第83話 卑しい盗人


 近づく扉は見るからに大きく重そうで、私には動かせそうになかった。でもあれだけ隙間が開いていれば私ひとり滑り込むにはじゅうぶん。はやく、あそこまで。

 扉を掴もうと手を伸ばした時だった。内側から聞き覚えのある声が響いてきた。


「……諦めろ……」


 モルゴー。荒い呼吸の合間に漏らされた声だった。上でエーメを殺してから、あの男もここまでやって来ていたのね。彼の言葉に応える声は聞こえてこない。ラスティに話しているに違いなのに、どうして。


 ぴりぴりと不穏な空気が張りつめている。なぜこのふたりが対立しているのかわからない。不安で動悸が激しくなった。やっとの思いで掴んだ扉は硬く、思った通りとても重い。力いっぱい引いてもびくともしない。ぴったりと扉に身を寄せ、中を窺った。ラスティはどこ。ジーンは。


 そこは、聖堂を思わせる場所だった。高い丸天井の部屋の中央に、四角い石の祭壇がひとつ、ぽつんと置かれている。祭壇には、鈍い銀の光を帯びた魔術の紋様が、隙間なく彫り込まれていた。ここに来るまで続いていた壁面や天井の装飾は中にはなく、暗い色の石がむき出しで寒々しい。とても寂しい場所だった。

 壁にはぐるりと燭台が置かれ、太い蝋燭には贅沢に火がともされ揺れている。いやなにおいもしない。天井を支える柱が幾本も並んでいる。それが邪魔になって、ここからでは中の者たちの姿が確かめられなかった。けれど、影が。複数の光を受け花弁のようにわかれた影がふたりぶん左右に、床や壁を伝いのびているのが柱の間から見え隠れしていた。

 

 右側の影が、前触れもなくぬるりと動く。


「あれほどの暴走を抑えたのだ……魔力は枯渇しただろう」


 影の動きに合わせモルゴーの声が続いた。こちらがモルゴー。それなら左側がラスティの影。思い、目をやったその影は動かなかった。燭台の炎に合わせかすかに揺れるだけ。

 胸に隠していた魔石を取り出しながら、肘を扉の隙間に入れ、そのまま体をねじこんで中へ入った。早くこれを渡さないと。


 気持ちはこんなに急いているのに、踏み入れた足が床についた途端、肌が粟立って動けなくなった。この場所にはなにかがある。禍々しい魔力を持つなにか……目が自然に中央の祭壇に引き寄せられた。祭壇? いいえ違う、あれは棺よ。上部の蓋がずれている、小さな石棺。ここは聖堂ではなく霊廟なんだわ。


 脳裏にさっき見た壁画が蘇った。全身が黒く変わった子供を祭壇に乗せ、治癒を祈った場面の絵と思っていたけれど、違う。棺に納めるところが描かれていたのね。壁画の子供に亡くなった様子はなかったから、もしかすると息のあるまま。異質なものを閉じ込め、蓋をし地に埋めた。それも黒髪の……恐らく王家に連なる者を。


「……馬鹿らしい」


 おぞましい想像に凍った私の体を溶かしてくれたのは、ラスティの声だった。低く響く彼の声が、水の中の泡が弾けるように私の心を刺激して意識を引き戻してくれた。


「なんだと?」

「馬鹿らしい、と言った」


 彼らしい皮肉げな、でも苦しそうな声。生きている、生きてそこにいる、ラスティ。胸の奥が熱くなり、唇が震えた。足音を忍ばせ一番近い柱を目指して進むと、ラスティの影も動いた。衣擦れの音がする、多分立ち上がったのね。


「お前も似たようなものだろうが」


 彼の影がゆらりと揺れた。私の影も複数にわかれ床を伸びていく。魔力の少ない体でいくら気配を殺しても、これではじき気が付かれてしまう。なるべく柱の影に重なるよう歩いて、ひたと柱にとりついた。手の中の魔石を握り直す。ラスティに近い方角にある柱を選んだせいで、最初に見えたのはモルゴーの姿だった。


 乾いた血でところどころ固まった顎髭をなでながら、モルゴーは肩を揺らして声もなく笑っている。その笑みが突然消えた。


「無と有は天と地ほど離れている、若造!」


 前に突き出されたモルゴーの、手のひらから雷に似た光が放たれた。それは空気を震わせ蛇行しながらラスティを目指して進み、柱の陰まで伸びる。同時に爆発音が鳴り響き地面が小刻みに震えた。ラスティ! 彼が心配で、柱の陰から飛び出した。


「なに……?!」


 モルゴーが驚いている。なにを見たというの。

 砂埃が舞って視界が白く私にはまだわからない。ラスティのいたあたりで、バチバチと乾いた音が鳴っている。咳こみそうになるのをこらえ、口元を手で覆いながら目を凝らした。彼は無事?

