第85話 生と死


 熱く、眩しい。離れている私の肌もじりじりと焼かれているかと思えるほどの、暴力的な熱の量。


「ぐ、ッ!」


 瞬時に反応したバルバロスの前に魔力の壁があらわれ赤く燃えた。ラスティの力が強いのか、受け止めきれずよろめいたバルバロスが後退る。男の胸当てが熱に焼け赤い。肉の焦げる臭いが鼻に届く。ラスティは更に力を強め、一歩前に進んだ。バルバロスの持つ剣が、その場の魔力に反応し震え、カチカチと不快な音を鳴らしていた。


「貴様……! 女の命が惜しくはないのか!」

「癒すなどとくだらん戯れ言、誰が信じるか! イルメルサ、こいつらは、息のあるお前を、あの、棺に入れるつもりだ! ……立て、逃げろ!」


 熱の魔術を保ったままのラスティが、苦しげに言葉をところどころ途切れさせながら叫んだ。


 棺。蓋のずれた小さな棺。奥にぽつんと置かれたそれが急に大きく見えた。あそこに生きたまま。そう。そうなの。心の奥がしんと冷える。薔薇の花開く頃、私がいるのはあそこだったのね。


「魔術師風情が、分をわきまえろ!」


 突如腰を低く落としたバルバロスが、自身の魔術の壁ごと、立ちはだかるすべてを切り裂くように下から剣を振るった。ラスティの魔術が歪み、今度は彼が体勢を崩し、片膝を折る。輝いていた熱の塊が消えた。ふいに暗くなった霊廟で、まだ倒れたままの私を映したラスティの目に、絶望に似た色が広がるのを見た。今の術に魔力のほとんどを注ぎ込んでいたんだわ。


「私に熱傷を負わせたことは褒めてやろう。微かにとはいえ、死の影を感じたのは久方ぶりだ」


 視線をあげると、焼けただれたバルバロスの頬が見えた。男は私のことなど忘れたみたいにラスティだけを見、剣先をまっすぐ彼の首に向けている。バルバロス。シファードを見下し、私を苦しめる男。


 痛みに耐えながら腕を大きく伸ばし、床を這ってふたりに近付こうと動く。力を入れた拍子に傷口から血があふれ体を濡らし、気が遠くなった。視界が狭まる。地を這う虫の方がまだ早く進めるわ。


「だが、それもここまで」

 

 バルバロスが剣を高く掲げた。ラスティは呆然とそれを見上げている。大丈夫よラスティ、今度は私があなたの力になる。


 歯を食いしばり、ふたたび腕に力を入れた。急いで。なんて重い体。どこまでも足枷でしかない。ずっと……ずっと他のものになりたかった。鳥に、風に雲に雨に。でも今はこの体がいい。鳥にも雨にもできないことをやれる、ラスティが魔女と呼んでくれるこの体が。


 バルバロスは私に気がついていない。私を侮っているからよ。目の前に迫った、バルバロスの鉄靴に震える指先を必死に伸ばした。ラスティの命を奪うなんて、許さないわ。


「裏切り者が! 生まれに相応しく野垂れ死ね!」


 勝利を確信した響きの声を聞きながら、男の足首を掴んだ。熱い。手が強張り、指に拍車が当たって小さく鳴った。でも離すものか。すぐさま、シファードの水の力を氷に変え、手のひらから魔力を放つ。まだ熱を持っていた周辺の空気が冷たいものに一瞬で入れ変わった。乾いた枝の割れるような音が連続して霊廟に響く。


「な……?!」


 男の足に魔術を叩きつけ凍らせる。私の手を中心に、稲光が空を走るのに似た音をたてながら氷の柱が何本も立ち上がった。バルバロスの驚愕の声が聞こえたけれど、見上げる余力はない。凍らせてやる、この男の血も肉もすべて。


「魔術だと?!」


 もう魔力が尽きる。目を開けていられない。上半身まで凍らせるには足りなかった。男はじきに我に返り剣を振り下ろすだろう、私か、ラスティの上に。ラスティ。彼の無事を思った時、水の魔力より更に冷たい、闇の魔力が腕を這うのがわかった。私の中にまだ別の魔力が残っている。


 凍らせたバルバロスの足からは、男の魔力を感じない。私の魔力で打ち消したんだわ、今なら。剣を振り下ろされる僅かな間でも、この魔力を男に注げれば。


 あとしばらくでいい、生きさせて。力を貸して。棺の中の誰かに心で呼びかけながら、強く痺れる指先に薄れる意識を集中させた。


「ご……ッ」


 魔力を流し込むと同時にバルバロスが奇妙な呻き声を上げた。ぱたぱた、と上から降ってきた生ぬるい水が私の腕を濡らす。なに?


