第84話 私を繋ぐ紐
「……やめて……放して!」
頭を左右に激しく振っても、腕を激しく振り回しても、バルバロスは私の髪を放さなかった。
モルゴーの周りにはすでに無数の魔法陣が浮かび上がっている。そのどれもが、焼けた鉄に似た赤い色をして揺らめいていた。赤い光に照らされたモルゴーは少し背を丸め、表情は苦しそうだった。扱う魔力がそれだけ膨大なんだわ。あんなものを身に受けたらラスティは……。
モルゴーに対峙するラスティは少し位置を変え、石棺に近づいていた。魔力を纏った石棺が、守りに利用できると思ったのかもしれない。魔力ならここにあるわ。そう叫んでラスティのところに行きたいのに、掴まれた髪が私とバルバロスを繋ぐ紐となり邪魔をしていた。
いらない。
感情に呼応して闇の魔力が指先に集まり、膨れ上がる。そこから、強い痺れが急速に広がりはじめた。この感じには覚えがある。手袋を片方脱ぎ捨てると、思った通り、腕の中ほどまでが黒い色に侵されていた。けれど怖くはなかった。その手を持ち上げ肩越しにうしろにまわす。
「……!」
バルバロスの息をのむ音が近くで聞こえる。それでも男は私の髪を放さなかった。腕に強い魔力を纏ったのが、掴まれた部分から伝わってわかる。
「怯むと思ったか」
聞こえた言葉に、私は少し笑ったと思う。色の変わった手で、編まれた自分の髪の束を掴んだ。指に力をこめると、手の中で髪がぐずぐずと溶け泥に変わり、ふっと頭が軽くなる。
「きさ……」
私の体に触れるのを躊躇したのだろうバルバロスが動くより早く、残った力を振り絞って立ち上がり駆け出した。今走らなければ彼を失う、その恐怖が私を突き動かして。
「来るなイルメルサ逃げろ!」
「ラスティ」
叫んだつもりだったのに、出たのは情けない小さな声ひとつ。彼に届いたかどうかもわからない。でもずっと呼びたかった彼の名前を口にできた。それだけで幸福で、目に涙がせり上がってきた。髪の先が動くたび頬に、顎に首筋に触れる。毛先は凍ったみたいに冷たかった。
来るな、なんて。行きたくても、もうそこまでは走れない。意識して闇の魔力を使ったせいか、痺れが指先から腕、肘のあたりにまで広がってきていた。
「モルゴーやれ!」
バルバロスが叫ぶと、モルゴーの魔法陣が輝きを増した。発動する。やめて。やめて!
「これを……!」
届いて。割れないで。誰か、誰でもいい、私たちを助けて。天に、棺の中の誰かに、すべてに助けを求めながら右手を大きく振り上げ、魔石を投げた。ラスティはすぐに反応し、こちらに踏み出してくれた。
でも、石が手を離れてすぐ、ラスティには届かないと直感した。間に合わないわ。なんて役立たずな私。涙がこぼれ落ち、頬を伝う。体から力が抜けた。私の膝がまた床につく。彼が傷つくのを見たくなくて強く目を閉じた。
「ジーン!」
諦めかけた私の耳にラスティの声が届く。反射的に目を開けるのと、温かな風が私の頬を撫でるのは同時で。ラスティが、私の落とした魔石に手のひらを向け魔術で拾い上げている。彼は諦めていない。
「ぐぁ」
モルゴーがくぐもった呻き声をあげた。獣のうなり声に見れば、ジーンが体を大きく左右に振りながらモルゴーの左腕に食らいついていた。魔法陣が歪み、一度は明るく輝いた光が陰る。モルゴーは、揺れた術を安定させるためか、ジーンを振りほどけないでいるようだった。
「役立たずが油断しおって!」
バルバロスの怒声が近づいてきた。濃い魔力が立ちあがるのを背後から感じる。邪魔はさせない。立ち上がりながら震える手で残った手袋を脱ぎ捨て、露わになった黒い両手で男に触れようと、振り向きざま腕を伸ばした。
「!」
バルバロスがびくりと体を揺らし、一瞬動きを止める。瞬きひとつの間。すぐに既に空中に出現させていた火の玉をジーンのいる方へ放ち、剣を持ち上げ私の動きを封じた。
稼げたのはそれだけ、ほんの短い時間だった。
なにか考えるより先に、背後で爆発音が轟いた。熱風がうしろから吹きつけてきて、思わず首をすくめる。バルバロスの放った魔術の熱、でもラスティの魔力も感じるわ。
続けて、あちこちでなにか硬い音が散発的に鳴り響きはじめた。風の唸る音もする。なにが起きているの。ジーンは、ラスティは無事なの。確かめたいのに怖くて動けない。
視界の端で、鋭い魔力の刃が回転しながら、巨大な柱にぶつかり消えるのを見た。乾いた音と共に柱に大きな亀裂が走る。あれはきっと、モルゴーの術のひとつ。弾かれている。
