第5話


意識がふわふわとしていて、身体は重く、指の先まで脱力して動かすことができない。

目を閉じているから、それ以外は定かではないが、どうやら椅子に座らされているようだった。

耳を澄ましてみたけれど、何も聴こえなかった。無音だ。無音ではあったが、この嫌な臭いはなんなのか。

 鼻腔をツンとつくような酸っぱくて生臭い異臭。

 ――なぜだろう。遠い昔に嗅いだことがあるのに、思い出せない。

 思い出そうとすればするほど、異臭は濃度を増して、強烈な何かが腐ったドブのような汚臭へと変わっていく。

 このままでは、吐いてしまう。

 耐えかねて、由汰は重い瞼を開けた。

 眩しい。部屋の中。どこの? 誰の? 

 朦朧とする頭で、目の前にあるモノがなんなのか、必死に思考を巡らせた。

近すぎて焦点が合わない。

どうにか目を細めて焦点を合わそうと凝らす。

ついにカチッと合った時には、それがギョロッと動く大きな二つの三白眼だと分かった。

 背筋をせり上がってくるような恐怖。

 次の瞬間、由汰は攣ったような悲鳴をあげた――つもりだった。

 自分の口許は一ミリも動いていない。

 それよりも、口角は上がって穏やかな笑みさえ浮かべている。気持ちとは裏腹に、心と体が分離してしまったようなおかしな感覚だった。

 これは、十ニ歳の夏、自ら男に付いて行った蒸し暑い雨の日の出来事だ。

 思い出そうにも覚えていることなどほとんどない。爬虫類のような三白眼と、汚臭にまみれた恐怖だけが、脳裏に強く刻み込まれただけの恐ろしい記憶だ。

 男の顔はあまりにも近すぎて、焦点がうまく合わない由汰の目には、目の前にいる男の顔の全体像すら捉えることができなかった。

 若い男、歳は定かじゃない。

 眼球を上下させて辛うじて見て取れるのは、男の目と口だけ。

 男は、愛おしそうに由汰を眺めながら、由汰同様に穏やかな笑みを浮かべる。

 微笑まれれば微笑まれるほど、由汰の心は凍るように震えあがっていく。

 微笑みとはまったく相いれない恐ろしい何かが、常軌を逸した何かがその場にあったから。

 断末魔のような悲鳴をあげて、今すぐにでもその場から這ってでも逃げ出したいと思うほどの、優しい微笑みにはそぐわない、おぞましい何かがあったからだ。

 なのに、視界がぼやけて、それがなんなのか見えなかった。

 いや、正確には思い出せなかった。

 自分は先ほどからずっと見たくもない夢を見ている。

 こんな夢からは早く目覚めてしまいたいのに。必死に抗おうと神経を集中しても夢から抜け出すことができない。

 男の口が二言三言、由汰に何かを告げる。

 何を言っていたのか思い出せないから、その言葉が夢の中の由汰の耳に届くことはないのだけれど。

 頭の中に、何かを刻み込まれたような気分だった。

 次の瞬間、由汰は叫んでいた。

夢に捕らわれているまま、実際に布団の上で自分が叫んだのだと判る。

だが、夢は容易に由汰を解放してはくれない。

 場面がガラリと変わった。

 薄暗い朝靄がたち込める中、ゴゴゴォーッとけたたましい爆音と共に茫然と立つ由汰の目の前を勢いよく電車が通り過ぎていく。

 突然ザーっと降り始めた雨の中、傘もささずに何かに憑りつかれたように立ちすくんでいた。

 俯いた前髪から雫が滴り落ちるほどびしょ濡れになりながら行かなければ、と何故だかそう強く思っている。

 恐怖を感じながらも、行かなければと半ば何かに引き寄せられるように、無意識のうちに足を踏み出した。

 ――ピチャッ――…。

 不意に、背後で何かが水に撥ねるような音がして、由汰は肩越しに虚ろな顔で振り返る。

 視線の先に捉えたのは、アスファルトを叩きつけながら降る強い雨の中を転がるように広がった反物だった。

 仄暗かった世界が、途端に極彩色で彩られる。

 色とりどりの牡丹と、目を瞠るほどの、鮮やかで煌びやかな金銀の尾をたなびかせた一羽の堂々たる孔雀の艶姿をあしらった、由汰の心を現に引き戻した楽土だった。

 一瞬にしてサーッと頭の中の霧が晴れた気がした。

 反物は雨に濡れて、いっそその彩りを色濃く鮮やかなものにした。

 視線をあげると、初老の男が傘片手に落とした反物を水たまりからすくいあげようとしているところだった。

『お前さんみたいに濡れたままでいればよかったかな。傘なんざさそうなんて欲をだしたもんだから、大事な反物を落としちまった』

 そんな大事なものなら肩を落として落ち込むところのはずなのに、男はその失態をどこかおかしそうに小さく笑って、濡れたままの反物を紙袋の中に押し入れた。

『けど、お若いの、そんなに濡れて風邪なんざひきなさんなよ』

 言い置いて、踵を返した男に半ば反射的に『待って!』と叫んでいた。

 不思議そうにゆっくりと振り返った男に、

『お願い――僕を連れて行ってください』

 駆け寄ると同時に、手の中の切符を濡れるアスファルトの上になんの躊躇いもなく手放していた。男の視線が一瞬その落ちた切符に向けられた気がした。

 さっきまで自分が何故この場にいてどこへ行こうとしていたのか、今ではもう思い出せない。

 長い眠りから目が覚めた気分だった。身も心も軽くなって、恐ろしい何かから解放された気分だった。

『家に帰らなくてもいいのかい? お母さんが心配するだろうよ』

『心配なんてしないよ。家には帰りたくないんだ。おじさん、お願い僕を一緒に連れて行って』

 気が付けば頼りない男の細い腕に縋りついていた。

『みちさんだ』

『なに』

『おじさんじゃなくて、みちさんだ』

 そう言って笑うと、三千雄の顔は頭の中からテレビの電源を切ったように呆気ないほどあっさりプチッと消えた。




 けだるい目を開けると、最初に飛び込んできたのは枕元に置かれた古い見慣れた目覚まし時計だった。

 ピピッピピッピピッ――…。

 三千雄が長く使っていたものだから、デジタルなんてハイテクなものではないけれど、ご老体はまだまだ現役で秒針は十時三十一分をしっかりと指示している。

 シーツがしわくちゃになるほど強く握りしめながら、うつ伏せに眠っていた由汰は、自分が酷く汗でびしょびしょになっていることに気がついた。

 もう一度、時計を見る。

 ――十時三十一分。

「……う、嘘」

 喉の奥に何か詰まったかのような酷い掠れ声だ。

 こんな遅くまで一度も起きずに寝続けてしまったなんて、仕事が休みの日だったとしても今までにないことだった。

 セットしておいた七時からずっと鳴り続けているであろう目覚ましのアラームを、消そうとして持ち上げようとした腕がまるで上がらない。

 思わず半笑いしそうになるほど上がらなかった。

 あれ? と思いながら今度は起き上がろうとしてとっさに起き上がることができない。

 その瞬間、由汰は自分のおかれた状況をようやく理解した。

 サーッと全身から血の気が引いて行く。

 冗談じゃなく孤独死一歩手前まできていたのだと。それも昌子の来ない休日の日に。

尋常じゃない体の重さはまさに警鐘だ。

「…………」

 一人で切り盛りしなければならない忙しない土曜日の昨日。確か、午後から体調を崩して、それからどうだっただろう。

 夜は夕飯もそこそこに月末処理を気力でやり終えてから、ふらつく足でシャワーを浴びてそのまま倒れ込むように布団にはいったんだったか。

 シャワーの辺りからどうも記憶が曖昧だ。風呂上りに水は? いや、きっと飲んだ。

 寝る前の血糖値の測定は? 怠ったかもしれない。

 うつ伏せのまま、目先の指先を動かしてみる。難なくグーパーもクリアして少し安堵した。

 指の先で、目覚まし時計の手前で、携帯電話がブーブーと震えている。

 誰かからだろう。はたして何度目の電話だろうか。

 携帯に手を伸ばそうと、どうにか渾身の力でもって腕を動かした。鉛なんてものではなかったが、どうやら頑張ればまだ体は動くらしい。取り敢えずは最悪な寝覚めだったとしてもひとまずの朗報だ。

