第87話 褒美の魔石 前編
窓の外には、遮るもののない空が悠々と広がっていた。今日の空は昨日より色が濃い気がする。
また一日、夏に近づいたわね。
私は今年、春の盛りを避ける旅をしていたようなものだ。シファードに春が訪れたときガウディールにいて、ガウディールに春がたどりつく頃、盛りの過ぎたシファードに戻ってきた。それからさらにひと月と少し。
空よりもなお青いシファードの旗がはためく音が、窓辺に置いた椅子に腰掛ける私の耳に届いた。同じ風が緑の香りを運んできて、それを胸いっぱいに吸い込む。
「おねえさま? お部屋にいて?」
そうしてしばらくぼんやりとしていたら、入り口の奥の階段から妹のアリアルスの声が響いてきた。あの子は私がシファードに帰ってきてから、毎日ここにやってくる。
「ええ、ここにいるわ」
毎日返す同じ言葉を今日も言うと、ひょっこりと小さな顔が壁のうしろからあらわれた。私をみつけた妹がほっとした顔で笑う。これも毎日のこと。私がちゃんと生きていると、確かめに来ているみたいだわ、と思ったけれどからかわずにいた。
私がガウディールから、急拵えの粗末な馬車に寝かされて帰ってきたとき、アリアルスは真っ白な怯えた顔をして丸二日、口をきかなかったらしい。このお喋りな妹が二日も。あれからまだいくらも……そう、春が過ぎ去り夏に完全に変わるまでの時すら経っていないのだもの。
「また外を見ていたの?」
「そうよ、この景色が大好きなの」
「面白いものはなにもないでしょう?」
言いながらアリアルスが駆けてきて、私の視界にかぶさって前に立つと窓から大きく身を乗り出した。
「危ないわ!」
「大丈夫よ。ほら、やっぱりなーんにもない、いつもと同じ。そうだわ、あっちの城壁の隅のね、崩れたところから女たちの水浴びが見えるんですって。兵士が話しているのを聞いたの。あとで行って覗いてみましょうよおねえさま」
なんですって。
「駄目よそんな、はしたない! もう、アリアルスになにを聞かせているの? 誰がそんな話をしていたの」
「お母さまみたいに怒らないで。水浴びのなにが面白いのか知りたいだけよ」
くしゃくしゃに絡まった髪を風に遊ばせた妹が振り返った。嬉しそうに笑って輝く目が、私の脇にある卓に向いたとたんなおきらきらと光を増した。目ざといんだから。
「新しいベール!」
「触らないでアリアルス!」
妹が、きちんと畳んで置いていたベールに手を伸ばしてきた。短くなった私の髪を――きれいに整えたら肩にも届かないくらいの長さになってしまった――隠すためにと、お母さまが用意してくださった二枚目のベールだ。
「お願いよやめて、前のがどうなったのか忘れたの?」
「だいじょうぶよおねえさま! ほら見て、私王妃さまみたい?」
アリアルスに懇願しても、あの子にはどこ吹く風。
「綺麗ね! おねえさま! ほら!」
お母さまがわざわざ商人を呼び寄せ用意してくださった、空色の美しい布を体に巻いてくるくると回る妹は、王妃さまというより悪戯好きな妖精だ。
「もう」
きっとまたどこかに引っかけるわ。
ラスティがいない悲しみも寂しさも、妹と過ごしている間は薄れてくれる。ため息をひとつついて、窓の外に目を向けた。どこまでも果てしなく広がる空、その下にシファードの領地が続く。あなた、今どこを歩いているの? ラスティ。
「そうだわ、お父さまがおねえさまを呼んでいたんだった」
突然ぴたりと回るのをやめて、妹が言った。
父が王都から戻って三日、やっと呼ばれた。
「話があるから広間に来いですって。おねえさま、なんだか腕がこんがらがっちゃったの、助けて」
「だから言ったのよ、ああほら動かないで! 破れてしまう」
