2.悲劇の王
少しだけ昔の話をしよう。
昔と言っても、今からほんの少しだけ前の話だけど。
――君には、見てほしいんだ。
今までの俺がどのような人間で、どのような境遇で生きていたのか。
俺が見ていた『空』の話をクローズアップでお送りしちゃうぞ。
それは、俺たちがまだ不完全であった頃の話だ。
ちんぽと一つになっていなかった頃の、ぼやけた視界で見ていた世界。
俺が見てきたちっぽけな世界の、どうでもいい小話だ。
――かつての俺、
高校生活が始まり、入学式からひと月も経っていない、ある四月の晴れた午後。
天井や床の汚れが嫌でも目につく、古びた校舎の教室。
窓の外には、隣に立てられた高層ビル、そしてほの白い曇り空。
机同士をくっつけた即席の食卓がまわりに点在する中、俺の席だけが大海に浮かんだちっぽけな孤島みたいに、はぐれ者だった。
俺は母さんが作ってくれた四角い弁当を箸でつまみつつ、まだ名前も覚えていないクラスメイト達の喧噪を、ただ黙って眺めていた。
「おい木藤ォ!」
とつぜん、背中を平手で叩かれて、俺の体は物音を聞きつけた小動物みたいにびくりと跳ねた。
喉にご飯が詰まりそうになって、あわてて水を飲んでから振り返った。
後ろに立っていたのは、逆立てた金髪が、不遜な彼の性格によく似合う、
「えっ?」
高校生活がスタートし、俺が毎日ただ無碍に時間を浪費していた間に、新入生たちは皆それぞれが気の合うもの同士で派閥を形成していた。
しかし、人付き合いが苦手な俺は、このクラス内で構成された、どのグループにも入りそびれてしまった感があった。
山下くんは、そんな俺に率先して話しかけてくれる、数少ないクラスメイトの一人だ。
「木藤、おめ、昼間っからなにトンでんだよ」
「えっ、俺……?」
「そーだよ、さっきから呼んでんだろ。お前いつもぼーっとしてんな」
「あ、あはは……ごめん」
謝ると、山下くんは横に立って腰を曲げ、座って弁当を食べていた俺の肩に腕をまわした。
「あのさー木藤クン、悪りぃんだけどー」
ぐい、と引き寄せるその一方的な力に、何故か俺の体は委縮する。
山下くんは体格が良くて、力も強い。
腕にもびっしりと筋肉がついていて、端的に言ってとても強そうだった。
「うん……なに……」
「ちょっとさー、炭酸買ってきてくんねー?」
山下くんは俺によく話しかけてくれる。
だけどそれは、何かの頼み事である場合が多かったんだ。
そして今回も、話の内容はおつかいのお願いみたいだ。
学校内に自動販売機はいくつかあるが、炭酸の飲み物は学食にしか売っていない。
俺たちの教室は西側の校舎にあり、学食があるのは真逆の東側だ。
ここから歩いていくと、往復に10分以上かかってしまい、昼食を取る時間が少なくなってしまう。
「うん。べつにいいけど」
だけど俺は、そんな数少ない友人――いや、クラスメイトのお願いを聞いてあげられないほど、器の小さい男だと思われたくない。
ていうか、頼ってもらえるっていうのは、嬉しいことだと思うんだ。
「マジでぇー。木藤クン優しー。んじゃほら、金」
山下くんは握りこんでいたこぶしを開いて、机の上に乱雑に小銭を落とした。
「これで三つな。足んなかったらたてかえといて」
じゃらじゃらと音を立てて置かれた小銭は、十円玉や一円玉ばっかりで、銀色の硬貨はたったの一枚しか無かった。
ぱっと見で数えるのが大変だったけど、どう見ても3つも買える金額に足りていない。
「あの、」
「なんだよ」
俺がそれについて指摘しようと口を開くと、肩におかれていた腕にぐいっと力をこめられ、鋭い瞳で見下ろされた。
「いや……」
それに少しだけ驚いてしまった俺は、咄嗟に続く言葉が出てこなかった。
実を言うと、この前おつかいを頼まれた時も、全然金額が足りていなかったし、その前も、その前の前も足りていなかった。
足りない分は、毎回俺がたてかえているけれど、未だにそのお金を返してくれたことは一度も無い。
それについて問いただしたいけど、催促しているみたいで、嫌な奴だと思われるのが怖くて、何も聞けなかった。
「んじゃ、頼んだぞ。心優しい木藤クン」
そう言いながら山下くんは俺の肩をばんばん叩いた。
俺の横で、彼の長い髪が揺れ、ちらりと覗いた耳たぶに、校則違反のアクセサリーが光っていた。
「うん……分かった……」
俺は乱れた襟を正しながら立ち上がった。
すでに山下くんは振り向きもせず、教室の後ろに固まっていた友人たちの方へ歩き始めていた。
「おーい和真ァ、はやくしろよ!」
「っせーな! いま木藤クンとシンコー深めてたんだよ」
「ははっ、うける!」
山下くんとその友達は大声でゲラゲラと笑っていた。
何がうけるんだろう。