 けれど、取り上げた携帯のディスプレイを見て、憂鬱な目覚めがさらに憂鬱なものとなる。

 昌子からの電話だった。この状況で朝っぱらからまさかまた見合い話ではなかろうか、と――十時半が朝っぱらと呼べるものであるならの話だが。

 今この状態で、昌子の相手は目の前に万札をいくら積まれようとも御免被りたかった。

電話が切れて万が一にも戸口を叩く者があっても、全力で居留守を使うだろう。

 手の中の携帯がバイブを止めて沈黙する。

 恐る恐る覗いてみると、昌子からの着信が今朝から三度あったことを知った。

 本当に家まで来やしないかと心配になってきたが、それを気にしている余裕も猶予も今の由汰にはない。

 どうにか腕を突っ張って鉛を全身に被ったように重い体を押し上げると、そのまま後ろに尻もちをつくようにへたり込んだ。

 柱に寄り掛かって一息つく。

 視界が狭いと思えば前髪だった。

 前髪が汗で額にべったりとくっついていて、由汰の視界を奪っている。気持ちが悪かった。それを指で払いのけるには今は余力が惜しい。

 急を要するのは測定器だ。

 近くに血糖値の測定器が転がっていないかを目だけで探す。

 幸いにもそれは枕の下に埋もれるようにあった。

 おそらく昨夜、寝る前に測ろうとして準備したものの、僅差で訪れた睡魔の勝利であえなく放置されたものと推測される。

 血糖値を測って、まず棺桶に片方の爪先くらいは突っ込んだかもしれないと言う事実だけは分かった。今すぐにでも糖分を摂取する必要があるほどには。

 ゴンゴン、ゴンゴン、と由汰は柱に後頭部を打ち付つけて、どうにか気持ちを落ち着かせようとした。

 だが、何度か打ち付けて忌々しげに目をつむる。

 このどうしようもなく込み上げてくる苛立ちをどこに向けたらいい。

 うまくいかないもどかしさも、腹のそこに燻るような恐怖も、不安でたまらず押し潰されそうになる胸も。

 潰れるほど握りしめていた測定器を思わず投げつけた。

 間髪入れず携帯電話も畳に投げつけると、額にくっついた前髪を指先で荒く掻きむしった。

 前髪を鷲掴んだまま奥歯が折れそうなほど強く噛みしめて、全身に粟立った恐怖をやり過ごそうとじっと堪える。

 こんな日は自分が独りだということが心底嫌になる。怖くてたまらない。

 心臓が今更ながらバクバクと騒ぎだした。

 爪先とは言え、あと数十分も眠っていたら片足は完全に棺桶の中だった。

 誰かに側にいて欲しいと思わずにはいられない。ただ、それが誰でもいいわけじゃないと言うのが難しいところだったが。

 今朝久しぶりに見た夢を思う。できることなら、三千雄に傍にいて欲しかった。

 三千雄が死んで二年。無我夢中で店を切り盛りしてきたものだから、振り返ることなどなかったものの、病気になって十か月、近ごろ気負ってきた気持ちが脆くなり始めてきているのを感じる。

 項垂れて深い息を吐いた。

 嫌味なほど良い天気の日曜日、こんな日など織部は何をしているのだろうか。やはり仕事だろうか。

 馬鹿みたいにそんなことを考えてしまう。

 三千雄がいないなら、織部がいい。

 なぜだか、埒も無くそんなことを思った。

 彼にたとえ不毛だなんだと罵られても、甲斐甲斐し過ぎる口うるさい昌子や、知った顔で人を病人扱いし過ぎる兼子といるよりかは、はるかに気が楽な気がした。

 結局、織部からは水曜の夜以来なんの音沙汰もない。自分は何を待ちわびているのか。

 とにかく、調査報告を知りたいというより今は織部の声が、なんだか無性に聞きたかった。

 連絡がないなら自分からしてみるというのは――いや、と考えて項垂れた。

 いやいや待て、と天井を仰いで力なく首を振った。

 今はそんなことを考えている場合じゃなかった。

 だるい体を引きずるように動かして重い腕をどうにか伸ばせば、控えめにずっと鳴り続けていた目覚ましのアラームをようやく止める。

 静まり返った部屋が、一瞬昌子でもいいから傍にいて欲しいと思ってしまうほど、妙に心細く感じたのはこの際無視するに限る。

 まずは低血糖から抜け出すことを優先しなければ。

 今朝はインスリンを打たずに先におにぎりと加えてポカリスウェットとゼリーも食べた。眩暈も震えも酷く、食欲はまるでなかったが、無理やりにでも口にしなければ早くて数十分、遅くとも数時間後には確実にあの世行きだ。

 ここまで体調が崩れるのも珍しい、というより、初めてのことだった。

 近頃三十度を超える夏の猛暑に血糖値が左右されてうまくコントロールができなくなってきている。

 冬の寒さよりも夏の暑さのほうが由汰にとっては影響が強いようだということが分かってきた。

 幼稚園児様々な朝食を――十一時手前の食事を朝食と呼べばだが――を終えた後、汗で湿ったシーツを洗濯機に突っ込み、汗まみれの体をシャワーで洗い流したら少し元気になった。

 今日はこれから銀座高島屋で催されている加賀友禅の花嫁暖簾展に出かける予定だ。

 体調の悪い日はなるべく出歩かない方がいいのだが、展示会の最終日でもあったし、三千雄の友禅が加賀友禅から学んだものだと言うこともあって、その原点的なものをどうしても見てみたかった。

 風呂上りにボクサーパンツ一枚のまま髪の毛を直して髭を剃ると服を着る。ヘンリーネックの麻シャツの袖を肘まで捲って、お決まりの細目のジーパンに足を突っ込んで身支度を済ませると、居間で歯を磨きながらリモコンでテレビをつけた。

 昼のニュースを背中で聞き流しながら台所で口をゆすいでいると、なんだ? なんだなんだ? と言う気持ちが沸きあがってくる。

 今まさに、テレビの中でアナウンサーが読み上げるニュースに、由汰は蛇口をキュッと止めながらピタリと動きを止めた。

 頭がそれを理解した瞬間、勢いよくバッと振りかえってテレビに釘付けになる。

 拭き損ねた口端からだらしなく水が滴り落ちるのも構わないほどに。

 心臓が激しく脈を打った。

 真っ赤な口紅をべったりと塗りたぐった大きなパールのピアスをした中年の女性アナウンサーが、報道フロアーからニュースを伝えている。

 もう一回、と念じながら由汰はテレビに食い入る。

『繰り返します。今朝、警視庁から発表のあった都内のインターナショナルスクールに通う中学三年生の堀北蒼流(ソウル)くん十五歳と、光音(ライト)・エメリーくん十五歳が行方不明になっている事件で、先週火曜日未明に、堀北蒼流くんの遺体が北区荒川近辺の公園で発見されていたことが、警視庁からの発表で明らかになりました』

 これは一体なんの冗談だ。

 由汰は目を凝らしてゴクリと唾を飲み込んだ。

 ワイプで映し出された証明写真は見間違いようがない。

『当初、行方不明になったとされる先々週金曜日から二人は自宅に帰っておらず、堀北蒼流くんの遺体発見を機に、二人はなんらかの事件に巻き込まれたのものとされています。なお、光音・エメリーくんの行方は依然行方不明のままとなっており、その安否が危ぶまれています。今後、警察は情報公開を行い有力な目撃情報などないか調査する方針で――』

 あの写真も、こんなキラキラネームも忘れるわけがない。

 死んだ? 遺体で発見されたって? それも先週の火曜日の未明に――。

 失踪どころかこれは殺人事件じゃないか。

 由汰は掌の甲で濡れた顎を拭いながら唇を指で擦った。

 そのままキッチンに寄り掛かってニュースを眺め見る。

 周辺をぼかした状態で『径』の正面入り口が映し出されていた。最後に目撃されたとされる場所として。

 いつ撮りに来たものなのか。今朝方か。棺桶に足を突っ込んでいる最中だったので気づかなかった。きっと朝のニュースでも流れたはずだ。であれば、おそらく昌子からの電話もこの件に間違いない。

 由汰は台所を離れると携帯電話を探した。ニュースはしっかり耳で聴きながら。

 先週の火曜日未明と言ったか。確か織部たちが『径』に来たのがその日の夜で、初動捜査が遅れた理由を失踪届が出されたのがその日の朝だったからと長谷川が言っていた。

 ――違う。遺体が発見されたのがその日の朝だったのだ。

 織部もこの家に彼らがいないことははなから知っていて、由汰をふっかけたのだ。

 翌日の現場検証は、単に本当に彼らがこの『径』からどうやって出て行ったかを調べるものだったに違いない。出て行った形跡が発見できなければ、この家の中を隅々まで調査――いや家宅捜査するつもりだったのだろう。

