第20話 行ってきます、ただいま、そして――さよならを。

 夏休み開始から一週間後の早朝、僕は大きめのリュックに旅の荷物を詰めていた。何度も閉じかける瞼を、閉じては開き閉じては開きを繰り返し、僕は荷造りを終えた。

 そして新調してもらった携帯電話を開き、仮町と梨花に今日から旅行に行くとメールで伝えた。


 あの日、仮町に会った日、あいつはその後一人で立ち上がった。そしてまた僕たちの前に現れた。


「ありがとう」


 彼はただそう言って、少しだけ疲れたような目を僕と梨花に向けていた。そのまま眠りそうな顔をしている仮町を、梨花は思い切り殴った。華奢で細い体躯からは想像もできない重いパンチを食らわせた。

 僕は傍らで喧嘩が始まるんじゃないかとはらはらしたけれど、二人はその後ただ笑って、お腹を抱えて大笑いしてから、少しだけ泣いた。


「俺さ、転校することになったんだよ」


 唐突な言葉に僕たちは驚き、言葉を失った。


「前々からそういう話にはなってたんだ」


 僕は口をぱくぱくさせてなにかを言おうとしたけれど、それが言語になる前に梨花が言ってしまった。


「行かないで、寂しくなる」単純明快な、思いのこもった言葉だった。


「そういうわけにはいかないだろ。高校生の一人暮らしが許されるのなんて、ライトノベルの世界だけだからな」


 仮町は具体的な日程を話して、ふんわりとした優しい笑顔を残して帰って行った。

 たくさん考えて、たくさんの苦労の果てに仮町を取り戻したと思っていたのに、結局こうして簡単に離れてしまう。


 苦労して手に入れたものは、あっさりとこの手から離れてしまう。しょうがないのだと分かっていても、やっぱり別れは寂しく悲しい。

そして今日が、仮町がこの町からいなくなってしまう日だった。




 メールを送信して数分後、着替えているときに電話がかかってきた。液晶に表示された『仮町響』の文字を見て、僕は急いで通話ボタンを押した。


『よう』すっかり調子を取り戻したようで、前と同じ明るく軽い声だった。

「どうしたの?」僕は電話をスピーカーフォンにしてから机に置き、着替えを続けながら話した。

『今日いなくなるからよ。挨拶ぐらいはしとこうと思ってな』

「そういうの電話で済ませていいのかい?」

『本当は見送りに来て欲しいし、行ってやりたいけどな。俺ももう出ちまうから行けねえよ。お前もそろそろ出るんだろ?』

「うん、まあ、あと三十分くらいで出るよ」


 僕は着替えを終えて、ふうっと息を吐いてベッドに腰かけた。


『なんだっけ?墓参りだっけ?』

「そう、両親の墓参りだよ」

『じゃあ、俺のことも紹介しといてくれよ』

「分かったよ。じゃあ、そろそろ準備を終わらせないとまずいから切るね」


 僕はそう言って携帯電話を手に取った。


『俺たちはさ』切ろうとした寸前に仮町は言った。『これから一体どうなるんだろうな……』


 不安気な、弱気な、悲し気な声だった。


「分かんないよ」

『相変わらず辛辣だな』

「でもきっと、生きてはいけるんじゃないかな」


 それは僕の中で確かな根拠を持つ言葉だった。だから僕は自信を持って仮町に伝えた。


「結局、不幸の中にいると思っていたら、そこが幸せな場所だったりするんだよ。暗闇に見えるのは、周りの人間が明るい場所にいると思い込んでいて、その光のせいで自分の居場所がどんなところなのか見えなくなっているだけなんだ。生きている限り、何も見えない場所にいることなんてあり得ないんだよ」


 そして、自分の居場所が明るい場所だということに気づくのには、時間がかかることの方が多い。僕自身だってようやく、ここがどういう場所なのか知ったんだ。


 でもきっと仮町なら、もっと早く気付けるはずだ。そう確信していた。僕みたいにうだうだと、悩んで停滞したりはしないだろう。


「ずっと悩んでいたんだ。あの謎を解いたことは間違いだったんじゃないかって。でもね、こうして君とまた話せたのだからきっといつか、あれでよかったと思えるかもしれない」


 それでもやっぱり、確証はない。僕はずっと不安なまま、悩みながら生きていくしかない。でもそれでいいと思ったんだ。たとえ身を裂かれるような苦難が待ち受けているとしても、生きたいと思ったんだ。

 そうしていれば、潟元夫妻や梨花や、仮町のような人に出会えるかもしれないのだから。


『そろそろ切るぜ』

 仮町は鼻で笑いながら

『じゃあな、ヘボ探偵』

 そんな罵倒をした。負けじと僕も言葉を返した。


「さよなら、クソヒーロー」


 僕は通話の切れた電話をポケットにしまい、大きなリュックを背負って階段を降りた。そして、リビングにいる夫妻に「おはようございます」と言った。


 朝起きて、家族に挨拶をする。これもきっと、僕が失って手に入れたのに気づいていなかった幸福なのかもしれない。


 来週は、梨花と和人君と一緒に花火をする。その次の日は近くの公園でサッカーをして遊ぶ。夏休みには予定があり、そこでは友達がそばにいる。

 家に帰ればおかえりと言ってくれる家族がいて、そこは僕の帰りたいと思える場所である。


 手に入らないと思っていたものは案外近くにあって、あるのが当たり前すぎて幸せなのかどうか迷ってしまう。なのにやっぱり本当に欲しいものは手に入らないから、不幸なのだと思ってしまう。


 本当は、身の回りにあるものだけで十分なのに、僕たちは無いものねだりを続けていく。


 努力は報われず、報われないと思っていたどうでもいい願いは叶ったりする。思わず笑ってしまうくらい、不気味なほど上手くいかない人生だけれど、生きることをやめたりは出来ない。


 あの日、公園のベンチで、生きようと立ち上がったヒーローがいることを知っているから。あの男に馬鹿にされない為に、僕は生きていくしかないのだろう。


 三人が乗り込んだ軽自動車は勢いよく発進した。

 助手席に座る京司さんは揺られながら、頭を抱えてノートパソコンで小説を執筆している。その隣に座る价子さんはお気に入りのミュージックをかけてのりのりで運転している。


 僕は対照的な二人を後ろから眺め、ほとんど忘れてしまった両親のことを思い出した。


 子供を守って死んでしまった親。無責任だと思うこともある。自分の境遇を呪いたくなることもある。

 けれどいつだって僕は、ヒーローのような二人を誇りに思う。


 ああなりたいと願い続ける。でもなりたいものになれないのが僕の人生ならば、願うだけで一生は終わるのだろう。

 それでも僕は願うことに、続けることに意味があるのだと思う。そうじゃないとしても、そうなのだと言い張り続ける。


 携帯がメールを受信したことに気づいた。梨花からだった。内容はシンプルに、しかし可愛らしい絵文字が添えられていた。


『いってらっしゃい』たったそれだけの言葉に僕は喜んでしまう。

 たったそれだけのことで、不幸な僕は幸せになる。

 僕は「行ってきます」と静かに呟いた。


 いってきますと、ただいまと、さよならを繰り返し僕は進んでいく。


 僕はそうして、こうして――生きていく。

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探偵とヒーロー タガメ ゲンゴロウ @hati0119

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