白銀竜の森

　痛い。身体が重い、熱い。なんだ……これ。何も見えない。

　手と足の感覚に違和感がある。少し身体を動かそう。

　ぴちゃ……ぐちゃ……ぱりっ……。

　その音を頼りに、少しでも現状を把握するよう試みる。『ぴちゃ』というのは水音だ。しかし、その音は身体からもする。だから『ぐちゃ』という重々しい水音がするのだろう。理由は明白だろうな。血、それ以外ありえない。校舎の屋上から落ちたのだ。見えない、いや、見たくもないが……体中血だらけだろう。

　それにしてもぱりってなんだ？　……骨なのか？　手足を動かすとまた『ぱりっ』と音がする。

　ん？　

　手に当たるこれはなんだろう。これが『ぱりっ』という音の正体みたいだ。かなり硬い。ちょっと強めに叩こう。

　バリッ。

　割れた。暗闇が割れた。今自分が叩いた事によって暗闇が割れた。

　少し悟る。

　自分は死んだんだ。今更だが、身体の痛みも引いてきている。こんな非日常な体験おかしい。急にこんな体験をしても信じないだろうけど、まず屋上から落ちるという経験をした後でこれだ。神でもなければこんな演出出来ないだろう。　

　そんな事を考えていると、どうしようもない程の悔しさが込み上げてくる。

　……なんでだよ。なんでなんだよ。俺はまだやりたい事があったんだ。やりたい事がないとか思ってたけど違う。こういう事じゃないだろ。今から何する？　ちょっと待って考えるから。じゃあ死ねっておかしいだろ。　　　　

　嫌だよ。母さんと父さんに会いたい。カズやショウ達とまだ馬鹿やってたい。彼女だってまだ作ってないんだよ。

「うぁ……うああぁ…………。」

　こらえきれない。まだ確証も得てない推測が絶望的過ぎて、何年ぶりかもわからない号泣をした。嗚咽を漏らしながらも、心に収まり切らない衝動は身体を自然と動かす。衝動的に手足をじたばたとさせる俺の挙動は、最早16歳のそれではない。そして、その荒ぶる手足は暗闇の壁に何度も当たり光のヒビを拡げていく。絶望の象徴にすら感じる闇が壊れるならば清々する、と俺は痛みを伴いながら闇雲に手足を動かした。途端にバリリッと一際大きな音を立て暗闇は果てる。そして唯の光だったヒビは色付き、世界を構築する。

「あああああぁぁぁ………………ぁ？」

　その光は慟哭の声を止めた。

　射し込む太陽の光、青い空と白い雲、聳え立つ苔の生えた断崖絶壁、ここはとんでもなく大きな穴の中だ。それはわかる。日が当たる土壁の上の方には所々鮮やかな赤い花が咲いている。何より目に付くのは大穴の中心だ。そこには朽ちた大樹があり、上には一枚の葉も無いものの、樹の枝か何かで作られた鳥の巣の様な物がある。俺の知らない世界の傍観から我に返り、ふと視線を大樹から下ろすと、戦慄する光景が広がっていた。骨と腐肉で埋め尽くされた底。そう、つまり地面が見えていない屍の床だ。落ちている骨は大きい物が殆んどで、小骨でも箸くらいの長さがある。じわりと恐怖が徐々に滲み出てきた。とりあえず周りを歩いて見ようと、心を奮い立たせ立ち上がろうとする。が、おかしい、明らかに違和感がある。

　うまく立ち上がれないのだ。

　だが、そんな違和感はこの世界の違和感に比べたら大した物ではない。物ではないが、うまく立てない。どうしても尻もちをついてしまう。何度か試している内にイライラして、つい膝を叩くとガリッという音と共に予想外の痛みが走った。咄嗟に膝を見ると……。