俺が学食へ向かおうと教室のドアを開けたとき、クラスの女子たちが、こちらを見てくすくすと笑っていた。
廊下の窓から見える空も、変わらずくすんだ曇り空だった。
---
食堂は、上級生の先輩たちで溢れかえっていた。
『開放的な空間でゆとりのある食事が気軽に楽しめます』
なんて、学校案内のパンフレットには書いてあったはずだけど、実際は上級生が「自主的に」管理する全席指定制だ。
聞いたところによれば、学年・所属部・その他有力者とのコネクション等さまざまな条件をクリアした学生でないと、この賑やかな社交場には参加できないらしい。
なんだか中世の貴族が集う紹介制のサロンみたいだ。
だったら、俺がここで昼食を取る事は三年間無いだろうと、入口脇の自販機の前に立ちながら思っていた。
「三つめっと……」
足りない硬貨を自分の財布から補いつつ、俺は自販機の前に三回ほどひざまづいた。
そして三つの炭酸ジュースを両手に抱えてから、次に学食隅にある購買部へ立ち寄った。
小さな弁当だけではもの足りないから、ジュースのついでに惣菜パンを買っておこうと思ったからだ。
「すいません、えっと……」
しかし昼休み半ばを過ぎていたせいか、ほとんどのパンは売り切れて選択の余地は残っていなかった。
「野菜サンド……ください」
苦手なキュウリの青臭い風味を思うと、ちょっと気が滅入った。
けど、何も無いよりはマシかな。
それから俺は、胸の前で組んだ腕の上に、炭酸ジュース三つと、パン一つを載せて食堂を出た。
売れない演歌歌手みたいな顔をした購買のおばちゃんは、俺の溢れるような手荷物を見ても、袋をくれなかった。
けど、その後来たイケメンの上級生の先輩に、袋どころか、人気商品のプリンまでサービスしていた。
……だから何だって話だけど。
「あ」
泰然とした薄暗い廊下を少し歩いたところで、ふと気づいた。
……自分の飲み物を買い忘れた。
苦手なキュウリを円滑に飲み下すために、烏龍茶か何かが欲しいところだ。
そんなわけで、俺は来た道を引き返した。
戻ってきた自販機の前には、気の強そうな女子生徒が立っていた。
俺と同じ学年を示す、ペールグリーンのジャージ。
ミルクティーとレモンティーのあいだを、細くて綺麗な指が逡巡している。
俺はそのうしろに並んだ。
少し茶色っぽいサイドテールがふさふさと揺れていて、俺はそれをぼーっと眺めて待った。
たっぷり悩んでいた彼女も、やがては決断し、落ちてきたミルクティーと釣銭を回収して自販機から離れた。
代わって俺は一歩前へ進んだ。
だけどお金を入れようとしたとき、耳のうしろでちゃりんとかすかな音が鳴った。
振り向くと、サイドテールの彼女が、財布に小銭を入れ損ねて、床にばら撒いていた。
俺は持っていたパンとジュースを自販機の脇へ置き、腰を折り曲げて一緒にそれを拾った。
「はい」
拾い上げた何枚かを手渡すと、彼女は頭をついっと前に突き出し、言葉もなく小走りで去っていった。
慌てんぼうな子供みたいなその歩き方をしばし見送ってから、自販機に向き直った。
すると、後から来た先輩の女子が俺に舌打ちとともに一瞥を送りながら、硬貨投入口に手を伸ばしていた。
「あ、すいません……」
俺は頭を前ではなく下へ傾けて、パンとジュースはそのまま置いて、彼女の後ろへ並びなおした。
彼女はお金を入れた後、悠々と長考してから烏龍茶を選んだ。
女子が去った後、ふたたび自販機の前に立った。
『売切』。
呆気に取られる暇もなく、声と体の大きな三年生たちがのしのしやってきて、俺の後ろに順番待ちの列を作った。
テメーラマジ殺スゾとか叫ぶような冗談を飛ばしあっている。
せっかちな八つの目が、俺の背中に苛立っている気がした。
俺は慌てて何も考えられずに、烏龍茶の横のボタンを押した。
体を自販機の横へ逃がしながら、取り出し口を開けて、落ちてきた紫色のパックを掴む。
出てきたのは、野菜サンドと相性の悪そうな、甘ったるいおしるこジュースだった。
その場を三年生に譲った俺は、脇に置いておいた荷物を拾おうとした。
けど、目の前を、制服の男子生徒の黒い足がよぎる、と思った瞬間、
「あっ……」
上履きのゴムがあっけなく、置いておいた炭酸ジュースを弾き飛ばしていた。
気付かなかったのか、気付かなかったフリをしたのか、その男子生徒はこちらを一顧だにせずに、そのまますたすたと歩き去っていった。
飛んで行った炭酸ジュースを追って、屈んだまま横切る俺を、通りかかった二年生のカップルが、水族館の爬虫類でも眺めるような目で見下ろしていた。
ペットボトルを拾うと、炭酸が泡立ち、今にも吹き出しそうだった。
「また並ばなきゃ……」
俺は再び窓から見える空を眺めた。
