第1話 ガラパゴスイグアナの苦悩
高校生活が始まってからというもの、僕はとあることに悩まされていた。そのせいで常に落ち着かず、授業中もそのことばかりが頭に浮かび集中できなかった。
「授業に集中出来ないなんて当たり前だろ」
僕と向かい合って座り、菓子パンを食べているクラスメイト、高野盛高はそんなことを言った。昼休みのことだった。僕は弁当箱から箸で掴み取っていたウィンナーを落としてしまうほど、彼の言葉に呆れてしまった。
「僕は君と違ってちゃんと勉強がしたいんだよ。学業にはお金がかかっているのだからね」
教育とは即ち投資である。しかし普通の投資とは違い、努力さえすれば見返りは保証されている投資だ。だから尚更頑張らなければいけないと思う。
「ならさっさと認めちまって楽になれよ。そうすりゃとりあえず、事態は収まるだろうよ」
高野の発言に、僕はまたも呆れて今度は卵焼きを落とした。弁当箱へ投下された卵焼きは、その完璧な半熟さゆえ形が崩れてしまった。价子さんの料理の腕があだとなってしまった。
「簡単に言うね君は。僕はやっていないよ」
「でもよ。ガラケーなんて持ってんのはこの学校でお前だけなんだぜ。犯人はお前で間違いないってみんなが思っている」
ガラケー。略さずに言うと『ガラパゴス携帯』。ガラパゴス諸島のように、日本で独自に進化した携帯のことを指す名詞である。悩みの種は僕がガラケーを使っているということから始まった。
「しかし、ガラパゴスイグアナを飼っているからといって、その人物が変態だなんて理屈は通らないだろ。だからガラケーを使っているからといって、僕が変態とは言えないよ」
「がら……なんだって?」
高野は珍妙な顔で僕を見ていた。どうやらガラパゴスイグアナを知らないらしい。
「じゃあさ、人の血がべっとりついたナイフをお前が持っていて、目の前に刺されて死んだ人間が横たわっていたら、お前が犯人で間違いないだろ?」
高野の戯言を聞いて、僕は黙ってしまった。彼のたとえ話の方がイグアナの話より合っているみたいだ。
「でもやってないのは事実なんだよ」
僕は必死に訴えるが、高野は現場を目撃していたのかごとく一向に信じてくれない。でもまあ、逆の立場だったら僕も高野を信じないと思ったから、彼を責める気にはなれなかった。
僕にはとある疑いがかけられていた。それは勿論殺人などではなく、盗撮の疑いだった。校舎裏にある女子更衣室を盗撮していた人間が目撃され、その人間がガラケーを使って撮っていたという目撃情報から、この学校で唯一ガラケーを有する僕が、犯人候補の筆頭を担ってしまったのだ。
「だいたいよう、御年五十四歳の校長先生でさえスマートフォンを使う時代に、ガラケーなんて使ってるやつが悪いんだよ」
高野はそう言うが、僕がガラケーを使うのには事情があった。
中学一年生の頃、夫妻は僕に携帯電話を持つことを強く勧めた。当然夫妻に金銭面での負担を最小限にしたいと思う僕は断ったが、それでもひいてくれない夫妻に負け、ならばと価格の安いガラケーを所望したのだ。
「まあ、ガラパゴスイグアナなんて訳分かんないものを飼っている奴は、変態だっていうことだな」
「全国の爬虫類愛好家に謝れ!」
僕のせいで爬虫類好きの人間まで評価が下がることになるとは思ってもいなかった。
「でも、消去法で犯人を決めるなんて愚の骨頂だよ」
そう言ったとき、各教室に設置されたスピーカーから放送が流れた。内容は僕を職員室に呼び出すものだった。僕は溜息をつき、周囲の人間から向けられる奇異の目を無視して教室を出た。まだ食べている途中だったのがしょうがない。
職員室に入ると立派な髭を蓄えた、担任教師の森本先生が僕を手招きした。僕は先生のデスクにゆっくりと近づいた。
「ああ、ちょっと待っていてくれ、すぐ食べ終わるから」
森本先生は出前で頼んだかけそばを勢いよく啜り、丼ぶりの中を一瞬で空にした。僕は食べ残したままの弁当に思いをはせながら、腹の虫を泣かせた。
「要件は分かっていると思うが、被害者の女生徒がカンカンなんだ」先生は両手の人指し指をおでこの前で立てて鬼の真似をした。
「このままだと警察に被害届を出すらしい」
望むところだ――と大声で叫びたかった。だがしかし、大事にしてこの件が夫妻の耳に入ることを避けたい僕に、そんなことは出来なかった。これ以上、夫妻に迷惑はかけたくなかった。真実がどうであれ、こんな話を夫妻が聞いたら、僕を心配するに決まっている。そんな不要なことはさせたくない。
「お前が罪を認めて誠心誠意謝るのなら、大事にはしないと言っているんだ」
多分、近年問題視されている痴漢冤罪も、こんな感じで起こっているんだな、と僕は思った。
罪状を突き付けられ、認めろと責められているのに僕の頭は至極冷静だった。きっと、心の中ではどうでもいいと思っているからだろう。本当のところは、心の奥底ではどんな結果になったって受け入れることが出来ると分かっているのだ。夫妻に迷惑をかけたって、それはしょうがないと思えてしまえると、自分がそんな人間だと分かっている。
「少し考えさせて下さい」
しかし、僕は、自分の人間性を分かっていながら、事を荒立てないで済む方法を否定した。それがどうしてなのか僕にも分からなかった。
森本先生は溜息をつき、僕の言葉に反論をしようと試みたとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。話はそこで終わり僕は教室に帰された。
僕は自分の机に置かれたままの弁当箱を、中を崩さないようにカバンにしまった。そして他のクラスメイト同様、次の授業の準備を始めた。
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