第6話
どれくらい立ち話をしていただろう。帰宅途中で見つけた時計によれば、既に時刻は二十時半を過ぎていた。
暑さだけじゃない、低血糖のせいで変に冷たい汗までもが全身から噴き出ている。体がかじかむように末端から冷えていた。
ビル伝えに手を這わせながら足を引きずるようにしてようやく家に辿り着くと、開けっ放しになっている大戸口に手をついた。
山田を無我夢中で追いかけた時、鍵も閉めずに開け放ったままの状態。誰も侵入していないことを祈る。
戸枠に腕をついて一度ぐったりと項垂れる。
よかった。気を失わずに辿り着けたことが涙が込み上げてくるほど嬉しい。
さすがに泣きはしないが、それくらい怖かったし、同時に安堵していた。
でも、もう一歩でも動いたら崩れ落ちてしまいそうで、何か助けになるものはないだろうかと店内に目を向けた。
霞む目をどうにか復活させようと頭を振る。
けれど、無常にも何か助けになるようなものはなく、その上、店内は鬱蒼として真っ暗だった。加えて酷く静謐に満ちている。ゴクリと喉が鳴った。
無意識に緊張が走る。
山田から聞いた話が思いのほか衝撃的なものだったから、その恐怖がまだ尾を引いているのかもしれない。
店内は冷房を点けていかなかったから外と同じくらい蒸していた。
戸を閉めると、目を凝らして本棚を頼りにゆっくり進む。
気を抜けば膝から一気に落ちかねない。冷蔵庫までなんとか持ちこたえる必要がある。
店内は本当に暗くて何も見えなかった。怖いくらいに嫌な静けさが由汰の耳をざわつかせる。電気を点けたいが奥のレジカウンターまで行かないと無い。
ほんの数メートルの距離が至極遠く感じた。気後れしそうになるくらい。
山田から聞いた事件についての詳細は身の毛もよだつような惨劇だった。
公園で発見された堀北蒼流の遺体は全身の血が全て抜かれて丁寧にエンバーミングされていたと言う。エンバーミングとは死体防腐処理のことで、土葬が主流の欧米では、わりと葬儀前に行われている通常処理だが、火葬するのが主流の日本ではその方法はあまり親しくない。エンバーマー資格保持者も海外に比べたら断然に少ないのが日本だ。
性的暴行があったかなどは、エンバーミングされた後では分からないとう言う。
ただ、先日発見された堀北蒼流の身体からは、抵抗した傷跡らしきものは一つも見かっておらず、睡眠薬投与なども疑われているが、それらもやはり、エンバーミングされた後では判断不可能だと言う。死亡推定時刻も不明のままだ。
堀北蒼流のエンバーミングされた遺体には、中世ヨーロッパの貴族のような衣装が着せられていた。
山田が見せてくれた現場写真には、奇妙な衣装を身にまとった堀北蒼流が、どこかの木の根に凭れて座らされている状態で撮影されていた。
これが、遺体なのか、と不気味に思うほど綺麗なものだった。
ただ、そうただ――。
由汰は、恐怖で粟立つ体を本棚に預けて思わず両腕を抱き込んだ。
写真なんて見るんじゃなかった。とずっと悔やんでいる。
堀北蒼流の変わり果てた顔。身なりは綺麗に着飾られていたものの、長谷川たちから見せられた若々しく生気に満ちた少年の面影はすっかり失われていた。
あんなものを携帯端末に保存して持ち歩いている山田の神経がしれない。
画質が荒くて鮮明ではなかったけど、一目でわかった。それが死人の顔なのだと。
思わず口許を覆って、直視できずすぐに写真から目を逸らしたが、それでも、脳裏に映りこんでしまった画像は消せない。
遺体は不気味なほど綺麗に見えたが、ただ、目が、くり抜かれて無かった――。
真っ黒く開いて落ち窪んだ眼窩と、顎の筋肉を全て削がれたようにぽっかり開かれた無気力な口。
それはまるで、沈みかける太陽と突如血の色に染まった真っ赤な空が、フィヨルドの自然を劈く終わりのない叫びのように感じて、不安に耳を塞ぐムンクの叫びのそれに似ていた。
興味本位で聞くような話じゃなかった。
それに、他人事なんてどこかで思っていたが、慎重に考えてみれば、その残虐な手口で彼を殺した犯人は、ともすれば由汰の知らぬうちにこの店に何度も出入りしていた可能性があると言うのに。
そう思うと、とっさだったとは言え、大戸口を開け放ったまま飛び出して行ってしまったことを激しく後悔する。
店内で、レジカウンターで、犯人と知らず、顔を合わせたかもしれない、声をかわしたかもしれない。
怪しい客なんて一人もいなかった。
犯行後も、犯人は『径』を訪れただろうか。警察の聞き込みや家宅捜査が入ったことで警戒させてしまったと言うことはないだろうか。
変にNKビルまで防犯カメラなんかを調べにいったことで、勘違いさせてしまったらどうだ。
実は犯人について思い当たる節があって、そのことで由汰が色々と嗅ぎまわっていると犯人が思い込んでしまっていたら――。