立ち上がり布に絡まった妹を助け出すと、彼女はにこりと笑って私の指を握った。行きましょう、と言って当たり前のように私のベールを頭にかぶったアリアルスが、先に立って歩きはじめた。それに引かれて足を動かしながら、妹に握られた自分の裸の指を見下ろす。
ラスティがお父さまに、私に魔力の濾過を受けさせろと伝えてくれていたらしく、私はシファードに戻ってから何度か魔力の濾過を行う装置に繋がれた。それを繰り返すたびに体の中の闇の魔力は薄れ、今ではあれの存在は微塵も感じられなくなっていた。指も爪の先まで元通り。
ただ、濾過の装置は壊れてしまったときいた。闇の魔力の異質さのせいだと思ったけれど、誰もなにも聞かなかったので私も黙っていた。
広間に行くのは少し怖かった。帰ってきてから、ここの者たちは示し合わせたように……実際父が命じたのだろう、私の前でガウディールの話を一切しなくなっていた。だから私はあれからのことをなにも知らない。
バルバロスの死は、どうみなに伝わっているのかとか、戦の気配はあるのかどうかとかを、なにも。
「おねえさま、あとで庭にも行きましょうよ」
「あなたの頭に乗っているそれを返してくれたらね」
「じゃあその時返すわ! ね、約束よ。その前にみんなに見せて来る!」
広間の入り口が奥に見えてきたあたりで、アリアルスは私の手を放し風みたいに駆けていった。漏れ聞こえてくるみなの声に気持ちが抑えられなくなったのね。和やかで楽しげな声だもの。悪い知らせがなさそうでほっとする。薄い水色のベールが彼女を追ってうしろに翻って、確かに綺麗だ。でもやっぱり王妃さまにはみえない。
「アリアルス、イルメルサは来ないのか?」
入り口に近づくと中から父の声が聞こえてきた。
「もうすぐよ、置いてきちゃった」
アリアルスの罪のない快活な言葉に、どっと広間で笑い声が起こったけれど、ガウディールにいたときのような疎外感はない。
「ではこの騎士めが、姫君を迎えに行かせていただこうか」
騎士アリンのおどけた声が聞こえて、私の口元にも笑みが浮かんだ。その顔のまま広間に入る。
「おお残念だ、間に合わなかった」
「次はお願いするわね、アリン」
入ってすぐの長椅子に腰掛けたままのアリンに笑顔を向け、奥の領主の椅子に腰掛けている父のところを目指した。アリアルスは隅のほうで、召使いの女たちの前でくるくる回って、真新しいベールを褒めさせている。
「お父さま、お呼びですか」
「ああ、お前に知らせたい話がいくつか」
母の姿はなかった。この時間なら多分厨房ね。料理人たちを見張っているんだわ。なぜか母の代わりに、ロインが父の横に立っている。
「イルメルサさま」
ロインが前に出てきたので右手を伸ばすと、彼はその手を取って唇を近づける挨拶をした。
「ロイン、久しぶりね。旅の疲れはとれて?」
ロインは、父が王に会いにいくときついていった騎士のひとりだったのだけれど、帰りは二日ほど遅れて昨日シファードに戻ってきていた。
「はい。慣れた枕で一晩眠れば元通り。イルメルサさまは、ご体調は?」
「いつも通りよ」
いつも通り。以前ここで暮らしていた時と同じ。良くもなく、悪すぎもせず。ガウディールで受けた傷も、薄い痕が腰とお腹に残っただけで癒えている。ほとんど今まで通りの私。
平穏な日々が戻ったのに、心にぽっかり穴が開いているみたいに感じるのは……。
「お父さま、知らせたい話ってなんですか?」
寂しさにのまれそうになって、慌てて父に話題を振った。父は、私とロインをじっと見てなにか考えてでもいたのか、急に顔を向けた私に驚いている。
「ああ、そうだな」
父は一度辺りを見回し立ち上がると、近くに控えていた召使いを手を振って下がらせた。父と私と、ロインだけがこのあたりに残った。
「お前とバルバロスの契約を破棄出来た。それもごく秘密裏にな」
「ほんとう? いつからだったのかしら、自分ではわからなかったわ、体にはなにも起こらないのね? どこか光ったりとか」
