第86話 後始末
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明るい。ここは、天幕の中?
目を開けると、四方と天井を布に囲まれた小さな場所に私は寝かされていた。布越しの柔らかな光が白い、真昼の日差しだったので混乱する。塔に足を踏み入れたときは夕暮れ前だったはず。ここはどこなの。ラスティ。
身じろぎすると、入り口の布を揺らし吹き込んできた風が私の頬を撫でた。あの向こうはもっと明るいわ。鶏の鳴き声がする。雑談している女たちの笑い声や足音も。それになにか煮ているにおいまで。
私、死んだのかしら。そしてここは天の国とか? 五感で感じるすべてがあまりに平穏で、ふとそう思った。けれど身を起こそうとして体に走った痛みが、生きているのだと教えてくる。バルバロスに貫かれた場所がひどく痛んだ。
身体に掛けられていた布を捲ると、いつの間にか清潔な寝間着に着替えさせられていた。私の持ちものだわ。胸のあたりを摘まんで中を覗くと、腰のあたりに布が巻かれていた。そのとき初めて、薄い手首まである手袋をつけているのに気がついた。
寝間着の上からお腹に手を当てると、鈍く重い痛みがある。でも動かなければさほど痛まなかった。あんなに酷い怪我を負って、生きている。
私、助かったのね……。
そうぼんやりと思った時だった。ばしゃん! と突然聞こえた大きな水音に驚き見ると、目と口を大きく開いたリュイが入り口に立っていた。足元はびしょ濡れで、木桶がこちらに転がってきている。
「あ……あ、」
「……」
リュイ、と呼び掛けようとしても、普段の力加減では声がでなかった。もっと喉に力を入れないと。
「……リ」
「イルメルサさま! イルメルサさまが!」
やっと音を出したのに、リュイは身を翻して行ってしまった。子供の駆ける音が遠ざかっていく。あの子も無事だったの、よかった。でもあの子がいるのならここはまだガウディールなんだわ。
ガウディール、と思うと石を飲んだような重い気持ちになる。バルバロスは死んだ。私はこれからどうなるのかしら。ラスティはなぜいないの。
さざ波のようにいくつもの不安が押し寄せ、飲み込まれそうになった。
「イルメルサ!」
それを霧散させる声があたりに大きく響く。懐かしい、父の声だった。ガチャガチャと拍車の音を鳴らす何人かの足音がそれに続き、天幕の向こうに大きな影が映る。
「……お父さま?」
「イルメルサ!」
入り口の垂れ幕を捲り現れたのは、やはり父だった。シファードの青の軍衣を着て、腰に剣を下げている。
「お父さま……ぅ」
身を起こそうとして痛みに顔を歪めると、慌てた様子で父が駆け寄って来た。
「まだ動くな」
「お父さま、ここは? ラスティはどこ? ……私はどうなるの?」
口を開くと、心にしまっていた不安がすべて言葉になって溢れ出した。けれど父が優しい穏やかな目をしていたので、少し落ち着いた。私の肩に手を添えた父が、私が柔らかな枕に頭を沈めるのを手伝ってくれる。そうしながら、父はゆっくりと話しはじめた。
「ここはガウディール城の近くにある村のそばだ。野営を張っている。もう五日になるだろうか」
「五日?」
あれから五日も経っているの?
そしてここは城の近く……来るときに通ったあの貧しい村の近くなのかしら。
「お前の傷は深くほとんど意識もなかった。長い距離を移動するのは危険だと判断し、ここに留まることにした」
ガウディールの私の部屋にはいられなかったの。もちろんあんなところもう居たくはなかったけれど、こんなところに野営地を構えるなんて、まるで戦の最中みたいで。戦、と思った瞬間心臓がどくんと跳ねた。最後に見たバルバロスの姿が脳裏に蘇り、かあっと頭に血がのぼる。
「お父さま、ガウディールとシファードはどうなっているの? 戦なんて起こらないわよねお父さま?」
「落ち着きなさい、お前はなにも心配しなくていい」
「ラスティはどこ? 彼に話を聞いた? 彼を呼んでお父さま」
父はそれ以上、私の言葉に答えなかった。ただ優しく笑んで私の頬をなでると、柔らかな水の魔力を送り込んできた。波立っていた心が急速に凪いでゆく。この魔術には覚えがある。子供の頃よくかけてもらった、眠りに誘う術。
「やめて」
緩く頭を振って拒否すると、流れ込んできていた魔力が止まった。
「子供扱いしないで……お願い、聞かせて」
涙の滲む目で、父を見上げて懇願するとため息が降ってきた。父はそばにおいてあった古びた椅子を引き寄せ腰掛けると、私の手の甲を優しく叩いて困ったように微笑む。
「興奮すると体に障る、しばらくだけだ」
「ありがとうお父さま。彼……ラスティもちゃんとここにいて?」
いるよ、という答えを期待したのに、父は小さく首を横に降った。いない――?
「そんな顔をするなイルメルサ、だからまだ伝えたくなかったんだが」
「お父さま、」
「イルメルサ、彼は五日前私にお前を託したあと、もう一度ガウディールの魔術師塔へ入って行ったんだよ。うちのものを同行させたかったが強く拒絶されてね」
私は黙って父の話を聞いた。不穏な話のはじまりに心臓がどくどく音を立てる。あの魔術師塔へ?