「貴様を裏切った覚えはない、バルバロス。俺はシファードの間者なのだからな」


 ラスティの声が上から降ってきた。低い、歯の隙間から絞り出すような声だった。


「き……きさ……」

「さあ、生まれに相応しい死とやらを俺に見せてみろ、領主」

「がッ……ァ」


 バルバロスがさらに苦しげなうめき声をあげる。ごぼこぼと溺れるような音が鳴り、重いなにかが床に落ちる音とともにそれも止んだ。静寂。やっとのことでまぶたを上げると、立ち上がっているラスティの姿が見えた。バルバロスの剣が彼の足元に落ちている。その上に赤黒い血痕が雨のように降って跡をつけていた。


 血の雫を追って頭をあげるとラスティが、魔力を帯び赤く光る短剣をバルバロスの耳の下あたりの首に、埋めるように突き立てていた。柄を握る指の関節が白くなっていて、込められた力の強さを私に知らせた。その手を伝い、バルバロスの血が滴り落ちてきている。


「……」


 ラスティ。


「イルメルサ!」


 かすれた小さなささやきにも満たない声だったのに、彼はすぐに気がついた。短剣から手を放し私のそばに両膝をつくと、伏せている私の肩にそっと触れてくれた。ラスティのあたたかな手の感触が嬉しくて、涙がこぼれ落ちる。


「すまない、痛むか」


 緊張した声。違うのに。彼の手は優しく、私の体を抱き起こす。傷は鈍く重い痛みを絶えず私に与えてきていたけれど、それ以上に幸福だった。やっと、やっとラスティのそばに来られたんだもの。


「今、助けてやる」


 彼がどこか怯えた顔をして、私のわき腹に触れた。深いところの痛みに顔をしかめると、ラスティが小さく謝った。それがおかしくて笑う。謝らなくていいの。あなたが無事でよかった。ほっとしたら、急に眠くなってきた。力が抜けまぶたがおりる。


「傷が深い……臓器の傷は俺には……クソっ、せめて俺の魔力を与えられれば……まだ回復しないのか……大丈夫か、おい、イルメルサ目を閉じるな!」


 頬を叩かれ目を開けた。ラスティの顔が間近にあった。不安げに揺れる赤銅色の目の中に髪の短い私がいる。そうだったわ。せっかく会えたのに、彼の褒めてくれた髪はもうない。


「上に行けば魔石がある、いやそれよりお前の父親が到着しているはずだ、父親に会えるぞイルメルサ、目を開けていろ! ……死ぬな!」


 私を抱き上げたラスティが立ち上がった。

 死ぬ?


 だらりと片腕が落ち、それにつられて視線が横を向く。バルバロスがいた。血の滴る首を垂れ、上半身を傾けたバルバロスは、腹部のあたりまでをところどころ黒く濁った氷に包まれ、目を見開いたまま事切れていた。


 私も死ぬのかしら、あんな風に。


「見なくていい、俺を見ていろイルメルサ」


 ラスティがそう言って私を抱え直すと、私の頭は彼の胸の方を向いた。そうね、見るならこちらの方がいい。彼が生きている証しのように、血と埃と汗のにおいがする。視線を上向けラスティを見た。


 彼は険しい表情で、前方を見つめていた。

 顎と頬に火傷を負っている。治してあげたいのに、私の魔力は尽きて指は黒い。


「お前は、まだ生きるんだ」


 ラスティは、彼自身に言い聞かせるようにそうつぶやいてから歩きはじめた。

 ええ、そうね。


 私が死ぬのはまだ百年もあとだって、ラスティが前に言ってくれた。あの日、あの夜は、一生の幸福のすべてが詰まったみたいな夜だったわ。ラスティ、ぜんぶあなたが与えてくれた。私はあなたに、同じくらい価値のあるものをあげられたかしら。思い出すだけで胸を温めるなにか。そうならいいのに。


「眠るんじゃないぞ」

 

 でも、とても眠いの。抗えない。ラスティがなにか言っている。彼の唇は絶え間なく動いているのに、私にはもうなにも聞こえてこなかった。遠のいていく。私をひとり置いて、世界が急速に遠ざかっていった。

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