第3章 つながり

第16話 ねむり

 あの日、俺の記憶は途中で途切れていた。気がついたら病院だった。駿さんに殴られ、地面に全身を打ち付けて、あの夜の記憶をなくしているのだ。救急車のサイレンが鳴り響いていたのはかすかに憶えている。璃生たちの通報によって、悠伽は救急車で運ばれた。でも、奈津や芙雪も同乗できなかったらしい。搬送先の病院も訊くことができなかった。それはつまり、俺たちがもう彼女に逢うことができない、ということを意味していた。悠伽はしばらく学校を休学していたが、いつのまにか転校の手続きが取られ、俺たちの通う中学校に籍はなくなっていた。教室にあったはずの悠伽の席は、いつのまにか撤去されていた。教師たちもなにも教えてくれなかった。

 妹をナイフで刺した紗原駿は、わけのわからないことをわめきながら、駆けつけた警察官によって拘束されたという。傷害の現行犯で逮捕。のちに覚せい剤の陽性反応も出て、実刑判決を受けたのだと聞いている。収容された刑務所はわからない。紗原家に関してわかることは、もう俺たちにはなくなってしまっていた。悠伽の居場所もわからなかった。彼女がいま無事に過ごしているのかどうかも、知ることはできなかった。

 そして残された俺たち四人は、音楽をやめ、いっしょにいることさえやめてしまった。それぞれがそれぞれの方法で「あの日」を心のなかに閉ざし、べつべつの道を歩んでいた。この六年間、俺たちはほとんど口をきくこともなかった。

 俺はずうっと、彼女の影をこの街で捜し続けていたんだ。光の届かない深海で、朽ちた船の歌声に耳を澄ますように、俺の心はさまよっている。彼女との約束を求め続けている。

 ――ねえ、刻都。

 ――わたしをちゃんと――。

 あのとき、彼女は俺と約束を交わした。

 あの暴力的な闇に包まれた夜から、もう六年がたっている。

 あの言葉の続きに、いまだ果たせない約束に、彼女との唯一のつながりにすがって、俺はきょうを生きている。



 俺はベッドの上でスマホの画面を見つめていた。画面のなかでは、顔の映らない全裸の女性がギターを弾きながら歌をうたっている。

 動画のタイトル、『これは、あなたへの』。なにかメッセージがありそうで、もしかしたら俺たちに向けられていそうで、俺はそれを紐解くのが怖いと思いながらも、なんども再生ボタンを押していた。画面のなかにはいつも決まったタイミングで女性が現れ、ギターをかき鳴らす。その歌声は、まるで俺の心に語りかけるように、いつもおなじ部分をやわらかくくすぐるのだ。

 でも、と俺は思案する。

 この女性はほんとうに悠伽なんだろうか。

 たしかに歌声は似ているけれど、それだけで彼女と断定するのは早とちりな気がした。声が似ているだけの赤の他人かもしれない。六年もたっていると言えど、顔を見られればすぐにわかると思っていた。でも動画の女性はいくら動画をリピートしても一向にこちらを向いてくれない。見えるのはギターと彼女の裸だが、悠伽の裸なんて見たことないからわかるわけがない。

「……」

 ふと俺は、この動画の女性のように、悠伽が一糸まとわぬ姿でギターを弾いているところを想像する。ぽろん、ぽろろん、と前に抱えたギターを爪弾きながらいたずらに微笑んでいる。六年たった彼女の身体(想像)はいつのまにかいろんなところが大きくなって、俺は目のやり場に困る。そんな俺の反応を見て、ふふふ、と彼女はまたさらにいたずらに笑う。ふと彼女は肩にかけた紐ストラップを外してギターを脱いだ。うわあっ、と俺はちいさく悲鳴をあげる。あわてて両手で目を覆うが、抗うことのできない謎の力が働いて、すこし開いた指のすきまから彼女の裸が見えた。頭のなかの想像だからか、だいじなところはクレヨンみたいなもので塗りつぶされていた。俺はちょっとがっかりしながら、それでも悠伽から目を離すことができない。彼女は裸のまま目の前に立ちはだかった。裸だけにだ。いやそんなことはどうでもいい。クソみたいなことを考えているうちに、彼女は俺の腰と頰に手を回してきた。俺は思わずあとずさって、後ろ手にその場で倒れてしまう。間髪入れずに彼女が覆いかぶさってくる。俺の顔に彼女の長い黒髪がこぼれ落ちてきた。春の朝露に濡れた甘やかな匂いがして、俺は息ができなくなる。俺の左頬に右手を添え、左手は俺の頭をくしゃくしゃにしながら。熱い体温をはらんだ息を俺の鼻に吐きかけ、濡れた瞳でつぶやく。

 ――ねえ、刻都ときと

 ――わたしをちゃんと見て。

「はっ」

 現実に引き戻された。寝転がったベッドからは、うす汚ない部屋の天井とちかちか明滅する明かりが見える。

 深いため息をついて、俺は洗面台で顔を洗った。いつのまにか眠ってしまっていたみたいだ。時計の針は夕方の四時ごろを指している。昼過ぎから随分たっている。なんだか居心地の悪い夢を見てしまって、俺は気付けに思い切り首を振った。

 ちがう。

 悠伽の残した約束は、あんなものじゃない。

 ベッドに戻ってスマホを探し、ふとんの奥底に迷い込んでいたそれを救出する。見ると、ずっと動画を流していたせいか充電が切れていた。ケーブルに繋ぎながら、俺はまたぼんやりと思案する。

 悠伽。はだか。歌声。ギター。

 彼女が悠伽であるはずの手がかりがどこかにあるような気がして、俺はその言葉を心の中で呪文のように繰り返す。悠伽。はだか。歌声。ギター。女性の裸は手がかりにはならなかった。歌声はもしかしたら似ているだけかもしれない。だとしたら、手がかりになるものは……。

 スマホの電源が復活したとき、俺はふとつぶやいた。

「……ギター?」



「ギター?」

 俺の言葉を聞いて、璃生はうさんくさい商売でも見聞きしたかのような声を出した。電話口の向こうで、彼は時おり「ふう」となにかを吹き晴らすようなため息をつく。おそらくたばこを吹かしているのだろう。

「そ」

「ギターが紗原の手がかりになるのか?」

 璃生が質問を重ねる。彼はいつのまにか、悠伽のことを苗字で呼ぶようになっていた。たしか芙雪のことも「中澄」と呼んでいたっけ。いくつかある彼の「変わった部分」のうちのひとつなんだろう。

「可能性だよ。手がかりになるかもしれないだろ」

「まあ、そうだな」

 また、ふう。俺は彼の目の前にたばこの煙が立ち込めるようすを想像して、その煙がかき消えるのを待った。すると、璃生がこんなことを言う。

「軽音に知り合いの先輩がいる。聞いてみたらなにかわかるかもしれない」

「それは頼もしいな。訊いておいてもらえる?」

「ああ」

 璃生はこころよく答えてくれる。奈津に連行された経験から忌避していたが、大学というところもなかなか便利なもののようだ。面倒にならないていどの人間関係であれば、こんなふうに役に立つこともあるらしい。

 結果をまた連絡してもらうことを約束して、俺たちは会話を終えた。しかしそこへ、向こうからあわてた声が聞こえた。

「ちょっと待て、」璃生が叫んだ。「俺が先輩にあの裸の動画を見せるって言うのかっ?」

 返事の代わりに、スマホの切話ボタンをタップした。

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