王子のお願い


 うっすらと暗い部屋の中。動く影ひとつ。


「……」


 布団から起きあがった影が顔を腕でこすった。影は自分の腕が濡れたことにため息をひとつ。


 かなりしっかり呆れている影は布団から抜けだして窓を開ける。遠くにのぼる朝陽が見えた。


 遠くに見える朝の陽は世界を漂白している。これから世界は色を取り戻していくのだろう。と、いろいろとくだらないことを考えていることに気づいた部屋の主はもうひとつため息。初春の風が吹き込んで影の黒い髪を揺らす。髪に宿る黄金の輪も揺れ、銀色の瞳がふらりと動く。


「泣くな、サイ。お前は悪魔だ。涙など要らない」


 影は、サイは自分自身に言い聞かせる。この身は悪魔であり、涙など要らないのだ、と。


 自らを追い詰める言葉なのに、サイは微塵もそういうふうには思っていない。悲観することもなく自らを平然と追い詰める。あまりにも簡単にやるものだから恐ろしい。


「なにか」


「いや、本当にどうしてわかるのだ?」


「気配足音他諸々」


「あはは、は……。えっと、入っても?」


「勝手に入れ」


「えー……お邪魔します」


 突然にサイが声をあげた。振り向かず、窓の外を眺めながらサイは背中、廊下に声をかける。返ってきたのは若い男の声。サイはその声にさらに返答する。いろいろ駄々漏れだからわかる、と。サイのさらなる返答に声は乾いた笑い。そして、少し逡巡の間があってから戸が開かれた。


 サイのいる部屋に入ってきたのは青年だった。気品のあるとてもいい顔立ちの彼はどこか落ち着かなそうに部屋の中を見渡して窓のそばにサイを見つけ、首を傾げた。


「どうした? 眠れなかったのか?」


「いや、無駄によく寝た」


「そう、か。よかった」


「……。しゃきっと喋れ、ココリエ。鬱陶しい」


 なんとなく居心地悪そうな青年はもごもごと喋っていたのだが、サイの指摘にはつい苦笑い。


 ココリエ。サイが新しく厄介になるウッペ国の王子はあまり尊敬の意を持っていない、敬い皆無な女に呆れを通り越して笑いがでてきてしまう。サイは王子の笑みを不思議がるように首を傾げる。なに笑っている。なんて、心の内側が容易に見える。主にそれは彼女の瞳に揺れる。


「もう少ししたら朝餉ができると思う」


「そんな言伝をわざになぜ王子がするか」


「あ、う、いや、その、なんだ……少し頼みが」


 サイにしゃきっと喋れ言われてもココリエはどうしてかもごもごしている。し続けている。


 よほど難しい頼みなのか、無理難題か、もしくはどうでもいい幼稚な問題でもあるのか、とサイの中で疑問がぷくぷくぷくっと膨れていく。ココリエはしばらくもぞもぞしていたがやがて観念したように、サイの疑問に揺れる銀の視線に負けて口を開いた。声には遠慮成分がある。


「実は折り入って頼みが」


「む?」


「その、サイは拳術に明るいのではないかと思って頼むのだが、よかったらいろいろと教えてもらえないだろうか」


 言ってからココリエはうむ、我ながらこのお願いは失敗だったかと後悔した。サイの瞳に揺れる感情。彼女が言うイミフが瞳の中にこれでもか、と溢れてあったからだ。


 サイはココリエの不可解な願いに瞳を揺らしている。


 なに言っているのか、意味がまったくわかっていない女は首を傾げて正直な感想を口にする。


「お前が弱っちいからか?」


 ココリエの心臓にナイフが刺さって血が噴きだす音が幻聴として聞こえてきた気がしてサイは「ん?」とはてな。……どうやらサイ、彼女はたいしたことを言った覚えがないらしい。それなりにひどいことを口走ったというのになんたること。お陰でココリエの心は瀕死となった。


