルディは、はっと我にかえった。
手首から流れ出た血が指先を伝わり、ポタポタとたれて、本まで汚していた。
アルヴィは持っていた花を投げ捨てて、慌てて駈け寄ると、血だらけのセルディの手をとった。
手首に、かなり深い傷があって、そこから血がどくどくとわいている。
アルヴィは、いきなり手を口まで運ぶと、血をすすった。
「つっ……」
傷口がしみたのか、セルディが声を上げた。
ハンカチを取出して傷口を縛り、口が自由になると、アルヴィは怒鳴った。
「何やってるんだよ! バカ! 死ぬつもりだったのか!」
申し訳なさそうに、でも、どこか冷めた目で、セルディは答えた。
「まさか……ちょっと、紙で手を切ったんだ」
「紙でって、そんな……!」
そんな深さではないだろう! と、叫びかけて、アルヴィは言葉を引っ込めた。
血を見てうれしそうにさえ見えた兄の顔に、たぶん嘘をついている兄の心に、ひどく傷ついた。
アルヴィは涙を止めることが出来なかった。
「なぜ? なぜ泣く? けがをしたのは僕のほうだよ」
セルディが優しく声をかける。
「本当に、どうしたんだ? 泣かないで、アルヴィ」
セルディが優しく抱きしめてくれる。その腕の中で、アルヴィは泣き続けた。
なぜって? なぜ、君は人前で泣けない?
俺の前でさえ泣いてくれない?
だから、俺は泣けてくるんだ。
セルディは出窓からの光を受けて、アルヴィを慰めるようにウーレン・レッドの髪を撫で続けていた。
かなりの時間がたった。
「血は……とまった?」
泣いている場合ではなかったことに気がついて、アルヴィは跳ね起きた。
「とまったよ」
慈愛に満ちたエーデムらしい微笑で、セルディが答える。
この笑顔に、翻弄されてしまう……。アルヴィも微笑む。
でも、悲しい。とても悲しい。
ハシゴを降りかけて、アルヴィはギョッとした。
白カトラの花が、ハシゴの下で飛び散っている。
投げ出されたのは、花? それともセルディ?
兄の銀髪が投げ出されて、ハシゴの下で散っている姿を想像して、アルヴィは戦慄した。
「ダメ! セルディは今、血が足りないんだ。ハシゴを降りるなんてダメだ!」
「おいおい……。僕はずっとここにいなければいけないのか?」
セルディはさすがに困った顔をした。
「大丈夫! 俺が背負って降りるから」
「!!! おい! 冗談だろ? そのほうが百倍怖いよ!」
恐れおののくセルディをよそに、アルヴィは言葉を実行した。
「平気だよ! 俺、結構力あるし……。俺は、いつもセルディの力になるよ。いつも味方だよ」
背中にすがるセルディの指先がきゅっと握り締められたのは、怖かったからなのか、弟の言葉がうれしかったからなのか?
アルヴィは後者だと信じている。
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