探偵とヒーロー
タガメ ゲンゴロウ
第一章 酸素とアルゴン
病室にて――①
白い壁、白い天井、白いカーテン、そして白いベッドの上に小柄な女の子が横たわっていた。少女は酸素吸入用のマスクをつけ、首には様々な管が繋がれていた。静かな部屋にベッドわきに置かれたモニターが放つ音だけが響いていた。
僕がこの病室に入ってからもう十数分経過したが、少女が目覚める様子はなかった。多分少女はそういう症状なのだろう。つまりは脳死とか、植物状態とかそういうものなのだ。医学の知識なんて無いに等しいが、生きているはずなのに生気を感じない少女の顔を見てそう直感した。
僕はただ黙って困り果てていた。僕は仮町という男に頼まれてこの病室に来た。しかしここで何をすればいいのか分からない。あの男が何を考え、どんな思惑があって僕をここに行かせたのか皆目見当がつかない。
きっとこのまま帰ってしまっても誰かに文句を言われることはないだろう。仮町は僕がここに来たということを知っているし、何もしなくたってあいつにばれることはないのだから。
それでも、僕は目の前の、目を覚ますことのない少女に何かを伝えたいと思った。思ってしまった。
「僕はね、小さい頃に両親を亡くしたんだ。交通事故でね、一瞬のことだったよ」
口にすると思い出してしまう。言葉にすると勝手に脳が考えてしまう。あの事故のことを。
父が運転し、母が助手席に座っていた。僕は後部座席に座ってルームミラーを眺めていた。そして対向車線の車が僕たちの車に突っ込んできた。車と車の正面衝突は、武装した小さな車のおもちゃを戦わせるアニメのワンシーンみたいだった。一瞬が何十秒にも感じられ、重力から解放され自重を失い、まるで宇宙船の中にいるようだった。
「それから片桐という家でお世話になったんだけれど、今は潟元さんていう人の家に住ませてもらっているんだ。潟元夫妻には子供がいなくて、僕のことを本当の息子みたいに接してくれる。とてもいい人たちだよ」
僕は家で待つ夫妻を思い浮かべた。潟元价子さんは笑顔で僕を出迎え、潟元京司さんは穏やかな声で僕に学校のことを聞いてくれる。それは暖かくて、光に満ちていた。
「でも僕は夫妻とどう接していいのか分からないんだ。夫妻が笑顔で話しているとき、僕はどんな顔をしていいのか分からないんだ」
なぜか、初対面の女の子にすらすらと悩み事を話してしまった。きっと彼女の耳には僕の声なんて届いていないはずなのに、僕の言葉は止まらなかった。
きっとここで話すことを諦めて、踵を返して病室を出ていれば何かが変わっていただろう。しかし僕は、諦めずに会話をすることを選んだ。見ず知らずの女の子に誠心誠意向き合うことを望んだ。
「君にはもっと面白い話をした方がいいんだろうけれど、どうやら僕にはこんな話しか出来ないみたいだ」
分かっていたことだった。仮町から妹のお見舞いに行って欲しいと頼まれた時から、知っていたことだった。それでも僕は足掻いていた。この場で何かを残さなければと焦っていた。その感情の原点は多分、仮町に恩返しがしたいという気持ちがあったからだろう。
「僕は何の力も持っていない。あいつみたいに誰かを救うことも、君を救うこともできやしない。何故ならこの言葉は生きていないからだ。死んだような僕が言うこの言葉は死んでいる。眠っているなんて生優しいものじゃない、死んでいるんだ。死んだものは決して蘇らない。だからこそ、この言葉には力がない」
眠っている彼女に。死んでいる彼女に僕は言った。そして僕は一つの決意をした。
「それでも聞いてくれ。これは君の兄貴の話だ。僕を救ってくれた恩人の話だ」
そうして僕は語り始めた。
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