振り返ると、ラスティの前に魔力の壁が陽炎のように揺らめいていて、消えるところだった。ラスティだわ、少し辛そうだけれど立っている。生きている。
間にあった。私、彼に魔石を渡せた。
「ラスティ……!」
ほっとして。愚かな私はその一瞬、ジーンのこともモルゴーのことも、そしてバルバロスのことさえも忘れていた。夢の中にいるのに似た現実感のない体で、ただラスティのそばに行きたくて、痺れる足を踏み出そうとした。
どん、と背を押されバルバロスを思い出す。強い力で、思わず一歩前に出た。
「イルメルサ!」
なぜ、体が急にすごく重い。ラスティは何故あんな驚いた顔をして私を見てるの。
「代償は支払ってもらうぞ小僧」
すぐ後ろでバルバロスの声がした。息の熱さを感じるほどの声の近さに、こめられた憎しみの濃さに、急に生々しい感覚が戻ってきた。どこかでジーンが激しく鳴いている。
痛い。押されたところが。背中を押されたと思ったのにわき腹が水で濡れている。手を当てると黒い手が温かなものに触れた。血だわ、どうして、わからない、痛い。いたい。
「我がガウディールの魔術師を多数葬っておきながらなにも失わずここを立ち去れると思うな」
あまりの痛みにうめき声が口から漏れ、立っていられなくなった。ゆっくり膝を折り、床に倒れる。
「イルメルサ! バルバロス貴様!」
ラスティが怒鳴りながらバルバロスに魔術の刃を放った。それは私の上を飛び越え、バルバロスに軽々と弾かれた。後ろに飛んで壁にぶつかり、蝋燭のあかりがひとつ消える。
どこか楽しげな笑い声を漏らしたバルバロスは、私の顔ほどもある大きな火球を出現させると、ラスティの方へ投げた。痛みに思考が霞む中、メラメラと炎の燃える音が妙に耳に残る。
ラスティは腕を上げると、強い風の渦を巻き起こしそれを横に弾いた。バルバロスの舌打ちが聞こえる。火は奥の壁にぶつかり爆発し、あたりにぱっと炎を広げた。ぶつかった壁が黒く濡れ燃えている。
中に油が……腕や壁で弾いていたら炎にまかれるところだった。人を殺めるための戦場の技を目の当たりにして、心が恐怖に震える。
「なぜ気づいた」
「お前の戦場での逸話を聞かせてくる奴がいた」
「フラニードか?」
ラスティはためらいのない足取りで、まっすぐバルバロスを見据えたまま歩いてくる。来ないで。
「もういない人間だどうでもいいだろう。そこをどけバルバロス」
ラスティ逃げて。もうこっちに来ないで。近づいてくるラスティに心で叫びながら、でも彼の魔力の熱を肌に感じ、浅ましいわ私、もっとそばに来て欲しいとも願ってしまう。
バルバロスが私を跨いだ。男の下げている剣の切っ先が血に濡れているのを見て、あれで貫かれたのだと、痛みに焼ける思考の中でようやく気がついた。
硬い靴の先が腕に当たり、マントが肌を撫でていく。男の体のどこでもいい、掴んでこの身の内の暗い魔力を流し込んでやれたらと思った。でも少し触れただけで、バルバロスが全身に魔力を巡らせ、闇の魔力の侵入を警戒しているのがわかった。
「案ずるな場所は選んだ、簡単に死にはせん。剣も盾も持たず私の間合いに入り込もうとする、愚かなお前の方が今は死に近いほど」
近付いたラスティの顔がはっきりと見える。ひどく青ざめている。よく見れば彼の頬や手には血の汚れがあった。でも良かった、大きな怪我はしていない。
「貴様が大人しくそこに跪き私に首を跳ねさせるというのならば、女に癒やしの術を施してやってもよい」
信じないで。必死に首を横に振った。ラスティに見えているのかはわからない。ラスティはただ、血の気の引いた顔をバルバロスに向けていた。時機を窺っているのがわかる。彼は私のことも諦めていないのね。もういいのよラスティ、あなたひとりなら逃げられる。
「だがその前にお前に聞かねばならん、魔術師ラスティ」
「なんだ」
バルバロスが剣を持ち上げ、切っ先でモルゴーの立っていたあたりを示す。気を抜くと彷徨いそうになる視線をそちらへ向けた。見えたのは年老いた魔術師が仰向けに倒れた姿。ジーンの姿はどこにもない。隠れたのかしら。それにしてもここは、寒いわ。床も氷みたい。どうしてかしら、バルバロスの起こした炎が向こうであんなに燃えているのに。体が震え歯の根がかちかち鳴る。
「貴様はエーメに従っておったのか」