両手を広げ、自分の体を確かめた。聞かされてもやっぱり以前と違いがわからない。不思議だわ。
「秘密裏とはいえ、国王陛下はご存知だから留意しておきなさい」
「はい」
「あとでガウディールでの話を聞かせてもらう。国王陛下がいくつか疑問をお持ちで私が持ち帰っている。辛くとも思い出し答えてもらわねばならないよ」
「……はい」
なにを聞かれるのかしら、ラスティ、なにを答えたらいい? 間違えずできるかしら。急にひとり、薄い氷の上に立たされた心地がする。心細い。彼にそばについていて欲しい。
「ゲインさま、イルメルサさまのお顔色が」
「おお、さあお前、座りなさい」
父の椅子を示され、誘われるままそこに腰を下ろした。
「お話は終わりですか?」
血の気が引いているのがわかる。部屋に戻りたくて顔をあげ聞くと、父が首を横に振った。
「いいや、あとひとつ。聞けるか?」
「……怖い話でなければ……」
膝の上に置いた手をぎゅっと握って呟くと、父とロインが目を合わせ小さく笑った。なにかしら。
「そうだな、どこから話せばよいか……秋頃に、ロインがここを出る話は誰かから聞かされているか?」
「えっ?」
初耳だわ、そんな。ぱっと顔をあげロインを見ると、ロインは小さく笑んで頷いた。でもそうよね、この騎士はもうずっと長い間うちにいる。
「父がすっかり年老いて、私を呼ぶのだそうです。戻らねばなりません」
寂しくなるわ。ロインがいなくなるなんて。
「そう……確か、海の近くだったかしら、あなた、昔、話してくれた」
「はい。あのときイルメルサさまは海を見たことがない、と言っておいでだった」
「今もだわ」
なぜかそれがおかしくてくすくす笑っていると、突然ロインが場所をかえ、私の前に立った。いやに真面目な顔をしている。
「私の故郷の海を是非ご覧にいれたい」
「ありがとうロイン。いつか必ず寄らせていただくわね」
さらりと答えると、ロインは困惑した顔で、横に立つ父を振り返った。なぜ父を見るの。そう思ったときだった。忙しない足音を響かせ、兵士のひとりが広間に飛び込んできて私たちを驚かせた。
「ご報告いたします!」
まさか敵襲では。父の椅子の肘掛けを強く掴んで腰を浮かせた私の耳に、待ち望んでいた言葉が届いた。
「赤毛の、魔術師が、ゲインさまに、お目通りをと」
乱れる呼吸の合間に言葉を繋ぐ兵士のそのうしろから、黒いものが部屋に飛び込んできた。
「犬だわ!」
目ざといアリアルスが一番に反応した。犬。大きな黒い犬が、広間の中央で足を止めた。なにかを探している様子で、頭を動かしている。私かしら。
「ジーン!」
叫び立ち上がると、犬の耳がぴんと立った。間違いない、ジーンだわ。ロインの脇をすり抜け数歩進む間に、ジーンがまっすぐこちらに駆け出した。
「私がわかるの?」
あっという間に私のところまできたジーンは前足を高く伸ばし立ち上がると私にとびついてきた。尻尾が激しく振られ、ばしばしと懐かしい音を響かせている。耳の間を撫でたくて軽く屈むと、犬はさらに激しくじゃれついてきて、私の顔をべろりと舐めた。
「やだ! ジーン、ふふ」
ジーンが私を怖がらず触れてくれた。それが嬉しくて、涙が滲む。ジーンの体を撫でると、少し痩せたのか骨の形を感じた。旅をしてきたのね、ラスティと。
ラスティ。
彼を思った瞬間、私は背を伸ばし大声で妹の名を呼んでいた。
「アリアルース! それを返して、早く!」
叫ぶと、隣のロインがびくりと肩を揺らした。驚かせてしまった。
「ごめんなさいロイン、だって、だってラスティにこの髪を見られてしまうわ、短くて綺麗じゃないから嫌なの……」
耳の下あたりの毛先を弄り焦る私に、ロインはどこか寂しげな優しい笑みを向ける。
「ご心配いりません、そのままで充分お綺麗だ」