いや、いやいや考え過ぎだろう、と頭を振った。疲れているから変に臆病になっているだけだ。とにかく、とにかく今は店内の電気をつけるのが先だ。
由汰は気を取り直して本棚を頼りに足を進めた。
山田と会って、事件の詳細以外にも実は収穫があった。
初めて織部たちが『径』に来た夜、彼らに思い出せないと言った堀北蒼流について覚えた違和感についてだ。
長谷川に見せられた写真とどこか違うと感じた点。
山田の一言で思い出した。
帰り際、随分肩の力も抜けて砕けてきた山田が、揶揄うでもなくむしろ羨望の眼差しでこう言ったのだ。
「それにしても、いいっすね。カラコン」
「カラコン?」
「カラーコンタクト。実は憧れてて。オレもしたいって思うんすけど、目の中に異物が入ってるってのがどうも駄目で。かっこいいっすよね。しかもちょー似合ってるし!」
と言って由汰の目を指さしてきたのだ。
まさしく目から鱗だった。
そうだった。まさに覚えた違和感はそれだった。
あの日、彼らが書店を訪れたあの日、「あ……」と思ったのだ。
長谷川たちに見せられた写真は黒目だった。けれど、あの日店内で会った彼は、鮮やかとまではいかない、彼には少しばかり不自然とも思えるグリーンの目だったのだ。
その後すぐ、もう一人の光音・エメリーに声を掛けられたことからその記憶はすっかり意識から取り除かれてしまっていたが。
しかも、由汰が勝手に堀北蒼流は日本人だと思い込んでいたことだが、実は彼もハーフだと言うことが山田の情報から知れた。
韓国と日本のハーフ。見た目では判断しにくい。
カラーコンタクトについて、長谷川たちに報告するべきか悩んでいた。
大したことではないような気がするから。今時、お洒落でカラコンをする奴らなどごまんといるのだし。
なんだ、そんなことかと思われるのが関の山だろう。けれど、やはり一応連絡はしておこう。織部に電話するのは昼間の家族団欒の件もあってどうも気が重い。
長谷川になら――確か名刺がレジカウンターの引き出しに。
と、考えを巡らせていた時だった。
シャリッ――
と、微かに、靴底が土間を擦る音がした。
はっとして全身に緊張が走る。
真っ暗闇に目が慣れてきたとはいえ、眩暈と目の霞と朦朧としかけた頭では、平衡感覚さえ保っているのが危うい。
シャリ――
今度はもっと近くで聞こえた。歩みを止めている自分の足音じゃないのは確かだった。
冷や汗が背中をつたう。確実に感じる人の気配。
真後ろだ。今まさに、由汰の真後ろに誰かがいる。
ははは、と吐く息が震えた。
恐怖で全身が粟立つ。
どうしよう。怖い――。
バクバクと爆ぜる心臓の音で体が傾きそうになるのを堪えながら、息を潜めて瞠目する由汰の顔の横を、スッと光りの線が通り過ぎた。
「――っ」
反射的に口を押える。声にならない悲鳴をあげた。
丸い灯りが目の先の書棚をくるくると照らし出した時、背後からぐいっと肩を掴まれた。
「わああああ――!」
とっさに足がもつれる。両手を振り回しながら棚に背中をぶつけて、そのまま尻もちをついた。
やみくもに闇の中に手と足を突き出してばたつかせて、「寄るな!」と叫ぶ。
何者かの腕らしきものを勢いで弾いた。
誰かいる! 今何かに触った! という事実が由汰の恐怖をさらに煽った。
渾身の力を振り絞って抵抗する。
こんなところで殺られるなんて嫌だ。
完全にパニックに陥った由汰の耳に鋭い男の声が響く。
「落ち着け!」
「触るなあ! ああああ!」
暴れ回る由汰の両手首を男の大きな手が掴んだ。同時にカランと音をたてて土間に懐中電灯が転がる。
動きを封じられて焦った由汰は、とち狂ったように暴れ出した。
「嫌だ! 放して!」
「おい! 聞け!」
「嫌だ! 嫌だ嫌だ――!!」
髪を振り乱して無我夢中で叫びながら頭を縦に横に乱暴に振る由汰に、男が小さく舌打ちをする。
悪態をつきながら、強引に男が由汰に覆い被さった。
はぁ――……っ! と吸い込んだ悲鳴はあまりの狂気に声にならなかった。
尻もちをついた状態のまま、男の胸の中にきつく抱き込まれる。
このままどうなる? 隠し持っているナイフで横っ腹をめった刺しか、それとも首をへし折られて――。
由汰の恐怖が限界値を超えかけたその時だった。
「しぃー……落ち着け」
大丈夫だ、と今度ははっきりと男の声が耳に届いた。
由汰は、男の脇から伸ばした手を背中の上で浮かせたまま息もつけず硬直した。
今にも爆ぜそうな心臓の爆音が耳にまでガンガン響く。男の温かな吐息を首筋に感じた。
「……なに」
呟いた声は掠れてほとんど音を伴わない。
男の肩に乗せた顎がガクガクと震えている。力が入らないほど、手も足も体の何もかもが震えていた。
「落ち着け。大丈夫だ」
低くて宥めるような優しい声。
ああ、こんな声も出すんだな。
安心して泣き出しそうになる頭の中で呟いた。
「……織部さん」