 長谷川がなんと言おうと確実に由汰は容疑者だったはずだ。しかも殺人の。

 幸いにも家宅捜索が行われる気配がないところを見ると、彼らが裏庭から出て行ったことは十中八九間違いないのだろう。

 捜査の都合上、由汰に言えなかったのは分

かるが、できれば是非教えて欲しかった。

 おかげで中二階に誰かが潜んでいるのではないかと、さんざん気を揉ませられたのだ。

 NKビルに防犯カメラまで見に行ったりして。

 今朝、起き抜けに投げ飛ばしたままの携帯電話を寝室で見つけると、迷わず織部に電話をかける。

 できれば、きちんと織部の口から説明が聞きたい。

 けれど、ワンコール、ツーコールとコール音が虚しく鳴り響く中、留守番サービスに切り替わってしまった。

 少しがっかりしながらもそのまま電話を切る。

 だが、切ったそばからすぐに携帯電話が震えだす。

 慌てて通話ボタンを押して「織部さん!」と思わず呼びかけそうになって寸前で噤んだ。

『由汰くん?! 生きているのね?!』

 通話の相手は慌てた声の昌子だった。

 なんてことだ。しっかり確認もせずに出てしまったものだから、てっきり直ぐに折り返してきた織部からだと思ってしまった。

 由汰は、勢いよく吐きかけた言葉を喉に詰まらせた。

 指で眉間を摘みながら失態を嘆く。

「やあ、おはよう昌子さん」

 喉を詰まらせた割には、なかなかに落ち着いた声が出せた。上出来だ。

『おはようじゃないわよ。どうして電話にでないの? 何度も電話したのよ。例の事件のニュースはもう見た?』

「ああ、今見たよ。店が映ってて驚いた」

『店なんてどうでもいいのよ。それより、家の前に報道陣とかいないの? 今日は外出は控えた方がいいわ。なんなら家に来てもいいのよ』

 まさか、冗談。

 昌子の家に行くくらいなら報道陣に追いかけ回されるほうがずっとましだ。

 とは思いつつも、気になって店に降りると大戸口から外の様子を確認した。

「今はもう誰もいないみたいだよ。そんなに心配することないって。別にここが殺人現場ってわけじゃないんだからさ」

『そうだけど……』

「それに、今日は銀座まで友禅展を見に行くんだ。最終日だし見逃したら最後。外出しないでいるなんてできないよ」

 そう言うと、昌子が電話口でしばらく黙り込んだ。

 聞こえるか聞こえないかの小さな溜息が聞こえた。

『今朝、店の方にも電話したのよ』

 目覚まし時計の可愛いアラームとは比べものにならないほどけたたましいデジタル音をたてて鳴る店の電話に?

 由汰は目を見開いて愕然とした。

 それすら気づかず目を覚まさなかった事実に、再び全身が凍り付きそうになる。

『もしかして具合でも悪いんじゃないの?』

 本当に心配しているからこその、いつもよりも深刻さを帯びた昌子の、トーンを押さえた声に由汰は唇を噛んだ。

「いや、風呂に入ってて気づかなかったんだと思うよ。汗が酷くて、ほらその熱帯夜だったでしょ?」

 もしかしたら動揺が僅かに伝わってしまったかもしれないとドギマギしていると、昌子はそれきり追及はしてこなかった。と、言うより、察しながらも由汰のために口をつぐんでくれたと言ったほうがいいかもしれなかった。

『ならいいのだけど。もう少しで店まで行くところだったわ。煩わしいと思っても電話には出てちょうだいね。面倒臭くても折り返しちょうだい』

 分かったと応じながら、酷く罪悪感に苛まれた。

 昌子の気遣いが少しだけ胸に染み入る。

 必死になって連絡を取ろうとしてくれるのは、今はきっと昌子だけだろう。

 その心配がたとえ杞憂で終わったとしても、その杞憂を心から喜んでくれるのもまた今はきっと昌子だけだ。

 何かあれば連絡ちょうだいよ、と再三にわたって言う昌子に約束すると応じて電話を切った。

 



 少し休もうとカフェコーナーに来た由汰は目のまえの光景に目を瞠った。

 こんな偶然なんてあるのかと。

 展示場のある高島屋八階。エスカレーターを通り過ぎたところに設置されたテーブル席とソファーがあるだけの簡易的なカフェコーナー。

 四歳くらいの小さな女の子を真ん中に、それを挟むように両サイドに座る男女の姿に釘付けになる。

「パパ」

 そう呼ぶ女の子に、眦を下げて優しく微笑みかけるのはあの織部だ。

 今朝、由汰は昌子の電話のあとも何度か織部に電話を掛けていた。

 けれど、電話は留守番電話サービスに切り替わるばかりで織部が応答することはなかった。

 織部に電話するのを諦めて、汗まみれのシーツやパジャマを洗濯して家を出たのが十三時ごろ。一時間半近くかけてようやく高島屋に辿り着いたのが十分ほど前だった。

 三十二度の猛暑と、乗り継いだ電車内の冷房にあてられて、既にふらふらだった由汰は、トイレに駆け込んで低血糖なのを確認すると、ここ最近低血糖になりやすいことを考慮して念のためブドウ糖のパウチを二つ捕食した。

 洗面台に両手をついて鏡の中に映る酷い顔色の自分にうんざりしながら、展示場のある八階へと来た。

 けれど、低血糖は思いのほかしつこく、ブドウ糖が効いてくるまでどうやら休養が必要と判断し、カフェコーナーへと来たのだが。

 まさか、365日分の一の、この広い東京で、こんな場面に遭遇するとは思わなかった。

 刑事の顔なんてどこにもない、子煩悩な笑顔を浮かべた織部は半袖の開襟シャツにスラックス、長い足を組んでテーブルに頬杖をつきながら娘とおぼしき女の子と楽しそうに話し込んでいる。

 ある特定の人だけが向けてもらうことのできる穏やかで愛情深いその表情に、どうしてか由汰の胸が鈍く痛んだ。

 娘を挟んで逆サイドには母親とおぼしき女性が――つまりは織部の妻だと思われる女性が座っていた。

 それも華奢で清楚で良い身なりをした花も恥じらうほど綺麗な女性だった。この上なく幸せそうな笑顔で二人のやりとりを眺めている。

 男が必死に長いものに巻かれて手に入れたまさに理想の形がこれなのだと思った。

 何度もかけた電話にでなかったのはこのためか。

 まさかこんなところで織部と遭遇するなんて。それも、かなり想定外の状況で。とんだ不意打ちだった。

 どうやら自分は動揺しているらしい。

 座ろうとして斜め掛けのワンショルダーボディバッグをおろそうと掴んだ手が心なしか汗ばんでいる。

 聞きたいことはあったけど、こんな状況で顔を合わせるのはごめんだ。

 由汰はゆっくりと後ずさった。

 幸いにも、向うはまだ由汰に気づいていない。

 話し声はほとんど聞こえないが、織部はこの上なく家族の団欒を楽しんでいるように見えた。

 天気の良い日曜日の昼下がり。

 ああ、そうだ。これが家族の本来あるべき姿だ。由汰自身、一度も味わうことのなかった光景だ。小さい頃、まさにあの幼女くらいのころ、こう言った光景を見て焦がれなかったと言えば嘘になるし、実際羨ましかった。