「その夜遅く、塔が崩壊した。心配しなくていい、魔術師ラスティは無事だ。夜明け前に彼は我々の前に姿を見せた……一匹の犬を連れて」
ふーっ、と安堵のため息が口からもれた。よかった、ジーンも無事だった。私ったらひどい、あの子のことを忘れていたわ。それに引きかえラスティは、ちゃんとジーンを探しに危険な塔に戻ったのね。
「それで? 今はどこ?」
「わからない。しなければならないことがあると……」
ここで父は一度言葉を切ると、私に身を寄せ潜めた声を出した。
「ここにモルゴーという男がいただろう」
「はい、お父さま。魔術師よ、年老いた……でも死んだの。ラスティが……」
「彼はその男が生きていると」
「え?」
最後に見たモルゴー。霊廟の奥で仰向けに倒れた足を見たわ。でも見たのはそれだけとも言える。息絶えているのを確認したわけじゃない。
「……イルメルサ、お前が平穏な生活を送るためには決して生かしてはおけない男だから追うと言い残し、ここを出ていった」
私のため?
そういえばあの霊廟で、なぜモルゴーと対峙しているのか尋ねたバルバロスに、ラスティはこう答えていた。
“去るときには殺すと決めていた”
決めていた。決然とした言葉だった。塔の階段の途中で見たカシュカも、エーメの部屋の奥で見た魔術師たちもそうだったの? 迷いなく一撃で殺されていたあの者たちは、そうよ、そうだわどうして今まで気がつかなかったのかしら、みな、闇の魔力の研究者、私の実験に立ち会っていた者たち……。
そう思い至って、肌が粟立った。私の生きる道、そのずっと先まで考えていてくれたんだわ。一体いつから。目から涙があふれ、頬と枕を濡らす。
「騎士に追わせたが、二日でまかれたと帰ってきた。優秀な魔術師だ……困ったことに」
「おと、お父さま、ラスティは、私がここで」
「しっ、なにも言うな。バルバロスと契約を交わしていると聞かされている。どこから発動条件に触れるかわからない」
私の唇に人差し指を当て、父が囁いた。そうだったわ、なにをされたか、話せない。ぎゅ、と唇を引き結ぶと、涙の味がした。
「二枚揃いの契約書は私の手元にある。魔術師ラスティが探し出し渡してくれたものだ。バルバロスが近隣の有力者たちと交わした不穏な契約書も合わせ、近いうち私は王都に向かわねばならんだろう」
父はそう言うと、私の額にかかった髪を撫で、小さく微笑んだ。その穏やかな笑みに不安が生まれる。
「お父さまがシファードを離れている間にガウディールが攻めてくるかもしれないわ、行かないで」
「ガイル殿とはもう何度か話合いの席を設けているが、自領の不利は薄々感づいているようだな。バルバロスほどの才覚も、人を心酔させる力もない平凡な男だ。父親と多くの魔術師を一夜にして失い、未だ城壁の内側に魔物が徘徊する混乱した領地を治める道を進むだけでも、困難を極めるだろう」
ガイルさま。何度か食事のとき席を同じくしただけだけれど、確かに彼からはバルバロスのような恐ろしさはただの一度も感じなかった。
「この野営地にも日に日に避難民が増えているほどだ。シファードと戦を起こす余力は今のガウディールにはないと私は見ているよ」
「でも、ご兄弟がおられるわ。バルバロスは、自分やガイルさまになにかあれば息子たちがシファードを攻める手はずになっているって」
私の言葉を聞いた父の顔が曇った。
「バルバロスあの男、お前にそんな戯れ言を吹き込み脅していたのか」
「そうよ、忘れるな、と……私、恐ろしくて」
震える声で答えると、父は不愉快そうに頭を横に振った。
「問題ない。バルバロスは魔術師塔の崩壊に巻き込まれ行方知れずになったのだ。ガイル殿は掘れば魔物の湧き出る瓦礫の山を前に、未だ父親の遺体を見つけだすことも出来ずにいるという。一体なにを理由に掲げバルバロスの息子たちがシファードを攻めるというのだ? 明らかに自領での事故ではないか」
本当にみながそう思ってくれるものかしら。それならラスティは、領主殺しの罪に問われもしない?
「なにより、バルバロスが魔力もないお前を背後から襲ったというのに、いまだガウディール側から詫びのひとつもないのだぞ。謝罪され許せるものでもないが。ここを攻め滅ぼしたいのは私のほうだ」
「お父さま……」
父の声音に、本心からの憤りを感じ泣きたくなった。ありがとうお父さま。
「でもアイバン辺境伯は……?」
「イルメルサ、心配する必要はない。アイバン辺境伯はとても頭の切れるお方だ。今、現時点において、ガウディールとシファードどちらにつくのが得策か、見誤るようではあの地位を保ち続けることはできない」
父はそう言うと椅子から立ち上がり、目を細め私を見下ろした。もう行かなければいけないのね、お忙しいのだわ。
「お前がここで死の見えざる手と戦っている間、私がなにもしていないと思っているのか? ことの次第を記した書簡を携えた遣いを出してある。魔術師ラスティが盗み出してくれた魔術契約書の束の中には、辺境伯領の家令のものもあったのだよ」
私を安心させたいのだろう、父は珍しくよく喋った。
「バルバロスの息子たちに対しても同じだ。既に手は打ってある」
「なにをしたの?」
「お前が知る必要はない、イルメルサ。ただうまくいけば彼らはじき、我々から遠いところで別の戦いに身を投じ、戦に明け暮れる日々を過ごすことになるだろう」
言って見慣れた優しい目をして笑ったお父さまに、正直ほんの少し恐ろしさを感じた。その寒々しい恐ろしさは、バルバロスの持っていたものに似ていて、これが領主の才覚というものなのだろうか、とぼんやり思った。
「さあ、しばらく眠りなさい。目を覚ましたらスープが飲めるか試してみよう」
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