魔法の書

 日向にいると暑かった。そこで木陰へとまた戻る。ひんやりとした空気に包まれた。エリザベスは腰を下ろして、ぼんやりと考え事を始めた。スポーツ……そう、あの女は、アリシアは、スポーツが得意と言ってったけ。確かにそんな感じ。でも別に羨ましくなんてないわ。


 アリシアのことを考えるのは不愉快だ。エリザベスは別のことを考えようとした。けれども思考がどうしてもそこに戻ってしまう。辺りはとても静かだった。エリザベスはそのまましばらくぼんやりとしていた。


 どのくらい経ったのか、気持ちも落ち着き、退屈になってきたので、また再び池へと近寄った。その水面を見下ろす。きらきらとして綺麗だ。水は冷たそう。エリザベスは考えた。もし泳げたら――この池で、ではないけど、でももし私がもっとすいすいと泳げたなら――きっと気持ちがいい……。


 そんなことを考えていると、背後から物音が聞こえた。エリザベスははっとして振り返った。するとそこには、アリシアがいた。




――――




 アリシアは笑って言った。


「こんなところにいたの。ここ、素敵なところね」


 エリザベスは再び不機嫌になった。むかむかとした気持ちが込み上げてくる。この場所にこの人がやってくるなんて。私のお気に入りの場所だったのに。ずかずかと入り込まれるなんて。


 アリシアは一人だった。エリザベスは小さな声で聞いた。


「お兄様は……」

「アーネスト? 屋敷にいるわ。私はこの辺をあれこれ散策してみたくて。森を歩いていたら、ちょうどここにたどり着いたの」


 今すぐにあなたも屋敷に帰ってほしい、とエリザベスは思った。けれどもそれは口に出せなかった。エリザベスが黙っていると、アリシアが近づき、さらに微笑みかけた。


「私、まだあなたとあんまりお話してなかったわね」

「ええ」


 話したいことなどないですしね、とエリザベスは思った。そんなエリザベスの気持ちに気付かぬのか、アリシアは微笑んだままだ。


「アーネストからいろいろ話を聞いて……私、あなたに会うのを楽しみにしていたの」


 エリザベスは黙っている。アリシアはさらに続けた。


「アーネストから、家族のことお屋敷のことたくさん聞いたわ。そして実際に来てみれば予想以上に素敵なところだった」

「よかったですね」


 エリザベスは冷ややかに言った。いらいらする。このまま話し続けられては堪らない。何とかして黙らせたくて言葉を探した。


「今まで苦労なさったんですってね」


 エリザベスは言った。アリシアは少し意外そうな顔をし、そしてたちまち笑顔に戻った。


「そうね。私の家はこんなに裕福ではなかったし、辛いこともあったといえばあったわね」

「よかったですね。お兄様と親しくなれて」


 アリシアの表情に少し困惑の色が混じった。どういう意味なのだろう、と思っているのだろう。エリザベスはとげとげしく、そしてきっぱりと言い放った。


「頑張ってお兄様を捕まえたかいがありましたね。これからは苦労なんてせず、優雅な生活が楽しめるんですよ」


 私はずいぶん意地の悪いことを言っている、とエリザベスは思った。でも黙る気持ちにはなれなかった。それにこれは事実なんだから、どうして黙る必要があろう。戸惑うアリシアを見てさらに言いつのった。


「大した努力だと思います。外見に磨きをかけて、男の人を手玉に取り、お金と安楽な暮らしを手に入れる……私には無理。――では私は一足先に家に戻りますので」


 アリシアは何も言わない。エリザベスはくるりと背を向けた。そして颯爽と去っていく……つもりだった。けれども足がもつれ、無様に転んでしまった。


「大丈夫!?」


 アリシアが驚く声がする。痛さと恥ずかしさが込み上げてきた。あの女にこんな姿を見せてしまうなんて。アリシアはエリザベスの側に膝をつき、白いハンカチを差し出した。


「怪我はない?」


 心配そうな声だ。エリザベスはかっとなって、無性に腹立たしくなって、ハンカチを払いのけた。


「ほっといて!」


 ハンカチは宙を舞い、そして池に落ちる。さすがにエリザベスも狼狽えた。ハンカチを拾わなくては……いやでも、いい。こんなのそのままにしておけばいい。


 立ち上がったエリザベスは痛みをこらえて、その場から走り去った。アリシアを後に残して。そして、池に浮かぶ白いハンカチのことを頭から追い払おうと努力して。




――――




 一刻も早く、あの女を我が家から追い払わなくては。屋敷にたどり着く頃には、エリザベスの気持ちはただその一点に集中していた。図書室へと向かう。そこに、力になってくれる本があるはずだ。


 エリザベスの亡き祖父は変わり者だった。オカルトや魔術の類が好きで、それに関する本を集めていた。祖父の蔵書が確か図書室に残っていたはず。エリザベスは本棚に目を走らせ、そして一冊の本を引き出した。


 様々な魔法が載っている本だった。古くて重い。エリザベスはそれを二階の自室へ持って行った。部屋の中でゆっくりと中身を確かめる。


 一つの項目が目に止まった。使い魔を呼び出し、使役させる方法。魔法なんて……馬鹿げたことだと思う。そんなの本当には信じていない。けれども……あの女を追い払えるなら……なんだってやってみたい。


 使い魔を呼び出すにはいくつかの品物が必要だった。トカゲの尾だの蜘蛛の目玉だの。謎の鉱物や聞いたこともない植物。とりあえず、手に入りそうなものだけを用意して、エリザベスは庭に出た。


 庭の片隅で、それらを――いくつかのハーブと髪の毛などを――燃やした。燃やす間に、短く呪文を唱える。そして手早く火を消した。これでよし。でも……なんだか馬鹿なことをしてる。私はずいぶん愚かなことをしてるんじゃないかしら。


 立ち上がり、辺りを見回した。何の変哲もない、夏の午後だ。辺りは眩しく、平穏そのもの……そこには魔法などではなくて、現実があった。本当に私は何をやっているのだろう。


 少し冷静になったのかもしれない。とりあえず、エリザベスは幾分すっきりとして屋敷に戻ったのだった。

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