　――もう、何度目だろう。

　人は驚き過ぎるというのに天井はあるんだろうか。過ぎているのだから天井は無いのか？　とりあえず尻もちをついたまま思案する。考えの整理が必要らしい。

　今、俺は何処ともわからない大穴の底にいる。ここは骨と腐った肉ばかりで安全な場所とは思えない。とりあえず探索をしようとしたが、上手く歩けない。それどころかなんだこれ。身体が灰色だ。語弊があるな。身体が斑な淡い灰色の斑点がある白い鱗で覆われている。そして、手も足もおよそ人のモノとは思えない。指は長く、鱗で覆われ、鋭い爪も生えている。それに、心なしか首も長い。極めつけは俺が目を覚ました暗闇が、今は卵の殻として隣に鎮座している事と背中に生えるもう一対の腕、翼だ。

　まず……導き出せる回答として可能性が高いのは輪廻転生したと言う事。しかし、思い当たる動物がいない。爬虫類になるとは思わなかったが…………。顔を触る。立派な顎だ。ワニのような面長な顔。手足は鋭い爪に鱗のようなものがある。ここまで考えるとワニだ。にしてもなんだろう。どこの動物園でもこんなに首が長く、翼のあるワニは見たことがない。鱗がついてて飛べるのか？　重くない？　う～ん……と頭を抱えるとまた一つ発見があった。コブだ。後頭部にコブがある。ワニにこんなコブはなかった、はず、いや、それより翼だろ。

　考えるのが面倒になってきた。色々な衝撃のせいで恐怖や危機感が薄れてきてしまう。

　俺が自覚していないだけで身体は震え、目には涙が滲んでいた。俺が自覚していないだけで。

　そこに突然の咆哮が響く。人は予想だにしていない爆音を聞くと心の平穏が損なわれる。それは驚愕と恐怖によるものだ。それがクラッカー、そうでなくとも雷までなら俺は吃驚するまでに留まったと思う。しかし、今聞こえた音は耳に覚えのない咆哮。それもおそらく猛獣の声だ。日本で高校生をやっていただけの俺からすれば、経験のしようがない恐怖だった。死に際で感じた”死んでしまうかもしれない”という恐怖とは質の違う、”殺されるかもしれない”という恐怖。幼い頃家族と行った動物園でライオンの咆哮を聞いても感じていたのは憧れだった。今、知りもしない場所で聞く得体の知れない咆哮は恐怖を大きく助長させた。

　俺は咄嗟に比較的大きな卵の殻を被る。声の主が何かはわからないが、その時の俺からすれば無害な生き物とは到底思えなかった。身を潜めていると大きな翼が羽ばたく音が近づいてくる。そして、先程聞こえた咆哮がより、大きな声でけたたましく大穴の中に響いた。

　恐怖により俺が身を竦めた所で、今度は違う声がする。オォッオォッオォッと聞こえるその声は高く、先程の咆哮の主とは違う生き物の声だ。安直に考えれば咆哮の主の子供の声だろう。そこで、身を竦めていた俺は何を思ったか、殻から顔を出してそれ等の声の主を探る。

　いた。

　大樹の上にある鳥の巣に降り立つ咆哮の主。プラスチックの様に淀みない光沢のある白い鱗に覆われ、後頭部からは2本の大きく立派な角を生やしている。最大まで広げると大穴の半分くらいにはなりそうな大きな翼を折って、宝石みたいな鋭い牙や爪を赤く染めている大きな化け物。

　雛に餌をとってきたんだろうな。しかし、これでもう間違いはない。アレはドラゴンで、ココはドラゴンの巣で、オレもドラゴンなんだろう。……なんかもうどうでもよくなってきた。

　するとまた親ドラゴンが吠え、飛び立つ。思わずたじろいだが、何故かその声に懐かしさを覚えた。そして、その親ドラゴンに向かって子供も鳴いている。チラチラ見える2匹の子ドラゴンも親に似て鱗が白い。ここで疑問が芽生える。

　アレ？　俺の身体はあんな柄じゃ無いんだけどな。あのドラゴンは俺の親じゃないのか？　……俺の親は誰なんだ？　卵はここにあるしなぁ。……なんか色々驚き過ぎてお腹空いた。

　……餌どうすんの？

　恐らく大樹の上の巣は自分の巣ではない。それにこの大樹は身体が人間であったとしても登れないだろう。上からは、雛が先程親ドラゴンを持ってきたであろう獲物を食べる咀嚼音がする。

