焔野与左衛門

安良巻祐介

 

 近頃、学校の近くのお堀にオバケが出るという話である。

 夕方ごろにそこを通ると、オバケに襲われて、生臭い臭いに巻かれ、帰ってから熱を出してしまうのだとか。

 真偽のほどはさておき、実際に僕のクラスでも、何人かが熱を出して休んでいる。

 みんな、お堀の傍を通って下校している生徒だ。

 このままではまずいと思ったので、僕はかねてから噂を聞いていた「与左衛門電話」に頼ることにした。

 十円玉ではなく、五円玉を握りしめ、最近は少なくなった公衆電話のボックスへ向かう。

 そして、北東の方を向いたまま、五円玉を投入。

 ガチャン。

 当然ながら、五円玉はそのままお釣り口に落ちてくる。しかし、根気良く、何度も繰り返し、投入し続ける。

 やがて、何回入れたかわからなくなってきた頃、不意にヂリンと音がして、五円玉が下へ落ちることなく、電話機の中に吸い込まれた。

 慌てて、受話器を耳に当てる。

 ビュウウウウゥゥゥと凄い風の音がしている。

 そこへ向かって、心臓が鳴るのを感じながら「エンノヨザエモンさん、またおいで」と呟くと、ヒュオオオオオォォと風の巻く向きが変わって、ガチャンと電話が切れた。

 その足で、お堀へ向かった。

 カヤの草が茂る、昼でもいつも暗い水面が、ユラユラと夕暮れの赤い色を反射している。

 水際に立って、中を覗きこんだ。

 崩れたように揺れている夕日の形が、ふと、顔のような形になったように見えた。

 その瞬間。

 水の中から、飛沫を上げて、何かが飛び出してきた。

 姿をはっきりと見るより先に、強烈な臭いが、鼻を直撃する。

 涙が噴き出し、たまらずげほげほげほっと咳き込みながら、僕は尻餅をついた。

 べちゃ、と音を立てて、「それ」が、目の前に立つ。

 見上げた、滲んだ視界に映ったのは、ぼんやりと想像していた、カッパのようなものではなく、どちらかというと、立ち上がった魚を思わせる、ひどくバランスの悪い見た目をした何かだった。

 それは、へたりこんだ僕の方へ、べちゃ、べちゃ、と近づいてきながら、ぽっかり開いた丸い口を少し歪ませて――笑った。

 いよいよ意識が飛びそうになったところで、ふいに、プンと別の匂いが香った。

 後方からだ。

 はっとして振り返った顔に、渦巻く風が吹きつける。

 ビュウウウウウウウウウゥゥ

 そこに、立っていた。

 灰色のパナマの帽子をかむり、草臥れた同色の背広を着た、巨躯の老人が、いつの間にか、僕の背後に立っていた。

 落ち窪んだ眼が龕灯の火のように光り、口元にくわえた折れかけのタバコから、ほの青い煙が、もくもくと流れている。

 線香に似たその煙の匂いが、僕の前の魚男の体臭を押し散らして、ほんの少し、視界が元に戻る。

 ずい、と前に出て、老人が、見た目にふさわしい嗄れ声で、僕に問うた。

「電話はお前か」

 僕が頷くと、老人は、狼狽する魚男のそばへ、ずい、ずいと歩みを進めていき、一歩半辺りのところまで来たところで、いきなり、

焔野焔箭焔字ほのおのほのおやほのおのじゅ

 と呟いた。

 すると、タバコの煙が火打ち石に似た煌めきを放って火花となり、魚男を目がけてパチパチと飛び移る。

 言葉にならない叫びを上げて、魚男が躍った。

 お堀の水面に、炎に包まれた魚男の影が、ユラユラと映って揺れる。

 ほどなく、魚男はこんがりと焼けて、バッタリとその場に倒れた。

 そして、地面に溶けるように、すうと消えた。

 青い火の粉も散り消えて、あたりが急に暗くなる。

 気がつけば、あたりは夜の色を帯び始めていた。

「……この堀で死んだ鯉の変化という処か。龍の成り損ないの癖に、詰らぬ木端こっぱ

 老人は帽子を押さえながら嗄れ声でそう解説し、フウゥーと長い煙を吐くと、僕の方に向き直り、

「では早速だが」

 二つの目を炯々と光らせて、呟いた。

 そうだ。あの電話には、代価というものがある。

 お化けの類から助けてもらう代わり、五円玉と、もう一つ、約束事をしなければならない。

 僕は頷いて、立ち上がった。

 そして、老人と連れ立って、学校の近くの、善哉屋に向かった。

 紺色ののれんをくぐり、隅の席に座る。

「なんでも好きなものをどうぞ」

 巨大な老人は満足げに息を吐いて、あんみつを注文した。

 そして、僕に、一枚の黄ばんだ用紙を渡した。

 受け取って、鞄からペンを取り出し、礼状を書いていく。

 それを渡すと、じろじろと何度も見つめて、子供の癖に達者な字だ、とかなんとか言いながら、懐に収めた。

 老人は、このお礼状を集めて、神様に献上しなければならないらしい。

 そうしないと、許してもらえないという話であった。

 何について許してもらうのか、その辺りのことは、不機嫌になって話してくれなかった。

 ただ、ついでに自分の武勇伝を、助けた相手に聞かせるのも、彼の報酬というか、趣味というか、そういう噂であった。

 果たしてその通り、老人は、やってきたあんみつを耳まで裂けた大口で旨そうに食いながら、ああこれは長くなるなというような、勿体ぶった口調で、あれはこの俺がまだ京の都に居た頃…と、静かに喋り始めたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

焔野与左衛門 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