「ああ、すまない。驚かすつもりはなかった」
織部の温もりに全身の硬直が取れていくのが分かった。
なんなんだよ、と心で毒づきながら顔がくしゃくしゃになる。
こんな状況なのに、今ここに織部がいることが嬉しい。
もう会いに来てくれないのだと思っていた。声を聞くことすらないと思っていたから、こんな状態でも、今こうして触れていられることが嬉しくてたまらない。
織部の腕の中にいるだけで、不思議なことに不安も恐怖も今日一日の煩わしかった出来事も苛立ちも全て霧散していくようだった。
織部の肩に顔をうずめると両手でたまらずギュゥとしがみつく。
どうせすぐに突き放されると思った。けど、意に反して、織部は由汰の背中と頭に手を添えたまま、子供をあやすように胸の中へ抱きしめてくれる。
「びっくりした」
「ああ」
「取り乱して、恥ずかしいよ」
「そうか?」
「犯人じゃないかって……」
「それについては、お互いさまだな」
と織部が鼻で笑う。
「電話してみりゃ出ないし、来てみりゃ戸口が開けっ放しだ。中で何か起こってるのかと思ってな」
そこまで言われてようやく理解が追いつく。
家の中を警戒して見て回っていたところに、由汰がなんともぎこちない動きで家に戻って来た。
「体は? なんともないか?」
体を放して由汰の顔を覗き込んでくる三白眼が、土間に転がった懐中電灯に照らされて優しく細められる。
「ああ、……そのことなんだけど」
言い終わらない内に視界がみるみる狭まっていく。
「南?」
どうも、限界らしい――…。と言った言葉は声にならなかったようだ。
「おい!」
織部の呼びかけが半ばでプチッと途切れた。
温かいものが唇に触れたかと思えば、次には甘くて冷たいものが流れ込んでくる。
躊躇うことなく、与えられるままに液体を飲み込んだ。
触れていた温もりが、つかの間唇から離れると、再び由汰のもとへ戻ってくる。
流し込まれる甘い液体を微睡みの中で夢中になって飲み込んだ。
喉が渇いている。だがそれ以上に――。
また温もりが離れた。
行かないでくれ、と思った。
餌付けを待つ雛鳥のように、離れて行った温もりを追い求めて唇を彷徨わせた。
もっと、欲しい――。
再び戻ってきた温もりに飛びつく。
流れ込んでくる甘い液体を貪るように飲み下しながらその温もりに吸い付いた。
温かくて気持ちがいい。ほっとして離れ難い。
離れかけた温もりに追いすがってまだここに居てと温もりを食(は)む。
ビクッと震えたそれが、その内にゆっくりと圧力をかけてきて――口を開いて迎え入れると、侵入してきた熱く肉厚なそれにしゃぶりついた。
ミルクを求める赤子のように。
ゆっくりと蕩けるような濃厚なキスに微睡みの中で酔いしれる。角度を変えて何度も繰り返される甘い口づけに必死に自分も舌を絡めた。
上顎を舐められて、舌を吸われて奥まで蹂躙される痺れるような口づけに身体が火照る。
唇の隙間から堪えきれず甘い吐息が漏れた。
気持ちいい――。
朦朧とする頭で、うっすらと開けた目に、耳朶と短髪が見える。
無意識に織部だ、と認識した。
上体を抱き起された状態で、深く口づけられている。
ああ、もっとこうしていたいと、自然と腕が上がった。
捕らえたものは、愛しいと思う男の後頭部。クシャッと髪を鷲掴んだ拍子に、織部の顔がサッと離れた。
――しまった、と慌てて後頭部に伸ばした腕を引っ込めた。
織部の顔がみるみる内に歪んでいく。
「…………」
なんたる失態だ。湧き上がってくる後悔に顔が赤面しそうになりながら青ざめていく。
引っ込めた手を握りしめて、とっさに謝ろうとしたが声が詰まって出なかった。
そして挙句の果てに、
「クソッ」
織部が吐き捨てた。由汰を見下ろしながら苦々しそうに。
悲痛に胸が痛まなかったと言えば嘘になる。
ホモフォビアの織部に、自分が無理やりにキスを迫ってしまったのだろうか。
どうしよう、思い出せない。
身をよじって織部の腕の中から抜け出そうとした時、
「なんてタイミングだ」
織部が、思いがけず丁寧にゆっくりと由汰の上体を座らせると、支えていた腕を離して携帯電話を握りしめた。
その手を額に押し付ける。
かける言葉がないほどに、織部が落ち込んでいるように見えた。
タイミングとはなんの話か、尋ねようとして、不意に遠くから聴こえるサイレンの音に眉が上がる。
「……救急車」
「ああ、そうだ。救急車だ」
織部が顔を上げて溜息を吐いた。
それを見て、由汰はとっさに全てを理解した。勘違いだったのだ。
クソッ、と吐き捨てた言葉も、苦々しく歪ませた顔も、救急車を呼んでしまった後に、目覚めてしまった由汰のタイミングの悪いさを恨んでのことだったのだ。
目覚めたことは大変に喜ばしいことではあったけど、救急車には無駄骨を踏ませてしまった。
サイレンがまさに大戸口の前でピタリと止まる。クルクルと回る真っ赤なライトだけを残して。
