桜の樹の下には

忠臣蔵

桜の樹の下には

 桜の樹の下には俺が埋まっている!

 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺は俺に観ることの叶わぬ美しさが信じられないので、この十数年不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には俺が埋まっている。これは信じていいことだ。


 どうしておまえが夜明けの薄暗いアパートで、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選って丈夫で鋭利に輝くもの、調理用の穴空き包丁なんぞで、拙速を厭わず胸を刺したのか――俺はそれがわからないと思ったが――そしておまえにもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。


 いったいどんな零落でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、消費者金融への返済が日々の浪費に滞るように、また、アパートを揺らす殴打の垂れ流しがなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。

 しかし、数十年前、それより以前から、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は正直に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。

 おまえ、これら爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一人一人俺たちが埋まっていると想像してみるがいい。何がおまえをそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

 馬としての俺、犬猫としての俺、そして人間としての俺、俺たちはみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。おまえはいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。数十年、おまえを不安がらせた神秘から自由になったのだ。

 数十年前、おまえは、この下り坂を降りて、手頃な断崖を探していた。水のしぶきは伐採に枯れ果て、あちらからこちらからも、コンクリートの土台が冷たく生まれて来て、真夏の夜に喰い込みへばりついているのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで樹木の代行をするのだ。しばらく歩いていると、おまえは変なものに出喰わした。それは濡れた苔が堆積する地面へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない点描を落としたような光彩が、一面に浮いているのだ。俺はそれを何だったと思う。それは何枚とも数の知れない、桜の花びらだったのだ。隙間なく水の面を覆っている、彼らのかさなりあった翅が、闇に浮かんで雪虫のような沈黙を保っているのだ。そこが、晩春の地上に墜落した彼らの墓場だったのだ。

 俺はそれを見ることもなく、胸を刃物で突かれていた。紺色のズダ袋に詰められた俺を突き落とす舞台装置の捜索の苦心を俺は味わわなかった。

 この惑星ではなにも俺たちをよろこばすものはない。鳩や烏も、白い花びらを薄紅に煙らせている桜の若木も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺たちは惨劇そのものなのだ。その確信があって、はじめて俺たちの心象は明確になって来る。俺たちの四肢は球根のように大地を充たしている。俺たちの白骨に憂鬱が完成するときにはすでに、俺たちの心臓は土に融けている。

 ――おまえは腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺たちにないものだ。何もそれを不愉快がることはない。それで生きている心地は完成するのだ。


 ああ、桜の樹の下には俺が埋められている!

 いったいいつから植えられてきたのかさっぱり見当のつかない桜並木たちが、いまはまるであの殺人と一つになって、どんなにおまえが頭を振っても離れてゆこうとはしない。

 今こそ俺は、あの桜並木の下を微笑み合って手を繋ぎ通り過ぎた頃と同じように、おまえと花見が出来そうな気がする。

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