逃走

 「あとは本隊に戻るだけだ。馬にたっぷり水を飲ませておくんだ」

 砂塵が舞い上がるという馬が走る地響きはまだきこえない。だが、迫り来る敵の圧力で、少しずつ体に痺れが走る。

 水筒からの水を左手で受け、馬の口元に持っていくと、馬はその長い舌で水をベロベロ舐め取った。馬は驚くほど水を飲む。残雪のある時期だからこそ、燃料さえあれば水の確保にはこまらないが、遊牧民が水場を大切にするのもよくわかる。

 「ザロフ隊長、急ぎましょう」

 アコスタがかしてくるのを、あえてゆっくりと馬に水を飲ませることで、余裕があるようなふりをする。すでに馬上のユリアンカが、ニヤニヤしながらこちらを見ているのだ。少しくらい格好の良いところを見せたかった。馬が勢いよく水を飲むので、手の震えが知られることもないはずだ。

 敵が近づいてくる地響きがきこえはじめる。アコスタも鞍の上だ。

 「よし、それでは行こうか」

 前橋ぜんきょうに手をかけ、一息で鞍の上に体を預ける。熟練の騎手のように見えただろうか。

 「敵が矢を射てくるかもしれません、急ぎましょう」

 馬の腹に蹴りを入れ、一気に速度を上げる。

 「大丈夫だ、アコスタ君。全力で走る馬の上から弓を射て、敵の馬上の騎手に矢を当てるようなものはいない」

 そういった直後に、敵に騎射の贈物ギフトを持つ兵士がいれば、こちらが射殺いころされる可能性もあることに思い至るが、その時はその時だと覚悟を決めることにした。若い女に格好をつけたくて、敵に射殺されるというのも、情けなくていいかもしれない。

 だが、その心配は杞憂だった。走り続けてきた敵の馬と、同じような状態でも人間を乗せていなかった替え馬とでは速度が違う。鬼角族は馬の目利きが優れているし、私とアコスタも一番速い馬を連れてきているのだ。敵との距離はぐんぐん離れ、しばらくすると敵の部隊が見えなくなる。

 「ユリアンカさん、馬を休ませようと思うんだが、どうだろう」

 全力で走る馬上から、大声で声をかける。

 ユリアンカは後ろを振り返り、怒鳴り返した。

 「もう少しだけ相手と距離を取るのがいい。馬はもう少しだけ走れる。完全にバテる前には止まるから、ついてきな」

 馬のことなら鬼角族の指示に従っておけば間違いないだろう。族長の妹は、しばらく馬を走らせた後で手を上げ、馬の速度を緩めた。

 「ここで馬を替える。ジジイたちは鞍を移してもいいよ」

 「次に馬を替える時に鞍を移すことにする。敵は近い。すぐに出発しよう」

 姿は見えなくとも、敵はそう遠くはない。人間というものは不思議な物で、危険が迫っているときには諦めのようなものが生まれ腹が据わるのに対し、危機を脱すると急に命が惜しくなる。完全に包囲された敵は激烈な抵抗を示すのに、わざと逃げ道を開けてやると無様に遁走とんそうするというのは、軍略の常識ともいえる。

 「勝手にしろ」

 ユリアンカと鬼角族の騎手は、馬を下りて手早く鞍を移した。あぶみがない分、私たちの鞍よりも簡単に取り外しができるのだ。

 「じゃあ、出発するよ」

 馬を替えてまた私たちは西へ走った。

 「アコスタ君、君には敵は何騎くらいいるように見えただろうか」

 馬を駆りながらの会話は、大声になってしまうのだが、いまのうちに確認しておく必要があった。

 「三百といえば三百、五百といえば五百。まあ、千はいなかったと思います。あんな短時間で馬の数を数えるなんてできませんよ」

 私も同感だ。念のために、ユリアンカにも確認しておきたかった。

 「ユリアンカさん。一つききたいんですがいいですか」

 返事はなかったが、こちらに首を向けてくれているので、そのままはなしを続ける。

 「あの一瞬で、三百という数を数えることができるんですか」

 馬上の女丈夫じょじょうふはニヤリと笑う。

 「羊に草を食べさせに連れて出て、自分の家に戻ってきたときに羊が足りないと困るだろ。私たちの仲間なら、羊が一頭でもいなくなっていればすぐにわかるし、一目見るだけで羊が何頭いるか見分けられる」

 遊牧民の生活から得られる技術の一つということなのか。

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