知らない「記憶」


 ……――。俺は俺に過酷を強いた神を憎む。あの御方の同族であろうとも、それはあの方ではない。俺のこの傷痕は生涯消えぬ。苦しかったし、悲しかった。


 まただ。また不可解な声が聞こえてきた。脳内で響く声は悲しそうだったが、同時に喜びに満ちていた。きっととかいうのが助けてくれたのだ。だから……。


 ――ュンちゃん、今も苦しい?


 小さな女の子の声。私の声だ、とサイが思ったのと頭痛が襲ってきたのはほぼ同時。


 ガンガンし、痛む頭の中で知りもしない誰かと話す自分というイミフ。幻だと振り払おうと思ってもできない。それはとても悲しくて幸福なだったから。


 ――知らない。こんなの、――ちゃんなんて、私は知らない、知らない、知らない。


 何度もそう念じてみても脳は温かな場面を当然のようにとして扱っている。


 そして、サイに問うのだ。こんな大切なことをどうして覚えていないの? ……と。やがて、言うのだ。思いだして、と。これは覚えていなくてはならないものなのだ、と。


「? どうした? 帰る気に」


「やめろ」


「あ?」


「私、知らない。こんなの、知らない」


 こんな幸福はなかった。わかり切っている。なのに、目の前にいる獣が喋る度、幸福があったのだ、と言う誰かがでてくる。それはサイによく似ている。幼き日の、サイに。


 ただ、そのコに呪われた目はない。だから他人の空似。だからこれは嘘。だから、だから……これ以上揺さぶるなと願った。その声が一緒だから。幻の誰かと同じ声の獣。


「ち、がう。私はミュンちゃんなんて、そんな名前の誰かなんか知らないっ知らない!」


「! な、ん……お前、今、なんと」


「知らない。幸せなんてなかった。し、らない、じらない、知らないっ! 知らないからもう黙って早く私を殺して! これ以上幻、こんな優しい幻見たくない!」


「ま、さか、いや、だがそんなまさか」


「お嬢様」


 不意に。空気を切り裂くように凛とした声が森に響いた。それはサイの右手側にある暗がりから聞こえた気がしたが、そこにひとも獣もいない。あるのは闇だけ。


 なのに、その闇からなにが入っているか知れない紙箱が飛んできた。サイは咄嗟に捕まえる。痛む頭を抱えながら開けてみるとカプセル錠がビニル袋に入っていた。超大量で。


「ひとつ、お飲みください。お嬢様」


「だ、れのことだ」


「お嬢様、この場にお嬢様はあなただ」


「待て。その声、貴様、鴉!? では」


「アレなるはお気になさるな。さあ、頭痛を鎮め、あなたを惑わす幻を消し去る為に」


 幻を消せる。そのことを理解するより早くサイはビニル袋をひとつ破って中身を口に入れ、水を使って服した。カプセル錠は通常効果がゆっくりでる、と思っていたが、即行で効いた。サイの頭を内側から叩く幻が霧散し、頭痛は綺麗に消えていった。


 消えていった頭痛にほっとしているとサイに影が落ちた。あの巨大を極めたような狼が目の前に来ていた。顔も鼻も口も目もすべてが大きい。だが、もはやそれに懐かしさを感じることはない。幻は本当に幻となったが、その先、信じられない光景にぽかんとした。


 目の前に立つ巨大な狼の輪郭が崩れ、毛皮が引っ込み、代わりに皮膚としか思えないものが現れた。それだけでなく、狼だった者は黒い着物のひとの形に変化していった。


 荒々しい黒の短髪。紺碧の双眸。白い肌の男。右目の傷痕だけが目の前のひとが先までいた狼だと訴えている。いい加減超常現象にも慣れた気でいたがまだまだだった。


 狼が、たしかに規格からおおいに漏れまくっていた感じの者だったが、それでもひとの姿になることができるなど夢にも思わなかった。そのひとは信じられない、という目でサイを見下ろしている。見下ろしていた。ゆっくりと、サイの前で膝をつき、突然土下座。


 キャパオーバーってこういうのを言うんだな、とサイがしみじみ考えている、と獣だった男が口を利いた。同じ、獣のような声。だがもうそこに不審者を訝しむ色はなかった。


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