第15話 あのひ
俺と奈津、璃生、芙雪の四人は、連絡の取れない悠伽に逢うため、彼女の足取りを探していた。彼女の実家に行って両親に話を聞いてみたが、すこし前から悠伽は駿さんのアパートに居候していたらしく、さいきんは連絡を取っていなかったんだという。「悠伽になにかあったの?」と声のトーンを上げる母親をこれ以上心配させたくなくて、俺たちは早々に彼女の実家を辞去した。
「駿さんのアパート……」
奈津がつぶやく。駿さんが都内にあるアパートで一人暮らしをしていたのは知っていたが、悠伽がそちらへお邪魔していたのは知らなかった。時期を聞くに、年が明けて五人で初詣に行っていたころだ。あのころ俺たちは、ふたりのようすの異変に気がつきはじめていた。ふたりはそのときから、都内のアパートで二人暮らしをしていたことになる。その事実を、俺たち四人のうちだれひとりとして知らされていなかった。
「どうしてなにも言ってくれなかったんだろ」
奈津の言葉には、だれも答えられなかった。
「まあ、とりあえず行ってみればわかるだろ」
璃生が言う。芙雪もしずかにうなずいた。俺は悠伽の母親から預かった住所のメモを握りしめ、アパートへ向かった。
それでもやっぱり、彼女に逢うことはできなかった。
とっぷりと日が暮れて、悠伽の足取りもわからなくなって、俺たちはしかたなく解散することにした。深く暗い宵闇にむしばまれはじめた街を、四人は無言で歩きつづける。街にはきらびやかなネオンの光に包まれ、そこかしこにうっとうしいほどの喧騒がにじみ出ていた。悠伽を捜して俺たちがどうあがこうとも、悠伽の不在を心に刻もうとも、かってに世界は廻る。そんな事実を突きつけられているような気がして、俺はなんだか腹が立ってきていた。
「あ」
芙雪がふと空を見上げてつぶやいた。俺はつられて視線を上に移す。真っ黒に塗りつぶされた空には星ひとつ見えない。ひやりとほおに冷たい感覚がして、手でぬぐってみるとそこは水滴で濡れていた。
「雨」
芙雪の言葉と時をおなじくして、空から小粒の雨が降りはじめた。ネオンの光に照らされた地面にぽとぽとと黒い点がうがたれていく。俺は嫌気がさしていた。あの表面に浮き出るような黒い斑が、むしばむような深い闇が、どうしても不吉なしるしのように思えてしまうのだ。
――だいじょうぶ。
右脚に浮き出た青あざ。それを取り繕うような彼女の苦笑い。
――ありがとな。
開き切った瞳孔に宿る光。彼が消えたライブハウスの奥の闇。
俺の頭のなかで、
どうしてこんなに哀しいんだろう。
これはだれの哀しみなんだろう。
破れた夢の哀しみか。
それとも、消えてゆく光の哀しみか。
――刻都。
だれかが呼んでいるような気がした。悠伽か? 俺は深海のなかで目を開いて、その声の光を捜した。けれど、なにも見えない。自分のものとも、だれのものとも区別のつかない哀しみに塗りつぶされて、俺はゆっくりと窒息していく。
「トキトっ!」
はっきりと呼ぶ声が聞こえて、俺の意識は宵闇に沈む街に引き戻された。真っ暗闇の深海にはふたたびネオンの灯りがともる。横を見ると、奈津が必死の形相で俺を呼んでいた。なに、と訊くと、奈津は力を込めた指先でとある方向を指差す。俺はその方向に視線を向ける。うっとうしい街の喧騒にまぎれて、まぶしいネオンの灯りに縁取られて、彼女の姿は俺の目に映った。
「……悠伽」
俺が捜し求めていた彼女の姿がそこにあった。走り出そうとして、その足を止める。彼女のとなりに目を移すと、そこにはもうひとりの見知った人物がいた。そしてもうひとり、俺の知らない男に彼はなにかを言っている。
「なあ、頼むから、もうすこしくれよ、オレにはもうこれしかねえんだよ、なあ、頼むから、」
「うるせえなッ、金もねえくせに調子のんじゃねえ」
「金ならあとで払うから、なあ、頼むよ、今回だけ、」
「うるせえっつってんだろ、消えろ」
「悠伽からもなんか言えよ、なあ、オレはおまえの兄だろぉ?」
「お兄ちゃん、もうやめよう……」
しだいに激しさを増していく雨に、彼女の髪はつめたく濡れていた。彼女がすがりつくように身体をつかむ男の瞳は、もう未来の夢など語ってはくれなかった。雨空のようににごって開き切った瞳孔は、もうすべてをあきらめているように見えた。
俺たち四人は雨のなかで立ち尽くした。ただたた、目の前の光景を見つめることしかできなかった。
街ゆくひとびとは厄介ごとに巻き込まれないように彼らを遠巻きにしている。
知らない男が駿さんの足許に唾を吐き捨てた。しかし、駿さんは微動だにしない。
「駿さんよお、バンドやってたころのあんたはカッコよくてすげえって思ってたけどよお」
雨はますます激しさを増す。地面にできはじめた水たまりに、彼らの顔が逆さまに映る。
「盗作がバレてデビューがなくなって、こんなクスリに手ぇ出して、いいザマだなあ」
奈津たちが息を飲んだのがわかった。冷たく煙る雨の音にまぎれて、男が駿さんに言い放つ。
「あんたはもう終わりなんだよ」
男は駿さんと悠伽に背を向けて、さっさと歩き去ってしまう。残されたふたりはしばらく無言だった。俺は目の前の光景に歯を食いしばる。出来損ないのドラマみたいな腐り切った筋書きが、俺たちを真っ暗闇の海底に引きずり込もうとしているのがわかった。