「お父さまが横にいるものそう言うしかないわよね」
「まさか。本心だ」
「ありがとうロイン……アリアルス!」
駄目だわ、アリアルスの目はジーンに釘付けで、私の声が届いているのかもわからない。大きな声を出すのは苦手なのよ。それにここまで遠すぎる。今あの子が駆け出したって、もう間に合わないわ。
と、急に広間が静まり返った。みなが向いている方へ私も視線を動かすと、ああ。召使いの男に先導されて、魔術師がひとり入ってくるところだった。ジーンが彼の方へ走り去る。
大きな体、錆色の髪。裾が泥で汚れた薄茶色のマントの下に、暗い赤のローブがのぞいている。ラスティ。あまりに突然で、私は呼吸するのも忘れ馬鹿みたいに棒立ちのまま、広間の中に足を進める彼を見つめ続けた。
ラスティは歩きながらさっと広間を見渡し、私を見つけると一度足を止めた。彼、少し痩せたわ。大きな怪我はしていないみたい。ほんのひととき、私たちは視線を合わせた。
「魔術師ラスティ!」
父の声に我に返るまで。父は、私を追い抜いて前に出ると、ラスティにもう少しそばへ来るように手招きをした。ラスティは無言で、ジーンを引き連れゆっくりと、またこちらに向かい歩きはじめる。彼が来る。
喜びと緊張が混じり合い、興奮で呼吸が浅くなった。
「よく来てくれた」
私たちから少し離れたところまでラスティが来たとき、父が口を開いた。親しげな声。
「ああ」
ラスティはぶっきらぼうに言うと、マントの中へ手を入れ、汚れた布の包みを取り出した。父に中を見せるように開く。なにかしら。気になって、私も父の後ろから顔を出して覗き込んだ。
指輪だわ。黒ずんだ銀の指輪。魔術の紋様が刻まれている。誰の――。
「これで証拠になるかはわからんが。終わらせてきた」
静かに語られた言葉にすべてを察した。モルゴーのもの。
「おお……そうか。感謝する」
「受け取ってくれ。だが、早急に処分した方がいいだろう」
「覚えておこう。ところで、これはどこで?」
一歩進み、指輪をつまみ上げた父が聞いた。
「メーン川沿いの街道で。増水で渡れずにいるところに追いつけた。幸運だった」
「水が我らに味方したな」
指輪を腰帯の中に仕舞いながら発した父の言葉に、ラスティは黙って肩をすくめると、指輪を包んでいた布をぐしゃっと握って手を戻した。
沈黙。
ラスティ、私になにも声をかけてくれないのね。一番に名前を呼んでくれるかと思ったのに。でもわたしも彼を呼んでいなかった。話しかけようか、私から。でもなんと? 久しぶりね? ありがとう? それともただ名前を呼ぶのがいいかしら。でも、広間中のみなの視線を感じて動き辛い。
迷っているわずかの間にラスティが先に行動した。赤銅色の目を細め父を見下ろし、口を開く。
「俺は言われた通り働いた。褒美を寄越すと言ったこと、よもや忘れてはいないだろうな」
突然の不躾なものいいに、父が腹を立てていないか不安になったけれど、こっそり盗み見た父の顔はいつもと変わらなかった。
「忘れてなどいるものか。領主の首飾りに並ぶ価値のある魔石を、と約束をしたな。娘からも話を聞いている。すぐに青い金剛石を宝物庫から――」
「違う」
父の言葉を遮って、ラスティが短く言った。
違わないわ、そう言いかけた私だったけれど、ラスティの指がこちらを指したのに驚いて言葉を飲み込んだ。
「それだ」
それ? どれ。思わず自分の胸に手を当てた。私がつけているのはラスティのくれた魔力を失った魔石だけよ。これを返せというの?
「それをくれ」
疑問符でいっぱいになった頭だったけれど、広間にいた騎士たちが一斉に色めき立った不穏な気配に、さすがに察した。まさか。
私?
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