「待ってろ」
織部が言い置いて立ち上がると、上がり端を下りて外へと出て行った。
ことの説明を救命士にして、謝罪をしに。
見慣れた居間をゆっくりと見まわす。
ちゃぶ台に置かれた、蓋が開いたままのポカリスウェットのペットボトルを見て、由汰は自分のおかれた状況を把握した。
あのあと、織部に抱き着いたまま低血糖で気を失った由汰を織部が居間まで運び、なんらかの応急処置を施してくれたのだろう。
無事に目覚めたところをみれば。
そう、おそらく、ポカリスウェットを口移しで由汰に飲ませたのだ。血糖値を上げるために。
低血糖で失神するなど、初めてとは言えあってはいけないことだった。
うかつ過ぎた己を殴りたい気分だ。
部屋の中は冷房がきいて涼しくなりかけていた。
ふと、今になって自分が行くべきだったのではと思い至るが後の祭りだ。
早々に説明と謝罪を終えた織部が戻って来たから。
「すまない」
ありがとう、と言えず、そんな言葉が漏れる。
「ああ、それより具合はどうだ」
「……どれくらい眠ってた」
「あ?」
「具合はかなりいいよ。どれくらい眠ってた?」
「十五分ってとこだな。あと五分はやく起きてくれれば」
「ああ、ごめん」
「ひとまず、目覚めただけで良しとしろ」
「不甲斐ないよ」
「何がだ」
「救急車を呼ぶ前に起きられなくてさ」
と、敢えておどけて笑ってみせた。
けれど、立てた片膝に腕を乗せた織部は憮然としたまま。
「こっちは肝が冷えたんだ。笑い事じゃない」
言われて、確かに。と思った。
織部も少なからず怖い思いしたに違いない。
「ポカリスウェットを――その、飲ませてくれたのは織部さん?」
口移しで? とまでは言えなかった。
「他に誰がいる。ポカリスウェットはお前の好物なんだろう?」
その一言で、微睡みの中でもっともっとと織部を欲した感覚が蘇ってくる。
失言だったと、とっさに口許を手で覆って隠しようもないくらい顔を真っ赤にした。
「ご、ごめん」
「気にするな、ただの救命処置だろう」
なんてことないように真面目な顔で言う。
甘い口づけなんてなかったかのような素振りだった。
温もりがまだ舌先に残っているように思えるのに。――いや、きっと、そうきっと、ただの救命処置だったのだ。
少しだけ、なぜか胸がキリリと痛んだ。
黙っていると、織部が言う。
「ま、そう思うなら次から冷蔵庫にゼリーくらい入れておけ」
そこで疑問が沸いた。失神した人への対応についてどうも詳しい。
「どうしてそれを?」
低血糖で失神した人への対応は、とにかく糖分を口に放り込むこと。例えばゼリーなどを歯茎に擦り込んだりなどして。その後の目安は十分。十分経っても目を覚まさなければ救急車を呼ぶようにとなっている。
織部はまさにそれを忠実に行おうとしていた、いや、実際行ったのだ。
「お前の持病については調べてあったんだよ。あの妙にふらついていた夜の後にな。だが言ってもにわか知識だけに、今回みたいなケースでの対応はさすがに持ち合わせてなかった。正直慌てたぞ」
聞けば、知り合いの医者に電話をして教えを乞うたのだという。
なるほど。随分と手間を取らせてしまった。
とにかく、一緒にいたのが織部で助かった。そうでなかったら――もしも一人だったら、確実にあの世行きだった。今頃は遠くに三途の川が見えてきた頃だ。一日で二度も棺桶に爪先を突っ込む羽目になるとは。
「血糖値、測ってみないと」
ボソリと呟いた由汰の言葉に、織部が迅速に反応する。
待ってろ、と言って由汰のバッグを投げてよこすと、テレビの横の多段棚から測定器用の針が入っている箱を持ってきた。
不思議な顔をしていると、どうやら由汰が失神してすぐ、知人の医者に電話をしながら短い時間であれこれ物色したらしい。仕事病とでも言うべきか、刑事らしい行動ではあっても、無遠慮だ。
だが正直、今はこの迅速な対応がありがたい。
バッグの中から測定器を取り出して、手渡された針をセットする。
血糖値は70mgジャスト。通常の血糖値は70mgから110mgとなると、今の由汰はぎりぎりのラインだった。飲まされたポカリの量がどれほどだったか分らないが、失神したことも合わせると、おそらく失神時の血糖値は50mgか、もしくはそれ以下。
数値を見て思わず黙り込んでしまった。
小刻みに震える指から織部が測定器を取り上げる。
「とりあえずは飯だ」
そう言って立ちあがると冷凍庫を開けた。
と、同時に溜息が漏れる。
「一つ確認だが、これがお前の毎日の飯か?」
冷凍庫を覗き込んだままの織部の顔が、どれだけ呆れたものなのか容易に察しがつく。
「充分だろう? 最低限はまかなえてるよ」
加えて言うなら、いつもはそれにお味噌汁がついてもう僅かばかり豪勢だ、とまで言わなかった。結局のところ質素には変わりない。
「俺の家の冷蔵庫の方がまだましだぞ」
