76.優しく育ってるきみ



 それは保育園のお迎えのときだった。


「あ、ちいちゃんのママ来たよ」

「あ!」


 嬉しそうに笑う娘のために、先生がクラスのドアを開けてくれた。おもちゃを持ったまま走ってきた娘の足元で、男の子が手を出した。ビタン!と大きな音をたてて転んだ娘は、自分の足に伸びた手の主を辿って、怒りながら起き上がった。


「こら!○○くんだめでしょ!ちいちゃんとっても痛かったよ」


 両手の拳に力が入っているのがわかった。娘は顔を真っ赤にしながら「やだっ!」とその子に向かって怒った。


「ちいちゃん、ちゃんとイヤって言えて偉いね、嫌なことは嫌って言おうね」


 先生に優しく言われている娘に、悪者にされたと思った男の子は爪を立て娘の足を引っ掻いた。これにはさすがの娘も少し怯んで、目元に涙を浮かべながら唇を必死に噛み締めていた。彼が再び先生に怒られることになるのは言うまでもない。もちろん、さっきよりもきつめにだ。


「ちゃんとごめんねって言おうね」

「…ごめんね」


 その言葉にもまともに返せぬほど、唇は噛み締められていて、涙腺は更に弱くなっているようだった。


 その後、担任の先生に元々話さなくてはならなかった用件を済ませ、娘をたくさん甘えさせてあげようと自宅ではいつもに増して構うよう心がけた。


「─…ってことがあったんだ」

「そうなんだ…ちょっと許せねぇなぁ」


 と少し真顔になった夫はごはんを食べながら少し考えているようだった。そして「でも」と話始めた。


「そういうとき、相手に手を出さなかったのはほんとうに偉いね。ちゃんと言葉で解決しようとして」


 …彼は90センチほどの娘と比べても10センチほど背が高く恐らくクラスでも一番大きい。遅生まれで誕生日も一年近く違う彼に、普通にケンカしたら勝てないと思ったのでは?なんて、田舎で男の子とばかり遊んでいたわたしは思ったけれど、お姉さんが遊び相手でいわゆる大都会で幼少気を過ごした夫の考え方に、少し気持ちが楽になった。


 子供同士のケンカは子供同士で解決してほしい。こういう小さな怪我やおもちゃの取り合いくらいなら尚更、仲直りの仕方やお互いの好き嫌いを自分の力で感じてほしい。そう思うわたしにとって「手を出さなくてえらい」という言葉はとても大事なことである。


 ─…嫌な気持ちがあったとき、それを痛みや意地悪な行為で相手に伝えると、返ってきてしまう。


 そう伝えていたこのイヤイヤ期が少し実を結んでいる気もした。


 まだ2歳の娘は、これからたくさんの経験をすると思う。嫌な思いもたくさんするだろうけれど、こんな風にぐっとこらえたとき、わたしたちは優しく受け止めてあげよう。


 …そう話した5分後には危ないことをしようとする娘を叱っていたわたしだった。

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わたしと娘とときどき自衛官 わたなべひとひら @eigou

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