 まあ、サイの発言に配慮を求める方が間違っている。だがもう少し言葉を選んでほしかった。


 よりにもよって戦国の戦士に弱っちいとかひどい。


「どうした?」


「いえ、あの、なんでも」


「?」


 ココリエは一瞬だけサイに訴えてみようかと思ったがやめておいた。サイお得意の無自覚天然ボケで返されるとわかり切っているし、もしかしたらそのボケが追い討ちになるかもしれない。なので、なんでもないと無難に返しておいたココリエはサイに笑みを見せてもう一度言う。


「肉弾戦の極意を教えてくれ」


「極意、というほどのものは持っていないが?」


「余からすれば極意だ、サイ。あの瞬間移動みたいなものは余にもできるだろうか? なあ?」


「知るか。素質に頼る部分もある」


 極意というほどのものはない、とかすっぱり知るか、と切るサイにココリエはそれでも喰らいついていく。なんなら土下座でもしそうな雰囲気の王子にサイはイミフ。


 なにがどうしてココリエのようなよい身分の者がこんな身元不詳女なんぞに教えを乞うのか。


 教えてくれる者などいくらでもいる筈……と、そこまで考えてサイの頭上に電球が灯った。


 それはなんでもないことだったのでサイは指摘しようとした。が、ココリエの動きの方がいくらか早かった。青年は部屋の窓辺にいたサイに走って近づいたかと思ったら、女の口を押さえて自分の唇には人差し指を当てて「しー、しーっ」と静かに、とか言うな、と合図してきた。


 なので、サイはそこに触れず、ココリエの手を叩き落とした。べしっとかなりいい音がした。


 結構本気で叩かれてココリエは涙目になる。悶えているココリエにサイは声を落として言う。


「秘密、か?」


「うぅ、いたた……、そ、そう、秘密」


 サイの秘密を復唱したココリエは恥ずかしそうに頬を赤くして俯いた。サイはしかしどうでもよさそうに息を吐いた。女戦士はいい、ともいやだ、とも言わない。


 サイの態度。楽観視すれば承諾。悲観視すれば面倒臭ぇから拒否したい心の表れとも取れる。


 今ひとつわかりにくいのだ。サイは表情がないから。


 だというのにどういうわけか無表情であってもサイはとても美しいし表情豊かな気がしてならないココリエはサイをじっと見る。無表情なのに、表情がある。不思議な不可解さ、謎深さはすぐに、氷が陽光に炙られて溶けるようにじわっと溶けてほどけていった。揺れる銀色の瞳。


 サイの瞳が揺れている。感情豊かに。そして、とても美しく。とても硬そうな鋼色の瞳なのに、揺れる様は水面の揺れであり、美しさ。幻想的ですごく綺麗だった。


「知られるとまずいのか?」


「そういうのではなく、たんにその……特訓などと気恥ずかしくて、な? それも女子おなごに教わるなどというのが他国に知られればまたバカにされてしまう」


「なんだ、軽んじられているのか」


「……。えっと、一番軽んじていそうなそなたが言うと非常に微妙な気分だがまあ、そうだ。余だけならばいいのだが、父上までバカにされるのは我慢ならないのでな。なので、内緒で教えてくれないか、サイ。もちろん駄賃はだすというか、交換条件ということで承知してくれ」


 ココリエの言葉にサイは変な感想を抱いた。


 駄賃をつけると言われてココリエがサイの心をどう見ているのかわかった気がしたのだ。どうも、かなり心が狭いと思われているっぽいことにサイは微妙な気分。


 そんなに狭量に見えるのだろうか、と。ただ、それを指摘してどうこうと会話するのはもう面倒臭いので流した。


 面倒臭い。それにどうでもいい。ココリエにどう思われようと、サイをどう思っていようと。


「でかっけつのことを教えて」


「《戦武装デュカルナ》、な」


「ふむ。それを掘りさげてくれるならいくらでもしごきあげてやる。ただし、弱音泣き言は」


「そんなもの吐くくらいなら戦場で死ぬだけさ」


「うむ。忘れるな、その言葉」


 サイの明確な承諾、承知の言葉にココリエはぐっと拳を突きだした。内心で「よしっ」と思っているのだろうが彼はその後、思い知ることになる。サイのしごきあげのほど、その厳しさを心身で堪能することになった。


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