ああ、そうだろうさ。あんな綺麗な奥さんのいる家の冷蔵庫が、牛乳とマーガリンしか入っていないような冷蔵庫と同じはずがない。それとポカリスウェット。心づくしの冷凍のおにぎりだ。
「いつも定休日にまとめて買い出しに行くんだよ。今日は不幸にも日曜日で食材が一週間のうちで一番少ない日なんだ。仕方がない」
「ふん。おおかた、単位の計算が面倒だからって言ったとこだろう」
図星を指されて思わずむくれてしまう。
由汰は体制を整えてちゃぶ台の前に座り直すと、冷凍庫からおにぎりを一つ出してレンジに放り込む織部の背中を眺め見た。
シンクの上の棚や下の棚をあれこれ漁って、ヤカンを火にかけたりしている。
手慣れた動作だった。
こう見ると、織部という男が意外にマメなのだと解かる。
「南、おい」
「え」
見惚れていてしまったとは口が裂けても言えない。
うっかり織部の動きを目で追っていたら、呼ばれたことにも気が付かなかったなんて。
「辛ければ寝転がってろ」
「いや、うん、平気。呆けてた」
「呆けてただ? 頭使えよ。握り飯にワカメのインスタント味噌汁だ。これくらいならソラでも計算できるだろ。呆けた頭動かして、先にインスリン打っておけ」
目ざとくシンク下の棚から焼き海苔缶とインスタントの味噌汁を見つけた織部が言う。
言われた通りインスリンを打って待っていると、すぐに海苔の巻かれたおにぎりと湯気が立ちあがったワカメの味噌汁が運ばれてきた。
「食え」
そう言われて、少しばかり感動してしまう。誰かに食事の準備をしてもらうのはいつぶりだろう。
「いただきます」
正直、何かを食べたい気分ではなかったが、お味噌汁の匂いを嗅いだら食欲が沸いてきた。
思えば、遅い朝ごはんを食べてからまともな食事をしていなかったことに気づく。
気が付けば時刻は二十一時半を回っていた。
あむ、っと一口おにぎりをかじってお味噌汁をズズーッと啜る。
美味しい――…。味噌汁の温かさが全細胞に染みわたる。
いつもは義務的に頬張るだけの食事が、なんてことのない献立なのに、今晩はとても美味しく感じた。
隣で頬杖をつきながら、しばらく食事をする由汰を黙って眺めていた織部がおもむろに口を開く。
「どうしてこうなった?」
どうしてって?
「なにが?」
「なぜ気を失うことになったかって訊いてるんだ」
それについては話すとなかなか長いのだが。
味噌汁を啜りながらどうかいつまんで話そうか思案する。
最後の一口を頬張ってご馳走さまでした、と手だけ合わせて皿にお椀を重ねる。
「僕もつい今朝知ったばかりなんだけど、夏の気温差がどうも血糖値を大きく狂わすみたいなんだ。今朝もそれで体調が悪くて初めて寝過ごした――というか、目が覚めなかった。いや、最終的には目覚めたけど」
と、肩を冗談ぽく竦ませた由汰に、織部のこめかみがぴくぴくと痙攣する。
冗談にしてはいけなかったような空気が流れて、気まずさからお椀を指でいじりだす。
「まあ、で、まあその、友禅展から戻ったあとも色々あって」
そこでチラっと織部を覗き見るが、黙って先を促すように口を引き結んでいる。
「家に着いた時、戸口にいたんだ」
「なにが」
「人だよ」
織部の目が何かを察したように見開かれる。
「いつかみたいに戸口で誰かが中を覗いてた」
この先を言えば、おそらく怒られると感じるのはなぜだろう。
「体調もすこぶる悪かったけど、それ以上に今日の僕はイライラしていてね。気づいた時には戸口を飛び出して追いかけてたよ」
ダンッ――! と物凄い音をたてて織部がちゃぶ台を拳で叩いた。
怒られるとは思っていたが、想像以上で内心驚く。
「お前は馬鹿か!」
目を吊り上げて織部が怒鳴る。
「そこまで怒ること?」
「くそっ」
と、悪態をついて短く刈られた髪を掻きむしると怒りを鎮めようと一呼吸おく。
「怪しい奴を見かけたらまず警察に連絡しろ。俺にでもいい」
「あんたにはもう何度かかけてふられてる」
それについては織部は謝るつもりはないらしく無言でやり過ごした。
「それに、心配するようなことは何もなかったよ。逃げた男の正体は刑事事件を好む粋狂なマニアだった」
すごく人の良さそうなね、と付け加える。
「あんたも言ってたろう?」そう言っても、織部はまだ低く呻っていた。
相手が誰であろうと、追いかけたことに怒っているらしい。
「とにかく、次からはこんな馬鹿な真似はやめるんだ」
はいはい、刑事さん。とは素直に言えなかった。
なぜかって、明確だ。朝からイライラすることになったのは誰のせい?
織部が知る由もないが、もっと言えば織部にはなんの罪もないが、由汰の苛立ちを助長させる原因になったのは紛れもなく織部だ。
不意打ちのようなジャンとの会合も。思い通りにならない体調の悪さも。
内に籠ったやり場のない怒りを、覗き魔に向けたのはそんなに悪いことだったか?
