第5話 こうかい
朝陽とともに目覚めてシャワーを浴びて、めずらしく朝食なんかを摂ってみても、状況が変わるはずはなかった。スマホを開くと、きのう観た動画のページが開いたままだ。再生ボタンに触れる。あいかわらず肌色の多い画面のなかで、清流にさえずる鳥の鳴き声みたいな歌声が響く。その歌声がくすぐる心の場所は、やっぱり彼女とおなじなのだ。
六年前のあの事件以来、悠伽は姿を消してしまった。あの事件はあまりにも重すぎて、受け止めるには俺たちはあまりにも未熟だった。中学生だったのだ。俺はもう、どうすればいいかわからなかった。姿を消した人ひとりを捜し出すには、当時の俺という人間は無知で、無力だった。
でも、彼女が「姿を消した」んだということだけはわかっていた。亡くなったわけではないのだ。それは、俺のスマホにいまも残っている。俺はスマホでその証拠の画面を呼び出した。
あの事件から五年後――つまりいまから一年前、俺が受け取ったメッセージ。
『約束、憶えてる?』
――ねえ、刻都。私をちゃんと――。
俺は、この一年前のメッセージに、返信することができなかった。あまりにとつぜん送られてきたメッセージだ。そして、もう思い出せない、取り戻すことのできない約束にまつわる彼女の言葉に、俺はひどく動揺した。送った彼女からしたら、既読スルー以外のなにものでもなかっただろう。いつか返さなければ、そう思いながら、いつのまにかここまで来てしまった。
六年前の事件。あの日、あのとき。
俺たちが交わしたはずの約束。いまは思い出せない約束。
一年前に送られたメッセージ。返せなかった言葉。『約束、憶えてる?』
後悔ばかりだ。さよならだけが人生だというが、俺は「後悔だけが人生なんだ」と思う。人生においてなにかを決断するとき、与えられる時間はあまりに短い。重要なものであればあるほど、その決断の時間は一瞬で過ぎ去ってしまう。そうして俺の人生には、後悔ばかりが積み重なっていく。
メッセージアプリを開いて、奈津との会話を呼び出した。『また連絡する』という俺の言葉で途切れたままだ。既読になっている。きっと奈津は、すなおに俺からの連絡を待ってくれているんだろう。俺はその「既読」の文字を見つめる。
「……」
あらゆる理解も想像も超えた状況で出逢った悠伽の影に、それでも悠伽を見つけられるかもしれないというかすかな可能性に、心は大きく揺れ動いていた。悠伽じゃないかもしれない。でも、やっぱり悠伽かもしれない。だとしたら、彼女はなんのためにこんなことをしている? いまどこで、彼女はなにをしている?
あの日に交わした約束は、いったいなんだったんだ?
俺はもうこれ以上、後悔なんてしたくなかった。懺悔の祈りに似た後悔が、思考のブラックホールが俺をすっかり飲み込んでしまう前に、俺にはまだやることが残されている気がした。
心のなかのどこかで、悠伽の声が聞こえたような気がした。
――そうだよ、刻都。わたし、ずっとあなたを待ってるんだから。はやく見つけてくれないと、すねちゃうよ?
のん気に微笑みながら、彼女は身体をひるがえして歩き去って行こうとする。ここだ、と思った。人生の決断の瞬間。ここで一歩踏み出さなければ、俺はきっと、一生後悔する。
『奈津』
俺はスマホにメッセージを打ち込む。既読になるのを待たずに、続きを送った。
『悠伽を捜そう』
すぐに既読になった。ヴヴヴ、とスマホの筐体が震える。
『トキトのその意味わかんない行動力も、スイッチが入るタイミングの読みにくさも、六年前のまんまだね。なんにも変わってない』
奈津の笑顔が見えるようだった。陽だまりみたいに俺を照らす笑顔。変わらないことも、変わってしまったことも、俺たちにはたくさんある。いまではもう、その変わらないものを信じて進んでいくしかない。
『わかった。協力するよ』
奈津は言った。『フユたちにも話そ。協力者は多いほうがいいからね』
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