大したもの

 目を閉じると、ここは戦いなどない平和な世界だった。

 暑くもなく、寒くもない。吹く風が肌に心地よく、陽光が優しく私を照らす。

 視覚を遮断したため鋭敏になった聴覚が、前方から近づいてくる馬の駆ける音を鮮明にとらえる。

 あの音がここまで届いたとき、私は死ぬのだ。

 一度捨てた命だから、死ぬのは怖くない。

 私の死をストルコムがうまく利用してくれればよいが、戦争以外での駆け引きは未知数だった。

 多数の黒鼻族の死、鬼角族の死への償いとして、人間は指揮官を失ったということで、それぞれを納得させられれば私の死にも意味はある。

 アストに裏切られて以降、私には生きる理由も目的もなかった。

 ひどく時間が過ぎるのが遅い。

 さっさとゴミのような人生にけりをつけてくれればいいのに。

 ふと、右後ろの方から馬が近づいてくる音がきこえたような気がした。

 前から近づいてくる馬の音はひどく重く遅いのに対し、後ろから近づく馬は軽快で速い。

 ひょっとして、後ろに回りこんでいた鬼角族の別動隊が戻ってきたのだろうか。そうなると、こちらの指揮官を殺して背後から強襲をしかけることで、終わったと思われた戦いが再びはじまるかもしれない。しかし、もうどうでもよかった。

「なにボケっとしてるんだよクソ人間。前からきてるのが見えないのかよ」

 きき覚えのある女の声。

 罵倒されたことしかないが、強い意志を持った力のある声。

 思わず瞼を開くと、目の前に馬上でまさに大太刀を振りかぶる鬼角族がいる。あの太刀が私の首を切り落とすのか。すべてがゆっくり動いているように見えた。

「頭を下げろ!」

 怒鳴り声に思わず体をすくめるが、鬼角族の大太刀は、すでに横薙ぎに私の首を刈ろうとしていた。

 鬼角族の大太刀は、馬上から片手で使うためにつかのところから大きく湾曲している。直剣であればすでに私の首は斬り落とされていただろう。湾曲した刀身が首に届くまでのほんのわずかな瞬間、後ろから疾風のように伸びてきた一本の大太刀が横薙ぎの太刀を叩き斬った。

 剣で剣を両断することができるのか。まず私の頭に浮かんだのはそのことだった。よほど卓越した腕前でなければ、あのような離れ業はできない。贈物ギフトの力でもないと無理だろう。どうでもいい思索は、再び怒鳴り声により断ち切られた。

「この盆暗ぼんくら人間! ボケっとして死ぬのは勝手だけど、お前に死なれると兄貴が困るんだよ。この役立たずが!」

 私の横を風のように駆け抜け、あっというまにこちらへ馬首をめぐらせた鬼角族の娘は、こちらを睨みつけて叫んだ。


 ああ、なんと美しいのだろう。

 化粧っ気のない顔は生気に満ち、そのまなじりは誰にも犯されることのない独立心を秘めていた。


「そこにボサっとしてると、また誰かが殺しにくるかもしれないんだよ。骸骨ジジイ。死にたけりゃ、自分で喉突いて死ね。脳みそが爪の先ほどでもあるなら、さっさと後ろに乗れ」

 そういうと、ユリアンカは大太刀を鞘に戻し、右手を差し出す。

 私を殺そうとした鬼角族の騎兵は戦場をみるみる遠くへ離れていったが、とくに追うつもりはないようだった。

 ユリアンカの右手をつかみ、高く跳躍してその後ろに飛び乗る。これだけ体が動くということは、すでに戦闘は終わったのだ。鞍のない裸馬に乗るのは至難の業で、体を安定させるためにユリアンカの腰に強くしがみついてしまう。その髪から汗の匂いがした。

「このヒヒジジイ、どこ触ってるんだよ。殺すぞ!」

「すまない。人間は裸馬には乗れないんだ。足を固定する鐙がないと落ちてしまうんだ」

「知るか。とにかく触るな。気持ち悪いんだよ。馬に乗れないなら落ちて死ね!」

 できるだけ体に触れないように注意するが、少しでも揺れるとつい腰にしがみついてしまう。

 何度も罵られているうちに、馬に乗ったままハーラントがこちらに近づいてきた。

「いい戦いであったな。悪は必ず滅ぼされる」そういうと、弟の首を高く掲げる。「戦場があそこまで混乱しなければ、こいつを討ち取るのは無理だっただろう。お前には感謝するぞ」そういって頭を下げると、今度はニヤニヤしてつけ加えた。「もう、妹とは仲良くなったようだしな」

 ユリアンカが、私にはわからないことばで兄を怒鳴り散らしていると、今度はストルコムが笑顔でこちらへくる。

「教官殿やりましたね。大勝利です! 負傷者三名、死者は一人もいませんよ」

 私は静かに訂正する。

「人間の死者はいなかった、ということだな。戦いは終わったが、これから私たちは死者を弔わなければならない。疲れているとは思うが、あと一仕事頼むぞ」

 ストルコムはうなずくと、すぐに槍兵隊のところへ戻ろうとし、なにかを思い出したように振り返っていった。

「教官殿、これは本当にすごい戦果です。教官殿の部下であることを、これほど誇りに思ったことはありません。私たちは大したことをやり遂げました」

 にっこりと笑って、私はいった。

「そうだな。私は本当にを見つけた。生きる目的を見つけたんだ」

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