「答えが欲しければ彼女を癒せ」
ひっ迫したラスティの声を不思議に思う。彼には私がどんな風に見えているのかしら。痛みは遠くなったのよ、ラスティ。ただすごく寒いの。そんなに痛くはないから心配しないで。そう、彼に伝えられたらいいのに声にならない。
バルバロスの鎧が動く音がした。多分私を見たのだろう。ほら、笑い声。
「まだ死なん」
嘲りでできた言葉でも、そう聞いて少しほっとした。私はまだ死なない。まだラスティの声を聞いていられる。寒い。目を閉じると、床を這ってくるラスティの魔力の気配に気がついた。温かなものがすぐそばまで流れてきている。あと少し……。
「余計なことをするな!」
突然のバルバロスの怒声に目を開けた。魔力は目覚めたあとの夢のように跡形もなく消え去ってしまっている。触れたかったのに。けれどラスティの行為は、ひとつの思いを私の胸に残してくれた。
「時が経つほど死が女に近づく。もう一度聞く。お前はエーメに」
「……従っていない」
私、ラスティの魔石をまだ持っている。彼が忍んで来てくれた夜、私に渡してくれた石が胸に。魔力は残り少なくても、あるわ。震え痺れる重い腕に力を込めた。動いて。
「ではなぜモルゴーと戦っていた」
「……去る時には殺すと決めていた、それだけだ」
手は動いた。震えているせいで呼吸が浅く、早く
なる。急いで、動けるうちに済まさなければ。
「は! 今日のこれはすべてお前の仕業か、騒ぎに乗じ女を連れ去ろうと?」
「違う。それならば俺がここにいるわけがないだろうが!」
バルバロスは私を見ていない。静かに首元から魔石を取り出し、そっと両手で包みこんだ。壊れないで。祈りながら指に力をこめる。これは崩したくない。お願い。
ラスティの魔力はすぐに流れてきた。温かい。手の痺れが消えてゆく。黒かった肌もみるみる手の甲の中程まで元の色に戻っていった。でも痺れが消えたせいか、痛みが強くなった。震えもおさまらない。魔力があっても傷が癒えるわけではない。私を貫いた傷が、少しずつ命を削っていくのが手にとるようにわかった。
彼の魔力はほとんどが私の中を流れ落ちていき――最後にほんの少しだけ留まり残った。
“これを。うまく使ってくれ”
石を渡された時のラスティの言葉を思い出す。ええラスティ、使うわ。遠のく意識をつなぎ止めながら、彼の魔力を水の力に変える。私の魔力、シファードの力に。
「俺ならもっとうまくやる。この混乱はエーメが引き起こした。あの阿呆が魔物にシファード領主を襲わせんとしたのがはじまりだ」
「は! 死人に口なしとはよく言ったものだ!」
バルバロスが突然剣を持ち上げ振り下ろした。風の刃が放たれ、ラスティが即座に魔力を纏って受け止める。魔力のぶつかる硬い音が霊廟に響いた。
「真実を語れ!」
「俺とてモルゴーの口から聞かされただけだそれしか知らん! 俺が向かった時には既にエーメはあの有り様で、ここの魔力が暴走をはじめていたのだからな!」
叫んだラスティが、様子を確かめるためか私を見た。その目はほんの少し細められ、すぐにそらされた。首にかけられた革紐にか、腕の色になのかまではわからない。でもラスティがなにかに気づいてくれたのがわかる。
そうよ、心配しないでラスティ、魔力が少しあるの。癒やしの力に変えて、自分で傷を塞ぐから。傷を癒やして――。
「まあよいわ、裏切りは世の常」
そして?
手のひらに魔力を集めながら、そんな思いが胸を過る。残った魔力で傷を癒やし、また傷つけられたら? バルバロスはすぐそこに立っていて、ラスティはさらに先にいるのよ。
「裏切り者には死だ」
結局彼の足手まといになる。
立ち上がり逃げる? いいえ、傷を癒やせば魔力は尽きる、走る力は残らない。
「武器を隠し持っているなら出しておけ。女を長らえさせたければ刃向かうな。まあ、貴様の剣の腕前は把握しているがな」
侮りを含んだ声。ラスティは黙ったままゆっくりと腰のあたりに手を伸ばし、鞘におさめられた古びた短剣を取りだし床に置いた。
俯いて腰を曲げた姿勢のラスティ、彼の赤銅色の目が強い光をたたえて私を見ていた。彼の唇が小さく動く。“逃げろ”……と。口元に小さな笑みさえ浮かべて。
ラスティは身を起こし、なんの前触れもなく大きな熱の塊を生み出し放った。
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