第25話 なまえ
俺たち四人は店長から伝えられた場所に行った。
その場所には見憶えがあった。
きらびやかなネオンに包まれ、耳を塞ぎたくなるほどの喧騒にまぎれたその場所。俺の心に浮き出た色をスポイトで吸って置いていきましたとでも言うように、そこはいまの気分にふさわしいほどの不愉快な景色だった。そんな極彩色の地獄のなかに、その雑居ビルはあった。いまから六年前のこの場所で、悠伽は自分の兄にナイフで刺されたのだ。
なんのテナントが入っているかもよくわからない、人びとから忘れ去られてぼろぼろになった建物に、俺たちは入っていく。だれも声を発するものはいなかった。奈津も璃生も芙雪も、そして俺も、みんな黙って歩を進めていた。
地下の階段をいくつか降りたところで、「おい」と呼び止められる。
振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。面倒くさそうな不機嫌面を顔に貼り付けながら俺たちをにらんでいる。
「あんたらか、駿さんを捜してるってのは」
男の「駿さん」という呼び声に、どこか思い当たる節があった。記憶のなかの男の顔つきがゆっくりと輪郭を帯びていく。この男に、俺は逢ったことがある。……そうだ、あの日のあの事件の夜に、紗原駿が最後のクスリをせがんでいた売人の男だ。
けっきょくこうなったのか、と俺は思った。六年前からなにも、ほんとうになにも変わってないんだ。刑務所で罪を償って、模範的な受刑態度で仮釈放になったはずの男は、六年前の過ちをまた繰り返そうとしているんだ。……いや、したのか。たぶんもう手遅れなんだろう。もうその過ちは取り戻せない段階まできてしまって、紗原駿は死にそうになって、いまにもくたばろうとしている。悠伽の手がかりを聞き出すためには、くたばる前にはやく済ませないとならない。そういうことなんだろう。
「そうです」
俺の短い返事を聞くと、男は億劫そうに首を回した。俺たち四人を順番ににらんだあと、あごで階段の奥のほうを差す。奥には扉があった。男は俺たちを追い越して、その扉に歩み寄る。そしておもむろに開いた。
切れかけの蛍光灯が、断末魔のように明滅を繰り返していた。極彩色の地獄みたいな街の景色とは違って、ここは俺の絶望や失望を脱色して漂白して極限まで真っ白にしたみたいな場所だった。感情の終着点のような場所だ。しかしどんなに色を薄めようとも、どうしても絶望が匂い立ってしまう。その匂いは死に似ていた。
もとは事務所かなにかだったのだろうが、いまは見る影もなかった。用度品が乱雑に打ち棄てられていて、明滅する光のなかでほこりが舞っていた。そして時おり、「うう」だか「ああ」だか、人間の声帯を空気が通り抜けるだけの意味をもたない音が聞こえる。その音のするほうを見やると、部屋のすみっこに棄てられるように、ひとりの人間が倒れ込んでいた。
「……っ」
奈津と芙雪が息を飲んだ。
「意識はまだある」売人が言う。「話しかければ答えるよ。かろうじて会話もできるはずだ、このあいだにくたばってなければな」
俺は倒れた人間の目の前に立った。顔に俺の影が重なると、彼は焦点の合わない瞳を俺のいる空間あたりに向ける。その瞳に光はなかった。かつて「音楽で生きる」という夢を語ってくれていたはずの瞳は、光を失って死んでいた。
「駿さん」
呼ぶと、かすかに死んだ瞳が揺らいだような気がした。自分の名前には反応するのか。まるで虫の走性みたいだ。見ているうちにだんだんと焦点が合ってくる。俺の顔に焦点が合ったとき、まるで記憶のふたが開くように、彼の口許が歪んだ。たぶん笑っている。
「よお……刻都」
歪められた口が、俺の名前を呼んだ。それを聞いて背筋に電流が走った。頭のなかで壊れたレコードが繰り返し再生されるみたいに、彼の呼び声がこだまする。
――よお、刻都。
まぎれもない紗原駿だった。俺は思わず拳をにぎりしめる。いまの自分がどういう感情なのかはわからない。ただどうしてか、全身が強張ってしかたがない。
「ひさし、ぶりだなあ」
「そうですね。六年ぶりです」
「そう、か」
会話は成り立つ。それがせめてもの救いだった。
「駿さん、刑務所出てたんですね」
「ああ、一年前に、な」
「仮釈放って言うんですか?」
「あ?」
難しい専門用語はもうわからないようだ。言葉を変えて会話を続ける。
「よく出られましたね」
「すげえ、だろ」
また口許を歪める。さっきとは違う種類の表情だ。おそらく自慢げにでもなっているんだろう。
紗原駿は昔からそうだった。いろんなことを卒なくこなすタイプで、要領もよく、ものごとをうまく運ぶための知恵が働く人間だった。だから周囲から尊敬されていたし、人脈も広かった。
おなじように、成り行きが自分の思い通りにいくことに対して強い執着があり、思い通りにものごとを運ぶためのずる賢さもあった。今回の仮釈放も、自分が模範囚だと印象付けるためにうまく立ち回ったんだろう。
そしてきっと、あのときの楽曲の盗作も、彼自身ではうまくやり
「なにしてたんですか、いままで」
俺は訊ねた。
この一年間。いったいあんたは。
なにをしていたのか。
「んあ?」
彼は俺から視線を外し、虚空を見つめた。中途半端に開いた口から、つう、と唾液がこぼれ落ちる。記憶を掘り起こしているんだろうか。俺は思わず紗原駿をにらみつける。あんたはこの一年間でやってきたことを訊かれて、だらしない表情で考え込まなければならないほど、人間として積み上げてきたものを失ってしまったのか。
「……なんだっけ、なあ」
彼はそうつぶやいた。
終わってるんだ、と思った。紗原駿という男は六年前に終わってるんだ。目の前にいるのは、ただ空気を吸って吐いて、よだれを垂らして考え込んで、なんの結論にも達することのできないほど萎縮した脳みそを搭載した、元人間のなにか。
我慢できなくなって、俺は彼に思い切り言葉をぶつけた。
「悠伽はどこにいるんだっ!」
漂白された絶望のなかに、俺の声が響き渡る。璃生たちは固唾を飲んで紗原駿を見つめている。叫び声にも大して動じることなく、しかし視線は俺のほうに戻して、彼は言う。
「はるか、は、」
ふたたび記憶のふたが開くように、彼女の名前に反応する。失望が気化して立ち込める真っ暗闇の空間に、たったひとつ差し込んだ光のように、彼女の名前が響いたような気がした。俺は紗原駿を見つめる。彼女の兄だった元人間を見つめる。鼓動が早まる。窒息しそうになる。それをあざ笑うかのように、彼はゆっくりと、その口を開く。
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