「とにかく、僕がぶっ倒れるまで低血糖になったのは、強いて言うなら彼を追いかけるために全速力で走ったからだよ」
糖尿病の患者には、適度な運動は血糖値を下げることから医師からも推奨されている。
けれど、由汰は極端に血圧のあがるような運動をすると、著しく血糖値が下がる傾向があった。運動不足を解消しようと以前踏み台昇降を二十分やったらふらついて倒れたのだ。
そのことを説明すると、ふたたび織部の三白眼がみるみる吊り上がっていく。
ああ、また雷が落ちる、と思って覚悟していたが、そうはならなかった。
「自己管理の無さにも程があるぞ」
そう言っただけで、それ以上のお咎めは無し。
声音からして怒っているのは間違いないようだったが、怒鳴らなかったのは万全でない由汰の体調を気遣ってくれているような気がした。
一日のうちに血糖値の上下運動が激しかったためか、目が覚めた今でも体はぐったりと疲れ切っていた。
そもそもどうして織部はうちにいるのだろう。
そんな初歩的な疑問が頭に沸いたが、織部は山田につて先を促した。もう怒りは感じられない。
「そいつから何を聞いた?」
「今朝のニュースと同じようなことを」
それから、ニュースでは語られなかったことについてもあれこれ聞いた、と織部に言おうか悩んだが、山田を追及されてせっかくの情報源を失うのは惜しいと、由汰は口をつぐんだ。
最大限の努力でもって平静を取り繕って、成功したものだと思ったが、織部の目を見れば、由汰が隠し事をしているなどお見通しのようにも見えた。
突っ込まれるより先に話の矛先を変える。
「それより、家宅捜査の結果はもうでたんだろう? 僕に教えてはくれないの?」
「機密事項だ」
「ニュースでのこと嘘をついてたのに? なんの謝罪もなしか?」
どうにか優位に立ちたくて織部を詰る。
「お前に嘘をついたことについては謝るつもりはない」
と、きっぱり言い切られてしまう。
「家宅捜査の結果がでるまで、捜査状況をあの時点で明かすわけにはいかなかった」
確かにそうだろう。由汰を容疑者だと疑っていたなら尚更だ。
真意を確かめるために、由汰を敢えて挑発したのだろうから。
織部が、ホモフォビアなのは本当だろうけども。
初対面の時に感じた傲慢で不遜なイメージは、今ではもうほとんど感じないが。
まして、あんな子煩悩な父親の顔を見てしまった後では尚更だ。
この男とはまだ数回しか会っていないのに、見た目と違ってなかなかに如才無いと由汰は思う。
「じゃあ、裏庭から二人が出て行ったってことは、間違いないって思っていいのか」
「どう思う?」
問いながら向けてくる目は、まぎれもなく刑事の目だった。
その目をまだ由汰に向けるのか。急に気分が落ち込んで、不機嫌さを顔面に晒す。
「何度言わせるんだ。僕は無実だよ、完全にね」
「十中八九そうだろうな、だが」
と、そこでらしくもなく言い淀む。
「なに」
「お前」
何か重要なことを言いたげに、三白眼が無言のまま由汰を伺ってくる。
何度か開きかけた口を閉じて、結局ちゃぶ台の空になったお椀と箸を持って立ちあがった。
「なんなんだよ、言ってくれ」
由汰も一緒になって立ちあがる。
「あれこれ訊くのはやめろと言ったはずだ」
「教えられることがあれば教えるって言ってくれたよね」
「そんなに知りたいか。家宅捜査の結果を」
「当たり前だ」
「なら教えてやる。彼らが裏庭から出て行ったのはほぼ確実だろう。いや、確実だ」
「そうなのか」
ぱっとか開きかけた由汰の目を見て、しかし、と言い置いた。
「お前が関わっていないとは、まだ言い切れない」
安堵に開きかけた目が再び曇る。
「今回は初めて防犯カメラに映っていた重要なケースだ。それもお前の店から出てきた形跡がないって言うおまけ付きでな」
「けど、僕は何もしてない」
「だが、あの日はお前をみんなが疑っていた。あの夜、捜査官たちが揃ってこの家の周りを取り固めていたことはさすがに知らないだろう。あの時点では令状が下りてなかったから一晩見張りをつけて、翌日令状をもって出直したんだ」
そこまで大捕り物劇さながらな状態だったと?
「知っての通り、光音・エメリーがまだ見つかっていない。生きている可能性があると踏んで今回情報公開を試みた」
――今回。
さっきも今回は初めて防犯カメラに映ったケースだった、と言っていた。
今回はとは、つまり今回が初めての、つまりは単発の事件ではないと言うことか。
「連続殺人ってこと?」
織部の顔が苦々しく歪む。余計なことまで言ってしまったと言うように。
色々確認しなければいけないことが、思う以上に多い気がした。
「今日はどうしてここに? 僕を見張るのにまだ飽き足らないのか」
織部の手から、そっと空になったお椀と箸を取り上げる。
「借りたものを返しにきた」
貸したものなどあっただろうか。
「懐中電灯だ、この間の」
「…………」
ひょいっと織部がスラックスのポケットから手のひらサイズの懐中電灯を取り出すと、由汰に手渡した。
手渡したついでに、空になったお椀と箸を由汰から再び取り上げる。
青光りした柄の先に紐のついた、それは紛れもない由汰の懐中電灯だった。
電球を探しに中二階へ行く織部に手渡した懐中電灯だ。
どうしてそんなものを――そう言えば、あの時電球だけ受け取って、懐中電灯を受け取った記憶がない。
視線をぐるっと一周させて頭を働かせていると、不意にはたと気がついた。
――そういう事か!