 どうして織部が結婚していないと思えたのだろう。

 あれほどまでに世間体を気にする男に、どうして妻と子供がいないなんて思ったのだろう。

 せめて心の準備くらいはしておきたかった。次からは人にあったら一番に既婚を疑うべきだ。

 彼の定義に大きく外れる自分が、ここに居てはいけないような気がした。無意識に動揺が増す。

 感づかれてしまったら最後、脱兎のごとく逃げ出すなどといった醜態を晒しかねない。早鐘を打ち始める胸を拳で押さえつけながら、とにかく一歩また一歩と後ろに下がった。

 少し距離ができてようやく「今だっ」と体を翻そうとしたその時、

「――南くんっ!」

 なんてことだ、悪いことは重なることをすっかり忘れていた。

 背後から大きな声で呼びかけられて思わず舌打ちが出る。もちろん、由汰以外には聞こえていなかったが。

 落胆の色が顔にまざまざと滲んでいたに違いない。

 項垂れたい気持ちを拭うように、天井を仰いでからどうにか平常心を顔に取り戻して、ゆっくりと背後を振り返った。

 手を振りながら駆け寄ってくる兼子を、通路端に観賞用として置かれた白磁の壺で殴りつけたい衝動を必死に抑えながら。

「やっぱりそうだ! この時間帯なら君に会えるかもしれないって踏んでいたんけど、どうやら今日の私はついていたみたいだね」

 などとのたまって微笑むしらじらしい兼子の笑顔に、小さく笑みを返しながら視線を横に向けた。

 ほらね、お見事。

 案の定、織部が由汰をじっと見ている。外敵を見つけたような獣のような形相で、酷く険しい辛辣な目をして。

 最悪だ。いや、最高? おかげで低血糖からも抜け出せて朦朧としていた頭も今のショック療法で完全に復活だ。

 兼子の出現でこの場を無言で去ろうとした努力も無駄に終わり、今朝のニュースのことも重なって再びイライラが込み上げてくる。

 全ては病気のせいだと思えたら楽なのに。椅子になんて座りたいなどと思わず、まっすぐ展示場に足を向けていれば避けられたケース。

 このまま素知らぬ顔でやり過ごしてしまおうかと思ったが、そうもいかなかった。

 妻の顔が、織部の視線に釣られるようにして由汰を見たから。

 不思議そうな表情を浮かべたかと思えば、次にはそれが困惑とも剣呑ともつかぬ表情に変わる。

 無視して目を逸らすわけにわけにはいかなくなった。

 妻の目を見て、それから織部の目をみて客向けの控えめなスマイルと共に軽く会釈だけした。

 織部が会釈をしたかは分らない。すぐに兼子の方に顔を戻してしまったから。

 これで充分。あまりあるくらいだ。あとの説明は織部が妻にするだろう。

「知り合いかい?」

「ええ、まあ」

 兼子を促しながら短く答える。詳しく言う気はもとよりない。

「顔色が今日も一段と悪いようだけど、あそこで少し休もうとしていたんじゃないのかい?」

 エスカレーターの横を通り過ぎながら、親指で過ぎ去った背後のカフェコーナーを兼子が指す。

 いつもの決まり文句に大きな溜息がでそうなのを必死に堪えて、力なく首を振ってみせた。

「ブドウ糖をここに到着した時に口にしたので、じきによくなると思いますよ」

 現に、既に体のだるさと眩暈はとれていた。

「兼子さんは今?」

「ああ、今さっきね。私はあのカフェコーナーで少し休もうと思ってた」

 由汰は、はっとして足を止めた。

「そうだったんですか? すみません。言ってくれれば……」

「いんだよ。君に会えたから」

 気分を害した風もなく、相変わらず涼しげな目許を細めながら紳士的な態度で隣を歩く。

「そう言えば、もうニュースは見たかい?」

「え? ……ええ。例の少年たちの事件ですよね」

 思いの外、さっきの団欒風景がショックで、頭が上手く切り替えられないでいた。

 どこか上の空のまま応える。

「ニュースではあまり詳細状況について語られていなかったけど、何か聞いてる?」

 ああ、聞こうとした。何度も電話をして確認しようとしたけど、織部は出なかった。

 無言で歩くそんな由汰を気遣うように優しい声で尋ねてくる。

「あれって、さっきの男性のことだけど刑事さんだろう?」

「え?」

 驚いて顔を上げると、兼子は前を向いたまま口角を軽く上げた。

「実を言うとね、彼、私のところにも聞き込みに来てるんだよ」

「そうなんですか?」

 近所であるし、あの界隈を聞き込みに回っていたと考えれば、兼子の店にも行っていたとしてもなんら不思議なことではなかった。

「少々強面ではあるけど見目はそう悪くない。三白眼の苦み走った顔は、女からの誘いも引く手あまただろうね。いい男だよ。けど妻子持ちだったとは――君は、彼みたいな男がタイプなのかい?」

 さらっと問われて内心で心臓が跳ね上がったのは、顔にこそ出さなかったもののおそらく観察力の高い兼子には見抜かれたに違いない。

 そうかと言って、馬鹿正直にそれにイエスと答えるほど由汰もお人よしではなかった。

素知らぬ顔でやり過ごす。

「三白眼は僕の範疇外なんですよ。どうも昔から苦手でね、好きになれない」

 今までは、とまでは口にしなかった。

「ほう」

 正面を見据えながらそう応える兼子の声音が幾分低く感じられた。

 眉を顰める。何か気に障るようなことでも言ってしまっただろうか。

 そのまま黙り込んでしまった兼子を見やりながら、気まずい空気に視線を落とした。

 時々、兼子が何を考えているのか分らなくなる。そわそわヒヤヒヤさせられて、この男といると気が休まらなかった。

 内心でどっと疲労感を覚えながら息をついた。

 この後、兼子と共に友禅展を見て回ると考えたら気が重い。

 声を掛けられた時、既に見て回ったのだと嘘でもついて外で時間を潰してからもう一度出直して来ればよかった。友禅展は夜の八時までやっているのだから。

 だがしかし、全ては後の祭りだ。

 展示場に入るまでの間、兼子はずっと無言だったので、由汰もあえて何か取り繕って話をふることはしなかった。

 思った通り加賀友禅は素晴らしいものだった。

 沈み込んでいた気持ちがふわっと浮上して心が洗われていく。疲れていた体と気持ちが癒されていく気がした。

 無理をしてでも来て良かった。予期せぬ男たちに遭遇したことを合わせ見ても。

 丈幅一メートル強ほどの華やかな暖簾が、所狭しと幾つも壁に飾られている。

 溢れんばかりの花々が飾り盛られた花車や、兼六園を背景に描かれた豪奢な扇、その他にも山水や松など多彩な色で彩られて、どれも花嫁がくぐるに相応しい作品ばかりだった。

 兼子も展示場に入ると気難しい空気が取り払われて、二人して加賀友禅を京友禅と比較しながら話して回った。

 京友禅は、染めること以外に金箔や刺繍などの装飾を頻繁に併用するのに対して、加賀友禅は染め作業のみと言っていいほど金箔や刺繍を併用しない。

 装飾を併用する京友禅はかといって派手かと言えばそうではなく、柔らかい色調を好む傾向があり、その上何色が基調になっているのか、判別しにくいほど多彩な色を使いこなすため、非常に華やかで上品な仕上がりになる。実に高い技術が要求される作業だ。

 対して一切の装飾を併用しない加賀友禅は、どことなく地味なイメージを持ちがちだが、こちらもこちらで紅や緑、紫など深みのある加賀五彩と呼ばれる豪奢な色彩を基調としているため、京友禅に負けず劣らず出来栄えは目を奪われるほど優雅で艶やかだった。

 由汰は、着飾らずとも、粉吹かんばりにむせ返るような花車を描く加賀友禅のほうが好きだった。

 豪華絢爛な京友禅を好む兼子とはその辺りで意見が割れたが、思ったよりも兼子と見る友禅展は有意義なものだった。

 兼子は博識だ。色んな方面に目が利くだけあって知識も豊富だった。話していて飽きないのは確かだ。

 今回、加賀友禅の匠らの作品がずらりと並ぶなかに、若手の染師による作品が幾つか展示されていた。

 匠たちの花車や鴛鴦、孔雀などといった縁起物をモチーフにしたものと違って、若手の作品は都会的で洗練されたお洒落な絵柄をモチーフにした花嫁暖簾だった。

 なかでも、ノルウェー出身の画家であるエドヴァルド・ムンクの『生命のダンス』をモチーフにした作品に兼子が興味を惹かれたようだった。

 絵の中に描かれている白と赤と黒のドレスを纏った三人の女性を暖簾の上に模している。

 こういった絵画を友禅で描いた作品を、由汰は今まで見たことがない。

「この作品は非常にえげつないね」

 兼子が楽しそうに呟いた。

「これはムンクの非常に歪んだ生と愛と死を表現した作品の一つなんだが、知ってるかい?」

「いいえ」

「白は無垢さを赤は愛とパッションを黒はまさしく死を暗示している。もっとあけっぴろに言えば白服の女性は処女で、赤服の女性は性的誘惑のシンボルだよ。まさに男を知ったって言う意味のね。そして黒服は不安と孤独と絶望を纏っている。もしかしたら女性としての死かもしれないね。情熱渦巻くダンスの最中にも既に孤独、儚さ、死が暗示されているんだよ。分るかい? それらを踏まえた上でこれが花嫁暖簾だと言うことを重ね見てみると非常に露骨だろ?」

