第17話 てがかり

 約束どおり返事をくれた璃生とともに、俺は楽器店へと向かう。電車に揺られている最中、彼はどこか不機嫌そうだった。どうした、と訊くと、彼はむすっとした声でみじかく「殴られた」と言った。璃生が動画を見せた知り合いの先輩というのはどうやら女性だったようだ。年上女性にえっちなエロ動画(奈津いわく)を見せておまけに張り手でしばかれるとは、なかなか風変わりなプレイをたしなむやつだなと思ったが、彼の沽券にかかわるデリケートな部分なのでつっこむのはやめておいた。

 憮然とした表情を崩さないまま、彼はポケットから紙片を取り出して寄越す。開いて見てみると、そこには次のような文字が走り書きされていた。

『Martin&Co.』

「なにこれ」

 俺が訊ねると、璃生は視線を電車の向こう側の窓から見える景色に向けながら言う。

「ギターのメーカーだと」

 璃生の風変わりな性癖の犠牲になった彼の先輩によると、例の動画に映っていたギターはこの『Martin&Co.』というメーカーのものだという。その名前の下にはちいさな文字でべつのアルファベットが並んでいる。型番のような文字列だが、どうやらこれはそのギターの名前らしい。詳しいひとに訊くとここまでわかるのか、と俺は感心した。璃生の大学の人間関係もなかなか役に立つものだ。

 楽器店に着き、俺たちはさっそくギター売り場へ向かう。

 店内の壁にはぎっしりと楽器が並んでいた。床にもスタンドに立て掛けれられたギターがひしめき合っている。それぞれに値札がついていて、数千円で買える入門用的なものからウン十万もするような高価なものまでさまざまだ。壁の高いところに掛かっているものほど高価らしい。物理的な意味でも、金銭的な意味でも手が出ない。

 璃生が持っているメモの文字列と見比べながら店内を回るが、種類の多いギターのなかからお目当を探すのはなかなか至難だった。俺たちは自力捜索をあきらめて、店員に訊ねる。

「マーティンですねぇ? こっちでぇす」

 いやに軽いノリの金髪の女性店員は、俺たちを店の奥まで案内した。璃生は店員の鼻にかかった声に不満そうだが、俺はどんなギターが出てくるかということで頭がいっぱいだった。はたしてほんとうに、これが悠伽の手がかりになるんだろうか。せっかく見つけた彼女の面影を、ついに捕まえるきっかけになりうるんだろうか。

 たどり着いた場所で、壁の上のほうを指差す。まじか、と俺は身構えた。壁の高い場所にあるほど高価だ。にもかかわらず、ぎらぎら指輪のついた金髪店員の指先は、俺たちの目線を上に誘導する。

 その指差す先にあったギターには。

 海の底で朽ちた船みたいな色のヘッド部分には。

 たしかに『Martin&Co.』と書かれていた。

「これでぇす」

 値札には「298,000円」と書かれていて、璃生が「たけえ」と声を漏らす。俺はそのギターを見つめた。吸い込まれるような、繋ぎとめられるような、奇妙な感覚に囚われた。ギターのメーカーもよく知らない。製品名だってよくわからない。ましてや、こんなウン十万もするものに縁があることなんてなかなかない。けれど、俺はなんとなく、このギターにはじめて出逢ったのではない気がしていた。

「お客さん、これ似合いそうですねぇ、超ぉ〜カッコいいですよぉ、ちょっと試奏してみません?」

 店員はそう言ってギターを壁から外そうとした。璃生が「いや、いいっす」と断ろうとする。でも、俺は無意識にギターに手を伸ばそうとしていた。

「おい、刻都」

「え?」

「そんな高いの買えないだろ。触るだけむだだって」

「そ、そうかな」

「お客さぁん、はいどうぞぉ」

 甘ったるい金髪店員にギターを差し出され、俺はあわててそれを受け取ってしまう。三十万のギター。俺みたいな引きこもり貧乏人にはあまりにも似合わないはずだが、店員は「超ぉ〜ちょぉ〜似合ってるぅ〜ウケる」と手を叩いている。「刻都……おまえ、相変わらず押しに弱すぎだろ……」とあきれられているそばで、俺は構えたギターを見下ろした。なにも考えないうちにも、左手がコードの形をつくる。第六弦からかき鳴らすと、ぽろん、ぽろろん、と音が響いた。

