私と小さな相棒

原ねずみ

1. 兄の恋人

兄の恋人

 エリザベスはとても不機嫌だった。季節は夏で、しかも楽しい夏休みだというのに不機嫌だった。いつもは寄宿学校で生活しているのだが、長期休暇になったので実家に帰ってきたのだ。


 ちょうど昼食の時間で食堂には家族全員が集まっていた。それからもう一人。このもう一人がエリザベスの不機嫌の原因だった。食事は和やかに執り行われている。真っ白のテーブルクロス。夏の眩い日の光。笑顔を交わしあう食卓の人びと。エリザベスはむっつりと黙って、サラダを口に運んだ。


 エリザベスは13歳になるやせっぽちの少女だった。背はそんなに低くないが、手足は小枝のように細い。もうちょっと太ったほうがいい、と姉のグラディスは言う。そんなグラディスは女性的な丸みのある身体つきをしている。エリザベスとは違うわけだが、エリザベス自身としてはグラディスのスタイルを羨ましいとは思わない。確かに自分は胸のぺちゃんこではあるが……それでいいのだ。まだ13歳なのだし。それに自分が大きな胸になるなんて、ぞっとする。


 エリザベスの家族は6人だ。両親、それから兄が二人と姉が一人。上の兄はアーネストといい、エリザベス自慢の兄だった。頭が良く、快活で、運動もでき、おまけに顔も良い。下の兄はトーマスというが、こちらはさほど自慢でもない。いつも女の子のお尻ばかり追いかけている、情けない兄なのだ。


 姉のグラディスも似たようなものだった。お洒落と恋愛のことしか頭にない。この二人と比べると、アーネストはずいぶん違っている。ずっと優れているし、ずっと立派だ。それなのに、それなのに……。エリザベスはちらりとテーブルの向こうを見た。美しい女性が座っている。まだ20歳ほどの、若い女性だ。


 鮮やかな金髪に、濃い青い目。そしてワンピースもはっきりとしたブルーだ。仕立ては最先端のもの、顔も隙のないメイクに覆われている。爪も綺麗だ。慎重に磨き上げられ、そしてカラフルに塗られた爪。その爪が手の動きに合わせてひらひらと視界に入る。


 彼女は今、この場の主役だった。父も母も、トーマスもグラディスも、そしてアーネストまでものが彼女に注目している。アーネストが注目しているのは当然ともいえる。彼女は――アーネストの恋人なのだ。


 自慢の兄が恋人を連れてくると聞いた時、エリザベスはいささかショックだった。しかし兄ももう21なのだ。恋人くらいできるであろう。それは受け入れなければならない……とエリザベスは思った。けれども連れてきた恋人を見て、エリザベスは呆気に取られた。美しい、は美しいが、想像していたのとは違う。想像していたのは、もっと清楚で控え目な女性だった。こんなけばけばしい女ではない。


 けばけばしい女は――とても楽しそうだった。まるで満足した猫みたい、とエリザベスは思った。ゴロゴロ喉を鳴らしている。そりゃそうよね、皆の視線を独り占めだもの。トーマスお兄様は美人にすっかり心を奪われているし、グラディスお姉様も彼女のファッションに夢中。でも私にはわからない。あんな派手なもの、どこが良いのか……。


 彼女は――名前をアリシアといった――洋品店の店員をしているらしい。実家はあまり裕福ではないそうだ。だからお兄様を捕まえたんだわ、とエリザベスは思った。私の家はお金持ちだから。あの女はお金が欲しくて、自分の外見を武器にして、兄を手に入れたのだ。お兄様もお兄様ではないか。どうしてあんな女に――やすやすと引っかかってしまったんだろう! 私のお兄様、頭の良い慎重なお兄様、そんな人間だと思わなかったのに……。


 食事は続く。エリザベスはあまり物を食べたい気持ちではなかった。けれどもこの場を抜けるのは失礼になるだろう。アリシアはよく喋るほうだ。仕事のことを、愉快に話している。トーマスが茶々を入れ、アリシアが目をくりくりさせてそれに巧みに答えた。食卓がどっと笑いに湧く。けれどもエリザベスは――笑う気になれなかった。




――――




 食事が終わり、エリザベスは外に出た。広い庭をぶらぶらと散歩する。帽子を被ってきたが、陽射しがひりひりと熱い。エリザベスの心は浮かなかった。


 せっかくの楽しい夏休みなのに。アーネストお兄様といろんなことをする予定だったのに。学校の話もたくさん聞いて欲しかった。図書室で面白い本を見つけたのだ。エリザベスは本が好きだ。アーネストもまた。でもあのアリシア……あの人、本を読むのかしら。


 アリシアは何日か泊っていくそうだが、さすがに夏中はいないらしい。エリザベスはほっとした。どうせなら今日にでも帰ってほしいところだが……そんなことを考えながら歩いていると、ふと、人の声が耳に入ってきた。


 顔を上げると、向こうからアーネストとアリシアが歩いてくるのが見えた。エリザベスは何故か緊張した。そして、近くの植え込みの後ろにそっと隠れる。気配を殺して、二人の様子を伺った。二人は楽しそうに談笑し、エリザベスとの距離が少しずつ縮まっていく。


「――でも……私、おしゃべりじゃなかったかしら」


 アリシアの声が聞こえた。続いて、アーネストの声。


「そんなことないよ。みんな君の話に夢中になってた」

「そうなの? だったらいいんだけど。――私、本当は緊張しているのよ。こんな豪華なところ、初めてで……」

「そうは見えないな」


 からかうようにアーネストが笑った。アリシアは子どもっぽく抗議の声をあげた。


「まあ、それ、どういうこと?」

「いや、君はいつも、どこにいても君だからね。堂々としていて、自信に満ちていて……」

「それ、褒めてるの?」

「そうだよ」


 エリザベスはそっと首を伸ばして二人の様子を見た。アーネストがアリシアの髪にそっと触れる。アリシアが甘えるように身体を寄せる。耐えきれなくなって、エリザベスはその場から逃げ出した。


 本当に――楽しい夏休みのはずだったのに! どうしてこんなことになってしまったんだろう。




――――




 逃げ出したエリザベスはそのまま家を出、そして近所の森へと向かった。森には池がある。深い池で危険なので、子どもたちは近づかないように言われている。けれどもエリザベスはそこへ向かった。


 好きな場所だったのだ。人があまり来ず、心が落ち着く。木々が重なり、やや薄暗い森を抜けると、ぱっと視界が広がった。日光を反射して、穏やかな池がその中心にある。


 エリザベスは池に近寄った。あなたはどんくさいから、いつか池に落っこちるわよ、と姉に言われている。確かにどんくさい。運動は好きではないし、得意でもない。姉のグラディスは言う。もうちょっと外に出て身体を動かしたほうがいいと。外に出てみんなとスポーツを楽しんで、もっと明るくなって……。でも余計なお世話よとエリザベスは思うのだった。足が遅くても泳げなくても、特に困っていないのだから、このままでいい。

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