またもしてもやられた。由汰をまんまと騙したのだ。この男は飄々と中二階に興味を持つようなふりをして。
顔を蒸気させた由汰を見て、詫びるような態度など欠片も無く、口端に揶揄うような笑みを浮かべる。
そんな仕草さえ様になって格好良いなんて口が裂けても言うまい。
「僕の指紋を勝手に採取したな!」
「悪いな。だがな、これで遺体や戸口、裏庭の鉄扉にベタベタついていた指紋がお前のものじゃないと判明した。おかげで、被害者が裏庭から出て行ったと確認できたんだ」
「感謝しろって?」
「いや。だが、年甲斐もなく怖がりなお前に代わって中二階に電球を探しに行ったのは、純然たる善意からだ。それについては感謝してくれていい」
「はっ、よく言う。それに僕は――」
怖がりじゃないと言いかけて、それを事実否定しきれなかった。
その反応を楽しむようにくぐもった声で笑うと、織部は空の椀と箸を持って台所へと向かう。
文句の一つも言いたかったが、その前に、洗い物まで織部にやらせる訳にはいかないと、
とっとと流しに持って行ってしまう織部を追いかける。
歩き出したときに少しふらついたけど、体調はだいぶ良くなっているのが分かる。
「洗い物くらい自分でやれるよ」
ずり落ちかけた袖を捲りなおしていると、不意に隣からぬっと目の前に手が伸びてきた。
「なに……」
気づいた時には前髪を大きな手で掻き上げられていた。
柔らかい猫っ毛を掴んだまま上を向かせられる。
トクンと鼓動が跳ねた。
驚いて目を瞠っていると、一瞬思いつめたように細められた織部の目が手を放すと同時に逸らされる。
「いいとは言えないが、顔色も随分戻って来たな。風呂には入れそうか?」
「風呂?」
「俺がいる間に入って来い」
その一言ではっとする。
慌てて時計を見た。時刻は二十二時ちょうど。
流しでお椀を洗おうとスポンジに洗剤を付け始めた織部の腕を引っ張った。
「なんだ。さっさと入って来い。今日はずっとは居てやれないんだ」
と、言ってくる。
そんなこと、言われなくても分かっているし、そこまで求めはしない。
少し悲しくなったけど、辛うじておくびに出さずにすんだ。
「迷惑かけて本当に悪かったし感謝してる。だから、もう充分だよ、織部さん」
「そう思うなら早く入って来い」
「もう帰っていいって言ってるんだ。いつまでもここに居る必要はないよ」
本心だ。素直な気持ちから出た言葉だった。
洗い物を代わろうと腕を伸ばす由汰を、蛇口をいったん止めた織部が訝しむような視線で見下ろしてくる。
「何か勘違いしてないか、お前」
「なにが?」
言われたことが分らず、キョトン顔で隣に立つ織部を覗き込めば、溜息交じりに織部が小さく肩を竦ませた。
蛇口をひねって水を出すと、再びお椀を洗い出す。
「一年前に離婚している」
「…………」
「今日は月に一度の娘との面会の日だった」
「そう、だったのか」
「ああ。そのせいで今日はこれから朝まで当直だ」
寝ずに明日の朝まで仕事。
しかも、由汰のせいでいらん労力まで使わせてしまった。
「気にするな。署には遅れるって連絡済だ」
倒れた人間を放置などして帰ったら刑事が廃るだろうと笑う。
織部は大人だ。そのうえ、見た目以上に辛抱強い。
先ほどまで少し言い合いになっていたのに、それを長くは引きずらない。
「少しでも詫びる気持ちがあるなら早く風呂に入って来い。口うるさい医者から言われているんでな。せめてお前が食後二時間後の血糖値を測るまで傍に居ろってな」
口うるさい医者とは、おそらく救命処置の教えを乞うた友人のこと。
知らなかったとは言え、家族の待つ家へ帰れと、そんなニュアンスを含んだ言い方をしてしまった。
不謹慎だったかな、と僅かに後悔する。
一年前に離婚をして、帰る家は寂しい一人暮らしの家なのだと、お前が想像しているようなものではないと、暗に言わせてしまったようなものだ。
体裁をなによりも気にする男に、言わなくていいことを言わせてしまった。
風呂から上がって居間へ行くと、織部の姿がない。
寝室へ行けば、織部がちょうど屈んだ状態から腰を上げるところだった。
「なにしてるの」
「ベッドメイキングだ」
「ベッドメイキング? ――取り込んでくれたの?!」
驚いていると、織部が可笑しそうに笑う。
「ああそうだ。取り込んでやったついでにベッドメイキングまでしてやった。洗濯物は明日自分でたため」
そう言いながら由汰の湿った頭をくしゃくしゃと撫でると居間に戻って行く。
その手の温もりに一瞬にして顔が火照るのが分かった。
スキンシップが増えているように思うのは、由汰だけだろうか。
単にコミュニケーションの一つであって他に何も意味を持たないことだとしても、こんな些細な事でいちいち嬉しいなんて思ってしまう。
なんだか、のぼせてしまいそうだ。シャワーしか浴びていないのに?
