氷点下の白海
今この時、緊張状態でどうでもいいことを口走ったらそいつから真っ先に死ぬ。
だが、なかなか解し難い状況だ。なぜ、サイは優位に立っているのか。彼女に相応の実力があるのはそうだが、それにしたって戦国の二強を相手に余裕をかますなんて。
「これは、加減していては死にそうですね」
「うむ。しかし、あんな細い体のどこにアレほど恐ろしい膂力があるのか」
「同感です。肝の据わったお嬢さんだとは思っていましたが、ここほどの実力があるとは予定が狂いますね」
予定が狂う、と言ったネフ・リコもイキバと同じかそれ以上にサイを脅威であり、危険と判断したようで注意深くサイを見つめている。ココリエも雰囲気を感じて緊張が高まっていくが、驚いて口が開きっ放しだ。
強いのは知っていた。いつも拳術の稽古をつけてもらっているし、《
ネフ・リコたちが加減しているのは当然。なにしろ目的はサイをリィクの閨相手に仕立てること。殺したりしてはお咎めを喰う。だが、予定に入っていなかったことひとつ。……サイは強すぎた。少なくとも普通の女にはない
「どうした」
静かで冷たい声がした。声は美姫の唇から吐かれた。絶対零度の音が硬直した場に落とされ、全員の緊張を煽る。唯一緊張していない女は自然体で構えている。
とても綺麗だが、ひどく冷たく恐ろしい。
「私の順番で、よいか?」
おそらく攻撃していい順番のことを言っているのだろう。が、そんなもん、順番を振るようなものじゃない。勝手にどうぞ、と言いたいところだが、相手がサイなので迂闊にへたなことは言えない。場合で超速死する。わかっているから誰も答えない。
答がえられない。だからやめる。……なんてのはサイの中にありえない選択肢。サイの足が海に向かう。そして、女の靴先が水に触れた瞬間、驚きの光景が広がった。
空気が冷えた。どう見ても南国の海で体感温度も高めであると思われる。なのに、現在感じる気温はなんだか冬のそれに近い。それもその筈。海が、凍っていく。
広大な無にして有である海。透明な水なのに海と名を冠すと青くなる。不思議な自然にサイが手を加えていく。透明で青い海はサイの不思議な力で白く移ろう。
硝子が砕けるような悲鳴をあげて凍っていく海。張った霜。飛沫すらそのままに時を止めてそこに在る。幻想的な光景ではある。だが、なぜかココリエは背筋に冷たいものを感じた。サイがカザオニと一戦交えた時に感じたのと同じ闇の鼓動が聞こえる。
底冷えする闇。ひどく安堵する暗黒。怖いのに安らぐ奇妙はまるでサイの矛盾。
恐ろしいのに優しい。冷たいのに温かい。美しいのに醜い。怖いのに落ち着く。
サイの抱えている矛盾。本来だったらきっと今のサイと真反対の人物像となったであろう素質を持っているのに環境がサイを決めた。そして、サイは悪魔の道を選んだ。
「凍てし盾に鉾添え在れ。
サイの唇が音を紡ぐ。とても不思議な音。
謳っている、とでも言えばいいのか。生憎とココリエの語彙に適切な表現はない。
サイもきっと正確なことを把握はしていないだろう。いつも結構適当にすごいことを平然とするようなひとだし。……。そうすると、サイは本当に天才的だ。サイの才能は天賦のものであり、ある種、神が与えたに等しいものであるとすら思える。
「イキバ!」
「ぬうぅうううっ!」
サイの謳がやんだ、と同時にサイの周囲で異変が起こった。凍った海の中からなにかが伸びてきてサイの両隣で形をなしたのだ。それは
即断でそれを危険なものだと認識したネフ・リコが声をかけ、イキバが負傷していない方の手を熱く燃えている砂に叩きつけた。白砂が練られていき、錬られる。
そうして現れたのは白い壁。分厚い壁は《
一般的な壁は厚さ一寸から厚くても二寸。大きさも身の丈半分あればいい方だ。
なのに、イキバの形成した壁は厚さ約五寸。大きさはイキバの超巨体すら完璧に隠す巨大さを誇る。あんなものをつくられては破城槌でも持ってこないとならない、と思ったがそう思ったのはココリエだけだったらしい。
ふたりは壁の後ろで留まらず、すぐさま後退を開始。戦国切っての武将である筈のふたりだが顔には緊張と恐怖がある。自分よりも強い者に出会った時の、表情。
だが、それでも甘かったのだろう。
「撃て」
サイの声が聞こえた。冷たい声で敵を撃てと言った。……イキバがつくった、戦国の強者が急ごしらえでも練りあげた強固である筈の壁が崩れたあとで。
壁が崩れた。よって背後のネフ・リコとイキバを守るものはない。壁が壊されたことにふたりが驚愕することはならない。驚く間もなく氷の礫が襲いかかってきた。
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