暗雲が太陽を覆い隠し、今にも泣きだしそうな空だった。
---
「……おそくね?」
教室に戻った時、俺を出迎えてくれたのは、不機嫌な山下くんだった。
壁にかけられた時計を顎で指し示し、俺が抱えた、一つ余分に買ってしまった四つの炭酸ジュースを憎々しげに眺めていた。
「俺ら今まで飲み物無しで飯食ってたんだけど」
「……ごめん」
謝りながら、俺は手に持っていた炭酸ジュースを山下くんに手渡した。
時計を見ると、俺が昼食を摂る時間は、ほとんど残っていなかった。
自分の席に置かれた半分以上残った弁当を見て、少しでも残りを食べようと席につこうとすると、
「おい、和真ァ! てめえが木藤に頼んだつってたから待ってたんだかんな! もう昼休み終わっちまうじゃねーかよ!」
山下くんの友達の田村くんが、教室に響く大声で彼を責め始めた。
「だってよ」
「え……?」
山下くんが俺の肩を強い力で掴んだ。
その力で、責められてるのは彼ではなく俺だと気づいた。
田村くんは、遠回しに俺を糾弾していたんだ。
「え、じゃねーよ。どうしてくれんだ? これ」
「えっと……あの……」
正面から睨まれ、心臓がびくりと跳ねた。
敵意がこちらに向いたのがはっきりと分かった。
動揺する。
動揺するのは俺が最も苦手な事だ。
動揺すると心拍数が上がり、呼吸が浅くなってストレスに繋がる。
俺は、慌ててしまうと、頭が真っ白になって何も考えられなくなるんだ。
「和真ァ! はやくそれ持ってこいよ!」
田村くんが再び大声で叫んだ。
やめてくれ。
俺は大きな声も苦手なんだ。
大声で叫ばれると、身が委縮して動かなくなるんだ。
「うっぜえな」
舌打ちと共にそう言うと、山下くんは掴んでいた俺の肩を離してくれた。
けど、その後すぐに今度は俺の腕をつかんだ。
「お前から田村に謝れよ」
「え……?」
心臓がずきずきと痛んだ。
「ッハッ……ヒュッ……ハァ」
体に取り込まれる酸素が、どんどん少なく、短いスパンになっていく。
「なんだお前……きもっ」
「ごめっ……ヒュッ……ハッ」
過呼吸気味となった俺を見て、山下くんは気味悪がっていた。
謝らなきゃ。
俺が悪いんだ。
俺が、謝らなきゃならない事をしたんだ。
何をしたのか分からないけど、皆がそう言うなら俺が悪いんだ。
山下くんに引っ張られて、俺は田村くんの前に立たされた。
田村くんは、山下くんよりも大きく、強そうなんだ。
だから俺は、俺は、
「ハッ……ヒュゥ……ハァヒュッ」
「こいつが自分のパンなんて買ってっから遅くなったらしい」
山下くんが田村くんに炭酸ジュースを渡しながら言った。
「ふぅん、で?」
田村くんは、制服のワイシャツを捲り、腕の筋肉を見せつけながら俺を見下ろした。
「ホラ、木藤クン、何か言う事あるんじゃないの?」
山下くんと田村くんの両方から睨まれて、俺の頭は真っ白になった。
脳に酸素が回らない。
膝がガクガクと震え、右目の上の筋肉がピクピクと痙攣し始めた。
何でこんなに辛い思いをしなきゃいけないんだろう。
「なにこいつ、なんか震えてね?」
田村くんが言った。
俺は震えているのか。
なんでだろう。
分からない。
「ッハヒュ……ヒュ……あ、の……」
何か言わなきゃ。
二人の怖い男に見下ろされて、そう思った。
それだけしか、考えられなかった。
だから空白の思考で、思ったことがそのまま口に出てしまった。
「あの……お金、足りなかったよ……」
よりにもよって、こんなタイミングで。
「は?」
瞬間、二人の瞳にドス黒い悪意のようなものが見えた気がした。
「テメ、なにそれ意味わかんねえわ」
山下くんが、俺に一歩詰め寄った。
胸倉に手が伸びてきた。
「あの……ッハァ、ヒュゥ……」
すぐに謝ろうと思ったけど、うまく呼吸ができなくなっていたせいで、言葉が出なかった。
呼吸が難しい。
どうやるんだっけ。
「きめえんだよてめえ……殴るわ」
「ヒュ……ヒュゥ……」
胸倉を掴まれて、拳を構えられた。
暴力。
それは彼らが最も得意とする解決手段の一つなのだろう。
すぐに殴らずに、拳を上に構えたのは俺への最後の警告なのか。
威嚇されても、俺は過呼吸で何もできないのに。
殴られるのは痛いし、怖いけど、それで許されるのなら、と思った。
俺が悪いのだから仕方ない。
「はぁ……もういいわ、和真、こいつなんかきめえからほっとけよ」
震える俺を見て、田村くんは言った。
そう言いながら、手渡された炭酸ジュースを開けようとしていた。
俺は、ほっとけ、という言葉に少しだけ安堵した。
だけど、その安堵も束の間、俺は気付いてしまった。
――田村くんが開けようとしている炭酸ジュースが、異様に膨れ上がっていたことに。
ブシュアア!