 

「同感だ」


 不安に心臓を握りつぶされそうだったけれど、ラスティの声が聞こえほっとした。声を追っておさまってゆく白い煙の中から、徐々にラスティの姿が浮かび上がってきた。頭部を守るため上げていた腕を下に降ろしている。

 暗く赤い色のローブに錆色の髪。髪は燭台の光を受け輝いていた。

 

「俺の魔力は“無”ではない」

「まさか、この短時間で……俄かには信じられんが確かに……だが、表情には余裕がないな」


 モルゴーの言った通り、ラスティは苦痛を堪えた顔をしていた。唇は辛そうにぎゅっと強く結ばれ、眉根を寄せ……その彼の目が、ふと、まるでなにかに呼ばれたようにこちらを向き私をとらえた。驚きに見開かれる目。

 ほんの一時、私たちの視線が絡み合う。


「勝者は私だ」


 モルゴーの声が響くまでの短い時間。


 ラスティの動きにつられモルゴーを見ると、男は腰のあたりに手をのばして不敵な笑みを浮かべていた。なにか、魔術の道具を隠し持っているのかもしれない。

 今のラスティに強い術を使われたらきっともう耐えられない。血の気が引いた。


「今日がお前の最後の日となろうよ」


 自信に満ちたモルゴーの声に、上で見たエーメの姿が脳裏に蘇った。血に濡れた壁、床に散っていた肉や骨、臓腑。


「……モルゴー!」


 考えるより先に叫んでいた。モルゴーが弾かれたように顔をあげ、半歩後退りこちらを見た。


「っこ、これは……」

「なにをしているのです!」


 なるべく考える隙を与えないよう続けて責める。モルゴーは答えなかった。でも腰のあたりを彷徨っていた手は、今はただ横に垂らされている。よかった。考えなしに飛び出してしまったけれど、とりあえずこの危機はやり過ごせたわ。


 なら次は……。

 とにかく私はラスティに近づいて魔石を渡す。それと、バルバロスさまが近くにいることも彼に伝えないと。そう決め一歩踏み出した。体が重い、でもそれはラスティも同じ。歩くのよ、彼のために。


「バルバロスさまが、私にここを目指せと、そこまで導いてくださいました」


 話しながら進むと、どこか隅の方から犬のうなり声がしはじめた。ジーン、いるのね。


「ここで、私になにかできることがあるのだとか……お前、それがなにかわかって?」


 これはラスティに向け言った。彼は私を見ながらも、モルゴーを警戒する方に意識の多くを割いている感じがした。


 ラスティ辛そうだわ、肩で息をして。なぜこんなところに来たのだと、怒っているかしら。でも魔石を持ってきたのよ、それを知ったらあなた、許してくれるわね?


「ああ……」


 肯定の返事をつぶやいたラスティが、突然はっと息を飲んだ。なに。思う間もなく、彼の腕が私に向けまっすぐ伸ばされる。私を求めるみたいに開かれた指まで、まだあんなに遠い。


「走れイルメルサ!」


 彼の言葉が終わるより早く、私も彼に手を伸ばし駆け出そうとした。その瞬間。


「ぁうっ!」


 後ろから髪を掴まれ強く引かれた。頭ががくりと反り、よろめいたところを狙い澄ましたように膝裏を蹴られ、床に膝をついた。


「騎士に、魔術師。魔力はなくとも男をたらしこむ術は身につけられるのだな、母親譲りか?」


 続けてすぐに上から静かな声が響いてきて背筋が凍った。バルバロスさま。追ってきたのね、音もなく。


「はな……して……!」


 身をよじって逃れようとしても無駄だった。編んだ髪の端を高く掲げられ、これではまるで紐に繋がれた家畜。屈辱に顔が熱くなる。


 追い討ちをかけるように剣を抜く音がして、冷たい切っ先がうなじのあたりに当てられた。


「やめろ!」


 ラスティの制止の声に、バルバロスさまが舌打ちをした。私、ここで殺されるのかしら。まだラスティに魔石を渡せていない。


「魔術師ラスティ、お前には失望した。目をかけてやったというのに所詮は卑しい盗人であったか」


 そこでバルバロスさまは一度言葉を切った。沈黙が恐ろしい。思えば、魔法陣が私に反応しなかった時からこの男は怒りはじめた。ラスティがシファードから送り込まれた魔術師なのだと気がついたのかと思ったけれど、少し様子がおかしい。