 面白そうに片眉をあげて傍らの由汰を見下ろしてくる。

 確かに、露骨過ぎて正直ジョークにもならない。

 結婚は始まりなんかではなく終わりを意味しているとでも言いたげだ。

 結婚に希望や夢を抱くのは滑稽であって、現実はこんなにも因業なものなのだと。

 兼子の説明がなければ深く考えることもしなかっただろうが、現代の花嫁と言うよりも自分の意志など関係なくお家のために嫁いでいた時代の花嫁を彷彿とさせる。

 この作者はどんな意図でこのモチーフを選んだのだろう。

 なんだか凄く物悲しい。

「少々悲観的になりすぎたかな。君にそんな悲しい顔をさせる気はなかったんだけどね」

 言われてはっとする。

「そんな顔してましたか?」

「違ったかな? 私から言わせてもらえば、彼女たちの人生は君が思っているほど不幸なものではなかったと思うよ。酸いも甘いも全部ひっくるめてね。少なくとも無垢なままで終わらなかったことは、彼女たちの人生を豊かにしたはずだ」

「それって寂しくなかったってことですか」

「ああ、そうだ。死というのはなんであれ悲しいものだよ。でも、彼女たちは少なくとも寂しい人生ではなかったと私は思う。――君はどう?」

「え?」

 訊かれた意味が解らなくてどこか不安気に眉が寄る。

 兼子は微笑した。

「もしかして、まだ白い服を着たままなのかな?」

 それって処女? つまり童貞なのかって?

虚をつかれて、不覚にも顔が一気に蒸気した。みっともないくらい取り乱して瞠目したまま言葉もでない。

 羞恥と動揺とで誤魔化すにはもう手遅れだった。

 笑われると思った。大笑いされると。三十過ぎてまだ童貞だなんて知って。

 何も言えず口籠って俯いてしまった由汰に、けれど、兼子の反応は想像したものと少し違うものだった。

 鳩が豆鉄砲をくらったような顔になって、穴が開くほどしばらく由汰を眺めてから、やおら怖いくらい真顔になると、斜め下を向きながら唇を引き結んで噛み殺すように笑い出した。

 小刻みに肩を震わせながら。

「兼子さん……」

 思わず咎めるような声が出る。

「いやいや……すまない」

 そう言いながらも、兼子の目は柄にもなくぎらついているように思えた。

 馬鹿にしている? のではなさそうだし、同情している風でもない。

 むしろこれは――。

「歓喜だ」

 待て待て――今なんて?

「歓喜だよ。喜んでたんだ、君がまだ無垢なままだと知ってね。いや、変な風にとらないでくれよ? 君は本当に綺麗だよ。穢れのしらないビスクドールみたいにね。心は成熟しているのに体はまだ無垢のままだなんて君は本当に期待を裏切らない。その顔でよくぞ免れてこれたと感動すらするよ。下世話な言い方だけど、天然記念物なみに希少だね」

 それはどうもありがとう、と頭を下げろとでも?