　いいなぁ。

　すると、上から骨が幾つか落ちてくる。骨にはまだ中落ちがついていて食べられそうだ。勿体無い、が、グロテスクだ。食べるには勇気がいる。そこで食べるかどうか倦（あぐ）ねているとガッチャンと重量感のある音が響いてそちらに振り向く。頭だ。水牛みたいな動物の生首が落ちて来たのだ。

「あぇー……おぇおえおお…………？」

　決して驚きの連続で呂律が回らないわけではない。喋れないのだ。ここに来て発覚した悲しき事実。俺としては呑気にも「えーこれ食べるの？」と自分を鼓舞するつもりで軽口を叩いたつもりであったのだが、人間との身体構造の違いは決して骨格に留まらないという現実を突きつけられる結果となってしまった。

「うおぁお。あえぅあいぇあんぐ！！」

（嘘だろ。喋る相手なん……）

　舌を噛んで呻く。情けなくて流れる涙に気付きそうになる。肉片と骨の中で蹲（うずくま）る俺だったが、現実がわかりやすく目の前にあるのはある意味幸運と言えた。俺は死んだばかりだ。だからこそ死ぬ事への恐怖感がまだ強く残っていた。生きたいんじゃない。死にたくない。今はそれでいいんだろう。話は簡単だ。食えば死なない。食わなきゃ死ぬ。勉強しないと生きられないみたいな複雑な話じゃないんだ。じゃあ……食べなきゃ……。

　もう動くはずもない生首と目が合う。ぬらりと輝く赤黒い血が滴っていた。

　嫌だ。お前みたいになりたくない。

　この世界に未練はないけど、これからやれそうな事に未練はある。お前はまだ無理だけどコイツなら……。

　少しづつ動かすことに慣れてきた手で、最初に落ちてきた肉のこびり付いている骨を手に取る。ふと匂いを嗅いでみるが存外悪くない。食欲を刺激してくる芳ばしさだ。倫理観とかそういうの、もういいよな？　人間じゃないし。

　試しに舐めてみる。

　…………あぁ。もう駄目だ。これは、美味しい。血から得た臭気は臭いではなく、香りと言ってもいいモノだった。

　その刺激で煽られた食欲を止める理性は、俺にもう、残っていない。カチャン、カシャンと落ちてくる骨を一つ一つ拾い上げては鋭い歯で肉を刮ぎとっていく。

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　俺が我に返ったのは眠りから覚めた後だった。いつ寝たんだろうか。辺りは暗いが、星と月の明かりが自分と周りの骨を照らしてくれている。目の前にあるのはまだ新鮮味の残る頭蓋骨。加速した食欲は生首を前にしても止まる事はなかった。薄い理性の中で自嘲する。『俺はもう人間じゃなくなったんだな。』と。昼に付けた膝の爪痕も、もう消えている。

　俺はよく知らない。ドラゴンがどういう動物なのかを。食欲旺盛で治癒力が高いのは現時点での推測できる事だ。今後どうなっていくのだろうか。事には大体理由がある。転生した理由は……ヒントが無さ過ぎて考えるだけ無駄だ。そこではなく、もっと身近なところから考えよう。

　牙と爪は獲物を狩る為にあるから、研いだりしたほうがいいのだろうかとか……。いや、まずは歩き方だな。四足でも二足でも、難なく移動出来るようにならなければ。翼も多分移動の為にある。空を飛ぶ練習もしよう。空を飛ぶのは人類の夢だしな、なんて……。それと、今日の親ドラゴンを見た限りコブの位置には角が生えるらしい。アレも何かに使えるんだろうか……縄張り争いとかかな……。後は………………尻尾か。尻尾って何に使うんだ。重心を取る以外では攻撃くらいしか浮かばない。追々考えよう。なんとかなる……なんとかなる…………。

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　平和ボケした日本での生活が、彼の楽観的な思想を育成したのであるが、それがこの世界では酷く稀有な考えで有ることを彼はまだ知らない。尚も目の下が濡れていたことには気付いていたのに。