第6話 亜酸化窒素

 五限目の休み時間、梨花が僕の席にやって来た。僕は弁当を食べきれなかったせいで空腹となり、机につっぷしていたので声をかけられるまで梨花が来たと気づかなかった。


「今日の放課後には土下座しないといけなくなるけれど大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないな。あのホームズまだ謎が解けていないらしい」空腹のワトソンは力なく答えた。

「土下座するときは私も呼んでね。男二人が土下座するなんて中々見られる光景じゃないもの」


 梨花は楽しそうに言うと自分の席に戻っていった。僕は彼女の人生の楽しみ方を羨ましいと思いながら、僕の土下座を輝いた目で見ている彼女を想像して落ち込んだ。



 六限目も終わり放課後になった。僕は二日続けて放課後の教室で弁当を食べていた。事情を知らない人が見たら、便所飯が嫌でこうして放課後に食べているぼっちに見えてしまうかもしれない。


「よう、死刑執行前の晩餐か?」


 嫌味を言いながら仮町は教室に入って来た。「君のせいだろ」と僕が言うと仮町はまた爽やかに笑った。


「土下座かあ、俺まだ人生で一回もやったことないんだよなあ」なぜか仮町も梨花と同じように目を輝かせている。

「謎は解けなかったのか?」ワトソンが聞くとホームズは皮肉な笑みを浮かべて答えた。

「謎なんて解く必要はないんだよ。この世界は推理小説じゃないんだから」

 そう聞いて、彼の苦労が徒労であったことに気づいた。たとえ真犯人を見つけても素直に自供するとは思えない。僕の無実を証明しても、あの美代子ちゃんが納得するとは考えづらい。そんなことを今更思った。


 でも、それならばなぜ、それを分かっていながらなぜ仮町は僕を助けてくれたのだろう。その疑問はすぐに解決してしまった。僕は知っていたから。


「君は酸素みたいな男だね」

「ん?」

「僕が窒素なら君は酸素だ。生きていくのに欠かせなくて、時に炎をより激しくさせる。君らしいよ」

 僕の言葉を聞いて「俺は炎のように熱い男ってことか」と嬉しそうに言った。

「そうじゃなくて人をやる気にさせるってことだよ。君に会うまでは正直穏便に済ませようって思っていたんだ。けど、探偵ごっこまでやってしまった」


 そう言うと、仮町は「なるほどね」と感心したように微笑んだ。

「でも酸素とはな。ちと荷が重い」そんな言葉がなんだか可笑しくって、僕も笑った。


 その時誰かが教室のドアの前に現れた。ドアについている窓は小さくて、胴体しか見えなかったのでそれが誰かは分からなかった。


「あれ?まだ来てないの?」梨花がドアを開けて姿を見せた。本当に土下座を見に来たらしい。

「まだだよ」僕が答えると梨花はやはり楽しそうに「まだかあ」と安堵した。

「なあ、お前今、誰がドアの前にいたか分かったか?」


 仮町がさっきまでの笑顔を消して、神妙な面持ちで僕に聞いた。


「いや、顔は見えなかったから」

「性別は?」

「え……」質問の意図が読めず僕は戸惑いながら「いや、胴体しか見えなかったし、この学校は男女ともに学生服がブレザーだから……」と答えた。


「なによそれ!私の胸が小さいっていう遠回しの罵倒?!」


 梨花が顔を真っ赤にして激高した。そんな彼女を無視して仮町は考えていた。


「分かったよ。完全に」数分黙っていたと思ったら、突然そんなことを言った。「何を?」なんて分かり切った質問はしなかった。

「でも、これはやっぱり話せねえな。悪いけど一緒に謝ってくれねえか?」


 仮町は申し訳なさそうに言った。僕に対する罪悪感からか、表情はとても悲しげだった。僕はそんな彼の顔に負け、僕は「分かった」と答えてしまった。


「ちょっと、どういうこと?分かったんでしょ、犯人が。なら謝る必要なんてないじゃない」

梨花が本当に不思議そうに聞いた。仮町は気怠そうな声で「いいんだよ、それで」と言った。

「じゃあせめて教えてよ。犯人は誰なの?」


 梨花が不満そうに言った。それは欲しがっているおもちゃを目の前でぶら下げられて、焦らされている少女の様だった。


「話せねえって言ってんだろ。その代り男二人の土下座見してやるから」


 そう言われると少女は、さっきまでの不機嫌が嘘のように晴れやかな笑顔を見せた。


「あ、あの」


 さっき梨花が入って来たドアから声が聞こえた。か細く、自信が無さそうな声だった。僕はその声の小ささだけであの子だと気づいた。


「よう、雀ちゃん。犯人分かんなかったから謝るよ」仮町が右手をひらひらと振りながら軽々しく言った。

「い、いいの。謝らなくても大丈夫……」


 彼女の声は最後の方は小さすぎて聞こえづらかった。彼女は何か大きなものに押しつぶされそうな雰囲気だった。その恐怖のせいで昨日よりも声が震え小さくなっているようだった。彼女はそのまま振り返って、逃げるように走っていった。


「追いかけないの?」僕は動こうとしない仮町を不審に思い質問した。

「思春期の悩みは俺の手には負えそうにない。燃えさせたら暴走して燃え尽きちまうからな」


 動こうとしない探偵を見て、僕はいてもたってもいられなくなった。僕の火が仮町によって燃え上がらせられていたことを忘れていた。

 突然走り出した僕は、自分の予想外の行動になんだか笑ってしまった。そして窒素は燃焼すると笑気ガスになることを思い出した。

 後に梨花はこの時のことを『ワトソンの暴走』とよんで笑った。

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