借り一個
「……ぅ、ん……?」
互いの顔を正面に見て話していた兄妹の下で呻く声。布団で寝かされていたサイが身じろぎしていた。ココリエは慌てて着物の皺をはたいて伸ばそうとし、ルィルシエはそんな兄を静かに見守っている。妹に見守られているのに、ココリエは気づかない。いつもなら、気づくのに。
他のことに気を取られているココリエは気づかず身なりを整えてサイを見た。
眼帯に隠れていない右瞼が震え、ゆっくりと開かれた。女の視線はさだまっていない。ゆっくりまばたきするサイは自分の現状、布団にくるまっていることに瞳を揺らす。
「サイ、大丈夫か?」
「なにがか」
「どこか苦しかったり、痛かったり」
「別に」
ココリエの心配をサイは一蹴した。倒れてもサイは目覚めてしまえばサイだった。
だが、では、アレはいったいなんだったのだろうか。まるで、別人のようだった。
どういうことなのかは知れないが、アレは確実にサイじゃない。サイであろう筈がない。彼女だったらきっと、きっと……。きっともっと上手に切り抜ける筈だ。
暴言を浴びせるなり、軽く動けなくなるくらい蹴るなりする。それがいつものサイだ。だから際立っておかしい。あの時、いったいサイになにが起こったのか。
「私は門に向かった筈だが?」
「サイ、倒れたのですよ」
「倒れ、た……?」
「はい。門はもう通過しました。それで、ここは泊まる予定の旅籠屋で、今さっきまで気分が優れなくなったのではないか、と心配していたのです。お兄様が」
ココリエが心配していた、という部分を強調したルィルシエはサイの顔を窺うが、サイは常の無表情でいつも通りイミフ、と瞳を揺らした。サイの頭が枕をこすってココリエの方へ顔を向ける。女戦士の瞳には複雑そうな色が揺蕩っている。迷ったようだが、サイは口を開く。
「面倒をかけた」
「いや、そんなこと」
「借り、ひとつ。書き留めておけ」
借りをつくってしまった。サイは起きあがって少しだけもつれた髪を手櫛で直した。ココリエに借りを書き留めておけ、と言ってサイは布団を抜けだす。
たかが看病の借りをまるで重要項であるかのように書き留めておくように、などと言う辺りがサイらしい。借りた貸したはいざという時、極限に際し、持ちだされることもある。あまりこんなふう、口にするべきではない。少なくとも狡く賢い者ならば、そんな隙は見せないもの。
今までに人間の汚さを見てこなかった者ならばわからないでもないが、サイは違う。ひとの汚さ、醜さをいやになるくらい見てきた筈なのだ。なのに、どうしてこんなにも綺麗で在れるのだろう? と、不思議に思うのと同時にココリエは眩しくてならない。
サイが持ちえている魂の輝き。強いのに柔らかで優しい光が目を焼くようだった。とても清らかで孤独で悲しいのに気高い。ありえないほど綺麗な心をつくる魂は人間らしくない。だが、本人が言う悪魔のものなどではない。空想が生みだした魔物だ、などと遠くかけ離れている。
「買い物をするんだったな」
「サイ、今日じゃなくていいですよ」
「だが、明日にはそのなんとかに謁見」
「帝様、もしくはヴォエフ帝、とお呼びしなさい。サイ、不敬にもほどがあります」
「いくか、ルィルシエ。うるさいのが来た」
「どういう意味ですか」
どういうもこういうもそういう意味だ。他になんの取り方ができようか、とサイは真性のアホを見たかのようなびっくりを瞳に揺らした。……超失礼。
部屋にいつからいたのか、いつ入ってきたのか知れないセツキとケンゴクはそれぞれにサイを一瞥。いつも通りであり、大丈夫そうなのを確認して顔を見あわせた。
「サイ、ちょっと来なさい」
「いやだ」
「……。拒否権はありません。いいから来なさい。つべこべ言わずに」
「つべこべなどとイミフなこと言ってない。いやだ、と言った。耳が腐ったか?」
「減らず口を叩くんじゃありません」
本当にな。
サイの減らず口と度胸のほどは天下一品なんじゃないか、と思ってしまうくらい、時についうっかり感心してしまうココリエである。セツキに知られたら「感心などせず叱ってください、このバカ」と言われるのであくまでこっそり心の中で思っている。
ウッペ一、というか戦国の美人でも三本の指に入るくらい美しい顔のセツキは女たちから絶大な支持をえているのだが、サイだけはセツキなんてクソ喰らえ、とか言っていた。本人に向かって言う時もあるので恐ろしい限りだ。ココリエだったら想像しただけで肝が冷えてしまう。
怖いもの知らずほど怖いものはない、とその際思ったものだ。ええ、もうホント。
「大事な話です」
「己の大事などどうで」
「もよくありません」
サイの言葉尻を奪って叱ったセツキはサイを手招き。ついてこい、と合図し、自分はさっさと部屋をでていく。
サイは心底いやそうだったが、仕方ない、と思ってため息ついてあとを追った。
セツキのあとを追いかけるサイの足取りに迷いも躊躇もない。なのに、部屋をでていく時、サイはどこか淋しそうにして見えた。まるで、この先に悲しいことが待っている、そんな予感を感じているようなよくわからない雰囲気を纏った女戦士は部屋をでていってすぐ帰ってきた。
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