嘔吐

 和気あいあいとした雰囲気で、宴は終わった。

 ジンベジもホエテテも満腹して、幸せそうな顔をしている。

 酒を飲みすぎたのか、ユリアンカが気分が悪いといっていること以外は、みな満足していた。

 それぞれが自分の部屋に戻り、私もそのままベッドに倒れこんだ。

 このまま眠れれば、どんなに気持ちよいだろう。だが、ぜひともやらなければならないことがある。酒が入ると、どんな大切なことでも翌日には忘れてしまっていることが多い。気がついたことは、眠る前に記録しておく必要がある。幸いなことに普段は高級品で備忘録などにはとても使えない、紙がたくさんある。すでに、この家に戻るとき、消えたかがり火から消し炭を拝借してきた。その時に気がついたのだが、燃えていたのは木でなく、なにかの植物の茎を乾燥させたものだった。やはり木は貴重品なのだろう。

 まずは便所にいって、後始末用の紙を数枚もらってくることにした。商品見本の紙は、できる限り置いておきたい。しかし、何度も漉きなおされた紙は消し炭で文字をかこうとするとボロボロに崩れた。やはり、見本の紙に書くしかないのか。


 白茸、洞窟、栽培、水源、成長に影響?


 単語だけだが、これで自分にはわかるはずだ。やるべきことはやったので、そのまま酒の力にまかせて心地よい夢の国に旅立つことにする。

 心地よい疲れと、ぐるぐる回る世界に身をゆだねた。

 眠い。明日はなにをしようか。もうそんなことはどうでもいい。

 だが、なにかが寝てはいけないという警報をだしている。

 寝てはいけない、なにかを忘れているのではないか。

 眠い。

 寝てはいけない。

 なぜ寝てはいけないのだろう。

 お前には、あの音がきこえないのか。

 誰かの嗚咽おえつの音がきこえる。いや、嗚咽ではない。泣き声などというものではなく、嘔吐おうとする音だ。

 意志の力を総動員して、ベッドから飛び起きる。べつに飛び起きる必要はないが、そうでもしないとベッドから離れることができなかった。

 ベッドに腰かけ、耳をすます。嘔吐の音は、間違いなくこの家の中からしている。

 勢いよく立ち上がる。

 少しだけ警戒しながら自分の部屋の扉を開けると、嘔吐するものの声がきこえてきた。

 女の声だ。嘔吐しているのはユリアンカなのか。

 警戒を解き、ユリアンカの部屋にむかうと、扉の外からでも嘔吐する音がきこえる。

 だから子どもの世話は嫌なのだ。新兵たちも古参兵に吐くまで飲まされて、一人前の兵士になるというが、吐瀉物としゃぶつの始末をする身になってもらいたいものだ。

 扉をノックしながら、声をかける。

「ユリアンカさん、大丈夫ですか。気分が悪いのなら、水でも持ってきましょうか」

 返事はなく、嘔吐する音が続いている。

「ユリアンカさん、大丈夫ですか」返事はないので、少し強めに扉をたたく。「大丈夫ですか」

 どんなに悪酔いしても、これほどまでに嘔吐することはないだろう。一瞬、毒を盛られた可能性を考えるが、自分自身にはなんの問題もない。このまま返事を待っていても意味がないと判断し、扉を開ける。

 部屋に入った瞬間、胃液の酸っぱい臭いと、床やベッドにまき散らされた黄色い吐瀉物が目に入った。

 胃の中の物はあらかた吐き出したのだろうが、まだゲーゲーと口から黄色い液体を吐き出しているユリアンカをみると、百年の恋も冷める気がした。

「お酒を飲み過ぎたんですね。水を持ってきますから、それを飲んで落ち着いてください」

 私が声をかけると、ユリアンカは首を強く横にふり、胃液を吐き出しながらわめいた。

「酒――なんて――飲んで――ねーよ」

 ならば、やはり毒物なのだろうか。少し待つようにいうと、私はあわてて部屋の外に出て、桶と水差しを手に部屋に戻った。

「辛いかもしれませんが、この水差しの水をできるだけ飲んでください。おそらく、すぐに全部吐いてしまうでしょうが、それでかまいません。水で腹の中の物を洗い流します」

 ユリアンカはうなずき、水差しの水を一気にあおった。その直後、吐くものができたことを体が喜んでいるように、勢いよく口から液体が桶の中に流し込まれた。

 私はすぐに、水差しを水の入ったかめのところに持っていき、一杯に満たすとユリアンカの所へ走った。また同じことが繰り返され、甕に走る。

 あわせて七回、ユリアンカの所に水差しを運ぶ頃になると、やっとユリアンカも落ち着いてきたようで、いつもの気丈な顔はどこにやら、真っ青な顔で荒く息をしていた。

「この部屋で寝るわけにはいきませんから、こちらの部屋にきてください」

 そういうと、ユリアンカを自分の部屋に連れていく。寝室の数は四つだから、これで私が眠る場所はなくなったわけだ。

「もう一杯水を入れてきますから、少しこの部屋で休んでいてください」

 そういうと、水差しを片手にジンベジとホエテテの部屋をのぞきにいく。毒を盛られたのであれば、二人にもなにか異常があるはずだ。

 しかし、二人ともとも幸せそうな顔で眠っている。これだけドタバタしているのだから、目をさましても良さそうなのに、深酒の仕業か目をさます素振りもなかった。

 水差しをもって自分の部屋に戻ると、ユリアンカが苦しそうにベッドの上に横たわっていた。

「もう少し、水を飲みますか」

 私がたずねると、ユリアンカは首を横にふった。

 水差しを置き、居間にあった椅子をベッドの横に持ってくる。

 椅子に腰をかけ、左手をユリアンカの豊かな乳房の少し下、ちょうど鳩尾≪みぞおち≫のあたりに置くと、ユリアンカが怪訝そうな顔をした。

「私が子どもの頃、おなかをこわすと祖母がいつもこうやってくれました。祖母に魔術の贈物ギフトがあったわけではありませんが、なぜか痛みは消え、心地よく眠れたことを覚えています。おそらく、贈物ギフトがなくとも、なにかの力が掌から出ているのでしょう。今はゆっくりと休んでください。なにかあれば、いつでも声をかけて」

 ユリアンカは少しだけ表情を和らげ、目を閉じた。

 早婚であれば、これくらいの歳の孫がいてもおかしくないし、晩婚ならこれくらいの年齢の娘がいただろう。掌の心地よい温かさに、自分の意識が遠のいてくのを感じた。

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