「悠伽、」
そう声をかけようとしたとき、駿さんが立ち上がった。おもむろに悠伽のほうを振り向く。それを見た彼女は、なにが起こるかもうわかっていたかのように、身を守るようにしてとっさに身をかがめようとする。けれど、駿さんの動きの方がやや早かった。彼の右手は彼女の脇腹を殴り抜いた。
「――っ」
悠伽は声にならない悲鳴をあげ、脇腹を押さえて身を崩した。俺は思わず走り出した。遠目で見ていた通行人たちがざわめきはじめる。その野次馬たちをかき分けるように、俺は彼らの許へ駆け寄る。
「悠伽っ!」
俺の声に気づいた駿さんが、瞳孔の光を鋭く俺に向ける。悠伽に身を寄せようとする俺に、彼は怒りをにじませたような表情で立ちふさがった。
「刻都ッ、おまえ、はめやがったなッ!」
駿さんが叫んだ。そして俺の胸ぐらを乱暴につかむ。なんの話だ。いぶかしむが、もう彼には言葉は通じないように思えた。
「おまえあのとき、どうしてオリジナル曲をやらなかったんだッ、オレにはずっとオリジナル曲しか聞かせてなかったくせに、あのときだけ、よりによってあのときだけ、オレの知らねえジャンルの既存曲を吹き込みやがってッ、ふざけんな、おかげでなにもかも終わっちまったじゃねえか、おまえのせいでッ、」
「駿さん、なんの――」
なんの話だよ、と言いかけて、俺は彼の言葉の真意をとらえた。頭のなかに、またあの
彼がひさしぶりに俺の目の前に現れ、とつぜん自慢のギターを差し出して、「弾け」と言ってきたあの日。
俺は彼を元気づけるために、これまで彼に聞かせてきたようなオリジナル曲ではない、既存曲を聴かせた。『
――なかなかじゃねえか。
――刻都、つぎの曲考えたらオレんとこ持ってこい。アドバイスしてやるよ。
彼は俺の曲を買ってくれていた。「悪くねえ」と認めてくれていた。おたがい得意なジャンルは違えど、彼は俺の曲を聴いてくれていたんだ。
――今回は自信があった。手応えがあった。この曲ならいけると思ったんだけどな。だめだった。オレにはもう音楽しかねえのに。
そんななか彼は、結果を出せずに焦っていた。今年度が終わったら、駿さんは音楽をやめなければならなかったのだ。彼には音楽しかなかったのに。
――盗作がバレてデビューがなくなって、こんなクスリに手ぇ出して、いいザマだなあ。
そこで彼は俺の聴かせたあの曲を、デビューのための踏み台にしたんだ。
「くそッ!」
彼はふたたび思い切り右手を振り抜いた。拳は俺の左頬にあたり、俺の身体は後方に吹き飛ばされる。ばしゃん、と水が弾け飛ぶ。俺はもう、生きているような心地がしなかった。なにもかも意味がわからなかった。まるで安っぽい下手くそな映画を見ている気分だ。身体に残っていた体温はぜんぶ、暴力的な夜の暗闇に融け出していく。
どうしてこうなったんだろう、と思った。俺はただ、悠伽との想い出を抱いて、悠伽といっしょにいる現在を過ごして、悠伽の見つめる未来を見たかった、ただそれだけだった。それだけだったのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
「おまえのせいで、おまえのせいでッ!」
視界の隅ではあいかわらず駿さんが叫んでいる。うずくまっていた悠伽がゆっくりと立ち上がったのが見えた。ふらふらとこちらに近づいてくる。ああ、悠伽、痛いだろ、あんま無理すんなよ、すぐ俺がそっちへ行ってやるから。
気がつくと、駿さんの右手に銀色の光が閃いていた。クスリ漬けで光の消えた彼の瞳の代わりに、その銀色の光は鋭く俺を見据えている。バタフライナイフだ。なんだこれ。こんな筋書き、腐り切ってるにもほどがあんだろ。そうぼんやり思いながら、なにも身動きが取れないでいる。駿さんがなにかを叫びながら俺に駆け寄ってきた。
視界が真っ赤に染まったのが見えた。
俺は目をつぶった。なにも痛くはなかった。ただ殴られた左の頰と、倒れたときに打ち付けた背中と、目の前の光景を処理しきれない頭がずきずきと痛んでいた。
雨の音が消えた。
まるで世界が滅んだかのようだった。ゆっくりと音も立てずに崩れ落ちていく世界のなかで、俺は目を開けた。目の前には悠伽がいた。こちらを見て微笑んでいた。力なく揺らめく瞳で、かすれていく呼吸のなかで、俺をじっと見据えて、俺の名前を呼んだ。
「ねえ、トキト」
地面に仰向けに倒れている俺に、悠伽は覆いかぶさるように這いつくばっていた。駿さんの手許のナイフが赤く濡れている。悠伽の身体から流れ落ちる雨水が、赤くにごっている。滅んでいく世界とか、そんなものはどうでもよかった。ただ目の前の悠伽の笑顔に、俺の心は殺されていく。
どうしてこうなったんだ。
その問いかけに答えることなく、彼女はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、トキト。わたしをちゃんと――」
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