 満足気に引き上げられた口角を見て、すぐに揶揄われているのだと分かった。

 口許をムッと尖らせて右肩だけを上下させる。

 そんなふうに言われて気分を害さないわけがない。

「揶揄うのは胸の内だけにしておいてくれませんか」

 せめて友禅展が終わるまでは。

 無垢なままでいてくれて嬉しいだなんて、他人事だからそんなことが言えるのであって、ちっとも喜ばしいことなんかではない。

 二十代のころは焦りもあった。三十を超えてから諦めが先行するようにもなったが、それでも枯れてしまうにはまだ早いだろうと土俵際で競ってもいる。

 そういった機会なら幾らかあったかと思う、今までも。それこそかつて通っていたBARなどで。

 けれど、その都度どうしても一歩踏み出すことができなくて、そうこうしているうちにあれよあれよと言う間に時が過ぎてしまった。

 初めての相手は、ハッテン場などの行きずりの相手ではなく、心から好きだと思える相手と肌を重ねたいと望むことは贅沢なことなのだろうか。

 それこそ『生命のダンス』を観て現実を知れとでも言われているようだった。

童貞なんてつまらないものはさっさと捨ててしまえ。

 そうでないから――ああ、分ってる。どうせ寂しい人生だよ、と心の中で悪態をついて自ら眉を寄せた。

 悔しいが、兼子の言っていることは正しい。

 白い服のまま死を迎えてしまったら、それはきっととても味気なく寂しい人生だろうと。

 長いものに巻かれることは、時に人を豊かにするのかもしれない。

 織部の言うことも多かれ少なかれきっと正しい。綺麗ごとばかりで世の中渡ってなどいけないのだ。

 けれど、楽な道を選んでしまっているようでできない。

 巻かれ方も分らない。そもそも長いものとはなんだ。自分にとっての長いものとは。

 セクシャリティを隠してまでする愛のない結婚のことだろうか。

 馬鹿げてる。

 そんなことするくらいなら白服のまま墓場に入るだけだ。どうせ死んだら着るのは白装束なわけだし。

 結局、なんだかんだと二時間近く友禅展を観て回ってから高島屋を後にした。

 そのころ織部がまだいたかは分らない。カフェコーナーは通らずまっすぐに下へ降りたから。

 兼子から夕飯を誘われたが断った。

 これ以上一緒に居るのは忍耐が持ちそうにもなかったし、それに正直言うと体調もまた悪くなってきていたというのもある。

 友禅展を観ている間も、事あるごとに顔色のことや血糖値のことをあれこれ言われて辟易していた。

 昌子が来る予定なのだと嘘をついて、帰りは早々にタクシーに乗り込んだ。

 あまり上手い嘘ではなかったが、あれこれ考えている余裕がなかった。

 タクシーに乗り込んでヘッドレスに頭を預けた瞬間、思った以上の体調の悪化を感じる。

 家までは二、三十分てところだろう。渋滞にさえ巻き込まれなければ。

 頭が熱を帯びたようにボーッとしはじめる。

 眠気が襲い掛かってきて目を開けているのもしんどいくらいに。今にも深い睡眠の中に落ちてしまいそうだった。兼子から解放され、一人になってほっとしたのもあるだろう。

 体が重い。リアシートに吸い付いて溶けて離れられなくなりそうだった。

 これはどうも単純な疲労や低血糖とは違うな。頭の重さと眠気ときたら今までの経験上、これは高血糖の症状だ。

 十四時半頃、ブドウ糖をトイレで口にしてから何も口にしていないのに。

 ストレスのせいかもしれない。極度のストレスは血糖値を左右するのだ。運動や気温差もそうだが。

 思い当たることと言えば、高島屋で感じたストレスとこの気温差、そして低血糖ぎみだからと用心していつもより一本多く口にしたブドウ糖のせい。

 良かれと思ってしたことが仇となった。眠気に負けそうな意識を手繰り寄せながら、思い通りにいかない何もかもにじわじわと沸き起こる苛立ちも抑えきれない。

 奥歯を噛みしめて、膝の上の拳を強く握り込んだ。

 このまま眠って、つかの間の現実逃避を手に入れることもできる。失明や手足の切断の大いなる可能性と引き換えにだが。

 由汰はバックの中からペン型のインスリンを取り出した。

 血糖値を測ってからにしたかったがどうやら昼間トイレで使った測定針が最後の一つだったようだ。家につくまでもちそうにもない。

 だが、仮に寝落ちしても、家につくまでの間であれば大きな問題ではないかもしれない。

 一瞬悩んだ末、一単位だけインスリンを打っておくことにした。

 どれだけ打てばいいのか測らない以上分らないから。一単位打っただけで低血糖にまでなることはあるまい。

 タクシーのバックミラーを気にしながらシャツの裾をたくし上げると脇腹にインスリンを打ち込んだ。




 今日はきっと厄日なのだ。心底そう思わずにはいられなかった。

 思ったところで、平静さを保つことは既に難しくなっていたが。

 今しがた車内から歓迎しかねる人物を家の前に見つけて、一瞬タクシーから降りるのを躊躇ったが、代金を支払って結局背後でタクシーを見送った。

 幸いにも一単位が功を奏したようで眠気は無い。

「ジャン」

日は陰ってきていたが、外は息苦しいほどまだ暑い。

 タクシーから降りると全身からどっと汗が滲みでた。

 〈定休日〉と札の掛けられた『径』の前、

この界隈には不釣り合いな長身で肩幅の逞し

い金髪碧眼のフランス人が大戸口に腕を組ん

で凭れるように立っていた。

 年は五十歳になるのかなったのか。

 母の再婚相手のジャンだ。

 由汰が家を出る、確か一年ほど前から母が付き合いだした、由汰が知る母の歴代の男の中で唯一まともと言える男だ。だが、好きかと言われれば、また別の話。

「半年ぶりだな、ユタ」

 碧眼によく似合う淡いブルーの開襟シャツに黒のスラックス。ビジネスライクのシックな服装だ。

「先週から仕事で日本にきているんだが、今日は少し時間が空いてな、寄ってみたんだよ」

 少しハスキーで低い穏やかな声。それでもって驚くほど流暢な日本語だ。

「元気にしていたか?」

「まあね。そっちは? 来るなら来るって連絡をくれれば良かったのに」

 そうすればいくらでも雲隠れができたのに、とは言わなかった。

 由汰の顔には愛想のあの字も無い。歓迎していないことをこの男相手に隠すつもりはなかった。

「仕事で日本に来たからって、わざわざ忙しいなか、僕のところに毎回寄ってくれなくてもいんだよ」

 謙遜ではなく本心だ。むしろ、寄ってくれるなと思っている。関わり合いたくない。

「今日はなに?」

「立ち話もなんだから、どこか座れるところにいかないか。お前さえよければ家にあげてくれてもいいんだが」

 まさか、ありえない。

「喫茶店に案内するよ」

 『径』から二本ほど外れた通りにこじんまりとした喫茶店がある。

 店主は年を取ってはいたが背筋の伸びた品のいい老人で建物は古かったが、レンガ造りの外観と店内とコーヒーは評判がいい。

 席に着くとお互いアイスコーヒーを頼んだ。

 運ばれてくるまで待って、ジャンが口を開く。

 由汰はテーブルに組まれた筋張ったジャンの指を睨み付けながらストローを吸った。

「店は順調にいってるのか?」

「ああ、おかげさまで」

「体調を崩してなどいないだろうな」

 それは風邪を引いていないかってこと? なら答えはイエスだ。

 糖尿病のことを言っているのであればノー。しかし、ジャンに持病のことは言っていないし、今後も言うつもりなどない。世話になる気も援助を受ける気もさらさらないからだ。

「この通り、元気さ」

「お前の母さんも元気にやっている。お前に会いたがっているよ」

 はっ、またその話。

 免疫ができ過ぎていてアイスコーヒーだってもう吹き出さない。

 三千雄が死んでからこの二年弱、顔を合わせればいつだってこの話題だ。

 うんざりしていた。それを隠すつもりはない。

「ジャン。毎回そう言うけど、あの人がそんなこと言うはずがない。僕に取り入りたいなら、どうか今言ったことと真逆のことを言ってくれないか」

 ジャンは言い終わらない内から首を横に振って、悲しそうに目を伏せながらひと息ついた。

「それは違う。母さんは本当にお前に心底会いたがっているんだ。できれば一緒に住んでやり直したいとすら言っている」

 今度は思わず口に出して叫んでいた。

「冗談っ」

 一緒に暮らしたいだって? ああ、どうか言い間違いだって言ってくれ。

 由汰が二歳の時、両親は離婚した。

 物心ついた時には自分は母に憎まれる存在だった。

 フィンランド人の愛した男に裏切られた母の矛先は、その男の面影を色濃く残した由汰に向けられた。

 抱きしめられた記憶なんてない。叩かれて殴られて罵られた記憶ならいくらでもあるが。

 由汰の家は、近所でもちょっとした噂だった。見かねた近隣住人から通報されて、児童相談所の職員が家を訪問すること数知れず。

 由汰が小学二、三年になった頃から、母は方法を変えるようになり、なんとも浅ましい行動にでるようになった。

 あたかも己の子供を、かつて裏切った夫にみたてるかのように。

 一方的な怒りを、成長すればするほど、愛した男の面影をなおも増して色濃くしていく由汰へ当てこするかのように。

 全てが終わるまで部屋から出て行くことを許さず、その場で一部始終見ていることを強いられた。

 母が行きずりの男と情事を交わす光景を。

何を求めていたのか、未だに解からなければ知りたくもなかった。

 嫉妬――。考えたくもないのに、そんな単語が頭に浮かぶ。

 母は、他の男に抱かれている様を見せつけて、己の子供の瞳の奥に、かつての夫を見て嫉妬を仰いだのかもしれない。

 そんなものを乞うなど、哀れで惨めでしかないのに。

 実際に母が由汰に手を上げることは無くなったが、そういった精神的虐待はそれから数年続いた。

 由汰が未だに童貞から抜け出せないのは、そこのところが少なからず影響しているのかもしれない。

 恐ろしくて辛くて悲しくて、顔をぐしゃぐしゃにしながら涙する幼い由汰を見て、母は満足気にいつも笑んでいた。

 男の上で、下で、腰を振りながら片時も視線を緑の目から逸らさずに。

 その様を憎々しいかな、今でも鮮明に思い出すことができてしまう。呪いたいほど忌々しい記憶なのに。

 そんな女と、今さらどうして一緒に暮らせる?

 自分で望んだわけではないのに、小学生のころから緑の目とその生気のない人形のような生っ白い見てくれのせいで、学校ではちょっとしたいじめも受けた。けれど、家に居るよりかははるかにましだったから、熱が出ようとも学校を休むことはなかった。

 帰宅恐怖症になったのは小学校五年生のころから。

 うらびれた古くて狭いアパート、学校から帰ってくると玄関の前に立ち尽くしてドアノブを手に取って、そのまま、回せないまま立ち尽くす日々が続いた。

 何時間も、日が暮れて辺りが暗くなっても、近所の住人から奇異な目で見られても、それでも玄関の前からただ一点、ドアノブを見つめたまま何時間も家の中に入れず、佇んでいたあのころ。心を埋め尽くしていたものはなんだったか。

 諦めだったと思う。と同時に、生きていく上での自己肯定感が欲しかった。

 自分はこの世に存在していていいし、愛されるべき存在なんだと言う感覚。心の安心感を。

 誰かに大切な存在なんだと認めて欲しかった。由汰の存在を肯定してくれる誰かが――誰でもよかった――存在肯定してくれる相手なら。それが由汰の求める全てだった。

小学六年生になったころから、母の奇行は無くなったが、ぎこちない関係はいっそ溝を深めもはや母子の繋がりは失われていた。

 高校に進学せず、十五歳で家を出て三千雄のところで住み込みで働くようになった時から母には一度も会っていない。声すら聴いていない。

「ジャンは、あのころの母さんを知らない」

 苦々しく言う。

「全部知っているさ」

 本当に? 由汰は眉をしかめた。

「彼女がお前に見せた全てを知ったうえで、私は彼女と結婚したんだ。彼女は自分でもどうにもならないほど傷ついていたんだよ。救いを求めていた」

 由汰だってずっと救いを求めていた。

「今のお前になら解からないか? 若かったんだよ本当に」

 そう、母は若かった。十七歳で由汰を産んだ。

 十九歳の時には離婚して怒りと悲しみと恨みだけを糧に体を売って生きていた。身寄りのなかった十九歳の母が女手一つで子供を連れて、露頭に迷わずにはいられなかったのは分らなくはない。

 けど、彼女は子供を愛していなかった。少なくとも由汰が知る母は。

 そんな母が今さら自分と暮らしたいと? やり直しただって? 

 脳みそが半分しかないヤツでも分る。答えは絶対的に不可能。いや、絶対に、だ。

「彼女は途中で自分の過ちに気づいたのさ。その後、お前とどう接したらいいのか分らなくて悩んでいたよ。見てるこっちが辛くなるほどにな。お前が十五歳の時に家を出て行った時も彼女はとても苦しんでた」

「探しもしなかったろう。それが全てだよ」

 ストローでグラスの中の氷をカラカラといじって、ほとんど残したままのアイスコーヒーを端に追いやった。

「それは違う」

 テーブル越しに碧眼を見上げる。

「お前の遺書を見つけた時、彼女は裸足で外に飛び出したんだぞ」

「なに」

「裸足で飛び出したんだ、我を忘れるくらい」

 そうじゃなくて、聞き間違いでなければ今『遺書』だと言わなかったか?

