第14話 あらし
よくない予感とは裏腹に、俺の願いが神さまに聞き届けられたとわかったのは、二月に入ってしばらくしてからのことだった。駿さんの率いるバンド「スカラバティズ」が、ちいさなレコード会社と契約を結んだというのだ。
「それってつまり、駿さんデビューするってことかっ?」
璃生が目を輝かせながら言う。今年に入ってさっそくの一大ニュースに、俺たち「メルロウ」のメンバー五人は浮き足立っていた。
「すごいよね」
「サイン考えといてあげないと」
「フユキ、それはおまえのやることじゃないだろ……」
わあわあやかましくはしゃぐ。もちろん俺も例外ではなかった。駿さんの夢が一歩前に進んだんだ。これで世界中のみんなが彼の曲を聴いてくれたらいい。それが彼の夢であり、俺の願いだったんだ。
そこで俺は、やはり悠伽が黙ったままであることに気づく。
「……」
俺がじっと見つめても、彼女はしばらく気づかなかった。彼女はうつろな顔をして、また一点を見つめている。兄のデビューの話を聞いているのかいないのかもわからない。彼女の瞳は風にさざなみ立つ湖の水面のように、なにかを映しているようにも見えたし、なにも映してはいないようにも見えた。あれだけ慕っていた兄の一大ニュースに、彼女ははたしてなにを思っているんだろう。
そこへ、ライブハウスの扉が開く。
「駿さん」
璃生たちが彼の名前を呼んだ。呼ばれた彼はこちらを一瞥し、「おう」と言った。そんな彼の反応を見て、俺は思わず息を飲む。
まただ。
また彼は、紗原駿は……まるでなにかを諦めたような、それでもなにかに縋りついているような、鈍い光を瞳の奥に宿している。そんな目で俺を、そして悠伽を見るのだ。
彼ににらまれた悠伽は、兄に目も合わせずにうつむいて、居心地が悪そうに自分の右脚をさすった。彼女の瞳に波紋が広がっては消える。
「駿さん、おめでとうございます」
璃生が声をかける。すると彼は一瞬目を細めて璃生を見た。どこか遠い異国の言語でも聞いているみたいな、意味をなさないラジオのノイズを聞いているかのような、あまりにも緩慢な反応だった。
「おう」
彼はそう言って、ゆらゆらと首を振る。
「駿さん……?」
奈津が低い声で訊ねる。芙雪も怪訝そうに彼を見据えている。彼の異様な雰囲気に、みんなが気づいていた。そして紗原駿は、開いた瞳孔をはっきりと俺に向けて、こう言った。
「ありがとな」
それ以上だれも言葉を発することができなかった。駿さんはふらついたその足取りのまま、ライブハウスの奥の方に消えていく。俺たちは声をかけて呼び止めることもできず、ただ目を見合わせるだけだった。彼のお礼がなんだったのかさっぱりわからず、俺の心にはまた悪い違和感が立ち込めた。悠伽はうつむいたまま、その表情を読み取ることはできない。俺は彼の消えた方向を見つめる。彼の消えたライブハウスの奥の闇は、まるで俺の意識をむしばむ不吉なしるしのように思えた。
そしてそのあとしばらくは、また彼の姿をライブハウスで見かけるようになった。彼はやっぱりあいかわらずうつろな目で俺たちをにらんでくる。そして表情をもどして、「よお」と声をかけてくる。俺たちはもう、彼に近寄ることができなくなっていた。彼の開き切った瞳孔が発する異様さに、息を飲んで見つめ返すしかなかった。悠伽はぎゅっと両手を握りしめて、まるで嵐が過ぎ去るのをこらえているかのようだった。
駿さんは時おり、ライブハウスのスタッフと言い争いをしていた。それはいつも、駿さんがわけのわからないことをわめき散らかして、スタッフがたしなめたり呆れたりしているように見えた。彼が持っているペットボトルを投げつけたり、ごみ箱を蹴り飛ばしたりしたこともあった。
まるで嵐だった。
俺たちはその嵐が過ぎ去るのを、目を閉じて、手を握りしめて、下を向いて、ただただ待つしかなかった。念願のデビューを果たしたはずの、「スカラバティズ」の主要メンバーであるはずの彼がどうしてこんなことになってしまったのかは、だれにもわからなかった。でも、彼の開き切った瞳孔が、もう思い描いていた未来を見つめていないことだけはわかっていた。
やがて三月になった。
「スカラバティズ」のデビューの話が白紙になって、悠伽が学校に来なくなった――俺たちの前に姿を見せなくなったのは、ほぼ同時期のことだった。
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