 バルバロスさまの反応に違和感を覚えていた私は、続く言葉に真意を読んだ。


「フラニードの肉体に一向に興味を示さぬと思えば……銀より高貴な金を抱いておったとは」


 “我がガウディールの魔術師をたぶらかしおったな”


 外の通路で男に投げつけられた言葉。それがようやく腑に落ちた。私がラスティを誘惑して味方につけた、と思っているのね。なんて愚かな。


 “犬の娘にずいぶんと大仰な呼び名を与えたものだ”


 そうも言っていた。魔法陣に記された私を示す名前を見て、バルバロスさまはそんな考えを抱いたに違いない。それはなんだった? 思いだして。


「くだらん、無用な勘ぐりだ領主」


 ラスティの声を聞きながら必死に記憶の糸を手繰る。そう、確か……。


「“貴き稀なる魔女”」


 思い出すより早く、バルバロスさまの静かに怒りをたたえた声が降ってきた。与えられた名前を思い出し、その美しさに目に涙が滲んだ。ラスティ。たまらず彼を見る。

 バルバロスさまの口から言葉を聞かされても、彼の厳しい表情は変わらなかった。モルゴーとバルバロスさまの両者を警戒し、動けずにいる。


「この女には過ぎた名を」

「真実だ。他にどう呼べと? お前ならどう記す、領主」


 ラスティの質問に、首に感じていた切っ先が離れるのを感じた。かわりに髪を引く力が強まって、体が上に引っ張られ、揺すられる。


「“犬の娘”、“女狐”、他にいくらでもあろう」


 バルバロスさまの言葉に、ラスティが目を細めた。続けて唇を皮肉げに歪め、鼻で笑う。


「それでは領主の周囲の女は誰でも通ってしまう」

「貴様!」


 バルバロスさまの怒りの声が霊廟に大きく響いた。突然髪を放され床に崩れ落ちる。冷たい石の床に手をついて顔を上げると、視界の端に苛々と揺れる剣先があった。ラスティ、バルバロスさまの怒りを自分に向けてくれたんだわ。


「私の与えた肉を食った口で私を愚弄するか。この程度の女に惑わされるとは所詮は下層の生まれ、哀れなものだ!」


 この程度、と言いながら、バルバロスさまが靴の先で私を小突いた。ラスティが小さく体を揺らす。小石を踏むじゃりついた音がした。


「モルゴー!」

「は」


 バルバロスさまの声がまた響く。呼ばれたモルゴーは、さっきと同じ場所に立ったまま短く答えた。


「この男を引き裂け、許す」


 耳を疑った。誰を、なんですって?


「おやめ!」


 モルゴーに顔を向け、力の限り叫ぶ。私こんな声が出せるのね。年老いた魔術師も、驚いた表情で私を見た。怒りが強すぎて目眩がする。胸の中で燃え上がった怒りは、屈んだバルバロスさまに間近で睨まれながらふたたび髪を掴まれても消えなかった。


「黙れ小娘、我が領地の人間に、貴様はなにひとつ命じる立場にはない。薄汚い女狐が。目を開いて男の死に様を目に焼き付けておけ!」


 背中のあたりの髪をつかまれ引かれ、無理矢理ラスティの方を向かされる。彼は、モルゴーの方に体を向けながらも私を見ていた。


 モルゴーがまた腰のあたりに手をやるのを目の端に、指先が急速に冷えていく。震えるのはそのせい? 胸の中はこんなに熱いのに。ラスティの赤銅色の目。あれが光を失うところなんて見たくない!


 強く思うと、ぞろ、と肌の下を不快なものが這う気配がした。前方の石棺を見る。棺は魔力を帯びた紋様で包まれ、寒々しく銀に光っていた。私の中にあるのと同じ魔力が、あの中に。あれが使えたら……。

 考えた瞬間、右の手のひらにあたたかな力が触れた。魔石を強く握りすぎて、ラスティの魔力が滲んだのだ。


 これを私が使って魔術を、と一瞬浮かんだ案はすぐ打ち消した。目の前で濃密さを増していくモルゴーの魔力には圧倒されるしかない。私では対抗できない、ラスティが使わなければ無駄になるだけ。

 なんとかしてこれを彼に。投げるには遠すぎる。近づきたくても髪をつかまれていて動けない。


 モルゴーの前に、ぽつ、とひとつ小さな魔法陣があらわれた。やめて。ひとつ、またひとつと、数が増えていく。


「あのひとつひとつが避けられぬ刃となり男を切り裂くのだ」


 バルバロスが耳元でささやいた瞬間、心で嵐が吹き荒れた。

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