 俺ははっとする。

 この音は。

 目をつぶる。すると、目の前にはずうっと先まで続く坂道があった。道の脇にはちいさな白い花が咲いている。弦を爪弾くたびに、ころころ坂を転がっていく。その転がっていく先、この坂の終わるところには、深い藍色の海が広がっている。朽ちた船みたいな色のギターは、そこで俺を呼んでいるような気がする。だれにも聞こえない暗い深海で、歌をうたっているような気がする。そしてその歌には、どこか聴き覚えがあった。

 海のさざなみが旋律となって鳴り渡る。そのさざなみのなかに、俺はばしゃん、と飛び込んだ。一面が真っ青になる。上を振り向くと、水面に陽光が反射してきらりと輝いている。ぶくぶく泡立つ青い光のなかに、俺はだれかの影を見た気がした。

 ――ねえ、刻都ときと

 だれかが俺を呼んでいる。青い光の泡が耳許ではじけるたび、記憶のなかの壊れたラジオから解き放たれるみたいに再生される。

 ――よお、刻都。

 まだだれかが俺を呼んでいる。その声を聞いて、俺は息ができなくなる。断線したギターの弦で首を締め上げられるように、呼吸のしかたがわからなくなってしまう。思わず目を見開くと、そこには光を失ったふたつの瞳があった。俺の爪弾くAadd9エー・アドナインコードのアルペジオのなかで、その瞳は俺をじっと見据えている。

 この音は……!

「刻都っ」

 現実でふと呼ばれて、俺は意識を取り戻した。そこには怪訝そうな璃生の表情があった。彼のうしろでは、女性店員が金髪をくるくるもてあそびながら退屈そうにしている。俺が演奏をやめたのに気がつくと、彼女は営業スマイルを貼り付けて「いや〜ん超ぉ〜カッコいいっすねぇ〜ウケる」と言った。なにもウケるものはない。ついに出逢ったんだ、悠伽へと繋がるてがかりを。

「これだ」

 俺の言葉に、璃生が驚く。

「おま、それ三十万だぞっ、そんな金あんのか」

「おっ買い上げぇありがとうございまぁ〜〜」

 璃生のあげる驚愕の声と金髪店員の急にオペラ歌手みたいになった高音が店内に響く。しかし、俺はしずかに首を振る。

「そうじゃない。ついに見つけたんだ、璃生、おまえのおかげだよ」

「はあ? 金なら貸さないぞ」

「そうじゃねえって」

 俺は持っていたギターをあらためて眺めた。暗い深海で朽ちた沈没船みたいな色のヘッド部分には、金の飾り文字で『Martin&Co.』と彫られている。俺はその哀しげな歌声を聴いていた。それはまぎれもない、六年前のあの日。

 ――よお、刻都。

 ――オレのギター、弾きたいか。

 ――弾いてくれ。

 深海の底から俺を呼ぶ声は、決して幻聴なんかではなかった。たしかにこのギターは、あの仄暗い海の底から俺を呼んでいたんだ。だから聞き覚えがあった。このギターは六年前、海の底で歌をうたう青年の声を代弁していたんだ。

「駿さんだ」

「しゅん……って、あの紗原の兄の?」

「そう」俺はうなずいた。「このギター、駿さんが昔使ってたギターとおなじ型だ」

 璃生が息を飲む。彼のうしろで、金髪がつまらなそうに「だれそいつ。ていうか買わないの?」と低く唸ったのが聞こえた。

「刻都、それってつまり……」

「ああ。あの動画の女性、やっぱり悠伽だったんだよ」

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