どうせ死ぬなら役に立て
「家名を守るためにも、ギュッヒン侯は今回の事件をなかったものにしたいと考えておられる。君が誰かを殺したと主張しても、それを証明する遺体はもうないし、お互いに辛い思いをするだけだろう」
どうするべきなのか。正義は私にあった。しかし、罪は罪である。それにアストは、私がディナルド・ギュッヒンを殺したことを知っている。
「納得できません。罪を犯したことは、自分自身が一番よく知っています。こんな不正が許されるわけがありません」
ローセノフ中隊長は、あきれたような口調でいった。
「君は本当に頑固だな。もう少し融通をきかせてもいいんだぞ。それに死にたいなら、処刑場で死ぬより、もっと軍の役に立って死んでもらいたい」
「役に立って死ぬ、ですか」私は意味がわからなかった。「それはどういう意味なのでしょうか」
中隊長は続けた。
「それが悪い知らせだよ。ギュッヒン侯は今回の事件を知るものが、この都にいてもらいたくないとお考えだ。ローハン、君には西方の辺境へいってもらう。もし、自分の罪を
たしかに、どうせ死ぬなら身命を
「辺境では君の
その一言で、私の心は決まった。
「かしこまりました、中隊長殿。それでは命令に従います。ただ、一つだけお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」ローセノフ中隊長がうなずく。「妻のアストと離縁したいのです。手続きはお任せします。財産はすべてアストに譲渡します。あれは愚かなだけで根は悪くない女です。それと、ギュッヒン侯には、間違ってもアストの口を封じようことは、なさらないようにお伝えください。アストが不審な死を遂げた場合、ギュッヒン侯にはうれしくない醜聞が広がるかもしれない、ともお伝えください」
侯爵が下士官の脅しに耳を貸すかどうかはわからないが、
「すべて了解した。急だが出立は明日だ。いま君の自宅には誰もいないはずだから、家に帰って必要な荷物を準備しろ。それが終われば、この兵舎まで戻ってきてほしい」
「わかりました。本当にありがとうございます」
深く頭を下げ、部屋を出る。見張りがいるかととも思ったが、誰もいない。
普通なら私が逃げ出したり、姿をくらます可能性を考えて監視をつけるのが当然だと思うのだが、友人としての中隊長は私に完全に自由な時間をくれるらしい。
まさかの時の友こそ真の友、とはよくいったものだ。中隊長の信頼に感謝しながら兵舎を後にした。
尾行に気がついたのは、兵舎から少し離れたところであった。市街地へ向かう寂しい一本道を、着かず離れず後ろから追いかけてくる人影がある。ローセノフ中隊長なら、監視の名目で私に兵士を同行させることもできるわけだから、いま尾行している人影は別の人物の指示を受けているのだろう。
アストの身の安全のためには、私がギュッヒン侯の困る何かを、誰かに託しているような
その後、何事もなかったかのように、我が家にもどった。
数日前まで、ここに帰ることが人生で一番幸福な瞬間であったことを思い出すと心が痛んだが、いまはもう、どうでもよいことのように思えた。自分の私室から、厚手の上着と礼装用の軍服を取り出し、できるだけシワにならないように鞄に詰め込む。下着類とシャツは、新しいものをそれぞれ二着だけを選んだ。肌着は現地でも調達できるだろう。寝室に入ると、まだ生乾きの血痕がべったりと絨毯を汚しており、踏まないように気をつけながら、棚の奥にある隠し場所から袋に入ったへそくりを取り出す。ヴィーネ金貨こそなかったが、正銀貨が十枚以上は見えた。父の形見の剣は訓練所においてあるので、このあと取りにいけばよい。かさ高い衣服でパンパンに膨れた鞄を手に、玄関から表に出て家のほうへ振り返る。
楽しい思い出、つらい思い出、二度と見ることはないかもしれないが、いままでありがとう。
頭を下げ、訓練所への帰り道を急ぐ。
市街地を出ると、案の定尾行するものの影が見えた。こちらから近づいても逃げられるだけなので、大声で怒鳴った。
「後ろからついてきている人! 半刻ほど時間をもらってありがとう! あんたの主人には、見失ったことを正直に話すんだぞ! こちらからも、ギュッヒン侯へ伝えるからな」
これでギュッヒン侯に、不審の種を植え付けることができるかもしれない。
できることはすべてやった。あとは軍人としての天命を果たすだけだ。
翌朝、軍の連絡馬車と五騎の護衛兵士、ロバに乗った私は、ターボルという町を目指して出発した。全行程は十日の予定で、一日西へ進むたびに、雄大な山々は姿を消し、恵み深き木々は少なくなる。九日目、フェイルという町に到着するころには、見渡すかぎりの草原が続いていた。
「ザロフ教官、長かった旅も明日で終わりです。明日にはターボルに到着しますが、ターボルにはろくな店がありませんから、この町でいろいろと仕入れていくことをお勧めします」
護衛兵士の指揮官であるロゴポーサが親切に教えてくれた。ロゴポーサは十年前に私が訓練所で教えた教え子であったらしい。らしいというのは、私自身にはまったくロゴポーサの記憶がないのだ。訓練をおこなっているときは、すべての新兵の名前を覚えているのだが、訓練が終わった瞬間にほとんどの生徒の顔と名前を忘れてしまう。これも
忠告にしたがい、暗くなる前に町に一つだけの雑貨屋に立ち寄ることにした。
店の看板には<草原の民の店>と、お世辞にもあまりうまくない文字で屋号が書かれており、店の外には鍬や鋤のような農機具や、
雑貨屋に入ったものの、なにを買えばいいのだろう。一番喜ばれるのは酒だが、個人が酒を買うことを禁止いている部隊もあることは知っている。はじめから上官ににらまれても仕方ない。ならば甘いものはどうだろうか。任務で疲れた体に、甘い飴なら喜ばないものはいないだろう。
「すいません、どなたかいませんか」反応はない。「すいません、飴があれば欲しいのですが」もう一度よびかけた。
なにか返事のような、くぐもった声がきこえ、店の奥からコツコツという固い音が近づいてくる。
「飴ですか。どんな飴がご入用でしゅか」
店の奥から現れた、黒いのっぺらぼうの顔をした白い毛の塊に、私は驚きのあまり息をのんで立ちつくしたのだった。
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