気付いた時には、既に手遅れだった。
ペットボトルの中で、密閉されていた二酸化炭素が、蓋を開けることで一気に解放され、勢いよく噴き出した。
そしてそれは液体と共に、田村くんの顔面へと大量に運ばれ、ぶちまけた。
「…………」
俺にとってそれは、さながら油を撒いた床に、火をつけたマッチ棒が落ちていくような光景だった。
――ポタリ、と彼の前髪から、糖を含んだ茶色の液体が滴り落ちた。
それを見て、誰かがくすりと笑った。
その小さな笑いが、彼の耳に届いた瞬間、
「……ぶっ殺すぞてめえ!!」
俺は髪を強い力で引っ張られていた。
とても痛くて、とても怖かった。
血液が氷結したのかと思うほど、身が委縮して動かなかった。
恐怖、狼狽、動揺、あらゆる負の感情が一気に脳みそを駆け回って、俺は呼吸ができなくなっていた。
「がっ……あっ」
俺はどうやら、蹴られて転がった方の炭酸ジュースを渡してしまったらしい。
謝らなきゃ。
謝って許してくれるかな。
鈍った思考でそんなことを考えていた。
そして髪を掴まれた俺は、そのまま頭を壁に叩きつけられた。
ゴンと大きな音を立てて、俺は地面に倒れた。
薄れていく意識の中で女子生徒の悲鳴が、聞こえた気がした。
血が出ているのかな。
一瞬そう思ったけど、どうやらそれも違ったらしい。
――田村くんは、倒れた俺のズボンとパンツをずり下ろして、クラスのみんなに見せたんだ。
「ははっ! 木藤くん意外とたくましいもん持ってんじゃん!」
ぼやけた視界と、鈍った思考の中で、頭にあったのはただ一つ、恥ずかしいという感情だけだった。
――暗闇の中で、何かに囁かれたような気がした。
『***** *******
***** ***』
復活の呪文。
そんな単語が聞こえた。
けど、そんな呪文に意味は無かった。
当たり前だ。
ここは現実なのだから。
それからのことは、よく覚えていない。
気付いた時には自宅のベッドで寝ていた。
次の日、担任の教師が電話で言っていた。
俺は転んだ拍子に頭を打って気絶していたらしい。
田村くんと山下くんという親切な生徒が保健室まで運んでくれたらしい。
ただの脳震盪だと判断されて、母親が自宅へ運んだらしい。
最後に一言。
「木藤、あまり周りに迷惑をかけるんじゃない」
ごめんなさい。
最後にようやく謝ることが出来た。
生きていくのは辛いことなんだと思った。
理不尽を叩きつけられて、周囲から嘲笑されて、暴力を振るわれて。
俺は、
――死のうと思った。
すぐに自殺しようと思った。
死ぬことに恐怖は無かった。
『遺書』を書いた。
内容は両親への謝罪のみ。
ごめんなさい。
生まれてきて、ごめんなさい。
遺書を書き終えた俺は、鈍った思考のまま眠りについた。
このまま永眠できればいいのに。
そう思った。
だけど、最後に見た空が、灰色の曇り空だったことだけが、心残りだった。
だから、明日晴れたら死のう。
そう決意して眠りについた。
――そして、その日の晩のことである
『栄えある王の凱旋だ!!!!』
――俺の脳内をちんぽが支配した。
こうして俺の脳内をちんぽが支配した 池田あきふみ @akihumiikeda
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