池のほとりの影

 まだそれがはっきりと思い浮かばないうちに、エリザベスの身体に変化が表れた。身体の奥がむずむずとするのだ。こそばゆく、落ち着かない。エリザベスは何気なく自分の腕を見て、ぎょっとした。びっしりと毛が生えていたのだ。獣のような毛。茶と白の、ちょうど、目の前にいるネズミのような――。


 エリザベスは手をあげて頬に触れた。手もまた異様なものに変わっていた。小さく毛はないが、尖った爪が伸びている。これもまたネズミの手のようだった。そして頬は……これもまた毛むくじゃらだ。頬を触り、自分の顔が妙に前に突き出てることを確認し、鼻を撫で、そして、髭に触れた。どうやら、自分はいつの間にやら、ネズミに変身してしまったようだ、とエリザベスは呆気にとられながら思った。


「おお、なんと素晴らしい姿よ!」


 ネズミがエリザベスを見て喜んでいる。「素晴らしい」のかどうか、エリザベスにはよくわからない。とりあえず、ネズミは喜んでいる。


「その髭、その尻尾! そなたの身体もようやく美しくなった……いや、前から美しかったでござるよ?」ネズミは慌てて言った。そしてまじまじとエリザベスの髭を見た。「うむ、なかなかに見事な髭よ。……しかし拙者の髭のほうが……あ、いや、気を悪くされるでないぞ。そなたより拙者のほうが年上故、髭も立派になりやすいというだけのこと」


 エリザベスは特に気を悪くはしていなかった。今はただ、アリシアを助けに行きたい一心だった。エリザベスはネズミに言った。


「行きましょう、悪魔のところへ」


 二人は――二匹は駆けだした。エリザベスは、前足を地面につけた途端、四本足で走るということがどういうことなのか、わかった。自然に身体がその動作へ移っていた。四つの足が地面を掴み、そして蹴り、エリザベスの身体を前に前にと進ませる。足だけではなく、屈伸を繰り返す胴体もまた、ただ走るという一点だけに集中していた。夜の冷たい外気が頬に当たる。髭が空気の抵抗を受けて後ろに流れる。こんなに早く走ったことはないとエリザベスは思った。ううん、そうじゃない。今まで早く走ろうとしたことがなかったんだわ。


 夜空はぐいぐいと流れ、二匹は森の池へとたどりついた。そこで二匹は足を止めた。池のほとりに何かがいる。大きな影のようなものが。巨大な人型をしているような影だった。二つの丸い光が見える。それがまるで目のようだ。


 影は揺れていた。手と思しきものが伸び、それが何かを放り投げては受け止めていた。ボールで遊ぶ子どものようだ。けれどもそれはボールではなかった。ガラス瓶だ。コルクの蓋がされていて、中には何か、光る靄のような物が見える。


 エリザベスはじっとガラス瓶を見た。中の光る物……それは時折人間の形を作った。鮮やかな金髪が見える。ブルーのドレス。それから……青い目。青い目がこちらを見ている。瓶越しに、苦痛の表情で、助けを求めるように。


 エリザベスは影に突進した。影は悪魔で、瓶の中にいるのはアリシアだと思ったからだった。エリザベスは、影に思い切り食いついた。影が、低いうめき声をあげる。もっと、もっと、噛みついてやらなきゃ。エリザベスは考えた。もしもっと大きな生き物ならば。そうよ、ネズミになれるのなら、他の生き物にだってなれるかもしれない。例えばトラに。


 そう思うやいなや、またもエリザベスは落ち着かない気持ちになった。そして自分の身体がむくむくと膨れ上がるのを感じた。そうだ、自分はトラだ。恐るべきトラ。前足は太く、逞しくなり、黒い縞模様が見えた。そう、私はトラになったのだ。いっそ残忍ともいえる気持ちで、エリザベスはさらに影に噛り付いた。影が身をよじる。逃げ出そうする影を、エリザベスは組み敷いた。影はエリザベスの下で、弱々しくもがき、そして次第に小さくなっていった。


 ガラス瓶が地面に転がった。その拍子に、蓋が外れ、中の靄が流れ出した。靄は次第に人間の形になる。それは確かにアリシアだった。美しいアリシアがそこにいて、そして青い目がエリザベスを見つめた。


 その目にはもはや苦痛はなかった。エリザベスを認めると、目はゆっくりと、微笑みの形になったのだった。




――――




 次にエリザベスが見たのは、自分の家の天井だった。頭が混乱した。確か、自分は夜の森にいたはず。池のほとりに。ネズミと一緒にアリシアを助けに行ったのだ。そして私もネズミの姿になっていた。いや――トラだったかしら。いえその前に、そもそも私は何故アリシアを助けに――。


「気づいたのね!」


 突然、母親の声が耳に飛び込んできた。その声は驚きと嬉しさに満ちている。


「まあ、大丈夫!? 本当にあなたは、全く、どうして心配をかけて……」


 喜びと、そして混乱している母の声だ。エリザベスは母を見た。自分が家のベッドに寝かされて、その側に母がいるのが分かった。一体、何があったのだろう。


 母の隣には、姉のグラディスがいた。グラディスもほっとしている表情だが、やや手厳しくエリザベスに言った。


「エリザベス! ほんとあなたって、馬鹿ね! だから私は言ったじゃない! あなたはいつか、池に落ちるって!」


 池に落ちる? 横になったまま、エリザベスは考えた。池、とは、森にある池のことだろうか。私はそこに落ちたのだろうか。いつ、どうして? 母がエリザベスに、語り掛ける。


「気分は悪くない? 痛いところはない? 大丈夫、もうお医者さまが来ますからね」

「――アリシアは……」


 エリザベスはなんとか声を出した。掠れていて弱々しく、まるで自分の声じゃないようだ。母は少し驚いた。


「アリシアは大丈夫ですよ。彼女に助けてもらったのを覚えているの?」


 助けてもらった? アリシアに? ますますわけがわからなくなっていると、部屋の扉が開いた。そこにはアーネストがいた。「医者が――」言いかけたアーネストはエリザベスを見て笑顔になった。「エリザベス、大丈夫か?」


 アーネストの隣には、アリシアがいた。死んではいない――死んでいなければ怪我もしておらず、元気なアリシアが、そこに立っていたのだった。

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