第209頁目 一つの命?

『コトッ。』


 コブラが俺の傍に器を運んできた。そこには山の如く積まれた果実。……俺のリクエストによる物だ。


「……ありがとう。」


 アレから数日、俺は自室に籠もっている。何もする気が起きない。ムステタにはそういう周期があり、偶然今そうなってしまっているとだけ説明して納得させた。マレフィムは俺がこうなった原因を知っているはずだが、何も掘り下げて来ない。相変わらずだなと思う。


 部屋には微かな陽光が差し込む様になっている。それでも部屋は薄暗い。赤土と石で飾られた壁と橙色の茸傘の斑床まだらゆかにコブラの白さは眩しいくらい目立つ。彼女は何も言わず、音は全てそれらが吸い込む。外から染み込んで来る人々の喧騒よりも自分の心音の方が大きく聞こえた。


「ご飯は食べなね。」


 ミィの忠告に返事もせず俺は指示通り果実を口に放り込んだ。


 ……わかってる。これだって人かもしれないんだ。果汁果肉皮膚。断末魔が聞こえないだけ。それでも肉とは別物に感じた。少しだけ前世にいた動物愛護団体達の気持ちがわかった気がする。


 なんとなくコブラを見つめた。目を閉じ卵を抱えている人とベスの間とも言える奴隷。思考するという行動を認められた上で”人”と呼ばれる生き物に及ばないと決めつけられた存在。そして、大枠で語るならきっと奴隷はベス側に立っている。


 このままでは自然死した物だけを食べるという果ての道を歩きそうだ。でも、それ以外にどうしたら命を奪わずに済む? どうしたら奪う気のなかった命に償える?


 何度考えたかもわからない問答で頭を痺れさせ食事を続けた。だが、ふと気付いてしまう。指先の違和感に。


 ゆっくり指をどけると果肉に触れていた部分に小虫が埋まっていた。ヒクヒクと触覚を痙攣させ息も絶え絶えというのがわかる。俺は今、一つの命を奪いかけたのだ。人かもしれない命を。かつてマレフィムから妖精族に近い種族にはもっと小さいのもいると聞いた事がある。そんな世界でこの小虫が俺よりも賢い生物であるという可能性は決して否定出来ないんだ。


 思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。今までも俺が踏み潰した草や虫が人である可能性があるというのは頭の隅で気になっていた。しかし、その感覚が今世で最も強く感じている。動悸がまた激しくなってきた。この前は食事中に倒れたらしいが、また俺は独り情けなく意識を落とすというのか。でも、自分の尊厳を肯定するより自分如きが命を奪う事が辛い。怖い。


 息が上手く出来ない。苦しい。俺が生きていくには狭すぎる。この世界は――。


 部屋の闇が濃くなり俺はそこへ飛び込んでいく。


『トスッ。』


 身体に細やかな抵抗感があった。俺は瞼を開ける闇を切り拓く。茸傘の床に落ちた果実と……灰色の尻尾に支えられた俺の身体。


「ありがとう。」


 声の出なかった俺の代わりにお礼を言ったのはミィだった。


「クロロ、大丈夫?」

「……あ、あぁ。」

「何も出来ない。励ますどころか、君を支える事も。」

「……。」


 俺は何も応えず自分の足で再び立つ。


「私は人を傷付けて落ち込むクロロに共感出来ない。でも、クロロには元気でいて欲しい。少なくとも、今の君は私が望む姿じゃないよ。」

「……。」

「でも、共感が出来ない私だからこそ、君を傷付けてしまうかもしれない言葉を言ってしまうのが怖い。」

「……それと同じだよ。俺も怖い。傷付けてしまうのは傷付けられるのと同じだからな。」


 再び黙るミィ。


 ……今日もこんな一言二言を交わして終わるのか。何、やってんだろうな。俺。


 俺がしたい事は母を見返す事だった。だが、それよりももっと確たる願いがある。



 ――死にたくない。



 それがどれだけエゴの塊なのかを俺は知る事になった。でも否定は出来ない。だって”じゃあ死ぬ?”と聞かれても俺は肯定出来ないからだ。理屈で殺人は駄目だと思ったし、本能からも忌避感を感じている。でも、その更に根本にある部分が叫んでいるんだ。死にたくない、と。


 命を奪う事と命を奪われる事は切っても切り離せない。


『コツッ。』


 心が痛いなんてのたまいながら今日まで何回食事を口にした?