あの無骨な男が夕食の準備から洗い物、はたまた布団敷までしてくれるなんて、外見を裏切って結構に気働きがある。
まさに目から鱗だった。
――目から鱗……。
はっと弾かれたように居間に飛んでいく。
座布団にふんぞり返ってリモコンでテレビのチャンネルをザッピングしている織部に、ちゃぶ台に勢いよく両手をついて身を乗り出した。
「カラコンだよ!」
「はあ?」
「だから、堀北くんに感じた違和感だよ。彼、店に来た日はグリーンのカラーコンタクトをしてたんだ。写真のはそうじゃなかったから。僕の目ほどじゃないけど、あの日はグリーンの目をしてたんだ。もしかしたら、いつもしてたんじゃ……」
ないのかな、と言い終わる前に、織部の顔に怖いほどの緊張が走る。
何かまずい事でも言ってしまったかと一瞬心配になって思わず身構えた。
けれど、直ぐに無表情に戻ると、ポケットから携帯電話を取り出した。
「ここにいろ」
「なにかまずいことでも?」
「いいから、とにかくここにいろ。動くなよ」
念を押しながら携帯電話を耳に当てると急ぎ足で上がり端を下りて行った。
書店の奥に消えた織部を見て、なんだか不安がよぎる。
由汰の発言の何がそこまで織部をピリピリさせたのか。
「俺は署に戻る。悪いが、あと二時間、お前を看ていてやるこができなくなった」
外で電話を終えた織部が、難しそうな顔で戻ってくるなりそう告げる。
上がり端に上がらず、携帯電話を掴んだ右手を戸口にあてたまま。
「なにかまずいことでも言ったのか、僕が?」
「いや」
と、しきりに外の様子を気にするように、大戸口を気にしながら口早に応える。
落ち着きなく、戸口に当てたままの携帯電話をコンコン打ち付けながら。
「お前、しばらく書店を閉めて」
「店を閉めるだって?」
「しばらくだけだ。平多昌子のところへ身を置くことはできないのか」
唐突に何を言い出すのかと思えば。
冗談だろと、笑った由汰を三白眼が諫めた。
「だって、二時間くらい平気だよ。もうすっかり血糖値も落ちついた」
「そう言うことじゃない」
「じゃ、なに」
由汰も、上がり端からなんとなく釣られて大戸口の方を覗き込む。書棚が邪魔で見えはしないが。
「お前……」
と、核心的なことを告げたくないのか、告げることができないのか、織部が妙に歯切れ悪く口ごもる。その末に、
「なら、俺のところにくるか」
苦し紛れと言った風に、三白眼に見据えられて、虚を突かれた由汰の顔が一瞬火を噴きかける。
「俺のとこって……」
「とにかく、手っ取り早くどこか身を潜めていられるところはないのか」
苛立ち気に腕時計を確認する。
由汰が伝えたカラコンの件が、織部をこうも急かして苛立たせているのだろうか。
身を潜めておける場所? うっかり低血糖の心配をされているのかと糠喜びしかけた己が恥ずかしい。
「なあ、教えてくれ。どうして身を潜めなきゃならない?」
上がり端から織部を見下ろして、しごく真剣に尋ねた。
「この店が選ばれたのは、ただの偶然か?」
と、逆に問われてしまう。
「ただのセキュリティが甘いってだけの理由だけか?」
どうなんだ、知っているんじゃないのか、お前は――。
そんな言葉が末尾に付きそうな、きな臭い言い方だった。
結局のところ、織部は何も教えてはくれない。刑事だから、規則上致し方がないから。
仮に、本当に由汰に身を潜めていてほしいのなら、そんなもの捨ててしまえばいいのに。
それすらできない、その程度のことなのだ。その程度の、長い物に巻かれた男臭い男。
「二時間後に電話をくれないか」
「なに」
「ワン切りでいいから。そしたら、僕もワン切りするよ。それで、お医者さんから仰せつかったことは事足りるだろう」
素っ気なく、それが答えだと言うように告げれば、織部の顔から見る見る表情が消えていく。怖いくらいの刑事の顔へ。
「何度聞かれても同じだよ、刑事さん」
「…………」
「僕は、疑われるようなことはなにもしてない」
「疑われるようなことはな。ああ、分かってる。お前は、その逆だ」
「逆?」
それ以上は言えないのか、言わないのか、見上げてくる雄々しい三白眼をしばらく見下ろしながら唇を無意識にいじりだしていた。
「僕が」
まさか、どうしてそうなる。
答えを明確にしないまま、織部上がり端の戸口から離れた。
「ワン切りだな。了解した」
「行くの?」
「ああ。――降りて戸締りをしろ。きっちりとな」
夕刻の、開けっ放しのまま怪しい人物を追いかけたことを指摘しているのか。
靴を履きながら頷く。
「分かってる。なあ、僕が逆ってどう言う意味なんだ」
大戸口に向かって既に歩き出している織部を追った。
「なあ、織部さんっ」
無言の背中に呼びかけたものの、織部はそのままガラガラと大戸口を開ける。
通りに出て後ろ手に閉めようとする戸をとっさに押さえた。
「待ってよ」
「目立った行動は控えろよ。あれこれ嗅ぎまわるのもやめろ」
肩越しに告げてから、改まって由汰に向き直る。
必死で大戸口から半身を乗り出して織部の次の言葉を待っていると、不意に織部の指背がすーっと由汰の鼻筋を撫でた。
愛おしむように。
そんな表現が似合いそうなほど、優しく、しごく自然な動作で。
驚いた由汰の目に、険しい刑事の顔と、織部自身の顔が入れ代わり立ち代わり見えるような気がした。
「何かあれば直ぐに電話しろ。どんな些細なことでもいい。一人で勝手に、どうか探りまわったりしてくれるなよ」
そう言うなり、由汰の肩をゆっくりと店内に押し戻すと、大戸口を閉めて通りへ消えて行った。
『グリーン・アイ 前編』 了
グリーン・アイ«前編» 織リ子4 @oriko4
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。グリーン・アイ«前編»の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます