第12話 しんかい
年の瀬が俺たちの街にも迫るころ。
俺はいつものライブハウスでひとり自主練をしていた。冷え切った指先を時おりカイロであたためながら、ギターの指板の上で指を動かして慣らしていく。やっぱり寒い冬は楽器の演奏に向いていない。はやくあったかい春が来ればいいな、と思った。俺は春という季節が好きだった。年度が変わり、学年が変わり、まわりを取り巻くいろいろなものごとが変わっていく季節。
そう、年度が――。
「……」
俺は抱えていたギターを脇に置いて、飲みさしのペットボトルに手を伸ばした。一口含みながら、天井の蛍光灯をぼうっと眺める。
年度が変われば、駿さんは専門学校を卒業することになるはずだ。彼が両親と交わした約束、その期限が今年中。この春までに結果が出ないと、彼は音楽をやめなければならない。
――とにかく「オレの音楽を聴け!」って感じなんだわ。
――オレにはもう音楽しかねえのに。
――あのレベル、アマしか通用しねえだろ。
まるで不快に響く不協和音のように、俺の頭のなかに言葉が渦巻いた。ひとりの人間の夢が、たったいま目の前から消えようとしているのかもしれない。そう思いながら、俺は口のなかの液体を無理やり喉の奥に流し込んだ。ごくりと喉が鳴った。
駿さんが音楽をやめたら、俺たちはどうするんだろう。悠伽はどうするんだろう。彼女は兄を慕っていた。兄のつくる音楽を慕っていた。俺だってそうだ。スカラバティズが解散なんてしたら……アマでしか通用しないなんて言われたら、平常心ではいられない。
けっきょくのところ俺は、音楽を通じて集まっているこの五人と、いつまでもつるんでいたいのかもしれない。駿さんが寄せ合わせた俺たちを、悠伽がつなぎ留めたこの五人を、たいせつにしたかったのかもしれない。俺はこの五人が好きだから。この五人の音楽のなかで響く悠伽の歌声が、清流にさえずる小鳥のような自由な歌声が、なによりも好きだったから。
「……」
なんだかきょうは、へんな考えごとをしてしまって練習に集中できない。ここらで切り上げてうちに帰り、冷え切った身体を温めなおそうと思った、そのときだった。
ライブハウスの入り口に姿を現した人物を見て、俺は思わず「あっ」と声をあげた。その声を聞いた彼は、ぎらつく双眸をこちらに向ける。時間が止まったかと思われた一瞬のあと、その人物はやや目を細め、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
らしくない動作だった。俺の知っている彼は、人懐っこい笑みを浮かべて、無邪気に未来を見据える眼差しで、俺に夢を語ってくれたひとだったはずだ。まるでなにかを諦めたような、それでもなにかに縋りついているような、鈍い光を瞳の奥に宿すようなひとではなかった。
「……駿さん」
俺が名前を呼ぶと、彼はふと、張りつめていた表情を崩した。開き切った瞳孔をまぶたで細めてつぶやく。
「よお、刻都」
その口調はいつもの駿さんだった。いつのまにか彼の瞳の光は消え、目の前には見知った紗原駿がいた。あれはなんだったんだ。おそろしい幻覚を見たような焦燥感が肺のなかから湧き出て、口をついて言葉になってこぼれ落ちる。
「どうしたん、ですか」
「どうした? なにが」
彼はなんでもないように返す。いつものような彼の態度を見て、俺はそれ以上聞けなくなってしまう。
「練習か?」
「……はい」
「オレのギター、弾きたいか」
「え?」
彼はとつぜんそう言って、背負っていたギターケースを床に下ろした。そしてなかからそれを取り出す。彼がウン十万という大枚を叩いて買った自慢のギターだ。海の底で朽ちた船みたいな色のヘッド部分に、『Martin&Co.』と彫られた金の飾り文字が光る。
「弾いてくれ」
「え、でも」
「いいから」
自慢のギターを押し付けてくる彼に気圧されるかたちで、俺はそれを受け取って構えた。ボディをたたくと、こおぉん、と深海に反響する船笛のような音が響いた。
なにを弾けばいいんだろう、と思ったが、リクエストを取っている場合でもない。最近彼にはオリジナル曲しか聞いてもらってなかったから、べつの曲を弾いてみることにした。
『Lily of the Valley』。
いろいろなアーティストの既存の曲をごちゃまぜにしてつなぎ合わせてつくった、遊びの曲だ。タイトルの『
「……」
「……」
おたがいなにも言わなかった。俺は時間をかけてゆっくりと曲を演奏した。曲が終わっても、彼の口は動かなかった。そしたら俺は黙ってまた
なぜならこのときの俺は、俺たちがあんなことになるなんて、思ってもいなかったんだ。
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