『コツコツッ。』


 俺の血肉になったであろう食材が人であるか確認したか? それでも――。


『コココッ。』


 考えていた事を全て吹き飛ばす様な勢いで眼前に広がった灰色の鱗。


「うおっ!? な……コブラ?」


 コブラが今迄見たことも無い様子で自分の頭を振ったり尾で床を叩いたりして何かを伝えようとしてる。


「な、何だ?」

「クロロ! 卵!」

「たま……えっ!?」


 ミィの一言で全てを察した俺はコブラに卵を見せて貰う。


『ココッ……。』


 確実に中から音がしている。


「もうすぐ孵化するって事か……?」


 そう呟くと目が合ったコブラが興奮した様子で尻尾の先を床に優しく叩きつけた。肯定って事だ。


「ハハッ……。」


 ……あ。無意識に笑みが漏れていた。さっきまであんなに頭がグチャグチャだったのに、今は少しだけではあるものの頭がスッキリしている気がする。


 そう言えば前世の創作物にも殺人に悩む主人公達がいた。皆、どんな答えを出していたっけ。


 ひとつ、傷付けた以上に沢山の人を救った。

 ひとつ、可能な限り傷付けなかった。

 ひとつ、何かの為に傷付ける事を肯定した。

 ひとつ、命だけは奪わなかった。

 ひとつ、自身の命を絶った。


 守るか、捨てるか……なのか。


 その二つに絞ってしまった場合、俺はきっと”捨てる”を選べない。


『ピシッ。』


 卵の殻にひびが入った。思考が全て持って行かれる。


「おぉ……!」


 自分でも驚くくらいの大声が出る。しかし、コブラもフスッフスッとわかりやすく鼻息が荒くなっているのだ。俺達にはもう周りが見えていなかった。


「どうしたのですか!?」


 そう焦った声で部屋に飛び込んできたのはマレフィムだった。


「ま、マレフィム見ろ! 卵が孵化しそうなんだ!!」

「クロロさん……ってえぇ!? 卵がですか!?」

「あ、あぁ!」


 マレフィムの反応で自分が人を傷付ける事より卵が大事だという扱いをしたという事実に一瞬引っ掛かりを覚えるがそれも次の瞬間には霞んでしまった。


『パシッ。』


 内側の薄い膜を突き破り、小さく欠けた卵の殻の欠片を退かした黒い嘴。


「お、おぉ……! こ、これって殻を割ってもいいって事か?」

「止めましょう。どういった悪影響があるかわかりません。」

「そうか。そうだよな。うん。確かにそうだ。」


 人間だったらへその緒とかあるし……無理矢理手伝って殺してしまうのは恐ろしい。何か出来る事はないだろうか。落ち着かない。小さな穴を開けた嘴はまた卵の中に戻ってしまった。一部だけなら殻を砕いても……いや、欠片が肌を傷付ける可能性だってある。あぁ…………。


「ど、どうすればいいかな?」

「そうですね。ただ見守る以外にも出来る事はあるはずです。まずは、ムステタさん達を呼びましょうか。……しかし、その、大丈夫ですか?」


 マレフィムが遠慮がちに尋ねる。配慮は有り難いが、今はそれどころじゃない。俺はすぐにこう返した。


「命がかかってるんだ! 大丈夫もクソもねえ!」

「わかりました……! では呼んできます。」

「俺も――。」

「クロロさんはそこで卵の様子を見ていて下さい!」

「わ、わかった。」


 確かに離れない方がいいか。コブラだけってのもな。マレフィムは気付けばもういなくなっている。


 俺は特に意味もなく腹に力を込めた。


「なんだか、クロロが生まれた時を思い出すなぁ。」

「卵なのが同じってだけだろ。」

「そうだけど、やっぱりこういうのってなんだか感慨深くなるよ。」


 それはまぁ……わかる。ミィもそんな事思うんだな。ってそれは失礼か。


 そこからは、激闘だった。間を開け休憩を挟んでは内側からコツコツと穿つ音。それを俺は手伝ってやれない。孵化って確か凄く体力を使うから途中で力尽きる雛も多いって前世のどっかで聞いた。コイツは今、死なない為に……じゃないか。生きる為に必死なんだ。


「入るわよ!」


 部屋に飛び込んできたのはムステタだった。その後ろにはカースィの姿も見える。


「カースィはお湯をお願い!」

「うん、任せて。」

「コブラ、転卵はしっかりしたのね?」


 バシッと尾の先で肯定するコブラ。


「ならいいわ。これから数時間、決して卵を揺らさないで。」


 真剣な声でそういうムステタ。でも、数時間?


「そんなに孵化って長いのか?」

「当然よ! 竜人種は違うの? 嘴獣人種は何時間も掛かるのが普通よ。」

「そうか……この殻って割るのを手伝っちゃ駄目なのかよ?」

「駄目よ。そうすると呪いで死んでしまうわ。」

「呪いって?」

「呪いは呪いよ。生き残る子供もいるって聞くけれど、死ぬ場合が多いから誰もやらないわね。」

「そ、そうか。」

「馬鹿馬鹿しいって思うかも知れないけれど本当なのよ。きっとフマナ様の与えた試練なのでしょうね。」


 ……軽率に殻を割らなくてよかった。これでもし、俺が雛を殺していたら……。


「ムステタ、もう少しで沸く!」

「私も手伝うわ!」

「ありがとう! 助かるよ!」

「何するんだ?」

「孵化は湿度が大事なの。だからお湯を沸かすのよ。」

「えっと、俺に何か出来る事はないか?」

「ソーゴはアメリと卵の様子を見ていて。コブラは話せないんだから。」

「わ、わかった。」


 人間の出産ってどれくらい掛かるんだろうか。わかっても当てにならないよな……。


 頑張れ……!

 

 ……なんて、さっき一つの命を奪いかけた俺が何を思うのか。あの果実に引っ付いてた虫について悩んだ後も俺は足元を確認せず地面を歩いている。そんな奴がこれから生まれる新しい命を祝福していいんだろうか。そんな数々の思いも全て雛の嘴の音に砕かれていく。


 その動きは漏れなく網膜に張り付く。静止と運動を繰り返すソレは俺が踏みつけるだけで全てを終える事が出来るのだろう。しかし、出来る気がしない。鼓膜をくすぐる様な微かな音。時折力尽きてしまったのかと見紛う休止。この小さく弱々しい尽力に圧倒されてしまう。大迫力だ。目が離せない。


 コブラも俺もマレフィムも、誰も声を出さなかった。荒い鼻息で命を吹き飛ばなさい様に見つめる。……固唾を呑む音が大きい。そして、部屋に沸騰した水を入れた鍋を置いたムステタとカースィも観客に加わる。


 それから数時間。僅かずつ変化していく卵の姿に対して激動の感情が俺の心を満たしていた。それをなんて言葉で表せるのかはわからない。ただ……。


『ぴ……ぴぃ……!』



 その声が聞こえた時、俺は間違いなく嗚咽を漏らし泣いていたんだ。

 


 

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