「取り乱した彼女を見て、近所の人が警察に連絡をしたんだ」

「そんなの……知らないぞ」

「ああ、その直後に南三千雄から電話がきたからな。警察に出した届け出はすぐに取り下げた」

 遺書なんて知らない。

 脳味噌がキィッと軋むような音をたてて頭を締め付けられるような気がした。

 何か残像のようなものがチカチカっと目蓋の裏をよぎったような。

 ざわざわとした胸騒ぎが――何か――思い出せない。

 それよりも、なんだ。三千雄がなんだと言った?

「……みちさんが、なんだって?」

 聞いていなかったのかと、ジャンの眉が訝し気に寄る。

「三千雄は非常に見識が高い人だったよ。お前に頼まれて住み込みで働かせることになったから心配するなと、しっかり断りの電話をくれたんだ。いつでも会いにこれるように連絡先を彼女に伝えてな。数年前に、私が『径』の前を通り過ぎたのを、まさか偶然だとでも思ったのか?」

「いや」

 正直、考えることさえしなかった。煩わしいと心底思っただけで。都内でバッタリなど、随分不運だな、と己を呪っただけだ。

 それよりも、知らなかった。

 三千雄がそんなことをしていたなんて、全く気が付きもしなかった。

「それがお前のためだと思って、彼女は全てを三千雄に託したのさ」

 もしその話が本当なら、母は初めて正しい決断をした。

 けれど、由汰が二十歳を迎えたと同時に母の戸籍から黙って籍を抜いたことまでは知るまい。

 そう思ったのに、ジャンの言葉は由汰を再び驚かせた。

「お前が自ら籍を抜いて三千雄の養子になったのも知っているさ。三千雄からきちんと連絡をもらったからな。自分が死んだあと、あの店をお前に贈与したいがとてもじゃないが税金を払えない。養子にさえなればお前にあの店を心置きなく相続することができるからとな」

 そんなことまでも――。衝撃だ。では、もしかして遺書についても三千雄は知っていたのだろうか。由汰があの雨の日の朝、自殺をしようとしていたと? 地面に転がった反物を見て心変わりしたとでも?

 由汰はじりじりと指先で下唇をいじった。

 そもそも、その遺書は本当に自分が書いたものなのか。誰に宛てて? 母に?

 まさか、ありえない。だって、もし本当に自殺をするつもりなら、母に残す言葉など一つとしてないからだ。

 それに、三千雄はいったいこの十数年で母とどれだけ連絡を取っていたのか。

 事実と推測が交錯して頭の中を掻きむしりたくなる。

「ああいうのを生粋の江戸気質と言うんだろうな。きっちりけじめをつけてお前の足場を固めてくれたんだ。お前がこうして立派に独り立ちできるようにまで成長できたのは、紛れもなく三千雄のおかげだろう。彼女はそれを知ってさらに自分の不甲斐なさを責めた。なあ、もう許してやったらどうだ。彼女にやり直すチャンスをくれ。ベッカだってお前に会いたがっているんだ。一緒にみんなで暮らそう」

 ベッカは母とジャンとの間に生まれた娘で、今年で確か十一歳になる父親違いの妹だ。

 顔も声も知らない。髪の色も目の色も。ケーキの種類は何が好きでどんな本を好むのか。何一つ知らない、知りたいとも思わない妹だ。

 ベッカは知っているのだろうか。由汰と母がどう言う経緯で疎遠になったのかを。もちろん十一歳の少女が知るはずもないだろう。知るにはまだ若すぎるし、話のネタとしてはあまりにも過激だ。

 どんな嘘八百を並べ立ててベッカを言いくるめた?

 百歩譲って、母が本当に過去の過ちを悔いていて由汰に詫びたいと思っていたとしよう。

 そんなことは絶対にありえないが。

 仮に思っていたとしたら?

 どう考えてもやり直すことなんて不可能だし、まして一緒に暮らすなんてことは世界がひっくり返っても実現することはない。この先永遠に。

 縁もゆかりもないフランスに行くなど論外だ。話にならない。

「悪いけど、その話はもうおしまいにしてくないか、ジャン」

「私は、お前の家族としてお願いしているんだ」

「この件については再三話し合ってきたと思うけど、そのたびに僕らは平行線を辿ってる。母のことで同情をかおうとしても僕の気持ちが一ミリたりとも変わることはないよ。それに、ジャンも言った通り僕はもう南の養子なんだ。もう家族でもなんでもない」

 自分でも驚くほど冷たい言い方だった。けれど、それを気にする余裕はもうない。

 ジャンがその端正な顔に怒りを噛み殺しているのが分る。

「彼女のことを少しは慮(おもんばか)ってやれないのか?」

「僕には母親なんていないよ。もうね。もっと言えば最初から存在さえしなかった」

「ユタっ、実の母親に対してなんだその言い方はっ」

「じゃあなにっ? 僕の気持ちは慮ってくれないのっ?」

「Merde!!」

 バンッとテーブルを拳で叩きつけながらジャンが吐き捨てた。

 フランス語で確か「くそったれ」。

 兼子が翻訳した経済学かなにかの本に、そう言う単語のタイトルがあったと記憶していた。

 本屋なんかをやっていると、どうでもいい知識が増えていく。

「母のことを思って言っているのは充分に伝わってるよ。僕だっていつまでも子供じゃない」

 由汰には理解できなかったが、ジャンは本当に良き夫であり良き父であり、そして心から母を愛しているのだろう。それだけは分る。

「でも、僕の気持ちはどうなる? 僕のことを考えて言ってくれたことはあるの?」

 どうにか冷静さを取り戻そうと拳を開いてテーブルに伏せる。

 ジャンの声は既に平静さを取り戻していた。

「もちろんだ。常に彼女も私もお前の最善を考えて言っている。由汰、フランスはゲイに寛大だ。偏見もなければセクシャリティを無理に抑圧している人間も少ない。パリの市長はゲイだ」

 だから? と言いたかった。

 ジャンも織部と同じことを言うのか。

「僕は、別に何も困ってないよ。不自由なこともない」

「なら、今付き合っている特定の人が?」

 それについては小さく鼻で笑った。

「いや、いないよ」

「なら作るべきだ。私たちを安心させたいならお前も家族を作れ」

 簡単に言ってくれるなと、この件に関しては苛立ちを込めて顔を背けた。

 そろそろ精神的に限界が近い。いや、興奮していて気づかなかったが、どうも先ほどから体の調子も悪い。ストローの袋を小さくちぎって捻りつぶす指先がさっきから小刻みに震えだしている。

 血糖値が無意味に上と下を行ったり来たり。いったいどうしろと? 

 今にも頭を掻きむしってテーブルを叩きつけてジャンに思いのたけを満足するまで怒鳴り散らして、「もう二度とその面見せるな」と捨て台詞を吐きながら荒々しくこの場を去りたい衝動にかられる。

 けれど、なんとか溜息を吐いて背に凭れると目を閉じて天井を仰ぐことで我慢した。

「ジャン、頼むから僕にもう構わないでくれ。気持ちはありがたいよ。本当だ。けど、僕は現状に少なからず満足してる」

 なるべく真摯な対応を心がけた。やり合うには疲れ果てていたから。頭も少し混乱している。穏便にこの場を収めたい。

 それはジャンも同じだったようで。

「いいだろう。今はそれで分かったと言っておくが、お前に関わらないでいるなんてことは今後も請け負いかねる。なんと言おうと私たちは家族だ」

 まだそれを言うのか。もううんざりだ。

「せめて彼女を――ベッカを愛し、お前を愛している良き妻で良き母親であろうと努力している今の彼女を認めることだけはしてくれ」

 それは、と抗議の言葉を口にしようと開きかけたところを手で制される。

 それ以上は言うなと、辛辣な表情に身を引くしかない。

「明日の朝の便でフランスに戻る予定だ。また、会いに来る」

 できれば事前に連絡をくれ、と心の中で呟いた。

 伝票を持って席を立ったジャンが、由汰に背を向けて何か考え込むように立ち止まる。

 項垂れていた頭を上げて、どうしたと眉を寄せる由汰に、

「時には妥協も必要だぞ。生きていく上ではな」

 声は至って穏やかだったが、手の中の伝票がくしゃくしゃに握りつぶされるのは見逃さなかった。

 由汰の口から諦念めいた溜息が漏れる。

 それを無言の合図と受け取ってジャンはその場を去った。

 妥協とは、つまり長いものに巻かれることとどう違う?

 どいつもこいつも、理想論ばかりかかげて自分勝手に表面ばかり綺麗に取り繕おうとする。

 本当の自分をオブラートに包み隠して。

 そんなことになんの意味がある。

 理想論を並べ捲ったところで病気は治らない。綺麗ごとばかりでは自分自身を強く保ってはいられないのに。

 気づけば時刻は既に十九時を回っていた。




 家に着くなりバッグをちゃぶ台に叩きつけた。

 むしゃくしゃしている。朝からずっとむしゃくしゃしている。

 今日は最悪だ。

 腰を下ろしてちゃぶ台に肘をつくと両手で顔を覆った。

 少し眩暈がする。俯いていると目頭に熱いものが込み上げてくる。

 奥歯をクッと噛みしめていないと、今にもわっと泣き出してしまいそうだった。

 体が怠かった。手も足も指先と言う指先全てが冷え切っていた。

 一単位とは言え、打ってから既に二時間。言うまでもなく低血糖の症状だ。血糖値を測らなければ、タクシーの中では一体いくつだったのだろう。今思えば随分と無謀なことをしてしまったような気がする。

 高血糖だろうと見なし、インスリンを打った。そう、見なしで打ったのだ。

 意気消沈している暇などない。今やるべきことをやれと自分を叱咤する。

 だが、庭に干したままのシーツや洗濯ものを思い出すと、動くのが途端面倒になってくる。洗濯を畳むのは明日に回しても、シーツは取り込んで布団を敷かなければならない。

 それより先に、今すぐにでも血糖値を測らなければならない。

 味気ないご飯を無理やりにでも食べなければいけない。

 インスリンを打って、お風呂に入ってまた血糖値を測って、食べたくも無い甘ったるい補食を食べて、イライラして眠れない頭を騙しながら、今宵は悪夢にうなされませんようにと祈りながらどうにかして眠りにつかなければならない。

 今日ほど睡眠薬の在庫がきれていることを恨むこともないだろう。

 バッグから携帯電話を取り出してみたが、着信一つなかった。

 認めたくないが、織部からの連絡を待ちわびている。

 今となってはもうどうでもいいことなのに。

 由汰の手からはらりと畳に携帯が落ちる。

 そのまま立ちあがって測定器の準備をしながら弾かれたように顔を上げた。さっき、大戸口の鍵を閉め忘れたような気がした。

 慌てて上がり端から降りて確認しに行く。けど、取り越し苦労だったようだ。鍵はきちんとかかっていた。

 はあ、とやりきれなさに息が漏れる。

 今朝のニュースで少年の一人が遺体で発見されたことを知って、なぜか以前にもまして神経が過敏になっているような気がした。

 じっとりと汗が額に滲む。

 むせ返るようなむっとした空気を吸い込んで、ようやくそこで気が付いた。

 冷房のスイッチを入れていないことに。

 どうりでイライラが増すはずだ。

 由汰は生え際を手のひらで掻き上げながら額の汗を拭った。

 暗い店内を居間に向かって戻る。とその時、不意にぞわっと肩の辺りに異様な気配を感じて恐る恐る背後を振り返った。

 ゆっくりと、凍てつくような視線を感じて。

 ゆらり……と影が動く。

 いつかの夜のように。

 大戸口の前で何者かがじっとこちらを見つめている。

 街灯がじゃましてシルエットだけ。

 恐怖に竦みあがるよりも先に怒りが込み上げるが早いか、気が付けば駆けだしていた。

 それに気づいたシルエットが大戸口から離れて逃げ出していく。

 大戸口を乱暴に開け放って由汰もその後を猛ダッシュで追った。久しぶりの全速力に足がもつれそうになる。けれど、見失ってたまるかと気概で足と腕を動かした。

 最悪に気分の悪い時に現れたのが運の尽き。まさにアドレナリンハイボルテージ。

 そのせいで、低血糖の症状さえどこえそのだ。

 なにがなんでも捕まえてその面拝んでやると。

 由汰を怖がらせた罰をこの手で与えないことにはどうにも気が収まりそうになかった。

 どういつもこいつもと、全ての八つ当たりを今目の前を必死で逃げ惑う背中に集中させる。

 やや小太りの男。

 冴えないデロデロの伸びきった焦げ茶のTシャツに太めのジーパン。重たげで大きなショルダーバッグ。

 のっしのっしと走る重たい足取りとぜぇーぜぇー息の上がった肩を見れば判る。あきらかな運動不足。

 目の前の男が右の路地を曲がった。

 夕飯時とあって幸いにも人通りが少ない。これといった障害もなくスピードを上げられる。由汰も続いて路地を曲がった。徐々に距離が縮まりつつある。

それに焦りを感じたのか、男はビルとビルのほんの僅かな隙間に体を横にして捩じ込もうと試みている。

 思わず愚か者め、と罵りたくなった。そんな隙間、由汰だった通り抜けられない。

 案の定、男はビルの隙間を諦めて再び慌てて走り出す。そうこうしている内にさらに距離は縮まって、追い詰められた男が右か左かと焦るあまりまともな判断ができず、まさに右往左往しているところを背後から掴みかかった。

 前のめりに倒れ込むのをなんとか踏みとどまった男の腕と服を掴んで、力づくでくるんと正面に向き直させる。

 墨でなぞったような太短な眉に一重の大きな垂れた目。

 そして、四角いフレームの大きな黒縁メガネだ。似合いすぎだった。しかも衝撃でずり落ちている。二十代後半あたりか三十代か、判然としない。

 男の顔は恐怖に青ざめていた。実際には恐怖を滲ませながら、酸素不足から真っ赤な顔をして大汗を流しながら沢山の酸素を必要としているように見えた。

 肩と腹をぜぇーぜぇー喘がせている。

 由汰も久しぶりのダッシュに同じくらい息が上がっていた。

 息を整えながら乾いて張り付いた喉に唾を飲み込む。

 おそらく由汰の顔も青白い。この男とは違った意味合いで。

「君、僕の家を覗いてたろう。……つい、この間も」

「す、すみません!」

 綺麗なつむじを由汰に向けながら、男が勢いよく頭を下げた。

 思わずギョッとして一歩下がる。

「オレ、趣味でフリーのジャーナリストをやってるんす! 山田って言います!」

 山田、お前……。

「趣味で僕の家を覗いていたのか」

「え?! いやいやいや、オレにそんな趣味はないっすよ!」

 と、慌てふためく顔をさっと上げる。ずり落ちたメガネのブリッジを中指でクイッと上げた。

 由汰は、そんな山田を肩で息を整えながら、胡乱な眼差しで眺めて腕を組んだ。

「なら、なに用で?」

「それは、その、例の失踪事件についての取材用で」

 なるほど、そう言うことだったか。

 今更だが、こんな男のために必死に走ったのだと思うとどっと疲労が全身を襲う。

 そう、これはなんてことない。ただの粋狂なマニアならぬオタクだ。

 織部が以前言っていたまさにそれだった。

 ゆらりと揺れた影に怯えて竦みあがっていた自分が馬鹿みたいだ。とんだ茶番だ。

 人通りの少ない路地の頼りない街灯の下で、目的を一瞬にして見失ったような気分だった。

 だが、しかし手ぶらでなんて帰れるか。

「名刺は?」

 言われて、おずおずと差し出す山田から名刺を受け取った。

山田、フリージャーナリストとだけ印字された、なんら変哲もないありきたりな名刺。

フルネームではないのが気がかりだが、山田だけでハンドルネームにしている可能性もある。捨て置くことにした。

「で? それで、事件についての調査は順調なの?」

 不機嫌極まりない顔で問われて、山田の顔が申し訳なさそうにしぼむ。

 悪い奴ではなさそうだ。

「あまり進展はないっすね。強いて言えば調べ上げてあるところまで、ようやく今日ニュースになったってくらいっす」

「調べてあるところまで? ……本当に?」

「え? あぁ、はい」

 叱られた猫のようにビクビクしている山田に驚きの眼差しを送る。

 どうやらオタクの情報網を甘く見ていたようだ。

 不意にこんなところにお手軽なニュースレターが転がっていることに気が付いた。

 なにも織部ばかりじゃない。警察になんぞ聞かなくても情報を持っている奴は持っている。

「なあ、山田」

 自分の方が優位だと主張するために呼び捨てにしてみた。

 効果はあったようでふくよかな山田の顔に緊張が走る。

「それ、僕にも詳しく教えてくれないか?」

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